三国志異伝~演算する剣鬼(守銭奴)~最強の秘書官・李司が通る道には死体と領収書しか残らない~   作:斉宮 柴野

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この物語は、正義を描くためのものではありません。

それは、正義がどのように作られるかを描く話です。

剣を振るう者。
命令を下す者。
金を動かす者。

そして、すべてを「計算」する者。

英雄たちは前に立ちます。
彼女は、その背後に立ちます。

これは、乱世を最適化した女の記録です。


第三話:悪ガキ三人の青春と、死体の山

光陰矢の如し、という言葉がある。時は金なり、という言葉もある。つまり、時間が経過するということは、それ即ち資産価値の変動を意味する。

 

あれから一年。私、李司一六歳は、依然としてこの洛陽の都で、二人の「不良債権」を抱えながら生きていた。

 

私の隣には、二人の男がいる。一年前、私が誘拐され(そして逆に捕獲し)、私の財布(スポンサー)となった二人だ。

 

右に座るのは、阿瞞こと曹操孟徳。背は相変わらず低い。だが、その目つきだけは一丁前に鋭くなっている。最近、彼は「治世の能臣、乱世の奸雄」などというキャッチコピーを自称し始めた。ブランディングとしては悪くないが、実態はただの女好きの悪ガキだ。現在は、ジョッキ片手にくだを巻いている。

 

左に座るのは、本初こと袁紹。背は伸びた。無駄に伸びた。そして、そのプライドも比例して肥大化している。「名門袁家」という言葉を一日平均五十回は口にする。壊れた蓄音機か、お前は。現在は、出された料理の盛り付けに文句を言いながら、箸を動かしている。

 

そして私。美貌はさらに磨きがかかり、傾国の美女としての完成度を高めている。だが、その本質は変わらない。私は彼らの「管理者」であり、「教育係」であり、そして何より「債権者」だ。彼らが呼吸をするたびに、私への借金(という名の投資回収)が増えていくシステムになっている。

 

世間では、私たち三人をこう呼ぶらしい。『洛陽の三バカ』。訂正を要求したい。バカは二人だ。私はバカではない。私は『監査役』だ。強いて言うなら『猛獣使いと、二匹の猿』が正しい表記である。

 

「ういー……!飲んでるか、司!今日は祝い酒だ!俺様がまた一つ、賢くなった記念日だ!」

 

阿瞞が赤い顔で絡んでくる。酒臭い。呼気に含まれるアルコール濃度を測定。致死量の一歩手前だ。よくこれで会話機能が維持できているものだ。

 

「何の記念日ですか。貴方が賢くなったという事象は、過去一年間観測されていませんが」

 

冷淡に返す。手元の茶をすする。この店は安酒場だが、茶葉の質は悪くない。原価率を計算する。一杯あたり銅銭三枚程度か。売値は十枚。利益率七割。ボロ儲けだな、この店。

 

「なんだとぉ!?俺は先日、橋玄先生に褒められたんだぞ!『君の才能は凄まじい、だが性格は破綻している』ってな!これぞ英雄の証だろ!」

 

「それは褒め言葉ではありません。性格破綻者(サイコパス)の認定を受けただけです。治療が必要ですね」

 

「うるせぇ!本初、お前からも言ってやれ!俺たちの偉大さを!」

 

阿瞞が本初の肩を叩く。本初は迷惑そうに眉をひそめ、自分の絹の服についた阿瞞の手脂を拭う。

 

「気安く触るな、阿瞞。この服は蜀の特産品、最高級の錦だぞ。お前の手脂でシミになったら、クリーニング代を請求するからな」

 

「ケチくせぇな!袁家の次期当主がそんなんでどうする!」

 

「ケチではない、倹約だ。それに、俺は今日、不機嫌なんだ。さっきの講義で、居眠りをしていたのを司に見つかって、罰金を徴収されたからな」

 

本初が私を睨む。恨めしそうな目だ。だが、金は返さない。徴収した金は、私の懐に入った瞬間、私の細胞の一部と同化する。返却不可能だ。

 

「授業料ですよ、本初。眠気覚ましに金貨一枚。高いコーヒー代でしたね」

 

「コーヒーなんて出てないだろうが!お前が俺の頬を札束で引っぱたいただけだ!」

 

「効果はてきめんでしたでしょう?現金の痛みを知ることは、商売の基本です」

 

箸を伸ばし、皿に残っていた最後の鶏肉を掴む。素早い動作。阿瞞と本初が反応する前に、私の口の中に消える。咀嚼。嚥下。タンパク質摂取完了。エネルギー充填率、九十八分(パーセント)。

 

「ああっ!俺の肉!まだ食べたかったのに!」

 

阿瞞が叫ぶ。遅い。食卓は戦場だ。油断した者が飢える。自然の摂理だ。

 

「追加注文すればいいでしょう。金があるなら」

 

意地悪く言う。そう、ここからが本題だ。この宴会、すでに二時間が経過している。机の上には空の酒瓶が十本。皿の山。この総額はいくらになるか。

 

「おやじ!酒だ!あと肉!一番高いやつ持ってこい!」

 

阿瞞が店主に叫ぶ。学習しない男だ。自分の財布の中身も把握せずに、欲望のままに注文する。これが破産への最短ルートだというのに。

 

店主がやってくる。人の良さそうな、小太りの中年男だ。だが、その目は笑っていない。手には長い紙切れを持っている。請求書だ。

 

「へいへい、曹操様。ご注文は承りますがね……その前に、ちょっとこちらを」

 

店主が請求書を突きつける。その長さ、床につきそうだ。

 

「今までのツケが、そろそろ天井知らずでしてねえ。ここらで一度、清算していただかないと。うちも商売なもんで」

 

阿瞞が請求書を見る。そして、見なかったふりをして目を逸らす。現実逃避だ。

 

「あー……なんだ、おやじ。今日はちょっと、持ち合わせがないんだ。ツケだ、ツケ!俺の顔を知ってるだろ?曹家の嫡男、曹孟徳だぞ!」

 

