ラヴニカの第10管区。
そこは絶え間ない喧騒と、摩天楼の影が幾重にも重なる「世界の屋根」だ。
イゼットの蒸気孔から吹き出す煙が、夕暮れ時の紫色の空を汚し、多種多様な種族がそれぞれの目的を持って石畳を闊歩している。
その混沌とした雑踏の中に、明らかに「その場の理」から外れた存在が一人、呆然と立ち尽くしていた。
「……ここ、どこ。え、どこ……?」
震える声で呟いたのは、小柄な一人の少女だった。
彼女の頭上には、ラヴニカのロクソドンやヴィーアシーノといった異形とは異なる、しなやかで愛らしい「馬の耳」が、不安げにピクピクと動いている。
腰のあたりからは、同じ毛色の尻尾が力なく垂れ下がっていた。
彼女の名は、アグネスデジタル。 トレセン学園中等部に籍を置く、まだデビュー前の「ウマ娘」である。
彼女の纏っているのは、ラヴニカの華美な装束でも、重厚な鎧でもない。
赤と白のコントラストが眩しい、学園指定のトレーニング用ジャージだ。
つい先刻まで、彼女は学園のターフで、あるいはダートの隅で、来るべきデビューの日を夢見て泥にまみれていたはずだった。
「さっきまで、併走の練習をしてたはずなのに……。コーナーを曲がったら、なんか光る穴があって……。そしたら、何この……え、魔王城? 全方位これ魔王城なの……?」
デジタルは視線を左右に泳がせた。
目の前を、巨大なカブトムシのような甲虫に跨った兵士が通り過ぎていく。
頭上では、ガーゴイルが不気味に笑い、空飛ぶ船が轟音を立ててマナの火花を散らしている。
ここは芝でもなければ、砂(ダート)でもない。 逃げ場のない、果てしない石畳の迷宮。
「ウマ娘」という、走るために生まれてきた彼女にとって、土の匂いも草の感触もしないこの場所は、本能的な恐怖を呼び起こす異界だった。
「だ、誰か……。トレーナーさん? ウマ娘仲間のみんな!? ……はっ、もしやこれは、異世界転移して聖女か何かに選ばれるラノベ展開!? いえいえ、私のような『尊いウマ娘たちを愛でるだけのただのオタク』にそんな大役が回ってくるはずが――」
極限の混乱の中、彼女の思考は得意の妄想へと逃避しようとする。
しかし、横を通り過ぎた巨人(サイクロプス)の咆哮が、無情にも彼女を現実に引き戻した。
「ひいいいっ! 本物!? 本物のモンスターだわこれ!! 尊くない! 全然尊くないです、死んじゃう!!」
彼女は反射的に駆け出そうとした。
どんな馬場状態(コンディション)でも適応できる、自称「オールラウンダー」の脚。
しかし、ラヴニカの石畳は無慈悲なほど硬く、冷たい。どこまで走っても景色は変わらず、高い壁が彼女の視界を遮り続ける。
アグネスデジタルは、まだ知らない。
自分が迷い込んだこの場所が、多元宇宙のあらゆる運命が交差する結節点であることを。
そして、この先の汚れきった工房で、一人の白い獅子と、黄金の魂を持つ少年、そして冷徹な賢者が、彼女のような「迷い子」を受け入れるための場所を作ろうとしていることを。
「お父さん、お母さん……。デジタル、もう走れないかもしれません……」
路地裏の隅、ゴミ捨て場の影で膝を抱え、彼女は震えていた。 その耳は、遠くで響くアジャニたちの「希望」の足音を、まだ捉えることができていない。
運命の歯車は、ガタガタと音を立てて回り始める。 埃まみれの学び舎に、最初の灯が灯るまで、あとわずか。
「新たなるゲートウォッチ」 第一部・完