新たなるゲートウォッチ   作:Dr.ヤマブキ

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シーン7:ウマ娘の本能

ラヴニカの入り組んだ石畳を叩く、乾いた蹄鉄の音。それは酷使され、底の減りかけた一足のシューズが上げる悲鳴だった。

 

「はぁ、はぁ……っ……!」

 

アグネスデジタルの視界は、既にチカチカと火花が散るように霞んでいた。

 

トレセン学園指定の赤白のジャージ。かつては誇りを持って袖を通したその布地も、今は泥と汗を吸って鉛のように重い。

 

(デジたん……限界、かもです……)

 

この「ラヴニカ」という狂った都市に放り出されてから、一体どれだけの時間が経っただろうか。

 

彼女の大好きな「尊い」ウマ娘たちの輝きはどこにもなく、あるのは鉄と魔力の冷たい臭いだけ。

 

何よりも、腹が減っていた。 ウマ娘の中では比較的少食な彼女ですら、今ならトレセン学園の食堂で出される、山盛りの白米を添えた特製ニンジンハンバーグを十人前は平らげられる自信があった。

 

あの甘酸っぱいソースの香りと、溢れ出る肉汁。ふっくらと炊き上がった白米を口いっぱいに頬張りたい。

 

だが、胃袋の空虚とは裏腹に、彼女の身体は止まることを拒絶していた。

 

極限の不安と孤独にさらされた彼女の精神回路は、ただ「前へ走る」という単純な運動に逃避することで、辛うじて崩壊を防いでいた。

 

(どこかに……ゴールは、ないんですか……。デジたん、もう、テープを切りたいです……!)

 

彼女の走りは、もはや逃走ですらなく、終わりのない地獄に幕を下ろすための、悲痛な「ゴール探し」へと変わっていた。

 

「……彼女は、ただ闇雲に逃げ回っているわけじゃない」

 

高台から街並みを見下ろしていた遊戯が、鋭い眼差しで呟いた。その視線の先では、建物の合間を縫うように、一筋のピンクの影が驚異的な速度で駆け抜けている。

 

「おいおい、冗談だろ」

 

ラル・ザレックが計測器の針を見ながら舌打ちした。

 

「あの速度で走り続けて何分経った? 生体反応はとっくにレッドゾーンだ。心臓が破裂してもおかしくねえぞ。……なんで止まらねえんだ?」

 

ラルの疑問はもっともだった。普通の生物なら、痛みや苦しみが限界を超えれば身体機能が停止する。

 

だが、あのアグネスデジタルという少女は、限界を超えてなお加速しようとしている。

 

それはもはや生物としての生存本能ではなく、何か別の、もっと強烈な呪縛に突き動かされているように見えた。

 

「……競っているんだ」

 

遊戯の呟きに、フリーレンが眠たげな目をパチクリとさせた。

 

「競ってる? 誰と?」

 

「見えない『誰か』とです。……見てください。彼女は時折、後ろや横を気にしている。まるで、並走するライバルに抜かれまいと必死になっているように見える」

 

遊戯には分かった。彼女の瞳に宿る色が、恐怖ではなく闘争心だということが。

 

極限状態の彼女の脳内では、今まさに架空のレースが展開されているのだ。

 

「……なるほどな。頭の中でグランプリを開催中ってわけか」

 

ラルが呆れたように、しかしどこか面白そうに言った。

 

「だったら簡単だ。そのレースを『終わらせて』やりゃあいい」

 

「はい。彼女に、最高のゴールを用意してあげましょう」

 

遊戯は二人の仲間に向き直った。その表情は、デュエルにおける逆転の一手を思いついた時のように、力強く輝いている。

 

「ラルさん。彼女の本能を刺激する『ライバル』を作れませんか? 彼女が絶対に負けたくないと思えるような、強くて速い幻影を」

 

「はん、イゼット団の幻影魔法を舐めるなよ。……実体はないが、プレッシャーだけは本物の一級品を用意してやる」

 

「フリーレンさん。彼女を導くための『コース』をお願いします。複雑な路地裏じゃなくて、彼女が迷わずスパートをかけられる、光の直線を」

 

「ん。……綺麗ならなんでもいいよね」

 

フリーレンは短く答え、杖を静かに構えた。

 

二人の頼れる「共犯者」を得て、遊戯は広場の方角を指差した。

 

「行きましょう。アゾール・プリッツ広場が、彼女のウイニングランの舞台です!」

 

 

 

ラヴニカの夕闇は、紫と琥珀色が混ざり合う、重厚で美しい帳となって都市を包んでいた。

 

その影の中を、アグネスデジタルは走っていた。

 

(……負けない。デジたんは、負けない……っ!)

 

脳裏に浮かぶのは、ターフを駆ける「尊い」ウマ娘たちの背中。彼女たちへの愛が、憧れが、鉛のように重い足を前へと蹴り出させる。

 

その時。

彼女の横を、青白い稲妻を纏った影が、風を切り裂いて追い抜いていった。

 

「――ッ!?」

 

デジタルが驚愕に目を見開く。そこには、電流で構成された半透明の「ウマ娘」がいた。

 

顔立ちは定かではないが、その走りのフォームは洗練されており、圧倒的な速さを誇示している。

 

幻影はデジタルの少し先を走り、まるで挑発するかのように振り返った。

 

(……速い! でも、デジたんも……っ!)

