『聖女業務』の属人化、解消します。 〜元コンサル聖女、隠居のための業務改革〜 作:すみふじの
第1話:元コンサル聖女、現状を把握し絶望する
深夜、出張からの帰宅。
狭い玄関から、キャリーケースに押し出されるように倒れ込んだ。靴を脱ぐどころか立ち上がる気力すら残っていない。
疲れた。
一体いつまで、こんな暮らしをしないといけないんだろう。
倒れたまま、薄明かりの透けるレースカーテンを見上げた。
星空の灯りに浮かび上がるのは——埃の積もった、散らかった部屋。
それが、
次の日の朝は、いつもの目覚めとは違っていた。
アラームのけたたましい騒音ではなく、柔らかな光が目蓋の裏を優しく撫でる。頬には固い床の感触はない。溜まった疲れでバキバキになっていたはずの首や肩は、柔らかく清潔な寝具の上に支えられているのだということが、瞳を閉じたままでも分かった。
(……もう朝? おかしいな、昨日も確か終電で、玄関で寝ちゃったと思ったのに)
ゆっくりと目を開ける。
するとそこには、日常生活のなかでは決して見ることのない、天井まで続く壮麗なステンドグラスが広がっていた。きらきらと輝くガラスには歴代の聖人たちでも描かれているのだろうか。その神々しい絵を透かして降り注ぐ厳かな光が、部屋全体を淡く、幻想的な色で満たしている。
一体ここはどこなのだろうか。
自宅とは何もかもが違う。昨日も終電での帰宅となり、そのまま玄関に倒れ込むように寝たはずだ。ベッドに辿り着いた覚えはないし、たとえ辿り着いていたとしても寝具がこれほどまでにふかふかに整えられているはずがない。控えめに室内に漂う香りもまた、買った覚えがないものだった。
(これは、まだ夢の中? 疲れすぎてリゾートに泊まる夢でも見ているのだろうか……いや、もしかして、ひょっとすると……?)
微睡みの中でさまよう思考が、一つの荘厳な声によって現実へと引き戻される。
「おお、聖女様! お目覚めになられましたか!」
聖女様?
その言葉を引き金に、側頭部を刺すような痛みが走る。すると、全く異なる二つの人生の記憶が濁流のように噴き出した。
ひとつは、改善コンサルタントとして、非効率な業務やシステムと、それを生み出す旧態依然とした組織に立ち向かい続けた
もうひとつは、聖石の王国ハイリゲンシュタインの由緒ある貴族の家に生まれ、次代の聖女候補として育てられてきたルツィア・フォン・アイゼンシュタインとしての記憶。
ルツィアとしての記憶はどこか他人事のような遠さがあった。しかし、確かにその記憶が自分のものであるという感覚だけは残っていた。
(……なるほど、そういうこと)
つまり私は過労死の末、異世界の聖女ルツィアとして転生したらしい。あまりにも突飛な結論だが、頭の中の記憶がそれ以外の答えを許してくれない。
あらためて、声のした方を見る。先ほどの荘厳な声の主である老人は、この国の教会を預かる大司教バルドゥインだ。その身にまとっているのは、上質な絹で仕立てられた純白の祭服。その襟元や袖口には金糸で緻密な紋様が刺繍されている。胸元で輝く大きなペンダントは、この国の大変貴重な鉱石である“聖石”だ。
そしてその後ろに控えるのは、高位の神官たちと王宮から派遣された騎士たち。まるで映画のワンシーンだった。この光景の全てが、私の新しい“現実”なのだと、魂が理解していた。
「おお、ルツィア様……いえ、聖女ルツィア様。私です。バルドゥインです。よくぞ……よくぞ、お戻りになられました。貴方様の顕現を、民は皆、待ちわびておりましたぞ」
大司教が、安堵と、どこか畏敬の念を込めた声で語りかける。
「お戻りになられました」——その言葉の響きが、私が何か途方もない試練を乗り越えた後なのだということを物語っていた。
周囲の人々からは、熱に浮かされたような純粋な崇拝の眼差しが注がれている。前世では、どれだけ成果を出しても「目標は達成して当たり前」「まだ足りない」「もっとやれるだろう」と言われてきた。数字を出しても評価されなかった私にとって、この無条件の賛美は、疲弊しきった心に染み渡るようだった。
私は、理解は二の次として、ひとまずこの状況を受け入れることにした。
貴族の生まれで、“聖女”。それはつまり、この世界における高位の権力者階級ということだ。前世のように、理不尽なクライアントや上長、終わりのないデスマーチのような仕事に追われることもないのだろう。
(いいじゃない……ここでなら、ルツィアとしてなら、今度こそ穏やかで恵まれた暮らしを送れるかもしれない!)
