三国志異伝~演算する剣鬼(守銭奴)~最強の秘書官・李司が通る道には死体と領収書しか残らない~   作:斉宮 柴野

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古来、天下を乱すものは三つある。

野心。
暴力。
そして美女。

だが洛陽では違った。

美女は誘惑に敗れ、
美女は合理主義に敗れ、
美女はついに――

修行を始めた。


第十七話:プロジェクト・ディーヴァ~貂蝉育成計画

王允の放った美しき刺客、貂蝉。

 

彼女は今、本来の目的である連環の計を完全に見失っている。いや、見失っているというよりは、李司というあまりにも高すぎる絶望的な壁を前にして、新たな目的へと完全にシフトチェンジしているのだ。

 

ただ純粋な「打倒・李司」

 

あの憎き女の鼻っ柱をへし折り、美貌と格で自分がナンバーワンであると認めさせること。ただその一点のみを追求するため、彼女は自ら進んで地獄のようなトレーニングを開始している。

 

「ふんっ!ふんっ!ふんっ!」

 

彼女の細い背中には、なんと彼女自身の身長ほどもある巨大な石が乗っかっている。どうやってその細腕で持ち上げて背負ったのかすら謎なレベルの、完全に物理法則を無視したサイズの岩だ。

 

彼女の美しい顔は、もはや絶世の美女の面影など微塵もなく、完全に鬼の形相と化している。

 

「はぁっ!はぁっ!ふんぬぅぅぅっ!」

 

その巨大な岩を背負ったまま、深く腰を落としては立ち上がるというスクワット動作を延々と繰り返している。

 

透けた着物の下からは、かつての深窓の令嬢とは到底思えない、バキバキに躍動する逞しい筋肉の筋が浮かび上がっている。

 

「腰が浮いていますよ!」

 

「甘えないでください!あと追加で五千回です!大腿四頭筋を意識して、もっと限界まで腰を深く落としなさい!」

 

「うう……っ!」

 

「ご、五千……!?追加で五千回って、どういう計算よ!?殺す気ですか!?」

 

「死にません。人間の体というものは、貴女が思っている以上に頑丈にできています。限界だと思ったところからが、本当の成長、すなわちレベルアップの始まりなのです」

 

「だいたい、五千回なんて大した数字ではありません。極めて妥当で合理的なノルマです。貴女の大腿四頭筋の筋繊維の損傷度合いと、乳酸の蓄積量、そして超回復にかかる時間を逆算すれば、今ここで五千回追加するのが最も効率的な筋肥大のプロセスなのです」

 

「わけがわからないわよ!五千回やったら膝の軟骨がすり減って物理的に粉砕されるわよ!私、まだ一八歳なのよ!」

 

「軟骨はコンドロイチンとグルコサミンを後でプロテインと一緒に摂取すれば修復可能です。問題ありません。それに、物理的に粉砕される前に、貴女の精神力がどこまで耐えられるかのテストでもあります」

 

「私のこの腕による剛力は、決して生まれ持った天性のものではありません」

 

「すべては、徹底的な物理演算に基づいた無駄のない体の動かし方と、日々の極限までの筋肉への負荷、すなわちオーバーロードの賜物なのです。筋肉は裏切りません。計算通りに投資した分だけ、確実に利益となって返ってくる優良な資産です。貴女も私のようになりたいのでしょう?」

 

「あんたみたいに可愛げのない筋肉ゴリラになりたいわけじゃないわよ!私はただ、あんたに勝って、あんたを私の足元にひざまずかせたいだけなのよ!」

 

「ふふっ、良い意気込みです。私に勝ちたいというその強烈なモチベーションこそが、今の貴女の最大のエネルギー源。さあ、私に勝ちたいのでしょう?私の鼻っ柱をへし折りたいのでしょう?ならば、口を動かす暇があったら、足を動かしなさい!反復あるのみです!追加の五千回、今からカウントを始めますよ!いーち!」

 

「くっ……!勝つ!絶対に勝つわ!あんたのその余裕ぶった顔を泥水に沈めて、あんたを私の専属の侍女にしてやるんだからーっ!!」

 

「ふんぬぅぅぅーーっ!!」

 

