娘のバンドと対バンしたい   作:肉野郎

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なんかお気に入りが増えててびっくりしてます。
応援してくれたみなさん、本当にありがとうございます!
それではどうぞ


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 直樹は、豪邸の地下スタジオに籠もっていた。

 

 一般的な商業用のレコーディングスタジオを遥かに凌駕する最新鋭の防音設備。

 壁一面には特注の音響パネルが並び、ラックに収められたヴィンテージから最新鋭にいたる数々の高級機材、そして何枚もの大型高解像度モニターが静かに明かりを灯している。

 直樹はその中央にある本革のエンジニアチェアに深く腰掛け、最高品質のモニターヘッドホンを耳に当てたまま、プロ仕様のDAW(デジタル・オーディオ・ワークステーション)の画面に並ぶ無数の音声波形を睨みつけていた。

 

 ここ数日間、彼の睡眠時間は極限まで削られていた。

 けれど、その肉体に疲労の色は1ミリもなかった。

 あの【SICK HACK】の廣井きくりとの奇跡的なコラボ。

 そこで得た圧倒的なインスピレーションが、直樹の脳内で爆発的な連鎖反応を起こし、新しい楽曲のアイデアが止まることなく溢れかえっていた。

 

 きくりとの共同作業は、予想以上に刺激的だった。

 

 きくりが持ち込む脳を溶かすようなサイケデリック特有の浮遊感。

 そこに、自分たちが20年間研ぎ澄ませてきた【NEW GLORY】の真骨頂である「脳に直接衝撃を与える」強烈なダイナミクスが真っ正面から激突した。

 

 その結果、音楽の教科書のどこにも載っていない、凄まじい化学反応が引き起こされたのだ。

 

 

 そこから、NaokIは誰も足を踏み入れたことのない全く新しい音楽ジャンルへの扉を力任せにぶち開けていった。

 

 例えばパイプオルガンの荘厳な響きをイントロに取り入れ、讃美歌のようなコーラスを重ね、そこにトランスの反復性とダンスミュージックのキラーチューン的なシンセを融合。

 フレンチコアの狂った高速キックをブレイクダウンに忍ばせ、オーケストラのストリングスをレイヤーして壮大さを加えつつ、NaokIらしい「一度聴いたら頭から離れない」メロディで締めくくる。

 

 

 きくりとの制作は、毎回「これ、ヤバいかも」と言い合える楽しさがあった。

 直樹は、メンバー全員に「僕たち、また新しいジャンルを作ってる気がする」と語り、送られてきたデモ音源のバケモノじみた完成度を聴いた【NEW GLORY】のメンバーも目を輝かせていた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日の直樹は、久しぶりに勝ち取った数日間のオフを満喫していた。

 

 とはいえ完全に音楽から脳を切り離すことなど、この天才には到底不可能だった。

 直樹はリビングの高級ソファーの上に胡坐をかいて座り、その膝の上にノートPCを展開していた。

 

 キッチンからは美智代が楽しそうに鼻歌を歌いながら夕飯の準備をする心地よい音が響き、ジミヘン専用の部屋では次女のふたりが愛犬のジミヘンと一緒になって無邪気に転げ回っている。

 

 2階からは、長女のひとりが自分の部屋で、何やら盛大に慌てふためいて床をドタバタと踏み鳴らす怪音が微かに漏れ聞こえていたが、もはや後藤家においてはそれこそが日常の風景であり、誰一人として気に留める者はいなかった。

 

 直樹はAirP○dsを左耳だけ外し、そんな愛おしい家族の生活音をBGMとして聞きながら、右耳には世界を震撼させる爆音を流し、DAWの画面を睨みつけていた。

 

 頭の中では、新曲の強固な骨格が瞬く間に形を成しつつあった。

 【SICK HACK】との激闘で得たサイケデリックなインスピレーションが未だに脳髄を灼いて離さず、彼の指先はソファーの上で滑るようにキーボードを叩き、トラックの上に無数のMIDIノートを猛烈な速度で打ち込んでいく。

 

 

「このパイプオルガンの重厚な低音の隙間に、あえて強烈なトランスのキックを違和感なく重ねていったら…」

 

 

 直樹は無意識に呟きながら、画面にオーケストラのストリングスサンプルをインポートした。

 荘厳なバイオリンと、地を這うようなチェロの美しいレイヤーをイントロへと完璧に配置。

 静寂の闇から厳かに始まる、ポストハードコアのどこか内省的で冷徹な雰囲気を作り出しつつ、楽曲の熱量を徐々に、確実にビルドアップさせていく。

 さらに、予め保存されていた【NEW GLORY】のボーカルトラックを読み込み、デジタルなオートチューンを適用。

 ピッチをミリ単位で滑らかに整えつつも、彼らのフロントマンが持つ最大の武器である、激情を孕んだ人間味のある豊かな『揺らぎ』は1ミリも殺さずに残していく。

 

 

「ここを少しだけ波形加工…でも、ボーカル本来の絶対的な強みは絶対に殺さない。調和させて、昇華させる」

 

 

 クリーンボーカルと激しいスクリームの切り替えが、よりクリアで、かつキャッチーな世界基準のポップネスを帯びていきながらも、剥き出しの人間味を完璧に保っていく。

 そこへ、楽曲の推進力となるリズムビートを強めに設定。キックはフロアの心臓を物理的に打ち抜くほど重く、ハイハットは空間を切り裂くようにシャープな金属音を刻み込む。

 最大の見せ場であるドロップ(サビ)の直前パートでは、トランスコアの狂気的なビルドアップを贅沢に挿入。

 シンセサイザーのレイズアップ音を何重にも積み重ねることで、聴く者の緊張感を極限まで高めていき、そこから一気に音を大爆発させる。

 フレンチコア特有の狂ったような高速キックを音の壁の裏に密かに忍ばせ、さらに地獄の底を揺らすようなダブステップのワブル低音をプラス。

 