第一の人生は随分と早く、みじめに終わってしまったけれど、神様も捨てたものじゃない。この第二の人生は悠々自適なスローライフを用意してくれていたなんて。
——そんな甘い夢を、この時の私はまだ描くことができていた。
◇◆◇
しかし、その甘い夢が現実によって打ち砕かれるのには、そう時間はかからなかった。
聖女の執務室に案内すると申し出た大司教に後をついていくと、一際荘厳な装飾が施された扉の前へと着いた。どうやらここが、私の執務室らしい。
「——では、ルツィア様。まずは聖女様にお願い申し上げる主なお務めについてご説明いたします」
(ふむふむ、業務説明ね。もっとファンタジックなものかと思ったけど、意外としっかり引き継ぎされるんだ)
聖女というのはてっきり名誉職かと思っていたが、説明の場を設けられるくらいの業務量があるらしいのは少々計算違いだった。でもまあいい。前世に比べたらきっと安楽な暮らしが待っているに違いない。
そう呑気に考える私をよそに、大司教がゆっくりと扉を開く。扉の先には広々とした部屋が広がっていた。大きな窓と、重厚な家具。そして大きな長机の上には——うず高く積まれた書類や石板。机の上に収まりきらなかったのか、床の上にまで積み広げられていた。
なんだ、これは。
私の目覚めたての頭は、その光景から答えを導き出すのを拒否していた。大司教はその散らかりようを全く気にする様子はなく、しゃあしゃあと説明を続けた。
「まず、朝からはじまる定刻毎のご祈祷、信徒達の前へのお出まし、
そうね、そう。なにせ聖女だ。祈りは仕事の中心だろう。
「そして王都内外にございます聖人廟へのご巡礼。王国の歴史や法律の根幹に関わる古代文書の解読。高位の神官でも治癒できぬ重篤な病への治療。魔物討伐への随伴に呪具の解呪、ポーションの製造も聖女様の御手にて適宜行っていただきます」
「え?」
「その他にも王侯貴族の定期検診に、戦場への慰問と負傷者の治療。日照りにおける雨乞いや長雨における晴天祈願……その他、有事の際のあらゆる事象へのご対応を、聖女様の御手にて直ちに行っていただいております」
(——待て、待て待て! 専門外にも程がある!)
私の脳内で警報がけたたましく鳴り響く。目の前の穏やかな大司教が提示しているのは、一人の人間に許容される
(何なんだ、この多岐にわたる膨大な業務量は! 定例業務と、突発的に発生する即時対応に加えて広報、製造、インフラまであるじゃないか! タスクの優先順位も不明瞭だし割り込みも多そうだし、そもそも一体、一日何時間労働を想定した仕事量なの!)
(そもそも聖女って、宗教指導者じゃなかったでしたっけ!?)
そして、何よりも致命的なのは……。
「……あの、大司教様。ひとつ、確認してもよろしいでしょうか?」
私は恐る恐る声を上げた。お行儀の良い生徒のように手も上がっていたかもしれない。
「はい、聖女様。何なりと」
「これらの業務を全て、私一人で……?」
私の絞り出したような問いに、大司教は、何を当たり前のことをとでも言いたげな、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「もちろんでございます。聖女の御業は、聖女様にしか成し得ない、唯一無二の奇跡。他の誰も代わることなどできませぬ」
——属人化。
顔からさっと血の気が引く。甘い夢はがらがらと崩れ落ち、前世で聞き飽きた忌まわしい単語が脳裏にはっきりと蘇る。それは、担当者が一人倒れたら全ての業務が停止する、最も危険で、最も回避すべき愚かな人員構成。もっと悪いことに、担当業務はおいそれと共有できそうもない——国家の医療・治安・祈祷儀式すべてが一人に紐づいている。倒れたら代わりがいないどころではない——
冗談じゃない、話が違う。何が名誉職だ。この状況は私が夢見たスローライフなどでは断じてない。これは前世で私が最も憎み、そして根絶するために戦い続けた、終わりのない、引き継ぎ不可能な——究極の属人化案件そのものではないか!
私は目眩が起きそうなところを、ぐっと堪える。
(前世と同じ轍は二度と踏むものか。やるべきことは、決まった)
(隠居する——可及的速やかに。)
そのためには。この属人化し、ブラックボックス化された聖女の業務を、私の全ての経験を使って解体する。可視化し、定量化し、標準化し——誰でも引き継げる『仕組み』を構築する。魔法だろうが奇跡だろうが、全ての業務が対象だ。必要ならその仕組みだって解き明かしてやる。
そして、さっさと後任に押し付けて、私は絶対に穏やかな隠居生活を手に入れてやるのだ。
傍から見れば黙りこくっていた私を心配するように、大司教が声をかけた。
「聖女様、いかがいたしましたか?」
コンサルタントモードが戻っていた私は、脊髄反射で微笑み返す。いわゆる、営業スマイルだ。
「いいえ、何も。ご説明ありがとうございました」
私はもう一度、山のように聳える書類の山を臨む。
もう二度と、自分の人生を“業務”に奪わせない。
私の第二の人生における、最初の——そして最大の改善プロジェクトが、今この瞬間に静かにキックオフを迎えた。
私が決意に燃える最中、突然大きな音を立てて扉が開かれた。神官と思しき人物が息を切らせて転がり込む。
「大司教様、聖女様!」
「なんだ、聖女様の御前で騒々しい」
肩で息をしながらも、神官は大司教の叱責を受けて跪く。
「申し上げます、聖女様へ緊急のご出動要請です。
大結界という言葉に大司教は驚きを見せる。それは先ほどの業務説明で聞いた単語だ。だが、私はまだ神官の言葉が意味するところを理解できなかった。大司教はわずかに考える素振りを見せていたが、私の方へと振り返った。
「ルツィア様。説明の途中で申し訳ございませんが、大至急、大結界のもとへお急ぎください」
「はい?」
突然の展開に思わず素っ頓狂な声が出てしまった。大司教は私の理解を待つ気がないのか、神官へすぐさま指示を出す。
「説明は馬車の中でお聞き下さい。さあ、お急ぎを!」
神官が一言だけ断ってから、私の腕を引いて扉の外へと駆け出す。つられるがままに廊下を走り抜けていく。一体全体なにがなんだか分からない。分からないが、ひとつだけ分かることがあった。
これが、有事の際の即時対応案件ということだ。
そして、私はまだ予想だにしていなかった。まさか着任初日に、最初にして最大の壁にぶつかるということを。