「にーい!さーん!腰が浅いですよ!もっと下まで!しーい!ごーお!呼吸を止めない!腹圧を高めて!」

 

彼女の脳内には、もはや王允の顔も、連環の計の目的も、一切の記憶が存在していない。ただ目の前に立つ憎き女、李司を物理的に粉砕することだけが、彼女の生きるすべての意味となっている。

 

「ろーく!なーな!はーち!良いペースです。その調子で、あと四千九百九十二回、気合を入れていきましょう!」

 

 

 

 

 

 

 

場面は変わり、同じ相国府の敷地内にある、曹操専用の書斎。ここは、彼が行政の書類仕事や、趣味の詩の創作を行うための静かで落ち着いた空間だ。

 

部屋の中央には立派な紫檀の机が置かれ、そこには筆や硯、そして大量の木簡が積まれている。

 

(なんなのよ、あの悪魔みたいな女のしごきは……。太ももがパンパンで、正座しているだけでも激痛が走るわ。でも、ここで弱音を吐くわけにはいかない。李司の陣営の奥深くに潜り込んだからには、この曹操をどうにか手玉に取って、私の味方につけなければ……。そうよ、色仕掛けよ。前回はあの女の恐怖支配のせいで失敗したけど、こんな密室で二人きりなら、いくらあの男でも理性を保てるはずがないわ!)

 

貂蝉は、痛む太ももを気合でカバーしながら、極めて自然な動作で、色気たっぷりの眼差しを曹操に向ける。

 

「貂蝉殿……」

 

(来たわ!この甘い声、完全に私の魅力に落ちかけている証拠よ!)

 

「はい、曹操将軍。何でございましょうか……?」

 

「貂蝉殿……君は、詩の心とはいかなるものか……わかるかね?」

 

「……はい?」

 

今、この男はなんと聞いた?詩の心?こんな密室で、絶世の美女と二人きりの状況で、いきなり文学の講義を始める気か?

 

(ふっ……なるほど、そういうアプローチね。女好きのくせに、教養のあるところを見せつけて気を引きたいわけね。いいわ、乗ってあげる。これは私の得意分野よ。ここで知的な返答をしつつ、さらに色気で絡め取ってやるわ。色仕掛けの最大のチャンス到来ね!)

 

「はい……将軍のような天下の英雄が詠む詩は、きっと……夜の営みのように激しく、そして燃え上がるほど情熱的なのでしょうね……」

 

そして、艶然と、男の理性を完全に焼き切るような魔性の微笑みを浮かべながら、曹操の広い肩に、自分の柔らかい体をスッとしなだれかける。

 

彼女の着物の襟元が少しはだけ、白く美しい肌が露わになる。完璧だ。どんな聖人君子でも、この攻撃を躱すことは不可能なはずだ。

 

「将軍の、その情熱的な詩の心を……私に、もっと深く、直接教えていただけませんか……?」

 

貂蝉は、曹操の耳元で甘く囁き、自分の手を太ももの上にそっと乗せる。

勝った。

 

しかし。

 

パシィィィッ!!

 

「痛っ!」

 

「や、やめなさい!!貂蝉!!」

 

「え……?」

 

「な、なにをするのよ!いきなり叩くなんて……!」

 

「君の方こそ、なにをしているのだ!!神聖なる詩の創作の場において、そのような不純な真似をするとは何事だ!!」

 

「よく聞きなさい!詩において、そのような安っぽい色欲や、肉体的な情熱などというものは、一切不要!!ノイズだ!ただの雑音でしかない!!」

 

「夜の営みのように激しく情熱的、だと!?バカを言うな!そんな低俗な感情で、後世に残る名詩が詠めると思っているのか!君は詩というものを根本的に勘違いしている!建安文学を舐めるな!!」

 

(なんなのよこの男……!絶世の美女が自分からすり寄ってあげてるのに、なんでポエムの解釈の違いで本気でキレてるのよ!?)