「ええ、存じておりますとも。だからこそ、困るんでさあ。曹嵩様からは『息子のツケは払わん、あいつの小遣いから引け』ときつく言われてましてね」

 

店主は容赦ない。曹嵩様、さすがだ。私の教育が浸透している。「子育てにおける経済制裁の有効性」という私の講義を真面目に受講した成果が出ている。

 

「なっ……親父め、兵糧攻めか!?」

 

阿瞞が狼狽する。彼は懐を探るが、出てくるのは糸くずと、どこかの女の住所が書かれた紙切れだけだ。金目のものは何もない。

 

「おい本初、お前持ってないか?貸してくれ。出世払いで倍にして返す」

 

「断る。お前の『出世払い』は『来世払い』と同義語だ。信用格付けは最低ランクだぞ」

 

本初が冷たく切り捨てる。正論だ。阿瞞への貸付は、ドブに金を捨てるより質が悪い。ドブなら掃除すれば小銭が見つかるかもしれないが、阿瞞からは何も返ってこない。

 

「ちぇっ……薄情な奴だな。じゃあ、袁家の名前でツケにしとけよ」

 

「はあ?なんで俺の実家を使うんだ!」

 

「いいだろ、友達だろ!『交際費』として処理させろよ。お前の親父さん、政治資金パーティーとか大好きだから、紛れ込ませればバレないって!」

 

「バカ言え!叔父上の監査は厳しいんだ!特に最近は、謎の『外部監査役』が目を光らせていて……」

 

本初がチラリと私を見る。そう、その外部監査役とは私だ。袁家の経理は私が握っている。無駄な出費は一銭たりとも許さない。たとえ本初が使った金でも、使途不明金は徹底的に追及し、彼の小遣いを減額するシステムを構築済みだ。

 

「情けないぞ阿瞞……。仕方ない、今回だけだぞ。実家の袁家に回しておけ。『未来の三公との人脈形成費』という名目で申請してみる」

 

本初がため息をつきながら言う。甘い。甘すぎる。これだからボンボンは。だが、ここで私が黙っているわけにはいかない。なぜなら、袁家から金が出るということは、回り回って私の管理する資産が減ることを意味するからだ。袁家の金は、将来的に私のものになる予定の金だ。それをこんな安酒場で浪費させるわけにはいかない。

 

スッと手を挙げる。美しく、洗練された挙手。店主が私を見る。

 

「はい、お嬢さん。お支払いで?」

 

「店主、訂正を」

 

凛とした声で告げる。

 

「この請求は、曹家と袁家、双方に折半で回してください」

 

「は?折半?」

 

店主が首を傾げる。阿瞞と本初も「何言ってんだこいつ」という顔をする。

 

「はい。理由は単純です。私は彼ら二人の『妻』ですので。家計は統合される予定です」

 

「「ぶーっ!!」」

 

阿瞞と本初が同時に酒を噴き出す。汚い。霧状になった酒が宙を舞う。素早く袖でガードする。防御成功。

 

「ち、違う!誰が妻だ!しかも二人同時!?」

 

阿瞞が咳き込みながら叫ぶ。顔が真っ赤だ。照れているのではない。恐怖しているのだ。

 

「一妻多夫なんて聞いたことがないわ!孔子が墓から飛び出して殴りに来るぞ!礼節はどうなってるんだ、礼節は!」

 

「儒教の規定は非効率です」

 

涼しい顔で反論する。

 

「考えてもみてください。優秀な資産管理能力を持つ私という一人の女性が、二人の資産家を管理する。これにより、管理コストは半減し、資産運用益は倍増します。これを『規模の経済』と言います」

 

「経済の話じゃねぇ!倫理の話だ!」

 

「倫理?それは金になりますか?」

 

小首をかしげる。

 

「私の計算では、貴方たち二人を別々の女性が管理した場合、それぞれが浪費を繰り返し、結果として両家共に破産する確率が八十五分(パーセント)です。ですが、私が一括管理すれば、破産確率はゼロ。黒字化は確実です」

 

「夜の生活はどうするんだよ!そこが一番問題だろ!」

 

阿瞞が下世話なツッコミを入れる。想定問答集にある質問だ。

 

「夜の相手もローテーションで効率的です。月水金は孟徳様、火木土は本初。日曜日は定休日(メンテナンス日)。……何か問題が?」

 

「問題しかない!!」

 

本初が絶叫する。顔を茹で蛸のように赤くして、テーブルをバンと叩く。

 

「俺の名誉に関わる!名門袁家の嫡子が、日替わり定食みたいに扱われてたまるか!しかも阿瞞と穴兄弟なんて、死んでも御免だ!」

 

「穴兄弟とは下品ですね。資産共有パートナー(ステークホルダー)と呼んでください」

 

「黙れ!ああもう、払う!俺が今ここで現金で払うから、その口を閉じろ李司!」

 

本初が懐から財布を取り出す。重そうな巾着袋だ。中には金貨が詰まっている音がする。最初から出せばいいのに。

 

「店主!これで足りるか!釣りはいらん!さっさと会計を済ませろ!」

 

本初が金貨を数枚、テーブルに叩きつける。請求額を上回る金額だ。店主の目が輝く。

 

「へい!まいどありー!いやあ、太っ腹ですなあ袁紹様!」

 

店主はホクホク顔で金貨を回収する。商談成立。私は心の中でガッツポーズをする。今日の私の飲食代、タダ。さらに、本初が「釣りはいらん」と言った分は、後で店主からキックバック(割戻金)を受け取る契約になっている。つまり、私は食べて飲んで、さらに儲かったことになる。完全勝利だ。

 

「さあ、行きましょうか。お腹も膨れましたし、運動の時間です」

 

私は立ち上がる。二人は疲労困憊の様子だ。精神的なダメージが大きいようだ。

 

「……お前、いつか天罰が下るぞ」

 