 

「ドロップで脳に直撃……インパクトを最大に」

 

 

 ラウドロックの獰猛な重みが、最先端のエレクトロニックな電子ビートの中へ、跡形もなく美しく溶け込んでいく。

 そして極めつけに、フルオーケストラの壮大なストリングスが、サビの瞬間にラウドロックの分厚いギターリフと完璧な融合を果たした。直樹はリビングのソファーにいながらにして、脳内でNaokIのシグネチャーギターサウンドのシミュレーションを完了させ、脳に衝撃を与える美しく鋭利なメロディラインを、これ以上ないほどクリアでキャッチーに仕上げていく。

 スクリーモの狂おしい叫びと、オルタナティヴ・ロックの歪みきった感情が混ざり合い、それら全ての狂乱を、オーケストラの荘厳な旋律が包み込むように包摂していく。

 お互いの特徴を1ミリも殺すことなく、奇跡の調和によって昇華──エレクトロニックのビートがラウドロックの重低音を何倍にも増幅させ、オーケストラの圧倒的な荘厳さが、楽曲全体を神話の領域へとドラマチックに引き上げていた。

 

 

 世界のトップアーティストが数か月をかけるであろう曲全体の美しい骨組みを、彼はわずか数時間の間にあっさりと完成させてしまった。

 一区切りのアレンジがバチッとハマったその瞬間、タイミングを見計らったかのように、美智代がエプロン姿でキッチンから優しい声をかけた。

 

 

「みんな〜、夕飯ができたわよ〜!」

 

「はーい、今行く!」

 

「おかーさん!今日のごはんなにー!」

 

「今日は特製のハンバーグよ~♪いっぱい作ったから、みんな好きなだけ食べていいわよ〜」

 

「やったー!お母さんのハンバーグ大好きー!」

 

「ふふっ、ありがとう。じゃあ今からテーブルに持っていくから、手を洗っていい子に座っててね〜」

 

「は~い!」

 

 

 直樹は右耳のAirP○dsを外し、ノートPCの画面をパタンと閉じて、ロックスターの鋭い眼光からただの優しいお父さんの笑顔へと一瞬で切り替えて振り返った。

 すると、ジミヘン専用の部屋からふたりがジミヘンを連れて、キャッキャと声を弾ませながら直樹の元へと駆け寄ってきた。

 

 

「おとーさんなにしてたの〜?また新しいおうたつくってたの?」

 

「ワン!」

 

 

 直樹は胸元に飛び込んできた小さなふたりを愛おしげにギュッと抱きしめ、横で座って見上げてくるジミヘンの賢そうな頭を大きな手で優しく撫で回した。

 

 

「うん。新しいお歌を考えてるんだ~。それも飛び切りかっこいいのを」

 

「すごーい!おとーさんのつくるおうた、ふたりも大好き!おとーさんがんばって!」

 

「ワンワン!」

 

「ありがとな~ふたり~。お父さん頑張るよ」

 

 

 ふたりの屈託のない純粋な応援の声に、直樹の目尻はデレデレに下がりっぱなしになる。

 ふたりは直樹の腕の中で楽しそうに笑い、ジミヘンも嬉しそうに床をトントンと叩くようにして尻尾を振る。

 

 

 そんな時、上階からのドタバタとした怪音がようやく収まり、リビングのドアが静かに、おそるおそる開いた。

 階段を降りてやってきたひとりは、いつも通り猫背で少しうつむき加減のまま、5枚の小さな紙切れ──ライブのノルマチケットをいじくり回していた。

 

 

「みんな……聞いてほしいことがあるの」

 

 

 直樹はすぐさまひとりに振り返った。

 美智代もキッチンから顔を出し、ふたりはジミヘンとじゃれ合っていた動きをピタリと止めて姉へと視線を注いだ。

 

 

「ん?どうしたひとり?」

 

 

 ひとりは喉の奥でゴクリと唾を飲み込み、深呼吸をして言葉を絞り出した。

 

 

「今月スターリーで…結束バンドの初ライブがあるんだ。…みんなで来てほしいんだけど…どうかな……?」

 

 

 一瞬、リビングの空気が完全に静まり返った。

 あまりの衝撃に、時が止まったかのような静寂。

 

 ──だが次の瞬間、後藤家の中は爆発したかのような大歓声と熱狂に包まれた。

 

 

「ライブあるのか!?もちろん行くよ!!お父さん、何が何でも最前列を陣取るから!!……うぅ…遂に娘がロック史に名を刻むのか…!」

 

「ライブ?あら〜すごいわね、ひとりちゃん♪お母さんもライブ楽しみだわ~♪」

 

「おねーちゃんすごーい!」

 

「ワンワン!」

 

 

 直樹は胸に込み上げる熱い涙を堪えきれず、号泣し出した。

 美智代は聖母のような満面の笑顔で何度も頷き、ふたりは興奮のあまりジミヘンにギュッと抱きつきながらキャッキャとリビングを跳ね回り、ジミヘンも手下(ひとり)の快挙を祝福するようにちぎれんばかりに尻尾を振って吠え立てる。

 

 娘の記念すべき人生初の公式ステージ──それを家族全員で総出で応援しに行く。

 

 世界のどんなアワードの授賞式よりも、スタジアムライブよりも、直樹にとってこれ以上ワクワクする未来の予定は存在しなかった。

 家族の予想を遥かに超えた大歓迎っぷりに、ひとりは顔を真っ赤にして少し照れくさそうに、けれど心底嬉しそうな笑みを浮かべて言葉を続けた。

 

 

「えっと……今度の○日の金曜日、夕方から。みんなで来てくれたら…嬉しい」

 

「〇日の金曜日だね!よ~し!その日は家族総出で──────」

 

 

 直樹はデレデレの笑顔のままポケットから私用のスマホを取り出し、予定がびっしりと詰まったカレンダーアプリの画面をタップし、娘の指定した日付の欄を表示する。

 