 

「建安の風骨とはな、そのような浮ついた色恋沙汰にあるのではない!もっと深く、重く、そして魂を揺さぶるような、悲哀と雄大さの完璧な調和にあるのだ!乱世を生きる男の虚無感、人生の短さへの嘆き、そしてそれでもなお前を向いて進まねばならないという、圧倒的なスケールの大きな悲哀!それこそが、真の詩の心というものだ!」

 

「君の先ほどの態度はなんだ!肩にしなだれかかる?甘い声を出す?言語道断だ!そのようなだらしない姿勢で、俺の魂の結晶である詩を聞こうなどと、一万年早い!さあ、すぐにそのだらしない座り方をやめて立ちなさい!」

 

「え?た、立つ……?」

 

「そうだ!直立不動で、背筋をピンと伸ばし、踵を揃えて、顎を引け!そして、一言も発することなく、俺の魂の叫び、すなわち最高の詩を、全身全霊で噛み締めるのです!それが、俺の詩を聞く者への最低限の礼儀だ!」

 

先ほどの李司のブートキャンプでの恐怖がフラッシュバックし、貂蝉の体が条件反射で動いてしまう。

 

「は、はいっ!」

 

「サー・イエッ・サー!」

 

なぜか、相国府の共通言語になりつつある、李司仕込みの謎の返事まで飛び出してしまう。貂蝉の脳は、すでに疲労と混乱で正常な判断力を失いかけているのだ。

 

「うむ、よろしい。その姿勢を絶対に崩すなよ」

 

「『譬えば朝露の如し、去りし日は苦だ多し……』」

 

「『慨当に以て慷すべし、憂思忘れ難し。何を以てか憂いを解かん、唯だ杜康有るのみ……』」

 

(なんなのよこの地獄は……!)

 

(李司の物理的なしごきも最悪だったけど、こっちの精神的な拷問もキツすぎるわ……!なんで私が、直立不動で筋肉痛に耐えながら、オジサンの自作のポエムを延々と聞かされなきゃいけないのよ!何の罰ゲームよこれ!)

 

「『青青たる子衿、悠悠たる我が心……』おお、我ながらなんという名フレーズだ。貂蝉殿、どうだ!この胸を打つような切ない表現がわかるか!」

 

孟徳が、朗読の途中で突然同意を求めてくる。

 

「す、素晴らしい詩だわ……。胸の奥が、熱く……いえ、太ももの奥が熱く焼けるように感動しておりますわ……」

 

「そうだろう、そうだろう!では、次の段落にいくぞ!心して聞け!」

 

(この男……天下の女好きのくせに、詩のことになると本気で面倒くさい!女の体よりポエムの方が大事なの!?色仕掛けを完全にスルーして、引っ叩くなんて、どうかしてるわ!この陣営の男たちは、みんなどこか頭のネジが盛大に吹き飛んでるの!?)

 

書斎の外では、太陽が高く昇り、相国府の活気ある一日が本格的に始まろうとしている。しかし、貂蝉にとっての一日は、まだ地獄の入り口に過ぎない。

 

「『呦呦と鹿鳴き、野の苹を食らう……』さあ、貂蝉殿、ここの情景描写は特にこだわったのだ、しっかり情景を思い浮かべるのだ!」

 

「は、はい……(もう足の感覚がないわ……)」

 

 

 

 

 

 

地獄の肉体労働と、曹操の書斎での精神的拷問(ポエム鑑賞)をどうにか生き延びた貂蝉を待っていたのは、またしても予想の斜め上を行く試練である。

 

場所は変わって、名門・袁紹の広大な屋敷。

 

「いいか、貂蝉」

 

「李司の侍女、つまり最高のアシスタントになるということは、単に書類の整理や戦闘のサポートができればいいというわけではない。それはすなわち、『最強のベビーシッター』になるということに他ならないのだ!」

 

「は、はい……」

 

(なんでこの名門・袁紹様が、こんなに手慣れた様子でエプロンを着こなしているのよ……?それに、最強のベビーシッターって何?私、天下の権力者を惑わすためにここに来たはずなんだけど……?)