阿瞞が恨めしそうに言う。

 

「天罰?神様も賽銭次第ですよ」

 

 

 

 

 

 

店を出てしばらく歩く。酔い覚ましに散歩でもしようということになった。表通りは明るいが、一歩裏路地に入ればそこは闇の世界だ。ゴミの臭い。腐った水の臭い。そして、悪意の臭い。洛陽の光と影。だが、私にとってはどちらも変わらない。光のあるところには金があり、影のあるところには犯罪という名の金儲けのチャンスがある。

 

「おい、こっちの道で合ってるのか?暗いぞ」

 

本初が不安そうにする。彼は暗いところが苦手だ。お化けを怖がる子供のようだ。可愛いところがある。金にはならないが。

 

「近道です。ホテル……いえ、宿舎への最短ルートを計算しました」

 

先頭を歩く。阿瞞と本初が後ろをついてくる。足音が三つ。カツ、カツ、カツ。不規則なリズム。

 

その時だった。前方の闇から、数人の影が現れる。行く手を阻むように広がる。五人、いや六人か。服装は薄汚い。手には粗末な武器。典型的なチンピラだ。

 

「おいコラ!さっき俺の足踏んだよな?」

 

先頭の男が因縁をつけてくる。定番のセリフだ。創造性のかけらもない。脚本家を雇ったほうがいい。そもそも、誰も踏んでいない。距離が三メートルは離れていた。当たり屋としても三流だ。

 

「金持ちのボンボンが調子に乗ってんじゃねえぞ!身ぐるみ置いてけ!」

 

男たちがジリジリと距離を詰めてくる。ナイフが月明かりに光る。錆びている。あれで切られたら破傷風になりそうだ。治療費がかさむ。リスク管理の観点から、接触は避けるべきだ。

 

だが、私の後ろの二人は違う反応を示す。

 

「へぇ……」

 

阿瞞がニヤリと笑う。酔いが回っているせいか、気が大きくなっている。彼は腰の剣に手をかける。この剣は、一年前私に奪われたものだが、後に高値で彼に売り戻したものだ。

 

「俺たちに喧嘩を売るとは。命知らずめ。曹孟徳の剣の錆になりたいらしいな」

 

「ほう、面白い」

 

本初も袖をまくる。彼もまた、日頃のストレス(主に私への)を発散する場所を探していたようだ。

 

「袁家の人間に盾突いたこと、後悔させてやる!最近、ムシャクシャしていたんだ!ぶっ殺す!!」

 

二人が前に出る。やる気満々だ。青春だねえ。悪ガキ三人組の武勇伝。これから始まるのは、泥臭い殴り合いか、それとも華麗な剣戟か。普通ならそうなる。普通なら。

 

だが、私は「普通」ではない。そして、私は「非効率」を何よりも嫌う。

 

このチンピラたちと戦って、何が得られる?彼らの装備品はゴミ同然。身代金も期待できない。つまり、勝利しても利益はゼロ。そのくせ、服が汚れたり、怪我をしたりするリスク(コスト)はある。投資対効果はマイナスだ。ならば、どうするか。最短時間で処理(クリア)する。それが正解だ。

 

彼らが剣を抜く動作、約二秒。構える動作、約一秒。威嚇の言葉、約五秒。合計八秒の無駄。私の脳内クロックは、その時間を永遠のように感じる。

 

「――承認」

 

二人が構える前に、一歩前へ出る。その動きは、幽霊のように滑らかで、音がない。

 

「『ぶっ殺す』ですね。業務(タスク)、実行します」

 

チンピラのリーダー格の男が、私の姿を認める。彼は油断する。「なんだこの女?」という思考が顔に出る。その思考が完了する前に、私は動く。

 

私の手には、いつの間にか一本の短剣が握られている。これは護身用ではない。解体用だ。市場で魚をさばくための業物。切れ味は抜群。そして、私の腕は正確無比。

 

距離、二メートルを一足で詰める。縮地。男の目の前に、私の顔がアップになる。男が驚愕に目を見開く。その瞳に、私の無機質な笑顔が映る。

 

「さようなら、不良在庫さん」

 

ザシュッ!!

 

一瞬の閃光。空気が裂ける音。そして、何かが重力に逆らって舞い上がる。

 

それは、男の首だった。物理法則を無視したような角度で、スピンしながら宙を飛ぶ。断面は鮮やか。血管、気管、食道。人体の構造図そのままだ。

 

プシャアアアアッ!!

 

鮮血のシャワーが噴き出す。美しい。実に美しい放物線だ。返り血を避けない。むしろ、浴びに行く。温かい液体が頬を濡らす。鉄の臭い。生命の臭い。これが「損失(ロス)」の味か。

 

「ひっ……!?あ、兄貴ぃぃ!?」

 

残りのチンピラたちが悲鳴を上げる。彼らの目の前で、リーダーの首がゴロリと地面に転がる。胴体はまだ立ったままだ。数秒後、遅れて倒れる。ドサッ。

 

静寂。圧倒的な静寂。路地裏の空気が凍りつく。

 

曹操が凍りつく。剣を半分抜いた状態で固まっている。

 

「り、李司……?お前、容赦なさすぎだろ……。まだ喧嘩も始まってなかったぞ……」

 

袁紹が青ざめる。袖をまくった腕が震えている。

 

「な、何も言わずに首を斬る奴があるか!せめて『覚悟!』とか言え!名乗りを上げろ!情緒がない!礼儀がない!」

 

彼らの声が遠くに聞こえる。私の意識は今、別の次元にある。脳内物質(エンドルフィン)が大量分泌されている。計算モードから、殲滅モードへの切り替え(スイッチング)快感。数字が揃った時の快感とはまた違う、生々しい悦び。

 

ゆっくりと振り返る。顔は血で濡れている。目は恍惚と見開かれている。瞳孔散大。心拍数上昇。体温上昇。

 

「ふふ……」

 

