禊新の二度目の謳歌 〜絶望して逃げ出した「俺」に代わって、平行世界で成り上がる   作:お粥のぶぶ漬け

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1話

鏡の向こう側に映る自分は、驚くほど瑞々しい肌をしていた。指を動かせば意図した通りに、いや、それ以上のキレを持って筋肉が追従してくる。視界は隅々までクリアで、膝を曲げ伸ばししても嫌な音一つしない。数日前、確かに自分は死んだはずだった。ブラック企業での過労か、あるいは不摂生による突然死か。意識が途絶えた瞬間の冷たさは、今やこの若々しい肉体の熱によって完全に上書きされている。

 

 階段を駆け下りるだけで、全身の細胞が歓喜の声を上げているのが分かった。重力すらも軽く感じる。これが十六歳の、高校二年生の特権というわけか。失って初めて気づく、若さという名の無敵。一階のリビングへ向かう足取りは、前世(という表現が正しいのかは分からないが)のどの瞬間よりも軽やかだった。

 

 そんな感動に朝学校に登校してから帰宅した今の今まで浸っているところに、玄関のチャイムが激しく鳴り響いた。モニターを確認するまでもない。この時期、学校が終わって突撃してくる相手など限られている。

 

「おーい、禊! 準備できてるか? 今日は決行の日だぞ!」

 

 扉を開けると、そこには懐かしい顔ぶれが並んでいた。快活に笑う親友の健太と、どこか冷めた目で見守る直樹。そして、その背後に隠れるように立っている、幼馴染の美咲だ。男三人に、女子が一人のいつものグループ。このメンツで俺たちは放課後の時間を共有していたのだ。

 

「……あ、おはよう。……いや、準備はできているよ」

 

 俺――禊新(みそぎあらた)は、こみ上げてくる違和感を必死に抑えていた。三十代まで染み付いた「私」という丁寧な一人称が、気を抜くとすぐに口から滑り落ちそうになる。2年B組の禊新にふさわしいのは「俺」だ。無理にでも矯正しなくてはならない。

 

「都市伝説の検証、本気でやるのかよ」

 

 俺が苦笑しながら問いかけると、健太は自信満々に鼻を鳴らした。

 

「当たり前だろ! 今ネットで一番アツい都市伝説

異世界に行ける方法の一つで、いちばん手軽に試せる『飽きた』だぞ? 準備に金もかからないし、お前の家なら親御さんも旅行中で泊まり放題だ。やらない手はないね」

 

 そう、一周目の人生でも、俺たちはこれをやった。紙に六芒星を描き、その中心に『飽きた』と書いて枕の下に敷いて寝るだけという、あまりにも手軽な儀式だ。結果は当然ながら何も起きず、翌朝はただの寝不足で終わった。しかし、今の俺にとってそれは「何も起きない平和な思い出」の一つに過ぎなかった。

 

「いいよ。どうせ暇だしな。……あの頃は、あんなに落胆したのにな」

「あの頃ってなんだよ。ほら、行くぞ、まずはコンビニで買い出しだ!」

 

 四人で笑いながら、俺たちは馴染みのコンビニへと向かった。外の空気は驚くほど美味い。

 夜、俺の部屋。カーテンを閉め切り、照明を落として懐中電灯を中央に置いた。

 テーブルの上には、四人分の儀式セットが並んでいる。白いメモ用紙に描かれた歪な六芒星と、その中央に力強く書かれた『飽きた』の文字。

 

「本当に、これだけで異世界に行けるのかな」

 

 美咲が少し不安そうに紙を見つめている。彼女の少し震える声に、かつての俺は「大丈夫だ、俺たちが守ってやるよ」なんて格好をつけた台詞を吐いた記憶がある。今の俺は、ただ微笑んで頷くだけだ。どうせ何も起きない。明日もまた、この輝かしい若さを謳歌できる日常が続く。そう確信していた。

 

「よし、それじゃあ全員、枕の下にこれを挟んで寝るぞ。……あ、言い忘れてたけど、夢の中で『戻る道』を見つけても絶対に行っちゃいけないらしいからな」

 

 健太がオカルトサイトの受け売りを自慢げに話す。俺たちはそれぞれ布団に入り、目を閉じた。

 

 若さに任せて遊び疲れた肉体は、すぐに深い眠りへと誘われていく。意識が遠のく直前、俺の脳裏を過ったのは「死の間際」のあの冷たさだった。だが、今の体温はそれを感じさせないほどに高い。

 

 どれくらい眠っていたのだろうか。

 不意に、体が「落下」するような感覚に襲われて目が覚めた。

 重力から解放されたような浮遊感のあと、布団の上に沈み込むような感覚が戻る。目を開けると、そこは見覚えのある俺の自室の天井だった。

 