 

「我々が戦場に出ている間、親が留守の屋敷で子供たちを安全に守り、そして健やかに育てるスキル。これこそが、李司の陣営において最も高く評価されるバックオフィス業務なのだ!子供の成長こそが最大の投資だからな!」

 

袁紹の言葉には、完全に李司の経営理念(洗脳)が染み付いている。

 

台所の隅には、三人の子供たちがちょこんと座ってこちらを見ている。

 

一人は曹操の長男・曹昂(八歳)。もう一人は袁紹の長男・袁譚(九歳)。そして、豪華なベビーベッドの中で丸々と太っているのが、董卓と李司の間に生まれたばかりの赤子、董白(〇歳)である。

 

どの子も、将来の漢王朝を背負って立つ(あるいは引っ掻き回す)超重要人物の卵たちだ。

 

「さあ!曹昂、袁譚、董白!今日から新しく入ったインターンの貂蝉が、お前たちのために腕を振るってくれたぞ!彼女の作った料理を、厳しく判定してやってくれ!」

 

「さあ!私の特製スープよ!冷めないうちに召し上がれ!どう?見た目も香りも最高でしょう?」

 

(ふん!伊達にお父様のお屋敷で最高級の食材を扱ってきたわけじゃないわよ!宮廷仕込みの私の腕前、とくと味わいなさい!子供の胃袋なんて一瞬で掴んでみせるわ!)

 

袁譚が、大人びた手つきで匙を持ち、スープをすくってゆっくりと口に運ぶ。

そして、数秒間もぐもぐと味わった後、極めて冷静な、まるで姑のような顔で匙を置く。

 

「……うーん」

 

「ど、どうかしら?美味しいでしょう?」

 

「味が濃い」

 

「えっ?」

 

「塩分濃度が高すぎるよ。これじゃあ腎臓に負担がかかる。それに、見た目は綺麗だけど、タンパク質とビタミン、食物繊維の栄養バランスが全く計算されていないね。育ち盛りの子供の食事としては不適格だ」

 

「なっ……!?」

 

「父様(袁紹)がいつも作ってくれる、鶏胸肉とブロッコリーの無水スープの方が、百倍体に良くて美味しいや!ねえ、父様、明日からはまた父様がご飯作ってよ!」

 

「うむ!任せておけ!明日は高タンパク低脂質の特製オムレツを作ってやろう!」

 

「ガーン!!」

 

(九歳の子供に料理のダメ出しをされた挙句、名門の当主(おじさん)の手料理に負けるなんて……!私の宮廷仕込みのスープが、ブロッコリーのスープに負けるっていうの!?)

 

そこに、曹昂がいやらしい笑みを浮かべながら近づいてくる。

 

「お姉さん、料理の腕はまだまだ修行不足だねえ」

 

「でも、顔はすごく綺麗だ。スタイルもいいし、僕の好みのタイプだよ」

 

「……は?」

 

「どう?僕のお嫁さんになりませんか?将来、僕が立派な将軍になったら、お姉さんのことを僕の十八番目の妾にしてあげるよ。父上(曹操)よりは優しくしてあげるからさ」

 

八歳児の口から、父親譲りの生粋の女好き遺伝子が爆発した、とんでもないセクハラ発言が飛び出す。

 

(こ、こいつ……!!曹操のスケベなところと、袁紹の謎の上から目線を、悪い意味でグツグツに煮詰めたようなクソガキだわ!!)

 

「一〇年早いわよ坊や!!あんたみたいなガキの妾になるくらいなら、尼になって山にこもるわ!!」

 

「あはは!怒った顔も可愛いね!脈ありだな!」

 

曹昂が全く堪えた様子もなく、ケラケラと笑って逃げていく。

 

貂蝉がキーキーと怒っていると、今度は部屋の隅のベビーベッドから、鼓膜を破るような凄まじい大声が響き渡る。

 

「おんぎやー!!おんぎやぁぁぁぁぁ!!」

 

董卓と李司の娘、董白である。

〇歳児とは思えないほどの声量と肺活量だ。窓ガラスがビリビリと震えている。

 

「え?何?どうしたの!?」

 

「おんぎやー!まんまー!おんぎやー!!」

 

「え?胸?私のおっぱいを指差してるの?」

 

「見ればわかるだろう。董白は『おっぱいが欲しい、ミルクを飲ませろ』と言っているのだ。さあ、早く授乳の時間にしてやってくれ!」

 

「えええええええ!?」

 