笑みが漏れる。作り笑顔ではない。心からの笑顔だ。

 

「やっぱり、人の肉を断つ感触は最高ですね……。豆腐とも違う、木材とも違う……独特の抵抗感(レジスタンス)……」

 

短剣の刃を見る。脂と血がこびりついている。私はそれを舌で舐める。

 

ペロリ。

 

鉄の味。そして、ほんのりとした塩味。

 

「指先に伝わる振動……脊髄が切断される『ブチッ』という音……。ああ、生きてるって感じがします。これぞ究極の消費活動(コンサルティング)……」

 

うっとりと目を細める。頬を染め、吐息を漏らす。まるで愛しい人を抱きしめた後のような表情で。

 

「次はどなたですか?まだ四体、在庫(ターゲット)が残っていますよ。効率的に処理しましょう。一筆書きでいけますかね?」

 

残りのチンピラたちを見る。彼らはもはや人間ではない。肉塊だ。切断可能なオブジェクトだ。

 

「ひ、ひぃぃぃぃッ!!」

 

「ば、化け物だぁぁぁ!!」

 

チンピラたちが武器を捨てて逃げ出す。転がりながら、這いずりながら、闇の向こうへ消えていく。賢明な判断だ。逃げるが勝ち。損切りは早いほうがいい。

 

深追いはコストがかかる。それに、もう十分「満たされた」。

 

阿瞞と本初に向き直る。

 

「終わりましたよ。さあ、帰りましょう」

 

普段の調子で言う。だが、顔は血まみれだ。手には血の滴る短剣。その姿は、地獄から這い出てきた悪鬼羅刹そのもの。

 

「ぞおおおおおおおおっ!!」

 

阿瞞と本初が抱き合って震える。ガタガタと歯の根が合わない音がする。

 

(こいつ、マジもんの人斬りだ……!)

 

(計算高い守銭奴だと思っていたが、中身はもっとヤバいサイコキラーだった……!)

 

二人の心の声が聞こえるようだ。失敬な。私はただ、効率を追求した結果、暴力という手段を選択しただけだ。そして、その過程で少しばかりの快感を得ただけのこと。趣味の範囲内だ。

 

「あ、クリーニング代。経費で落ちますよね?」

 

私が血を拭いながら尋ねると、二人は無言で首を縦に振った。高速で。首が千切れんばかりに。

 

「よろしい。では、明日の朝食は豪華にいきましょう。レバー炒めなんてどうですか?」

 

「うっぷ……」

 

「やめろ……想像させるな……」

 

二人が口を押さえる。軟弱者め。

 

こうして、洛陽の夜は更けていく。私の「剣鬼」としての噂が、また一つ増えた夜だった。『洛陽の三バカ』いいえ。『二人のバカと、一人の死神』それが正しい呼び名になる日も近いだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

季節は巡り、春。洛陽の都にも、出世の季節が到来している。人事異動、昇進、左遷。人の配置が変わるということは、それに伴い莫大な金が動くということだ。お祝い金、餞別、裏工作費、そして賄賂。

 

現在地、曹操孟徳の私室。普段は散らかっているこの部屋も、今日は小綺麗に片付けられている。主である阿瞞……いや、今は曹操と呼ぶべきか。彼は真新しい官服に袖を通し、鏡の前でポーズを取っている。

 

「どうだ司。似合うか?」

 

彼が振り返る。黒を基調とした、パリッとした官服。頭には冠。いつもの軽薄なヤンキー臭さが消え、少しばかり知的な雰囲気を醸し出している。馬子にも衣装、とはこのことだ。豚に真珠、猫に小判、阿瞞に官服。ことわざ辞典に新しい項目を追加しておこう。

 

「布地は上質。縫製も丁寧。市場価格で金二十枚相当の衣装ですね。貴方の中身(コンテンツ)の薄さを、外装(パッケージ)が見事に補っています」

 

率直な感想を述べる。手には請求書の束を持っている。これらは、彼がこの「孝廉」というエリートコースに乗るために費やした経費の明細だ。

 

「素直に褒めろよ。今日から俺は、天下の『孝廉』様だぞ。親孝行で清廉潔白。国が認めた模範的人間だ」

 

「清廉潔白?辞書を引いてきなさい。貴方の顔写真の横に『対義語』として掲載されていますよ」

 

孝廉。漢の時代における、官僚への登竜門。建前上は「親孝行で、行いが正しい若者」が選ばれることになっている。だが実態は、コネとカネの品評会だ。孟徳の父、曹嵩様がばら撒いた賄賂の額を私は知っている。

 

その裏工作を担当したのは私だからだ。審査員の好みの酒、女、骨董品。それらを的確に送りつけ、彼らの目を節穴にしたのは私の手腕である。

 

「おめでとうございます、孟徳。ようやくスタートラインですね。ここまでの投資額、金貨二千枚。回収プランを開始します」

 

事務的に告げる。祝福の言葉にも、必ず数字を混ぜるのが私の流儀だ。

 

孟徳が眉をひそめる。彼は鏡の中の自分に向けられていた陶酔の視線を、私に向ける。

 

「……おい。なぜ『様』がない?呼び捨てに降格したんだが。俺は今日から官僚だぞ?『曹孟徳様』、いや『孟徳様』と呼んで崇めるべきだろう」

 

彼は不満そうだ。出世した男というのは、すぐに態度が大きくなる。精神的なインフレを起こしているのだ。だが、私は通貨当局(中央銀行)のようなものだ。彼の価値を厳格に査定し、引き締める義務がある。

 

「事務的に回答します。最近の貴方の素行評価(スコア)に基づきます」

 

手元の帳簿を開く。そこには、彼の日々の行動記録が赤字で記されている。

 

「先月の記録を参照。『これが最後の自由だー!』と叫んで、毎晩のように遊郭へ繰り出す乱行ぶり。一晩での最高消費額、金五十枚。泥酔して路上の犬に説教すること三回。さらに、馴染みの遊女に『俺が出世したら妾にしてやる』という空手形を乱発」

