ミノリが旧校舎を訪れたのは、自分たちで再建した227号特別クラスの旧校舎のメンテナンスのためだった。
工務部の仲間は連れず、ミノリ一人。それは彼女が自分で考えて捻出した自由時間の行動、言い方を変えれば工務部としてではなく彼女個人の心配事として今回の行動を行っているという証左でもあった。
そうは言ったものの、聞き分けの無い子供を黙らせるのに体のいい方便は遠慮なく使用する。
工務部のメンテナンスチェックだと言えばすんなりと部屋を見せてもらえて、ミノリのチェックリストは杞憂としてあっという間に片付きつつあった。
残っているのは中間階のチェックだけ。チェック項目はそう多くなく、時間もそうかからない。
時計を見る。戻らねばならない時間までにまだ多くの猶予があることを確認し、ミノリは鞄の中に入れてきた品に思いを馳せる。
「何か用か、ミノリ」
部屋の前で立ち尽くしていた彼女に対して、部屋の中から声が掛かる。
ミノリは意を決してヘルメットを脱ぎ、自身の頭部が少しだけ蒸れていることに気に掛けて、しかし今この場での対処の方法が無いと諦め、彼女が居る部屋に足を踏み入れた。
以前ここを訪れたときと変わらない、質素な部屋。いつか本校舎で見たときの生活態度とは打って変わった、清貧で静謐に塗り潰された生活。まるでずっと前からそう過ごしていたかのように、モノクロの少女はそこに居た。
雪のように白い肌とコントラストになるような黒い長髪が垂れ、白を基調とした赤の差し色で彩られていた少女は記憶の中にしか存在せず、目の前の少女は白一色に身を包まれている。
その姿を見てまず思うのは、寒そうだ、というありきたりな感想だった。
彼女が着ているのは、制服だけ。他の生徒ようなコートやマフラーのような代物を着用していないというのもあるし、そもそもその制服の生地が薄そうだ。ここが温泉郷となっていたときならばまだ納得できただろうが、雪に囲まれているこの旧校舎では流石に見ているだけで寒くなる。
彼女の吐く息は白く、しかし彼女は寒がるような素振りを見せず、ただ、そこに在るだけ。
「旧校舎のメンテナンスのついでに、挨拶をしておこうと思ってね」
「挨拶、か。政治闘争に敗れたあたしは既に何物でもない。そんなことをされる義理はない」
ミノリはちらりと部屋の隅を見る。
そこには彼女の求心力を物語るように、大量の袋と箱が乱雑に積み上げられていた。配給などなくともそれだけで生活ができてしまうのではないかと思うほどの量があり、失脚後それなりの時間が経っているというのに、ミノリと同じことを考える生徒がまだまだ多いことが見て取れる。
雑に積み上げられているのは、恐らく彼女自身が適当に放置しているからだろう。彼女がそういう性格であることは知っているし、それを見て誰も手を触れようとした形跡がないのは、それが今の彼女に残っている数少ない以前の面影だからだろう。
燃え滾るような炎の残滓。
その乱雑に置かれた差し入れの山が、いつかの彼女を映しているようで触れられない。手を伸ばせば火傷してしまうような気がして、あの氷より冷たい視線に睨まれるような気がしてしまって、崩れそうな山を整えることさえ億劫になる。
パタン、と閉じた本の音に肩が跳ねる。
しかし思わず強張ったミノリの表情に反して、モノクロの少女の声はどこまでも穏やかだった。
「言いたいことはわかっている。どいつもこいつも同じ事ばかり吐くからな」
昔からそうだった。
激情を身に宿しながら冷静さを保てる人間ほど、厄介で敵に回したくものはない。
有無を言わさない、合理主義の極致から繰り出される一分の隙もない指示。
今の幼い統治者からは想像もできないほどの秩序だった政治体制は、日々の喧騒で既に形もなく思い出すのに時間が掛かるほどだが、それでも美しい記憶だったという形だけは残っている。