「わ、私はまだ出ません!!」

 

「出ない?」

 

「当たり前でしょう!!私はまだ誰の手も触れていない純潔の処女ですし!当然、妊娠も出産もしていませんし!どうやっておっぱいを出すっていうのよ!!」

 

「むぅ……そうであったか。まだ未稼働の生産ラインであったか」

 

「使えんな」

 

「使えんな!?なんで私がいま怒られてるの!?」

 

「仕方ない。我々が用意した特製の粉ミルクをお湯で溶かして飲ませてやってくれ。だが、気をつけるのだぞ」

 

「董白は、董相国の筋肉と、李司の遺伝子を完璧に継いでいるサラブレッドだ。その辺の薄いミルクでは絶対に満足しない。栄養価の高い、極上のミルクを正確な温度で調合しないと、絶対に泣き止まないぞ!」

 

「赤ちゃんのミルクに栄養価も何もあるのよ!ただの粉ミルクでしょうが!」

 

「甘い!李司の子供を舐めるな!少しでもタンパク質が足りないと、哺乳瓶を素手で握り潰して怒る猛獣なのだ!さあ、早く作れ!泣き声で屋敷が崩壊する!」

 

「あちちっ!温度がわからないわよ!これでいいの!?ほら、飲みなさい!」

 

哺乳瓶に食らいつき、ちゅうちゅうと勢いよく吸い始める。

しかし、数秒後。

 

「ペッ!!」

 

「おんぎやぁぁぁぁぁぁ!!まずいー!!おんぎやぁぁぁぁ!!」

 

「きゃああっ!?なんで吐き出すのよ!?」

 

「だから言っただろう!温度が低すぎるし、粉の溶け残りがダマになっている!李司の子は品質管理に極めて厳しいのだ!料理の腕をもっと鍛えないと、この猛獣たちの胃袋は絶対に掴めんぞ、貂蝉!」

 

「くっそぉぉぉ!なんで私が他人の子供のミルクの温度で怒られなきゃいけないのよ!!」

 

「料理だ!料理本を持ってきてぇぇ!!栄養学の基礎から叩き直してやるわ!李司の子ごとき、私の完璧な料理スキルで絶対に黙らせてみせるんだからぁぁぁ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

台所での過酷なベビーシッター業務と料理修行を終え、貂蝉の体力と精神力はすでに限界メーターを振り切っている。

 

しかし、相国府の地獄のカリキュラムは、彼女に休む暇など一秒たりとも与えてはくれない。

 

時刻は夕方。空が赤く染まり始める頃。

 

貂蝉は、フラフラの足取りで、広大な練兵場へと連行されている。

そこには、巨大な弓を手にした天下無双の武将、呂布が、仁王立ちで彼女を待ち構えている。

 

「遅いぞ、貂蝉殿。さあ、休んでいる暇はない。次は弓の稽古だ」

 

自分の身長ほどもある巨大な強弓を軽々と振り回しながら、貂蝉に向かって言う。

 

「…………はい」

 

(もう……料理のしすぎで腕がパンパンなんだけど……。包丁を握る握力すら残ってないのに、なんでここから弓の練習なのよ……。このブラック企業、労基法って概念が存在しないの……?)

 

「俺は、槍や戟の扱いだけでなく、弓の腕にも一家言あるつもりだ。君には、俺の直伝でこの弓の技術を徹底的に覚えてもらおう」

 

少し小さめの(それでも常人には引けないほど硬い)弓を押し付ける。

 

「戦場で李司のアシスタントとして背中を守るなら、遠距離からの的確な火力支援は必須スキルだからな。あいつが前衛で双頭戟を回している間に、君が後方から敵の急所を射抜く。完璧なフォーメーションだ」

 

「…………分かりました。で、的はどこですか?」

 

「良いですかな、的はあそこだ」

 

目を細めて呂布の指差す方向を一生懸命に見つめる。

夕暮れの薄暗い中、遥か彼方の砂埃の向こうに、何か小さな点がポツンとあるような、ないような……。

 

「………………」

 

「えっと、どこですか?私の視力が急に落ちたのかしら?何も見えないんですけど」

 