「……なんだ、結局何も起きなかったか」

 

 俺は苦笑し、隣で眠っているはずの親友たちを起こそうと体を起こした。だが、その瞬間に視界に飛び込んできた異変に、言葉を失った。

 

「……おい、あれ、なんだ?」

 

 健太が窓の方を指さして震えている。俺も釣られて窓の外を見た。

 空の色も、街並みも、寝る前と何ら変わりはない。しかし、遠くの市街地の中心部、本来なら高いビルすら数えるほどしかないはずの地平に、それはそびえ立っていた。

 天を突き抜けるほどに巨大な、石造りの塔。

 雲を切り裂き、物理法則を無視したかのような存在感を放つその建造物は、昨夜までは影も形もなかったものだ。

 

「夢……じゃないよな?」

 

 直樹が呆然と呟く。俺は混乱する頭を落ち着かせようとテーブルを見た。そこには、俺が置いたはずのない一通の封筒が置かれていた。そこには、俺自身の筆跡によく似た、鋭い筆致でこう記されていた。

 

『成功してしまった場合の、現在の「私」へ』

 

 その宛先を見た瞬間、背筋に冷たいものが走った。俺は震える手で封筒を破り、中の便箋を取り出した。

 

『この手紙を読んでいるということは、都市伝説「飽きた」は……本当に異世界と繋がる儀式だったということだろう。正直に言えば、私たちも半信半疑だった。この世界でも、それはただのオカルト好きが語る根拠のない噂話に過ぎなかったからだ。

 でも、私たちは賭けるしかなかった。

 君たちの住む世界はどんな場所だろう。もし、そちらに「ダンジョン」が存在しない平和な世界なら、どうか私たちの無礼を許してほしい。

 この世界は、数十年前から出現した「ダンジョン」によって支配されている。他にも地面に穴が開く「地下型」や「ゲート型」など、様々なタイプの異界ダンジョンが存在し、人々は魔力レベルを上げ、スキルを駆使しなければ生き残れない。そして、私たち四人には……戦うための才能が全く欠けていた。どれだけ足掻いても魔力は増えず、発現するスキルはゴミのようなものばかり。このままでは塔から溢れ出すモンスターの脅威に怯えながら、底辺で朽ち果てるしかなかった。

 だから、捨て身の覚悟で「飽きた」を試した。まさか、本当に「あちら側の自分」と魂が入れ替わるなんて。

 君たちが混乱しているなら、「ステータス」と一言唱えてみてほしい。それだけで、自分の今の力が視覚化されるはずだ。

 恐らく魂が入れ替わる際、適合率によってスキルは再定義されるはずだ。もし君たちに、私たちが持ち得なかった「新しい才能」が宿っているのなら、どうかそれを使って、私たちが希望を持てなかったこの場所で生き延びてほしい。

 現在、この世界は「ダンジョン資源」がすべてだ。有能なスキルさえあれば、君たちはこの世界で頂点を目指すことだってできるだろう。

 さようなら。もう一人の私。君の幸運を、こちらの空から祈っている』

 

 読み終えた俺の指先が、わずかに震えていた。

 

「……なんてこった。あっちの俺たちは、一か八かの賭けに勝って、俺たちをこの世界に放り込んだってわけか」

 

 横から手紙を覗き込んでいた健太が、吐き捨てるように言った。

 

「……とにかく、まずは家族を確認しよう。世界観が変わった平行世界なら、家族構成は同じはずだ。生身の人間まで変わっていたら、俺たちは本当に居場所を失うことになる」

 

 数時間後、それぞれの家で家族の無事を確認した俺たちは、再びグループチャットで言葉を交わした。家族はあちらの世界と変わらず、ただ世界観だけが丸ごとすり替わった平行世界。その事実を噛み締めながら、俺は自室で一人、手紙に記された呪文を口にした。

 

「……ステータス」

 

 脳裏に、簡素な文字が浮かび上がる。

 

保有魔力レベル:1

固有スキル:【既視感(デジャヴュ)】

 

「既視感、か……」

 

 俺は窓の外を眺めた。青い空の下、かつての日常とよく似た街並みの向こうで、あの巨大な塔だけが異彩を放っている。

 あっちの俺は、この光景に絶望して逃げ出した。でも、俺は違う。

 一度死を経験し、この瑞々しい肉体と、未来を切り拓くための「力」を手に入れたのだ。

 

「……やってやるよ。俺の二度目の人生は、ここからだ」

 

 俺は強く拳を握りしめた。この歪んだ世界が、今の俺にはたまらなく刺激的なフィールドに見えていた。

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