 ──その瞬間、直樹の脳の思考回路が、完全に凍りついた。

 

 

「……………待ってくれ」

 

 

 さっきまで世界一幸せそうに歪んでいた直樹の顔から、一瞬にして血の気が引いていく。

 

 その日は、【NEW GLORY】のJAPAN TOUR──九州最大級の大規模アリーナで行われる福岡公演の前日だった。

 何万人もの熱狂的な観客を迎え入れるステージの設営、音響の最終リハーサル、緻密な機材チェック、そして全ツアースタッフとの緊密なミーティング。

 バンドのリーダーでありメインコンポーザーである直樹は、絶対にその日の朝から現地へ前日入りしていなければならなかった。

 直樹はスマホを握りしめたまま、声を情けないほどに小刻みに震わせた。

 

 

「……ひとり、ごめん。その日はアリーナツアーの福岡公演の前日なんだ。僕も現地入りしなきゃいけなくて……行けない」

 

 

 その言葉を聞いた瞬間、ひとりの表情がパッと曇った。

 

 

「……そっか。……無理だよね……」

 

 

 愛娘のあまりにも健気で寂しげなトーンに、直樹の胸はナイフで抉られたかのように激しく痛んだ。

 キッチンからは美智代も、深いため息をつきながら困ったように首を横に振る。

 

 

「私もふたりを連れて行きたいけど、5歳じゃライブハウスに入れないわよね。ジミヘンは犬だから論外だし…そもそもワンちゃんの過敏な聴覚であの爆音の空間に入ったら、耳が壊れちゃうわよ」

 

「えぇ〜!つまんなーい!ふたりも行きたい〜!」

 

「ワンワン!」

 

「うぅ…!!せっかくの娘の素晴らしい晴れ舞台に……なんで!なんで僕は行けないんだ!!!!」

 

「あ〜!おとうさんないてる〜!」

 

「ワン!」

 

 

 直樹の胸の引き裂かれるような苦悶が完全に顔へと決壊し、滝のような大粒の悔し涙がボロボロと溢れ出していた。

 ふたりはそんな父親の狼狽っぷりを見て無邪気にキャッキャと笑い、ジミヘンも遊んでもらえると勘違いしてワンワンと鳴きながら直樹の足元にじゃれついてくる。

 

 するとひとりは、両手に持った5枚のノルマチケットを見つめたまま、脳の処理能力が完全に限界を迎えたらしく、ボソボソとトチ狂ったことを呟いた。

 

 

「……母、母、母、母、母……お母さんが分身すれば、ワンチャン………」

 

 

 完全にストレスで認知が歪み、オカルトの領域へ片足を突っ込んでいる長女。

 直樹は涙を拭い、苦笑いを浮かべながら、どうにか愛娘の精神の崩壊を食い止めようと必死のフォローを試みた。

 

 

「ひとり、みんなで行けなくてごめんな。でもお母さんが友達呼んでくれるかもだぞ」

 

「そうね。お母さんのお友達、音楽好きが多いから、ひとりちゃんの応援にぜひ行ってって誘ってみようか?」

 

 

 美智代のその何気ない優しい提案が、ひとりの脳内にあるラストの防衛ラインを完璧に爆破した。

 ひとりは突然弾かれたようにバッと恐怖に染まった顔を跳ね上げ、リビングの天井を突き破らんばかりの奇声を上げて、盛大に発狂した。

 

 

「ひぎぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!お母さんの友達なんてやだやだやだ!!!そんなの!!私ぼっちなのに友達の友達みたいなの絶対気まずい!!!うわあああああああ!!!終わりだぁぁあぁぁぁあああああぁぁぁぁぁあああ!!!!!!!!!!」

 

 

 

 ひとりは両手で自分の頭を狂ったように抱え込み、リビングのフローリングの上をくるくると回転しながら叫び声を上げ始めた。

 プランクトンみたいに体を縮め床に転がり、最終的にツチノコに生態変化を遂げたあと、リビングの隅っこへと這いずっていき、ガタガタと涙目で震え出すのだった。

 

 ふたりは姉の奇行を見つめながら、キャッキャと無邪気な声を上げて笑った。

 

 

 

 

「お姉ちゃんだれもお友達いないもんね〜!あはは!」

 

 

 

 

 その純粋無垢ゆえにあまりにも鋭利なナイフの一言が突き刺さった瞬間、床に転がっていたひとりはピタッと奇妙な動きを止め、前髪の隙間から恐ろしい怨念の形相でふたりをギロリと睨み据えた。

 そのまま這うようなスピードで上半身だけを起き上がらせると、喉を震わせて必死の言い訳を絞り出す。

 

 

「おっお姉ちゃん…話さないだけで学校に沢山いるんだよ…?」

 

「え〜!うそだ──

 

「冗談でもそんな事いっちゃだめだよ…人の痛みがわかる子になりなさい…」

 

「ごっごめんなさい…」

 

 

 姉のあまりにも気迫の篭もったガチのトーンと凄まじい形相に、ふたりはびっくりして身の危険を感じたのか、小さな身体を縮めてジミヘンの大きな背中の後ろへと慌てて隠れた。

 ジミヘンはそんな手下の様子を全て察したように悲しげにワン!と短く鳴くと、姉としてのプライドを粉々に砕かれたひとりを慰めるように、その足元へとおずおずと近づいて鼻先を擦りつけた。

 

 あまりにも不憫な長女の姿に、美智代はクスリと優しく笑いながら床にしゃがみ込み、ひとりのボサボサのピンク色の髪をよしよしと大きな愛情で優しく撫でた。

 

 

「まあまあ、ひとりちゃん。無理に友達呼ぶのはやめようか。お母さんが一人で行くわよ」

 

 

 せっかくのお母さんの優しい救いの手だったが、ひとりは変な見栄を張ってしまい、顔を林檎のように真っ赤に染め上げながら叫んだ。

 

 