「ん?見えないか?あそこにあるだろう、赤い印のついた丸い的が」

 

「いや、ですから、どこですか?ミリ単位のゴミみたいな点しか見えないんですけど」

 

「二〇〇間は先にある」

 

「………………は?」

 

常軌を逸した長距離である。しかも、スコープも何もない古代の弓矢で狙う距離ではない。

 

「に、二百……?冗談でしょう?そんな距離、矢が届くかどうかも怪しいわよ!なんでそんな見えない星を撃ち落とすようなマネをしなきゃいけないのよ!」

 

「いや、君は弓に関しては初心者だと聞いたのでな。だから、あえて近めに設定してやったんだが」

 

「初心者だから……近めにした?」

 

「あれが……ですか?近め?私の肉眼でギリギリ、幻覚レベルで見えるか見えないかの点が!?」

 

「そうだ。俺の普段の練習の的は、あの三倍は遠いからな」

 

「ふざけないで!人間の限界を超えてるわよ!そんな曲芸みたいな射撃、あんたみたいな化け物にしかできるわけないじゃない!!」

 

「化け物とは失礼な。俺だけじゃないぞ。李司は、倍の距離でも百発百中で当てるのでな」

 

「…………え?」

 

「しかも、あいつは止まって撃つわけじゃない。全速力で走る赤兎馬に乗りながら、振り返りざまに倍の距離の的を射抜くんだ。俺もあれを見た時はさすがに肝を冷やしたぜ。あいつの動体視力と体幹のバランスはどうなってんだってな」

 

「…………ピキッ!!」

 

脳内で、完全に何かの太い血管がブチ切れる嫌な音が響いた。

 

(また……またあの女の名前……!)

 

震える手が、地面に落ちそうになっていた弓をギュッと強く握りしめる。

 

料理でも、体力でも、そして弓でも。どこに行っても必ず「李司の基準」という高すぎる絶望の壁が立ちはだかる。

 

彼女のプライドは、すでにズタズタのボロボロの灰になりかけている。

しかし、その灰の中から、決して消えることのない異常な嫉妬心と対抗心という名の炎が、再び猛烈な勢いで燃え上がり始める。

 

「李司が……倍の距離を、馬に乗りながら……?」

 

「……はい!やります!」

 

「当てます!射抜きます!絶対にやってやりますわ!!」

 

張った腕の筋肉の痛みなど完全に忘れ去り、重い弓をギリギリと力任せに引き絞る。

 

「あの遥か彼方の豆粒みたいな的を、あの憎き李司のすました顔だと思って、ど真ん中をブチ抜いてやりますわ!!私の恨みの矢よ、李司の眉間を貫きなさい!!」

 

その全身から放たれる凄まじい殺気と執念のオーラは、周囲の空気をピリピリと震わせているほどだ。

 

「おお……」

 

「目が完全に変わったな。さっきまでの疲労困憊の顔が嘘のようだ。アドレナリンがドバドバ出てるのがわかるぜ」

 

「素晴らしい向上心(殺気)だ。怒りとライバル心を弓の威力に変換するとは、なかなか見どころのある訓練生だぞ。これなら、明日は的の距離を三百メートルに伸ばしてもいけそうだな!」

 

彼女の放つ矢が李司の顔(的)を射抜く日が来るのか、それとも彼女の腕の筋肉が先に崩壊するのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

深夜。部屋の四方の壁という壁には、天井まで届くほどの木簡や竹簡、そして巻物が山のように積み上げられており、もはや紙と木の要塞と化している。

 

「良いか貂蝉」

 

「……………はい」

 

対する貂蝉は、完全にゲッソリとした顔で、目の前の机に突っ伏しそうになりながら力なく返事をする。

 

早朝からの李司による地獄の筋肉ブートキャンプ、本初の謎の料理&ベビーシッター教室、孟徳の精神崩壊ポエム朗読会、そして奉先の視力限界突破・遠距離射撃訓練。

 

一日でこれほどの理不尽なカリキュラムを詰め込まれ、かつての深窓の令嬢の体力と精神力は、すでにレッドゾーンを振り切ってマイナスに突入している。美しい黒髪はボサボサで、目元にはくっきりと疲労のクマが刻まれている。

