カビ臭かったはずの地下工房には、今やそれとは正反対の、鼻腔をくすぐる温かな香りが満ちていた。
煮込まれた野菜とスパイス、そしてどこか懐かしい家庭の味を思わせる匂い。
「おや、おかえり。賑やかなお客さんを連れてきたようだね」
キッチンに立っていたテフェリーが、エプロン姿で振り返った。その手にはお玉が握られている。
「ちょうどいいところだよ。時間はたっぷりあったからね、ドミナリア流のシチューをじっくり煮込んでおいたんだ。時間は私の専門だが、料理に関しては『待つ』ことこそが最大のスパイスだと改めて実感したよ」
時の賢者による冗談混じりの出迎えに、張り詰めていた一行の肩の力が抜ける。
アジャニは気絶したアグネスデジタルを、清潔な布が敷かれた長椅子にそっと横たえた。
「……ん、んん……」
デジタルの鼻が、ピクピクと動く。 彼女の脳内を埋め尽くしていた「絶望」という名のノイズが、突如として現れた「至高の飯の匂い」によって上書きされていく
彼女にとって、食欲は生存本能そのものだった。
「……これ、は……尊い……芳醇な、お出汁の……」
ガバッ、とデジタルが跳ね起きた。その瞳は既に爛々と輝き、焦点は真っ直ぐにテフェリーの持つ鍋へと向けられている。
「……あ、あの! デジたん、それ、食べても!? 食べてもいいんですか!? ギブ・ミー・ニンジン! ギブ・ミー・ライス!」
「ははは、もちろんだとも。さあ、冷めないうちに」
提供された大皿のシチューを、デジタルは文字通り「音速」で平らげ始めた。
スプーンが皿を叩くリズムは、先ほどのステップ以上に軽やかだ。
おかわりを要求する速度に、テフェリーは目を丸くし、ケルシーは彼女の消化能力を静かにデータとして記録していく。
「……すごい食欲だね」 遊戯は、皿を抱えて幸せそうに頬張るデジタルの姿を見て、心の底から安堵した。 「あんなに元気に食べられるなら、もう大丈夫だ」
真夜中。まだ夜明けの蒼い光が窓辺に滲む頃。
地下工房の長椅子で仮眠を取っていた武藤遊戯は、ふと目を覚ました。
「……ん……」
夢を見ていたわけではない。ただ、胸の奥で燻っていた熱が、彼を眠りの淵から引き戻したのだ。
身体を起こすと、毛布が滑り落ちた。隣のソファーでは、アグネスデジタルが幸せそうな寝息を立てている。
遊戯は彼女の寝顔を見つめ、昨夜の光景を思い返していた。
(……あのエネルギー。彼女の中にあったのは、ただの「走りたい」という衝動だけじゃなかった)
デジタルの爆発的な力。それは「ゴールしたい」「踊りたい」という本能に火がついた時、理屈を超えて周囲を巻き込む台風のような奔流となった。
自分の中に今も残っている高揚感。それは単なる安堵ではなく、彼女の熱が伝染した結果だ。
遊戯は自分の掌を見つめた。微かに震えている。それは恐怖ではなく、何かが始まる予感に武者震いしているかのようだ。
(……彼女だけじゃない。昨日、広場にいた難民の人たちもそうだった)
デジタルのライブを見ていた人々の瞳。最初は死んだように虚ろだった目が、彼女のリズムに合わせて手拍子を打ち始めた時、確かに光を取り戻していた。
「楽しかった」「すごかった」というプラスの感情だけではない。「自分も何かしたい」「じっとしていられない」という、湧き上がるような衝動。
(……不安なんだ。みんな、この街で何をすればいいのか、自分の命をどこに使えばいいのか分からなくて……その有り余るエネルギーが、行き場を失って「恐怖」や「絶望」という形で毒になっているだけなのかもしれない)
人は、役割を失うと腐る。あるいは暴走する。
昨日のアゾリウス前での行列。あれは単なる待機列ではなく、自分たちのエネルギーを封じ込められた人々の、無言の悲鳴だったのだ。
もし、そのエネルギーに「出口」を作ってあげられたら?