だが、記憶の色が薄れていくことを自身で示すようなモノクロの少女は、その輝きが失われていることをきっぱりと告げた。
「それは戻ることはない。もう、ないんだ」
オマエの記憶からも消えかけていることが、その一番の証左だと、モノクロの少女は口にする。
こちらの思考を見透かすような深淵の瞳に見つめられて、ミノリがひねり出すことができたのは苦し紛れの言葉だけ。
「わかるだろう。望まれているんだ」
その言葉に黒の瞳が細められる。
彼女が示した反応の意図をミノリが探ろうとする前に、隙間風が吹いた。ミノリはその冷たさに一瞬だけ体に力が籠る。
彼女よりも外に近い場所にいるモノクロの少女は一瞬だけ風が入り込んできたその壁に意識を向けて、戻す視線で窓の外を見た。
喧騒は聞こえない。だが、どこかから上がっている煙が見える。そこでまたひと騒動起こっているのだろうと予想するのは難くなかった。
その煙は、今のレッドウィンターが混沌の中にあることを物語っている。それなのに、それを見てモノクロの少女の表情が僅かばかり緩んだことを、その後ろ姿しか見えないミノリには観測することができなかった。
「どうかな。少なくとも学生時代の思い出としては、今の方が鮮明に青く輝くはずだ」
「そういうことじゃない。そういうことじゃないんだよ」
レッドウインターは元より混沌の中にあった。ともすれば、ゲヘナよりもずっと永く。
その気風を打ち壊した安城ミソギの登場の衝撃は、今もなお残る傷痕として深く彼女たちの心に刻まれている。
一代ばかりの氷の政治。
しかしその時間はすぐに終わった。
彼女に挑んだ扇動者すら予期していなかったほど、彼女は実にあっさりとその座を退いた。
そしてまた混沌が戻った。いつも通りのレッドウインター。革命を浴びるように味わう、氷ではなく雪の学園に回帰した。
それでも忘れらない。あの頃の記憶がこびりついて離れない。
だからこそ、こんな場所で才を食い潰している彼女に歯噛みしてしまう。
「私だって、あのチビじゃなきゃ、いや、あんたがトップなら、大人しく従うよ」
その発言を受けても黒の瞳は揺らがない。
自身の声が届いていないことが悔しくて、苦しくて、ミノリはぎゅっと胸が締め付けられる。
そんなミノリの心を見透かしてか否か、モノクロの少女は淡々と、現在の事実を告げる。
「わかるだろ。あたしは敗者だ。あたしの居場所はここにしかない」
「違う! どうして一度の敗北で諦める!? 確かにあんたが居た頃は敗者に居場所はなかった! だが今は違う! 何度だってやり直せるんだ! 闘争と反乱は我々の権利であり――」
ミノリは悔し気に目を伏せ、吠える。
それは、ずっと彼女が信じているもの。レッドウインターそのものである彼女たちが燃やし続け、絶やしていないもの。
「――力と言葉を持つ者の、義務だ!!」
言い切って顔を上げる。
モノクロの少女はずっとミノリを見つめたままだった。そうして交わした視線で、ミノリは自分の言葉が届いていないことを悟ってしまう。
ミノリがその相貌に悲痛な色を浮かべたのを見て、モノクロの少女は滑らせるようにその視線を逸らす。
「そうだな。だから私には関係ないと言っている」
滑った視線が積み上げられた箱に届いて、彼女は重さを感じさせない動きでその腰を上げ、その山に近付いて、その一つを拾い上げる。
ミノリに顔を見せずに「今の私はお前たちに生かされているだけの乞食でしかない」と吐き捨てて、彼女は箱の中からゼリーを取り出して座り直す。
「あたしは今のレッドウィンターの方が好きだ。あたしが居た頃よりずっと」
ゼリーをプラスチック製のスプーンでちまっと口に放り込んで、一つ飲み下してから彼女はミノリに目を向けた。
「ミノリも、オマエはあたしがいた頃より生き生きして見える」
「違う! 私はあんたの許で!」