「いっいいよ…!一人でがんばるから…!…それとご飯はあとで食べる…!」

 

 

 そう言ってひとりは、手元に残された5枚の絶望のノルマチケットを握りしめたまま、リビングを飛び出して階段をドタバタと猛烈な勢いで駆け上がり、自分の部屋へと逃げ込むように閉じこもった。

 

 

 直樹は深いため息をつき、ガックリと肩を落としてダイニングの椅子に力なく座り込んだ。

 美智代がそんな夫の背中に、心配そうな、けれど包み込むような温かい眼差しでそっと寄り添う。

 

 

「ひとりちゃん…落ち込んでたわね」

 

「あぁ。…娘の初ライブに行けないなんて……僕、何やってんだろうな…」

 

 

 本気で落ち込む父親の姿を見て、ジミヘンの後ろに隠れていたふたりがトコトコと駆け寄り、「おとうさん、がんばって!」と小さな手でパタパタと太ももを叩いて励ます。

 さらにジミヘンまでがフサフサの尻尾をちぎれんばかりに振りながら、直樹の膝の上へと器用に飛び乗ってきた。

 愛犬と次女の温もりに救われながら、直樹は暗い自室へと引きこもってしまった長女のいる天井を見上げ、心の中で静かに、けれど強く、一人の父親として、そして先行くバンドマンとして誓った。

 

 

(ひとり。お父さんに何かできることがあれば…全力で力になるよ。陰ながら応援してるからな)

 

 

 家族の団欒は、少し切ない余韻を残しながら続いた。

 夕飯が終わり、家族がそれぞれお風呂に入ったりテレビを観たりして落ち着いた頃、直樹はリビングの片隅で再びノートPCを開き、DAWの画面を立ち上げた。

 先ほどまでの暗い絶望の表情は消え去り、その指先はキーボードの上で流れるような滑らかさで新しい旋律の粒子を打ち込んでいく。

 

 それは、娘へのエールになるようなメロディだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 直樹は地下スタジオの重厚な防音扉を開けて通路へと出ると、凝り固まった身体を大きく伸ばし、深く息を吐いた。

 

 ここ数日、頭の中に新しいフレーズが次々と浮かび手が止まらなかった。

 すでに50個近くのフレーズとネタのストックが貯まり、【NEW GLORY】の次のアルバムの骨格が見えてきた。

 

 

「外で息抜きしながら…フレーズ考えるか…」

 

 

 直樹は黒いキャップを深く被り、サングラスをかけ、軽く変装をした。

 プライベートでの作曲時によく好んで愛用しているSchecterのギターを、頑丈なケースに収めてその広い背中へと担いだ。

 今日はオフ。直樹はリビングにいる家族に向かって「ちょっと散歩してくる」とだけ短く言い残し家を出た。

 

 

 金沢八景。

 

 地元に近いこの街で、今日は年に一度の花火大会が開催されていた。

 夏の夜空に花火が打ち上がる小さな祭り。

 提灯が揺れ、屋台の匂いが漂い、人ごみが賑わっている。

 

 直樹は人混みに紛れながら、ゆっくり歩いた。

 

 花火の音が遠くで響き、子どもたちの歓声が聞こえる。

 そんな中、広場の片隅で聞き覚えのあるギターの音がした。

 

 

「……ん?」

 

 

 直樹はサングラスの奥の目を凝らし、その音の鳴る方角を見つめた。

 すると、視線の先に佇んでいたのは──他ならぬ、自分の娘のひとりだった。

 ギターケースを足元に置き、両手で数枚のビラを固く握りしめたまま、周囲の視線に怯えるように小さく縮こまっている。

 

 隣には、廣井きくりの姿があった。

 きくりは完全に泥酔しており完全に泥酔しており、フラフラしながらベースをチューニングしていた。

 

 直樹は予想だにしなかった光景を前に、一瞬、完全にその場に立ち止まった。

 

 

(ひとりが路上ライブ?しかも廣井さんと?)

 

 

 祭りの中心地から少し離れたその広場には、まだ足を止める通行人の姿はほとんどなかった。

 直樹は周囲に不審がられないよう自然な動作で2人へと近づき、いつもの優しい父親のトーンで穏やかに声をかけた。

 

 

「ひとり?こんなところで何してるんだ?」

 

 

 突如として背後から降ってきた聞き慣れた声に、ひとりは心臓を跳ね上がらせてびっくると飛び上がり、防衛本能のままに抱えていたギターをぎゅっと強く抱きしめた。

 

 

「おっお父さん…!?え…!?家で作業してたんじゃ…!?」

 

「Na──……!?」

 

 

 きくりは直樹を見て目を丸くし大声が上がりそうになるが、慌てて口を押さえ瞬時に察した。

 しかし次の瞬間、きくりは眼の前にいる怯えきったピンクジャージの少女と、世界をひざまずかせる大ロックスターを何度も交互に見比べ、驚愕のあまり口をぽかんと開けたまま硬直した。

 

 

「……え?ひとりちゃん…今NaokIさんのこと…お父さんって……え!?嘘ッ!!マジで!!?ひとりちゃんとNaokIさんって親子なの!?」

 

 

 きくりのあまりにストレートな驚きの声に、直樹は慌ててキャップのひさしを掴んで周囲の通行人の様子をギョロリと見回し、トーンを落とした小声できくりを制した。

 

 

「しっ!ここだけの話にしてくれ。変装してるけどバレたら大変だ」

 

 

 直樹の言葉にきくりは慌ててコクコクと激しく首を縦に振り、周囲を警戒して声を限界まで小さく潜めつつも、胸の奥から湧き上がる興奮と衝撃をどうしても抑えきれず、ガタガタと震える両手で自らの口を完全に覆い尽くした。

 

 

「うわ…!うわああああ!!ひとりちゃんのお父さんがNaokIさんだったなんて…!!マジで信じられない…!!」

 

 