 

消えかけていた闘志の火が、爆発的に燃え上がる。

 

「負けられない!」という明確な目的が生まれた瞬間、彼女の身体から疲労感が消え失せ、代わりにアドレナリンが全身を駆け巡った。

 

「うおおおおおおおお!!!」

 

彼女は幻影の背中を追い、さらに加速した。

 

「……いいぞ、その調子だ」

 

ビルの屋上からその様子を操作していたラルが、ニヤリと笑う。

 

「ほらほら、もっと速く走らねえと置いてくぞ! ……へっ、久しぶりに熱くなるじゃねえか」

 

その二人が差し掛かった交差点で、今度はフリーレンの魔法が炸裂した。

 

彼女が杖を一振りすると、街灯の光、建物の窓から漏れる明かり、水溜まりの反射光――それらすべてが集束し、路地裏の複雑な道を一本の「輝くトラック」へと変貌させた。

 

光の粒子がガードレールのように両脇を固め、進むべき方向を明確に指し示している。

 

(……見える! コースが、見える……!)

 

デジタルはその光景に、懐かしいトレセン学園の芝生を重ねた。

 

迷うことはない。ただ、この光の道を駆け抜ければいい。

 

幻影を追い抜き、先頭でテープを切るために。

 

「ラストスパートだ!!」

 

どこからともなく、誰かの声が聞こえた気がした。

 

デジタルは歯を食いしばり、地面を蹴り砕く勢いで飛び出した。

 

 

 

広場「アゾール・プリッツ」。

普段はアゾリウス評議会の厳格な演説や行進が行われるその場所は、今、静寂に包まれていた。

 

だが、その静けさを切り裂くように、一陣の風が吹き込んでくる。

 

「来た……!」

 

広場の中央で、武藤遊戯は即席の「フィニッシュテープ」――難民たちの布を継ぎ合わせた白い帯――を両手で掲げて待ち構えていた。

 

光の道を抜け、雷の幻影と競り合いながら、アグネスデジタルが広場へ飛び込んでくる。

 

その形相は鬼気迫るものがあったが、瞳には確かな希望の光が宿っている。

 

彼女は今、逃げているのではない。挑んでいるのだ。

 

「行けぇぇぇぇぇッ!!」

 

遊戯の叫びに応えるように、デジタルが最後の一歩を踏み出した。

 

バツンッ!

 

乾いた音が響き、白い布が舞い上がる。

 

「……はぁっ、はぁっ……!」

 

デジタルは勢いを殺しきれず、石畳の上を数メートル滑り込んだ。

 

だが、彼女は倒れなかった。極限の達成感。全身を駆け巡る勝利の快感。

 

それが脳内で火花を散らし、彼女を「次の本能」へと突き動かしたのだ。

 

彼女はふらりと立ち上がると、誰もいないはずの広場の中心で、空に向かって拳を突き上げた。

 

「……デジたん、勝利の……ウイニングライブ、行きますッ!!」

 

「うーー(うまだっち!) うーー(うまぴょい! うまぴょい!)」

 

伴奏はない。バックダンサーもいない。あるのは彼女の荒い息遣いと、石畳を叩く激しいステップ音だけ。

 

だが、その姿はあまりにも鮮烈だった。泥だらけのジャージ姿で、髪を振り乱し、満面の笑みで歌い踊るその姿は、この異世界の誰も見たことがない「ウマ娘」の輝きそのものだった。

 

「……すげえな。あんな身体で、まだ動くのかよ」

 

追いついてきたラルが、呆れたように、しかし感嘆の声を漏らす。

 

「彼女にとって、これも戦いの一部なんだね。……魔法使いには理解できない情熱だよ」

 

フリーレンもまた、目を細めてそのステージを見守っていた。

 

アグネスデジタルの「野生のライブ」は、広場の隅で怯えていた難民たちの心にも届いていた。

 

意味のわからない歌詞、奇妙な踊り。

 

だが、彼女から溢れ出る「生きる喜び」の奔流は、理屈を超えて彼らの魂を揺さぶった。

 

一人、また一人と手拍子が起こり、やがてそれは広場全体を包む温かなリズムとなっていく。

 

遊戯は、その光景を誇らしげに見つめていた。

 

(……やっぱり、彼女は「希望」だ)

 

曲が終わり、最後のポーズを決めた瞬間。

 

「……ありがとうございましたーッ……!!」

 

デジタルは満足げな笑みを浮かべたまま、今度こそ糸が切れたようにその場へ崩れ落ちた。

 

遊戯が慌てて駆け寄り、その小さな身体を抱き止める。

 

彼女の寝顔は、安らかで、どこか誇らしげだった。

 

ラヴニカの夜空に、一筋の流れ星が落ちたような、そんな鮮烈な一夜だった。




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