 

「李司の補佐(アシスタント)をするならば、単に前線で武器を振り回して殴り合うだけでは絶対に務まらんのだ」

 

「筋肉を鍛えるのは当然の基礎だ。だが、筋肉を動かすためのカロリーをどこから調達する?兵士のプロテイン代は誰が稼ぐのだ?兵站管理、税収計算、領地のインフラ整備、そして他国との泥沼の政治的な駆け引き……。高度な算術と法学の知識ができねば、李司の右腕はおろか、足手まといの負債として一瞬で切り捨てられるぞ」

 

(なんでこの筋肉ダルマのおじさんに、ビジネスの基本理念みたいなことをドヤ顔で語られているのよ……)

 

「李儒!李儒はおるか!」

 

「はっ!ここにおります、董相国」

 

「貂蝉様。では、本日の深夜講義、まずは漢の法律全集から始めていきましょう。この国のルールの根幹を、一からすべて諳んじるところからのスタートです」

 

「え……?」

 

「法律を、諳んじる……?暗記するってことですか?」

 

「左様でございます」

 

李儒は無表情のまま、部屋の壁一面、いや、もはや天井の梁にまで達しようとしている、巨大な木簡の山を指差す。

 

「あれを、すべてです」

 

李儒の指差した先をゆっくりと目で追う。

そして、その圧倒的な質量と情報量を脳が認識した瞬間、彼女の顔からすべての表情が抜け落ちる。

 

「………これを、全部??」

 

声が掠れている。

 

「冗談でしょう!?壁が木簡の重みで歪んでるじゃないの!これ、何十万文字あると思ってるのよ!こんなの、一晩どころか一生かかっても暗記するなんて無理です!人間業じゃありませんわ!!」

 

しかし、李儒はそんな彼女の悲鳴に一切動じることなく、極めて冷静に事実を突きつける。

 

「はい。人間業ではないかもしれません。ですが、李司様はこれらをすべて、一文字の狂いもなく完全に諳んじておられます」

 

「!!!!」

 

「ただ法律の条文を暗記しているだけではございません。過去一〇〇年間にわたるありとあらゆる判例、特例措置、さらには各地方のローカルルールに至るまで、すべてが李司様の脳内データベースに完璧にインデックスされております。奥方様は、敵の首を刎ねる一瞬の間に、その敵の犯した罪状と適用される刑罰、さらには没収できる資産の額までを同時に算出されているのです」

 

(またか!またあの女の名前……!!)

 

料理でも、弓術でも、そして座学でも。

どこまで逃げても、絶対に目の前に立ちはだかる「李司」という名の巨大すぎる絶望の壁。

 

普通の人間ならここで心が折れて泣き出してしまうだろう。だが、幾度もの屈辱を味わい、すでに狂気の領域に足を踏み入れかけている貂蝉のプライドは、ここで引き下がることを絶対に許さない。

 

「くっ……!」

 

「やります!やらせてください!!」

 

「あの年増女にできて、この若くて記憶力も絶好調な私にできないはずがないでしょう!!徹夜でも何でもやってやりますわ!!あの女の脳みそを超えて、私が法律のスペシャリストになってやるんだからぁぁぁ!!」

 

貂蝉は目を血走らせ、山積みの木簡の束に猛烈な勢いで飛びかかっていく。

 

「第一条!殺人および窃盗の罪に関する罰則……!」と、物凄いスピードで木簡をめくり、ブツブツと呪文のように暗唱を始める。

 

完全にアドレナリンが振り切れ、脳内麻薬がドバドバと分泌されている状態だ。

その凄まじい執念のオーラに、董卓も「おお、素晴らしい気迫だ。脳の筋肉もパンプアップしておるな」と感心したように頷いている。

 

数時間が経過した頃。

 

「はい、結構です。素晴らしい集中力ですね」

 

「えっ?まだ途中ですけど!第三百五十二条の農地改革のくだりがまだ頭に入って……!」

 

「脳の疲労が蓄積すると、記憶の定着率が著しく低下します。ここらで少し、脳の使う部位を変えてリフレッシュしましょう。息抜きに、この問題を解いてみてください」

 