 自分の正体が完全に露呈してしまったことに、ひとりは顔を真っ赤にしてジャージの襟元へと亀のように縮こまった。

 手元のビラをぐしゃりと握りしめ、消え入りそうな声で父親を見上げる。

 

 

「おっお父さん……お姉さんには内緒に…」

 

 

 愛娘の必死の隠蔽工作に、直樹は苦笑いしながらひとりに優しく言った。

 

 

「大丈夫だよ。ここにいるのは僕たちだけだ。それより、どういう経緯で知り合ったんだ?」

 

「えっと…私がビラ配りしてた時に……お姉さんが酔って倒れてて…助けたら親しくなって…それでライブのチケット売れなくて困ってると話したら、お姉さんが『路上ライブで宣伝しよう!』って……」

 

「そう! 私、酔ってるところをひとりちゃんに助けてもらって……恩返しで一緒に演奏して宣伝する作戦!」

 

 

 きくりがワンカップを片手に、ろれつの回らないトーンで胸を張る。

 直樹はサングラスの奥の目を細め、2人の会話を反芻するように静かに頷いた。

 娘の初めてのライブが、ノルマ未達という冷酷なピンチに陥っている。

 その壁を乗り越えるために、娘は引きこもりだったはずの殻を破り、見ず知らずの他人の力を借りてまで、必死で地上の世界へと這い上がろうとしているのだ。

 

 一人の父親として、そして一人のバンドマンとして、直樹の胸の奥が熱く焦がされるように脈打ち、背負ったギターケースのストラップを握る手にぐっと力が籠もる。

 

 

「……僕も参加していい?」

 

 

 その世界基準のギタリストからの突然すぎる参戦表明に、ひとりときくりが同時に固まった。

 お祭りの広場の片隅で、2人の思考回路が完全に完全に停止する。

 

 

「おっお父さん!?」

 

「え!マジで!?」

 

「娘のピンチに駆け付けない薄情な親ではないよ。それに今回僕はリズムギター担当するから、ひとりよりでしゃばることは絶対しない」

 

 

 プロの技術で娘のリードギターの背景(バッキング)に徹する──その贅沢極まりない提案に、ひとりは嬉しい反面、最悪の最悪な事態を脳内で妄想してしまい、ガタガタと震えながら首を横に振った。

 

 

「で…でも、お父さんの正体がバレたら…」

 

「……おっ!ちょっと待ってて…」

 

 

 そう言って直樹は、人混みをかき分けるようにして近くの露店へと小走りで向かった。

 きくりとひとりが呆然と見守る中、すぐに戻ってきた直樹の手にはお祭りの定番であるプラスチック製の安っぽい鬼のお面が握られており、直樹はそれをためらいなく自身の顔へと装着した。

 

 

「これで隠せばいいだろ?」

 

「え…でも、私の問題なのに……もしバレたら…お父さんに迷惑が………」

 

 

 親の七光りで注目されること。

 そして何より、【NEW GLORY】のブランドに自分のせいで傷がつくかもしれない恐怖。

 ひとりはパニックになりかけたが、直樹は手を伸ばし、娘の頭を優しく撫でた。

 

 

「迷惑なんかじゃないよひとり。僕は父親だ。ひとりの音楽を支えたいんだ。ひとりがステージに立つ姿を近くで見たい……それだけだよ」

 

「……お父さん……」

 

 

 面の下で、優しく微笑んだのがわかった。

 安っぽい鬼のマスク越しでも、自分を見つめるお父さんの目が、どこまでも優しく潤んでいるのがハッキリと見て取れた。

 世界の頂点から、今この瞬間だけは「自分だけの味方」として地上へ降りてきてくれた直樹の深い心配りに、ひとりの小さな瞳がうるっと涙で膜を張った。

 

 感動的な親子愛の空気が流れる中、そこできくりが、酔った勢いで横からがばっと割り込んだ。

 

 

「ひとりちゃん怖いならさ、目を瞑って弾けばいいよ!私も昔ライブでビビって目つぶって弾いてたことあるし、目閉じれば誰も見えないから楽チンだよ〜!」

 

「うう……でも……」

 

 

 それでもひとりは、プレッシャーに負けて頑なに首を横に振る。

 何万人もの前で弾いた経験のあるお父さんたちとは違い、自分を見る見ず知らずの他人の視線が、凶器のように恐ろしかったのだ。

 

 だが、そんな娘の心の呪縛を打ち砕くように、直樹が静かに、でも力強く言った。

 

 

「ひとり。目の前にいる人は闘う相手じゃない…敵を見誤るなよ」

 

 

 世界の第一線で20年間戦い続けてきた父から放たれた絶対的な言葉の重みに、ひとりは魂を撃ち抜かれたようにハッとした。

 視線が、世界を拒絶していた自分の足元から、前へと引き上げられる。

 

 直樹は背中からSchecterのギターを取り出し、ストラップを肩にかけ、低く構えながら、続けた。 

 

 

「ここにいるのは家族だ。廣井さんも味方だ。お前はただ自分の音を信じて弾けばいい。僕たちは、お前の音を最大限に引き立てるだけだ」

 

「あ〜ズルい!それ今、私が言おうとしたのに〜!」

 

「はは!早いもん勝ちだよ!」

 

 

 ひとりの胸の奥が、かつてないほどの凄まじい熱量でカチリと熱くなった。

 自分の後ろには、世界の頂点に立つ、こんなにも広くて頼もしい父親の背中がある。

 その圧倒的な安心感に包まれた瞬間、彼女の心を鎖のように縛り付けていた対人恐怖の重みが、嘘のようにすっと軽くなった。

 

 

「…うん」

 

 

  ひとりはもう一度、自分の意志で、お父さんの愛した黒いレスポールのネックを強く、固く握り直した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ひとりは鬼のお面をかぶった直樹を前に、愛用のレスポールを壊れ物のように強く抱きしめたまま、完全にカチコチになって固まっていた。

 

 花火大会の提灯の明かりが揺れる中、祭りの喧騒が遠くに聞こえる。

 直樹がSchecterのネックを握り直してギターを構え、その隣できくりが地面に座り込み、愛用のベースを肩へとかける。

 指が弦に触れた瞬間、ひとりの心臓は緊張のあまり喉口のすぐ裏側まで一気に跳ね上がってきた。

 

 

(お父さんが……私の音に合わせて、本当に弾いてくれるの…?)