 

帳簿をパタンと閉じる。その音は、裁判官の木槌のように響く。

 

「貴方の将来の『丞相』としてのブランド価値を、貴方自身が著しく毀損しています。よって、敬称は没収。現在の貴方のランクは『管理対象:要注意人物(Dランク)』です。呼び捨てで十分でしょう」

 

「ぐっ……」

 

孟徳が言葉に詰まる。図星だからだ。

 

「そ、それは若気の至りで……。独身最後の思い出というか……」

 

「至りすぎです。貴方の若気は暴走機関車ですか?ブレーキという部品が欠落しています」

 

彼に詰め寄る。一歩、また一歩。彼は後ずさる。

 

「貴方のスキャンダルになりそうな『遊び相手』の女たち……。全員、私が処理して揉み消すのに、どれだけ労力がかかったと思っているのですか?」

 

私の声の温度が下がる。絶対零度。部屋の空気が凍りつく。

 

孟徳の顔から、血の気が引いていく。彼は冷や汗を流しながら、恐る恐る尋ねる。

 

「………………処理?」

 

他的脳内で、不穏な想像が展開されているのが分かる。

 

「そういえば、最近あの子も、この子も……急に連絡が取れなくなって……。店に行っても『田舎に帰った』とか『急病で』とか言われて……」

 

彼の目が泳ぐ。そして、私の顔を見る。私の無表情の中に、答えを探そうとしている。

 

「ま、まさかお前……」

 

震える声。彼は想像したのだろう。私が彼女たちを、闇に葬った光景を。

 

ニコリともしない。否定も肯定もしない。ただ、事実としての結果だけを提示する。

 

「何か文句でも?」

 

小首をかしげる。その瞳の奥には、底知れぬ闇(ビジネスライクな合理性)がある。

 

「すべては貴方の『清廉な』キャリアのためですよ。女遊びのツケは、高くつくものです。手切れ金を渡して納得させるか、あるいは……物理的に口を封じるか。どちらがコストパフォーマンスが良いか、計算するまでもありませんね」

 

「ひっ……!」

 

孟徳が息を飲む。

 

「まあ、女の悲鳴も、首を斬る感触も、なかなか楽しかったです。人の情念というものが、物理的な切断によって断ち切られる瞬間……あれには独特の美学があります。今度は一緒にやりますか?共同作業(コラボレーション)として」

 

半分は脅し、半分は本気だ。私の趣味嗜好を彼に理解させる良い機会だ。

 

孟徳が直立不動になる。彼は背筋を伸ばし、軍人のような敬礼をする。顔面は蒼白だが、その姿勢は立派だ。恐怖という統制システムが正常に機能している。

 

「……ありません!!感謝しております!!二度としません!!」

 

「よろしい。学習能力があるのは良いことです」

 

満足げに頷く。これで当分、彼の下半身事情による無駄な出費は抑えられるだろう。

 

「さあ、行きましょう。新しい職場が待っていますよ。洛陽北部尉。警察署長です。貴方の暴力衝動を、正義という名目で換金できる素晴らしい職場です」

 

彼の手を引き、部屋を出る。新たな「集金」の現場へ向かうために。

 

 

北部尉 詰め所前

 

夜気は冷たく、星が綺麗だ。だが、地上の空気は淀んでいる。権力者たちの屋敷が立ち並ぶこの地区は、昼間は静かだが、夜になると彼らの放蕩の舞台となる。法を無視し、欲望を貪る特権階級たち。彼らを取り締まるのが、孟徳の新しい任務だ。

 

孟徳は門の前に立っている。手には「五色の棒」。長さ六尺、太さは子供の腕ほどもある、極彩色の警棒だ。この棒には特別な意味がある。「違反者は身分を問わず叩き殺してもよい」という、皇帝直々の許可証のようなものだ。つまり、合法的な殺人許可証(ライセンス)である。

 

孟徳はイライラしている。彼は棒をブンブンと振り回している。素振りだ。空を切る音が凄い。

 

「くそっ!李司のやつ、俺を管理しやがって!『女遊び禁止』『無駄遣い禁止』『息をするたびに課金』……!ここは監獄か!俺は囚人か!」

 

彼は誰もいない夜道に向かって吠える。

 

「ストレスが溜まる!誰か違反者はいないか!合法的に人を殴らせろ!これは八つ当たりだ!!」

 

彼は五色の棒で地面を叩く。バゴォン!石畳が割れる。公物破損だ。私の帳簿に「修理費」として計上しておこう。

 

少し離れた場所から、その様子を観察している。手には温かい肉まん。夜食だ。経費で落とした。彼のストレス値はピークに達している。これは良い兆候だ。エネルギーが充填されている。あとは、それをぶつける「的」が現れればいい。

 

その時だった。通りの向こうから、明かりが見える。松明の行列。そして、巨大な輿(こし)がやってくる。金ぴかの装飾。担いでいるのは屈強な男たち。周りを護衛が固めている。明らかに、堅気ではない。そして、明らかに「夜間通行禁止」の時間帯だ。

 

「来たな、カモが」

 

肉まんを飲み込み、口元の脂を拭う。演算開始。ターゲットの接近を確認。

 

輿は孟徳の守る門の前で止まることなく、そのまま押し通ろうとする。速度を緩める気配すらない。「我こそはルールだ」と言わんばかりの傲慢さ。

 

孟徳が反応する。彼は棒を構え、立ちはだかる。

 

「止まれ!夜間通行禁止だ!引き返せ!」

 

孟徳の声が響く。だが、輿は止まらない。中から、しゃがれた、不愉快な声が聞こえてくる。

 

「ええい、通せ通せ!儂を誰だと思っている!皇帝陛下の寵臣、蹇碩の叔父であるぞ!夜間通行禁止?知ったことか!儂が通ればそこが道になるのじゃ!」

 