デジタルのように、ゴール(目標)とステージ(役割)を与えられたなら、彼らの不安は、この街を動かすための「燃料」に変わるのではないか。
遊戯は立ち上がり、窓の外の微かな朝焼けを見上げた。
頭の中で、バラバラだったピースがカチリと音を立てて繋がっていく。
アゾリウスが提示する「管理」でもなく、ただの「保護」でもない。
彼らが彼ら自身の足で立ち、エネルギーを燃焼させるためのフィールド。
遊戯の表情から、迷いが消えた。
夜明けの光が、青年の瞳を力強く照らしていた。今日の彼は、昨日よりも少しだけ「リーダー」の顔になっていた。
翌朝。工房の空気は、昨日までの「停滞」から「始動」へと変わっていた。
遊戯は円卓を囲む仲間たち、そして少し体力を回復したデジタルを前に、一つのアイデアを広げた。
「ラルさん、フリーレンさん。……昨日の広場の光景を見て、確信しました。今の難民たちに一番必要なのは、施し(パン)じゃない」
遊戯の声には、デュエリストが勝利への筋道を見出した時のような、静かな熱が宿っていた。
「彼らに必要なのは、『役割』です。人は何もすることができず、ただ運命に翻弄されている時、心が一番早く暗闇に飲まれてしまう。……カードだって、手札にあるだけじゃ意味がない。フィールドに出て、役割を与えられて初めて輝くんです」
遊戯はラルの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「ラルさん、無茶を承知でお願いします。イゼット団のインフラ整備や、壊れた街の修繕作業……そこに、難民たちの力を貸してほしいんです。彼らは元の世界ではそれぞれの分野で生きてきたプロフェッショナルかもしれない。たとえそうでなくても、昨日デジタルさんの走りを見て、立ち上がろうとした情熱がある」
「……本気か、遊戯?」 ラル・ザレックは呆れたように眉を寄せた。
「イゼット団は職人の集団だ。素人を混ぜて爆発でも起こされたら、俺の首が飛ぶぜ」
「爆発なら、今この街のあちこちで起きている不満や暴動の方が、よっぽど危険なエネルギーです」 遊戯は一歩も引かなかった。 「彼らに『一時的な仕事』を与えてください。元の次元に帰る道を探す間、自分たちの手でこの街を支えているんだという誇りを持たせてあげたい。……それが、この絶望の連鎖を断ち切る唯一の『魔法』なんです」
アジャニが、遊戯の言葉を補強するように頷く。
「……ラル。若きリーダーの言葉に耳を傾けてくれ。これは慈善事業ではない。ラヴニカという巨大な機構を維持するための、最も合理的な『部品の再配置』だ」
ラルはしばらく沈黙し、天井を見上げた。それから、投げやりな、しかしどこか晴れやかな溜息をつく。
「……ちっ。どいつもこいつも、俺を使い走りにしやがって。……わかったよ。ニヴ=ミゼット様には俺が上手く言っておく。だが、現場の管理は自分たちでやれよ。特にお騒がせな『ウマ娘』の扱いはな」
「ありがとうございます!」
遊戯の顔に、今日一番の笑顔が咲いた。 まだ何も解決していない。
道は遠く、困難は山積みだ。だが、このカビ臭い工房から、確実に新しい「ゲートウォッチ」の光が広がり始めていた。
デジタルが、口の周りにソースをつけたまま、元気に拳を突き出す。
「デジたん、働きます! 現場の尊い光景(働くお姉さん)を拝むためなら、どんな重労働も推せます!」
「……方向性はともかく、やる気はあるようね」 ケルシーが小さく溜息をつき、物語は次のフェーズへと動き出した。