 

「……よし、いくか」

 

「それじゃはじめますね〜!曲はこの子のバンドのオリジナル曲で〜す!」

 

 

 広場に響いた2人の声を合図に、ひとりは深呼吸して、イントロのアルペジオを弾き始めた。

 指が震えて、最初は音が少し掠れた。

 

 

 だが、次の瞬間──背後から世界最高峰のギタリスト・NaokIのギターが、文字通り地響きを立てて割り込んできた。

 

 

 NaokIは数秒音源を聴いただけで、コード進行とリズムパートの構成を完璧に把握していた。

 Schecterの重厚なボディから生まれる音は、ラウドロック特有の重みと厚みがあった。

 低音が効いたパワフルなリフが、リードギターを土台から支える。

 コードを刻むたびに地面を震わせるような低音が響き、ひとりの繊細なメロディラインを決して埋もれさせない。

 むしろ重厚なリフが土台となり、ひとりの音を「浮かび上がらせる」ように鳴っていた。

 

 そしてピッキングは、NaokIらしい──脳に衝撃を与えるような、でも今日は優しい。

 ひとりのメロディに寄り添いながら、微妙なハモりを加えて音に厚みと深みを出す。

 静かなパートでは繊細に、サビでは力強く、でも決して前に出ない。

 Schecterの太いトーンがラウドロックの重みを最大限に活かし、ひとりの音を「守る」ように包み込んだ。

 

 

(お父さんの音…こんなに重くて…でも優しい。私の音を、こんなに大きくしてくれる…)

 

 

 次に、きくりのベースが入ってきた。

 

 

 きくりは酔っているのに、その指先が4本の弦を叩く精度は、驚くほどに正確無比だった。

 【NEW GLORY】とのコラボを終えて、ベーシストとしての彼女の技術は、数段上の、それこそメジャーの第一線を置き去りにするレベルにまで到達していた。

 歪んだ低音がサイケデリックなうねりを描きながら、ひとりのギターに絡みつく。

 完全なぶっつけ本番の即興セッションであるにもかかわらず、ドラムがいないその空間で、直樹のピッキングのタイミングとミリ秒単位で完璧に呼吸を合わせてくる。

 フレンチコア的な高速フレーズを忍ばせつつ、【SICK HACK】らしいトリッピーな浮遊感を保ち、全体を空間的に広げていく。

 

 きくりのベースのグルーヴは、ひとりとNaokIの音を「繋ぐ」橋のようだった。

 重厚な低音がSchecterのリフと共鳴し、ひとりのリードをさらに際立たせる。

 

 

 ドラムというリズムの道標が不在であるにもかかわらず、背後から押し寄せてくる2人の音の安定感は、文字通り尋常ではなかった。

 

 あまりにも、プロすぎる。

 

 あまりにも、完璧すぎる。

 

 

(お父さん…お姉さん…ありがとう。……でも私…お客さんに笑われてないかな?私の音だけ浮いてるかも…恥ずかしい…顔上げられない…)

 

 

 ひとりはますます縮こまり、視線を地面に落とした。

 不安が胸を締めつける。

 NaokIときくりの演奏に感謝しつつも、自分だけが足を引っ張っている気がして、涙が出そうになる。

 

 

 その時──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「がんばれ〜!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは広場の最前列で足を止めていた、一人の若い女の子の声だった。

 ひとりが驚いて視線を数センチだけ浮かせると、その客席の前にいた女の子は配られたばかりのライブのビラを両手で強く握りしめたまま、自分のことのように心配そうな、でも真っ直ぐな瞳でこちらをじっと見つめていた。

 

 

(えっ…)

 

「ちょっとあんた何言ってんのよ」

 

「なんかギターの女の子、不安そうだったからつい…」

 

(心配してくれてる…?)

 

 

 その確かな他者からの体温を感じた瞬間、ひとりの胸の奥が、これまでの人生で一度も経験したことがないほど急に熱くなった。

 

 

(…応援…されてる…?私…笑われてない…?)

 

 

 その刹那、彼女の頭の中で、張り詰めていた頑固な防衛ラインが音を立ててパチンと弾けた。

 

 

(そうか…初めから敵なんかいない。私が勝手に自分で壁を作ってたんだ…お父さんも、お姉さんも、あの女の子も…みんな味方だ!)

 

 

 お父さんが言った「敵を見誤るなよ」という言葉の真意が、今この瞬間に完璧に理解できた。

 ひとりは地面に落としていた顔を、ゆっくりと、しかし確固たる意志を持って真っ直ぐ前へと上げた。

 恐怖で強張っていた両手で黒いレスポールを力強く握り直し、大きく深呼吸。

 

 

 そして──ギターヒーローの片鱗が現れた。

 

 

 指が、弦の上を滑るように動き始めた。

 いつもの練習では出せなかった、聴く者の魂を直接揺さぶるような圧倒的な感情の乗ったピッキング。

 人間の構造を無視したような極悪難易度の速いパッセージも、ミリ秒の狂いもなく正確無比に紡がれ、それでいて一音一音に温かい心が極限までこもっている。

 NaokIの重厚なリズムギターに、そして覚醒したきくりの歪んだベースに、自らの放つ極上の旋律を龍のように絡みつかせるようにして、彼女のギターが世界をジャックしていく。

 

 

 音が、完全に一つになった。

 

 