蹇碩の叔父。出た。大物だ。宦官の中でもトップクラスの権力を持つ蹇碩。その親戚というだけで、虎の威を借る狐の代表格。推定資産、金五万枚。不正蓄財のデパートのような男だ。

 

孟徳が怯むかと思ったが、彼は逆に目をぎらつかせている。ストレスのはけ口を見つけた獣の目だ。だが、相手は悪すぎる。下手に手を出せば、曹家ごと潰されかねない。普通の計算なら、ここで道を開けるのが「正解」だ。損得勘定で言えば、見逃して恩を売るほうが賢い。

 

だが。私の計算式は違う。私の計算式には、「将来性(ポテンシャル)」という変数が組み込まれている。ここで引くような男なら、私の投資対象としての価値はない。ここで引くなら、彼はただの「小賢しい役人」で終わる。私が求めているのは、乱世を食い荒らす「怪物」だ。

 

孟徳の前に、スッと出る。夜風に裳が揺れる。月明かりに照らされた私の姿は、幽霊のように、あるいは女神のように見えたかもしれない。

 

「規則(ルール)は絶対です」

 

私の声は、鈴を転がしたように澄んでいるが、内容は鉄のように硬い。

 

「皇帝陛下でも、この門を通るには手続きが必要です。……引き返しなさい。さもなくば、数値的に排除します」

 

輿を見上げる。中にいる肉塊に向けて宣告する。数値的に排除。つまり、存在確率をゼロにするということだ。

 

輿の簾が上がる。中から、ブクブクと太った男が顔を出す。脂ぎった顔。高価な服を着ているが、中身が腐った饅頭のようだ。彼は私を見る。その濁った目が、いやらしく細められる。

 

「ん?……おお、なんと美しい娘だ。こんな夜更けに、こんな場所に花が咲いているとは」

 

彼は舌なめずりをする。不快指数が急上昇。私の脳内アラートが鳴り響く。

 

「どうだ、儂の屋敷に来て、今夜一晩付き合え。そうすれば、この無礼も許してやろう。金ならいくらでもやるぞ。グフフ」

 

叔父が輿から手を伸ばす。その指には、悪趣味な宝石の指輪がいくつも嵌められている。彼は私の手に触れようとする。その手つきは、市場で商品を品定めするそれだ。私を「買える女」だと判断したのだ。

 

その瞬間。私の脳内で、強烈な演算が走る。

 

……セクシャル・ハラスメントを確認。

 

対象A:蹇碩の叔父。 属性:権力者の親戚、汚職の温床、生理的嫌悪感の塊。 行動:我が社の重要資産(私)への不当な接触、および尊厳の侵害。 結論:対象の生存価値、マイナスに転落。 推奨アクション:即時処分。

 

私の目が、無機質な殺意の色に変わる。こいつは客ではない。ゴミだ。産業廃棄物だ。処理費用を請求するのも馬鹿らしい。

 

だが、私が動く必要はなかった。私の背後で、もっと激しい殺意が爆発したからだ。

 

「おいジジイ!!」

 

孟徳の怒号が轟く。雷のような大音声。

 

「俺の(未来の資産的)嫁に触るなァァッ!!」

 

彼は叫ぶ。嫁ではない。資産的パートナーだ。だが、訂正している暇はない。

 

孟徳が跳ぶ。五色の棒を振り上げる。そのフォームは完璧だ。腰が入っている。日頃の素振りの成果だ。いや、日頃のストレスが、すべて運動エネルギーに変換されている。

 

「死ねやぁぁぁッ!!」

 

ドゴォォォン!!

 

鈍く、そして重い音が夜の洛陽に響き渡る。それは、スイカが割れる音に似ていた。ただし、中に詰まっているのは果汁ではなく、権力と脂肪と、少しばかりの脳漿だ。

 

孟徳の五色の棒が、叔父の頭蓋骨をフルスイングで粉砕する。クリティカルヒット。打撃点、脳天。ダメージ、計測不能。

 

叔父の首が、亀のように胴体にめり込む。目は飛び出し、口からは言葉の代わりに魂が抜け出ていく。即死。これ以上ないほど見事な即死だ。

 

輿が大きく揺れる。担ぎ手たちが悲鳴を上げて逃げ出す。護衛たちも、あまりの出来事に腰を抜かしている。彼らの主人が、ただの一撃で「物体」に変わったのだ。

 

孟徳は肩で息をしている。「はぁ、はぁ……」棒を握る手が震えている。彼は自分の足元に転がる死体を見る。そして、我に返る。

 

「……あ」

 

彼の顔から、怒りの色が消え、焦りの色が浮かぶ。

 

「やべ。……殺しちまった。これ、宦官の親戚だぞ……。蹇碩の叔父だぞ……。これ、死刑確定じゃね?」

 

彼は私を見る。助けを求める目だ。「どうしよう、やっちまった」という子供のような目。

 

死体を見下ろす。汚い死体だ。だが、その死に様は美しい。権力の頂点にいた豚が、ただの若造の一撃で屠られた。これぞ下克上。これぞ乱世の幕開け。

 

「死にましたね」

 

冷静に事実を確認する。

 

「即死です。苦しまずに逝けたでしょう。慈悲深い一撃でした」

 

孟徳に歩み寄る。ハンカチを取り出し、彼の顔に飛んだ返り血を拭いてやる。優しく。まるで、愛馬の手入れをするように。

 

「素晴らしい打撃フォームでした、孟徳。腰の回転、インパクトの瞬間の手首の返し。百点満点です」

 

「……褒めてる場合か!これ、どうすんだよ!俺のキャリア、これで終わりだろ!?」

 

「終わり?いいえ、始まりですよ」

 

微笑む。営業用の笑顔ではない。心からの、投資家としての歓喜の笑顔だ。

 

「どうですか、孟徳。自分の手で、法を無視する権力者を叩き潰した感触は。……気持ちよかったですか?」

 

「え?」

 