「でも今の方が自由だろ。今の方が楽しいだろ。あたしだってそうだ。トップとして気を張っていたあの頃より、ただゆっくりと読書に耽っている今の方が楽しいんだよ。たまに顔を上げたときにバカ騒ぎが見える今のレッドウィンターが、あたしは好きだ」
そう言って、彼女は脇に置いていた本のカバーを撫でる。
そんな顔は知らない。彼女はもっと氷のように硬い表情で、全てを見通すような目で真っ直ぐとこちらを見抜いていた。
だが、ここにそんな彼女はいない。そんな姿は、影も形もない。
穏やかな表情。かつての刺々しい雰囲気を残しているのは、この現況から梃子でも動かないという強い意志がそうさせているのかもしれないとさえ思えてしまう。
それほどまでに、彼女の意思は氷山のように動かせないと痛感させられる。
「だから、あたしはここにいる。この場所で学校生活を終える」
ミノリにはわからない。
彼女がどうして、その座を降りたのか。
ミソギは自身を敗者だという。先程ミノリ自身が吠えたときもその言葉を使ったが、しかしミノリは知っている。あれは敗北などではないと。
彼女は自ら、その座を
そうして彼女は自らが定めた敗者に居場所はないという既に破綻したはずのルールを遵守し、この彼女に不相応な場所を終の棲家と定めてしまった。
その表情に曇りが無いこともまた、ミノリの心をざわつかせる。
どうしてそんな顔ができる。どうして道半ばで席を降ろされて、今のレッドウインターを認められるのだ。
わからない。ミノリには、安静ミソギがわからない。
だからこそ認められない。認められるはずがない。人間は理解できないものを、認めることはできないのだから。
「人には皆、果たすべき役割がある。それを果たさないあんたを、私は認めない」
「認めなくていい。オマエはオマエで勝手に自分の役割を果たせ。役目を終えたあたしに関わる時間があったら、自分のやるべきことをやるんだな。あたしにオマエの手綱は握らない」
今のオマエはただ逃げているだけだと暗に突き付けられて、ミノリは言葉を返せなくなる。
果たすべき役割があると口にしながら、自分がそれを全うせずに彼女にそれを押し付けるということは、自身で考えることを放棄して彼女の言葉に従っていたいという弱い心の表れだということをミノリ自身も理解していたから。
しかし、これ程彼女と言葉を交わせたのはいつぶりだろうかと思う。
そしてこの邂逅はミノリの心の内に僅かばかりの迷いを残す。彼女の口から告げられた自身がモノクロになった理由は役目を終えたが故だという宣言は、ミノリが信じていたものに確かな楔を打ち込むこととなった。
だからこそ、それ以上は踏み込めない。
本心での闘争以外は、彼女に響かないと識っているから。
「また来る」
「もう来るな」
何度来ても結果は変わらないからな。
暗にそう言われていると分かっていても、それでも諦める気にはなれなかった。
今のレッドウィンターが楽しいことは認めざるを得ないとしても、それでもミノリは彼女の許で働く日々に戻ることを夢想しているのもまた嘘ではない。
混沌と混乱ばかりのレッドウィンターにおいて、あの秩序と規律を成立していた奇跡の空間を再び味わいたいと思うのはそこまで贅沢な願いだろうか。
このレッドウィンターの中で、自身は数少ない合理の人間だとミノリは自負している。
だからこそ、自身の居場所はここではないと思ってしまう。
……物足りない。
それなのに、そんな感情を抱かせた人間はこちらの
「そうだ。チェックリストはちゃんと埋めて行けよ。それがオマエの役割だろう?」
退出しようとしたミノリに背後から掛けられた声に片手を上げて答え、ミノリはまた、喧騒に戻っていく。
持ってきた土産物は、渡すことができなかった。
半年ぶりの更新らしいです。次の更新はいつになるやら。