 娘の完璧な覚醒を肌で感じ取ったNaokIは、鬼のお面の下で、父親としての深い歓喜と誇らしさに思わず口角を大きく上げた。

 隣のきくりも、その圧倒的な音圧の心地よさにニヤリと凶暴な笑みを浮かべ、さらに指先のピッチを上げてベースを弾き始めた。

 二人は、名もなき少女が今まさに「本物の表現者」としてボルテージを限界突破させたのを、その音の肌触りから敏感に、強烈に感じ取っていたのだ。

 

 NaokIの刻むSchecterのリフがより力強く、それでいて娘の奔放なプレイをどこまでも優しく包み込むように支え始める。

 きくりのベースも、合同MVでの激闘を再現するかのようにサイケデリックなうねりをさらに加速させ、楽曲全体の熱量を地底から押し上げていく。

 

 三人のグルーヴが、完全にフュージョンした。

 

 ひとりの鋭利なリードギターが文句なしの主役として中央に君臨し、NaokIの重厚なリズムが鋼鉄の土台となって周囲を固め、きくりのサイケな低音が空間の隙間を淫らに埋め尽くす。

 音が、高みへ昇華される。

 

 

 気がつけば広場の周囲は、身動きが取れないほどの人、人、人で埋め尽くされていた。

 遠くの打ち上げ花火を目当てに歩いていた祭りの客たちが、地を這う重低音と鼓膜を劈く極上の旋律に引き寄せられるようにして、一人、また一人と自然に集まってくる。

 広場周辺の騒ぎを聞きつけた警察官たちでさえ、職務を忘れていつの間にかその場に足を止め、呆然とした表情で三人の異次元の演奏に深く魅入っていた。

 

 

 そして曲が終わった瞬間──広場全体を物理的に震わせるような、爆発的な歓声の嵐が巻き起こった。

 

 

「うおおおおおおおおおおお!!!!!!」

 

「すげぇ!!」

 

「ねぇ!すごくかっこよかったよね!?」

 

「わかる!あの三人!めちゃくちゃすごかった!!」

 

「最後の演奏のとこ、マジで鳥肌立ったわ!」

 

「路上ライブ初めて見たけど、かっこよかった!!」

 

「生のギターとベースの演奏って、こんなにヤバいんだ…!」

 

「もっかい!もっかい最初から見たい!」

 

「アンコールアンコール!」

 

「巡回中にいいもの見れたな~………はっ!」

 

 

 割れんばかりの拍手と喉を枯らした絶叫が全方位から降り注ぐ中、ひとりは自分のレスポールを抱えたまま、ただただ呆然とその光景を見つめていた。

 自分が鳴らした音で、世界がこれほどまでに優しく熱狂している。

 隣では、直樹が安っぽい鬼のお面の下で、愛娘の圧倒的な成長と覚醒に優しく微笑んでいるのが、その温かい目元からハッキリとわかった。

 きくりが「やったねー!」と満面の笑みでハイタッチを求めて手を差し出してくる。

 そんな奇跡の余韻が広場を支配したところで、我に返った警察官たちが、ようやく職務を思い出してきまずそうに注意の声をかけてきた。

 

 

「そこの人たち〜 ここでのライブはやめてくださーい!」

 

「あっごめんなさーい」

 

「それじゃあ片付けようか」

 

 

 三人とも慌てて撤収作業に取り掛かる。

 直樹はお面を被ったまま、静かにギターをケースにしまった。

 その時、先ほどエールをくれた女の子と連れの女の子がビラを握りしめて近づいてきた。

 

 

「あの〜チケット買ってもいいですか?」

 

「えっ!あっはい!」

 

「初めて生でライブ見たけど、凄くよかったです!」

 

「ライブも頑張ってください!」

 

「あっはい 頑張ります…」

 

 

 差し出された代金と引き換えに、ひとりの手からチケットが2枚、奇跡のように売れて女の子たちの元へと渡っていった。

 彼女たちが興奮冷めやらぬ様子で去ったあと、その様子を見守っていたきくりが財布からお金を直接取り出した。

 

 

「残りの2枚、私が買うよ」

 

「えっ…2枚もいいんですか?」

 

「私のとこのバンドメンバーに渡すから。ライブ楽しみにしてるね」

 

「あっはい!」

 

「私は普段、新宿拠点に活動してるんだ。また会おうね。ばいばい ひとりちゃん」

 

 

 きくりそう言って、ひとりの頭をポンポンと優しく撫でながら、夜の祭りの人混みの中へと爽やかに帰っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 お祭りの賑やかな中心地を完全に離れ、ひとりは重いギターケースを小さな背中に背負いながら、直樹の大きな手をしっかりと握りしめていた。

 

 警察の目を盗んで広場を飛び出した後、ようやく周囲に人の気配がなくなったところで、直樹はあの安っぽい鬼のお面を静かに外していた。

 素顔に戻った父親の手はどこまでも温かくて、今夜の激闘の余熱を物語るように少し汗ばんでいた。

 遠くの夜空へと打ち上がる花火大会の地鳴りのような喧騒が徐々に遠ざかり、代わりにぽつり、ぽつりと並ぶ夜の街路灯の淡い光が、静かなアスファルトの上で歩みを進める親子二人を優しく照らし出している。

 

 ひとりは小動物のように、無意識のうちに父の手をぎゅっと力強く握り直し、少し大きな直樹の足音へ揃えるようにして歩いた。

 生まれて初めて自分の音で大群衆を魅了したという、あの人生最大の祭りの余韻がまだ胸の奥に熱く残っていて、いつもの猫背のままでも不思議と足取りだけは軽かった。

 でも、頭の興奮が急激に冷めていくと同時に、気恥ずかしさがどっと全身に押し寄せてきた。

 

 

「お父さん…今日はありがとう」

 

 

 ひとりは消え入りそうな声で、けれど確かな温もりを込めて感謝を口にした。

 直樹はその愛おしい一言を聞くと、ふと足を止め、自らの真横を歩く小さな娘を優しく見下ろした。

 世界の音楽シーンをひざまずかせる大ロックスターの面影はそこにはなく、ただ一人の父親としての優しい笑顔を浮かべ、愛娘の頭をそっと撫でる。

 