(なんだ、なぞなぞか何かかしら?それとも簡単な計算問題?ふふっ、この私を馬鹿にして……)

 

余裕の笑みを浮かべながら、李儒から渡された紙に視線を落とす。

しかし、その紙を見た瞬間。

 

貂蝉の思考は、完全にフリーズした。

 

紙の上に書かれていたのは、息抜きのクイズなどという生易しいものではない。

そこには、見たこともない奇妙な記号と数字が、おぞましい魔法陣のようにびっしりと羅列されていたのである。

 

それは、兵站輸送の最適解を求めるための、極めて複雑怪奇な高等数学(微積分と線形代数を組み合わせたレベル)の問題であった。

 

紙のど真ん中には、悪魔の暗号のような数式が鎮座している。

 

「………………」

 

「どうされました?貂蝉様」

 

「…………わからないわ!!」

 

「何これ!?呪文!?異国から来た呪術師が書いた悪魔を呼び出すための契約書か何か!?『えっくす』とか『てぃー』って何よ!この変なウニョウニョしたミミズみたいな記号は何!?どう読めばいいのよこれぇぇぇ!!」

 

後宮での権力闘争や、詩歌管弦の教養には自信があった彼女だが、さすがに現代の高等数学の概念など、この時代の女性(というかほとんどの人間)が理解できるはずもない。

 

「呪文ではありません。ただの兵站コストの最小化を導き出すための、基本的な数式(教養)です」

 

「教養!?これが教養!?どこの世界の教養よ!こんな計算ができなくても、生きていくのに何の不自由もないでしょうが!!」

 

「生きていくだけなら必要ないかもしれません。ですが、李司様の後継者となるには必須のスキルです」

 

「李司様は、この程度の複雑な積分や行列の計算など、紙も筆も使わずに、すべて脳内の暗算だけで解いておられます。しかも、安全な書斎の椅子に座って計算しているわけではございません」

 

「……え?」

 

「戦場のど真ん中で、愛用の双頭戟を大車輪のように振り回し、血飛沫を浴びながら敵将の首を撥ね飛ばしているそのまさに一瞬の隙間に、この数式を解き明かし、明日の兵糧の最適な輸送ルートを決定しているのです」

 

敵の首を物理的に切断しながら、脳内では微積分を解いている女。

もはや人間という枠組みを完全に超越した、未知のクリーチャーである。

 

「ああああああああ!!あの……あの完璧超人めぇぇぇ!!」

 

「頭の構造どうなってるのよぉぉぉ!!筋肉もあって、武力もあって、法律も丸暗記してて、こんな悪魔の呪文みたいな計算を暗算で解きながら人を斬るって、どういうことよ!!神様はあの女にステータスを全振りしすぎじゃないの!?」

 

悔し涙がポロポロとこぼれ落ち、インクの匂いのする机を濡らしていく。

 

「絶対に……絶対に追い越してやるんだから!!武力でも、知力でも、絶対にあの女を引きずり下ろしてやる!!今に見てなさぁぁぁい!!」

 

悲痛な、しかし決して諦めることのない執念の叫びが、深夜の相国府の書斎にいつまでも、いつまでもこだまし続ける。

 

 

 

 

 

 

こうして、王允が国家の命運を託して放ったはずの絶世の美しき刺客・貂蝉は、連環の計という本来の目的を完全にロストしたまま、ただひたすらに李司という絶対的なバケモノを超えるためだけに、心身ともに徹底的に魔改造されていくのであった。

 

休む暇など一秒たりともない、常人ならば三日で発狂して死んでしまうような地獄のカリキュラム。

 

しかし、彼女は決して逃げ出さなかった。

彼女の瞳に宿る李司への強烈な嫉妬と対抗心という名の炎は、彼女の限界を次々と突破させ、未知なる領域へと彼女を押し上げていった。

 

彼女が「絶世の美女」という肩書きを捨て去り、一人の完全なる「サイコな戦闘兵器」あるいは「三国無双の狂戦士」として、真の戦場に立つ日は近い……かもしれない。




皆さんは

・筋トレ地獄
・ポエム地獄
・ベビーシッター地獄
・弓訓練地獄
・法律地獄

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