孟徳が自分の手を見る。まだ痺れが残っている手。人を殺した手。だが、彼は震えを止める。そして、ゆっくりと握りしめる。

 

「……ああ」

 

彼が低く呟く。

 

「スカッとした。……腹の底から、何かが抜けた気がする」

 

「恐怖は?」

 

「ない。……いや、あるが、それ以上に……清々しい」

 

孟徳の目に、新しい光が宿る。それは「良識ある官僚」の目ではない。「己の正義を貫く覇王」の目だ。

 

「法を犯す奴は、誰であろうと叩き殺す。……これが俺の正義か。いや、俺という人間の本質か」

 

彼は五色の棒を担ぎ直す。その姿は、血に濡れた悪鬼のようであり、同時に神々しくも見えた。

 

「いい顔になりましたね」

 

拍手をする。パチパチパチ。

 

「それでこそ、私の投資対象です。貴方のその『狂気』こそが、最も価値のある資産(アセット)です」

 

「……お前、イカれてるな」

 

孟徳が呆れたように笑う。

 

「貴方に言われたくありません。さて、事後処理(もみ消し)の計算をしましょうか」

 

懐から算盤を取り出す。

 

「相手は蹇碩の叔父。向こうは激怒して貴方を処刑しようとするでしょう。ですが、こちらは『法に則った公務執行』と主張できます。世論は貴方の味方です。『権力に屈しない正義の北部尉』。素晴らしい宣伝文句(キャッチコピー)じゃないですか」

 

「なるほど。ピンチをチャンスに変えるってわけか」

 

「その通り。それに、この死体……指輪や服を売れば、葬式代くらいは出そうですね」

 

死体の指から指輪を抜き取る。手早い。光の速さだ。

 

「お前……死体泥棒までやるのか」

 

「資源の有効活用(リサイクル)です。さあ、手伝ってください。夜が明けるまでに、この騒動を『伝説』に書き換えますよ」

 

指輪を懐に入れ、孟徳にウィンクする。孟徳は「やれやれ」と肩をすくめるが、その顔にはもう迷いはない。

 

こうして、曹孟徳の名は、一夜にして洛陽中に轟くことになった。「権力者を棒で叩き殺した狂犬」その悪名は、乱世においては最高の勲章となる。

 

夜空を見上げる。星が輝いている。まるで金貨のように。私の計算通り、世界は動き出した。孟徳という株価は、これからストップ高を記録し続けるだろう。私の財布がパンパンになる日も近い。

 

「さあ、孟徳。次は誰を殺りますか?リストアップしておきますよ」

 

「……お手柔らかに頼むよ、猛獣使い殿」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現在時刻、未の刻

場所、洛陽近郊の廃村にある一軒のあばら屋

 

日当たりは悪い。通気性は良すぎる。壁には穴が開き、屋根は崩れかけ、床板は腐っている。不動産価値、ゼロ。いや、解体費用を考慮すればマイナス資産だ。そんな無価値な場所に、私の「管理対象」である袁本初が潜伏しているという情報が出ている。

 

雑草の生い茂る庭(ただの荒地)を踏み越え、入り口へと向かう。足元の土が靴を汚す。靴の減価償却費を計算する。この泥汚れによる劣化分は、後で袁本初に請求する。当然だ。

 

「……ここですね」

 

私の脳内地図(マップ)と、目の前の風景が一致する。座標、確認。対象の予想移動ルート、及び逃走パターンの解析結果、すべてがこの地点を指し示している。

 

本初は私の目を欺き、濮陽への赴任を遅らせ、ここでサボタージュを決め込んでいる。勤労の義務を放棄し、生産性のない時間を浪費する行為。これは資本主義に対する冒涜であり、私の利益を損なう背任行為だ。

 

入り口の戸(板切れ)に手をかける。鍵などかかっていない。そもそも鍵をかける価値のあるものが中にはない。私は音もなく戸を開ける。蝶番が錆びついていて、キィィィという不快な音を立てる。油をさせ。摩擦係数が高すぎる。

 

薄暗い室内。埃の臭い。カビの臭い。そして、微かに漂う高級な香の匂い。隠しきれていない。このあばら屋に似つかわしくない、名門貴族特有の芳香が充満している。詰めが甘い。痕跡(ログ)の消去が不十分だ。

 

部屋の奥、腐りかけた畳の上に、一人の男が寝転がっている。袁紹だ。彼は上等な絹の着物を着崩し、煎餅布団(煎餅より薄い)の上で大の字になっている。手には書物を持っているが、逆さまだ。読んでいない。ただのポーズだ。口元にはだらしない笑みが浮かんでいる。「ああ、自由だ……」という心の声が漏れ出ているようだ。

 

無言で彼に近づく。足音は立てない。私の歩行術は、忍者よりも静かで、集金人よりも執拗だ。彼の枕元に立つ。影が落ちる。彼が気づく。

 

「ん?なんだ、もう夕暮れか……?」

 

本初がのんきな声を出し、目を開ける。そして、私と目が合う。距離、三十センチメートル。私の瞳孔には、彼の恐怖に歪む顔が鮮明に映る。

 

「ぎゃあああああああっ!?」

 

本初が悲鳴を上げる。カエルの解剖実験の時のような声だ。彼は布団の上で飛び跳ね、壁際まで後ずさる。埃が舞う。私の気管支に悪影響だ。治療費を加算する。

 

「な、な、な、なぜここに!?り、李司!?」

 

彼は指を震わせて私を指差す。幽霊でも見たかのような反応だ。失礼な。私は生きた人間であり、彼の債権者だ。

 

「本初。なぜこんな所に?」

 

冷徹に問う。感情は排する。事実確認が最優先だ。

 

「貴方の行動予測(GPS)などお見通しですよ。貴方の思考パターンは単純です。『辛いことから逃げたい』『楽をしたい』『李司から隠れたい』。その三つの変数を入力すれば、隠れ場所の特定など赤子の手を捻るより容易いです」

 

「ひっ……!」

 