 

「ひとり。今日は本当によく頑張ったな」

 

「お父さん…」

 

「初めての路上ライブで、あんなにたくさんの人を集めて…お父さん感動したよ。お前のギター、すごく良かった。最初は緊張してたけど、途中から──いつもの演奏に戻ったな」

 

 

 ずっと地下スタジオで、毎日6時間、たった一人で自分の背中だけを追いかけ続けてきた娘の努力。

 それが今夜、この街の片隅で見事に開花したのだ。

 

 直樹の嘘偽りのない賞賛の言葉に、ひとりは前髪の隙間から顔を真っ赤に染め上げ、気恥ずかしさのあまり限界まで下を向いた。

 

 

「…うう……そんな…私なんか…お父さんとお姉さんがいてくれたから、なんとか……」

 

「お父さんのリズムギターがすごく安定してて…重くて、でも優しくて……私の音をちゃんと支えてくれて…お姉さんのベースも、即興なのに完璧で…」

 

「後ろに二人がいたから、思いっきり弾けたんだ……だから…ありがとう……」

 

 

 お父さんが刻んだ、あのどこまでも頑強で優しいラウドロックのバッキング。

 そして廣井きくりが叩き出した、全てを美しく繋ぐためのサイケデリックなうねり。

 孤独にしか楽器を鳴らせなかった自分が、世界最高峰のプロ2人に背中を完璧に守られ、支えられていたからこそ、あの恐怖を乗り越えて「ギターヒーロー」としての真の実力を解放することができた。

 その揺るぎない事実に対する涙が出るほどの幸福感が、彼女の小さな胸をいっぱいに満たしていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「私、お父さんの娘で…本当によかった。…大好きだよ……お父さん………」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 思わず口を突いて出た自分の本音の気恥ずかしさに、ひとりは小さく声を上げ、パッと顔を赤らめてジャージの襟に顎を埋めた。

 直樹はそんな愛娘の小さな手を壊れ物を包み込むように優しく、けれど力強く握り返した。

 世界の頂点に立った時でさえ感じたことのない猛烈な熱が胸に突き上げ、彼のサングラスの奥の目頭がじんわりと熱く、潤んでいく。

 

 

「ひとり……お前が頼ってくれたことが、お父さん嬉しいよ。世界一可愛くて大好きな娘に、『大好き』って言ってもらえるなんて……お父さん…幸せだ……」

 

 

 直樹の声が、耐えかねたように小刻みに震え始めた。

 次の瞬間にはもう、彼の目から大粒の涙がぽろぽろと決壊してこぼれ落ち、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの醜態へと変貌していった。

 

 

「うわああああん!!!ひとりぃぃぃ!!!お父さん…お父さん嬉しいよぉぉぉ!!!お前がバンド組んで頑張ってる姿を見て…お父さん泣きそうだったんだ!!今日ひとりと路上で一緒に弾けて本当に嬉しかった!!!お前の音最高だったよぉぉ!!!うえええええん!!!」

 

 

 直樹はステージ上の冷徹な姿からは想像もつかないほど、家族第一で涙脆い父親らしく、みっともないほどの声を上げて号泣した。

 世界ツアーを即完させる男が、誰もいない静かな街路灯の下で子供のように肩を激しく震わせ、鼻をズビズビとすすりながら泣きじゃくる。

 そのあまりの取り乱しっぷりに、ひとりは完全にパニックを起こして慌てふためいた。

 

 

「お父さん!?えっえええ!?泣かないで!!!わっ私…そんな大したことしてないのに!うわわわわ!!!」

 

 

 ひとりは周りを見回し、誰もいないことを必死に確認すると、直樹の広い背中を小さな手でぽんぽんと不器用に叩いて宥めようとした。

 でも、自分のためにそこまで感情を爆発させてくれる父親の無償の愛に触れているうちに、彼女の小さな瞳の奥にも、熱いものがじわじわと伝染してすぐに自分も涙目になる。

 

 

「…お父さん…泣かないで。私…お父さんがいてくれて、心強いよ…」

 

「本当に困った時、いつも助けてくれて…味方でいてくれて……」

 

「そんなお父さんが…大好き」

 

 

 直樹は溢れる涙をジャージの袖でゴシゴシと拭きながら、愛おしさが限界突破したように娘の身体を大きな両腕で優しく抱きしめた。

 

 

「ひとり…お父さんも大好きだよ。これからもがんばれ。お父さん、陰ながら応援してるからな」

 

 

 ひとりは大きな直樹の胸にすっぽりと顔を埋めて、気恥ずかしさに耳まで真っ赤にしながら、コクコクと照れくさそうに頷いた。

 学校での孤独や、チケットノルマの重圧に怯えていた彼女の心から、全ての曇りが綺麗に晴れ渡ったような、純粋で温かい笑顔がその口元に浮かぶ。

 

 二人は再びしっかりと温かい手を繋ぎ直すと、家で待つ美智代たちの元へと向かって歩き出した。

 タイミングを合わせるようにして、遠い夜空に、金沢八景の花火大会のフィナーレを告げる最後の大きな大輪の花火が、静かに、そして祝福するように鮮やかに咲き誇っていた。

 

 その光に照らされながら、ひとりは心の中で強く誓った。

 

 

(私もお父さんみたいに…みんなを熱狂させるギタリストになる)

 

 

 家族の深い絆が、ひとりの背中を、どこまでも優しく、力強く押し上げていた。

 

 




話色々考えてたら遅くなりました。
路上ライブのシーン、直樹を入れるべきか悩んだんですが、原作での優しくて家族想いなあの性格なら、絶対助けるだろうなと思って、やっぱり参戦させました。
というかここでぶち込まなきゃ、活躍全部モノローグか、ほかの人の視点になってしまう…

今回も見てくれた方、ありがとうございました。
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