本初が顔を引きつらせる。図星だ。彼の単純な脳内回路(アルゴリズム)は、私の演算能力の前では丸裸同然だ。

 

「い、いや、そこはそれ!誤解だ!断じてサボりではない!」

 

彼は必死に言い訳を探す。目が泳いでいる。右、左、右上、左下。典型的な嘘つきの眼球運動だ。

 

「清廉潔白な袁本初は、すでに濮陽にて政務に忙殺されていることになっている!そう、公式記録上はな!俺は今、影武者を立てているのだ!そして俺自身は、こうしてしがない一般人として、民の暮らしを視察しつつ、英気を養っているのだ!」

 

苦しい。言い訳が苦しい。論理破綻している。影武者を立てる予算がどこにある。私が袁家の経理を握っている以上、そんな稟議を通した覚えはない。

 

「視察?このあばら屋の天井のシミの数を数えるのが視察ですか?」

 

ジリジリと近づく。圧力をかける。金利のように重く、逃れられない圧力だ。

 

「ふむ。つまり『暇』ということですね」

 

「ち、違う!戦略的休息だ!」

 

「呼び方はどうでもいいです。要するに、現在の貴方には『空き時間』というリソースが存在する。違いますか?」

 

「う……。ま、まあ、多少の余裕はあるが……」

 

彼が認める。言質を取った。交渉成立の第一歩だ。

 

「なら、ちょうどいい」

 

立ち止まる。彼を見下ろす。私の脳内で、新たな事業計画(プロジェクト)が立案される。この時間を、どう有効活用するか。彼を働かせるか?いや、濮陽に行けば嫌でも働くことになる。ならば、今のうちにやっておくべきことがある。将来のリスクヘッジだ。

 

「赴任する前に、私を抱く時間はありそうです」

 

淡々と告げる。今日の天気の話をするような口調で。

 

「……は?」

 

本初が口をポカンと開ける。思考停止。処理落ち。再起動まで三秒。

 

「な、何を言っている?抱く?誰を?お前を?俺が?」

 

「そうです。主語と述語と目的語、すべて正解です」

 

自分の帯に手をかける。花嫁衣装ではないが、それに準ずる高価な服だ。これを脱ぐのは手間だが、目的のためには手段を選ばない。

 

「濮陽に行けばしばらく会えません。貴方は地方赴任、私は都で曹操の監視と袁家の裏帳簿整理。物理的な距離が発生します」

 

帯を少し緩める。シュルリ、という絹擦れの音が、静寂な部屋に響く。本初の目が釘付けになる。いや、欲情ではない。恐怖で凝視しているのだ。爆弾の信管が抜かれる瞬間を見る目だ。

 

「私の老後の安泰(アセット・アロケーション)のため、今のうちに『貴方の子供』という名の担保を作っておく必要があります」

 

説明を続ける。投資家説明会(IR)のように分かりやすく。

 

「貴方は名門袁家の嫡子。万が一、赴任先で過労死したり、盗賊に襲われて死亡した場合、私の投資は回収不能になります。ですが、貴方の血を引く子供がいれば、袁家の資産相続権を主張できます。つまり、子供は生きた保険証書です」

 

「こ、子供だと!?」

 

本初が顔面蒼白になる。血の気が引いて、白紙のような顔色だ。

 

「さあ、手っ取り早く生産活動に入りましょう。ムードや前戯は不要です。時間の無駄です。生物学的な結合のみを行い、受精の確率を最大化します」

 

帯を解き、床に落とす。次は上着だ。躊躇はない。私は常に最短距離を走る女だ。

 

「ひぃぃぃ!」

 

本初が悲鳴を上げる。彼は壁にへばりつき、必死に首を振る。

 

「お前のような強欲な計算機と俺の子供なんて……!想像しただけで寒気がするわ!生まれた瞬間に『養育費』を請求してきそうで怖すぎる!!」

 

「鋭いですね。当然請求します。オムツ代、ミルク代、教育費。すべて複利計算で貴方に請求書を送ります。安心してください、明朗会計です」

 

「安心できるか!地獄だ!それは家庭じゃなくて債務地獄だ!」

 

「愛があれば金など……とは言いません。金があれば愛は買えます。さあ、脱ぎなさい。それとも、私が剥ぎ取りますか?服が破れたら弁償ですよ」

 

彼に迫る。両手を広げて。捕獲体制完了。

 

「拒否権はありません。既成事実を作れば、袁家の財布は私のものです。観念してください」

 

「嫌だ!絶対に嫌だ!俺の遺伝子が拒絶している!」

 

本初が泣き叫ぶ。涙目だ。男泣きだ。だが、私の心は動かない。涙で銀行残高は増えない。

 

「往生際が悪いですね。孟徳の時は、もっと素直に観念しましたよ?まあ、彼はその後、三日間寝込みましたが」

 

「阿瞞も被害者か!あいつがやつれていたのはそのせいか!」

 

「さあ、本初。貴方も男なら、種馬としての義務を果たしなさい」

 

彼の手首を掴む。冷たくて汗ばんだ手。脈拍は高速だ。興奮している証拠だ(恐怖で)

 

「いやだぁぁぁ!!」

 

本初が火事場の馬鹿力を発揮する。私を突き飛ばす。私の体がふわりと浮く。想定外の出力。窮鼠猫を噛む、とはこのことか。

 

着地する。ダメージはない。だが、その隙に本初が動く。彼は脱兎のごとく駆け出す。入り口へ向かって。靴も履かずに。裸足で。

 

「逃がしませんよ」

 

声をかけるが、追わない。ここで鬼ごっこをするのは非効率だ。それに、彼の逃走方向は濮陽の方角だ。

 

「俺は働く!」

 

本初が叫びながら走る。その背中は必死だ。

 

「死ぬほど働いて、お前に会う時間をなくしてやる!!二十四時間三百六十五日、政務に没頭してやる!そうすれば、お前に抱かれる隙なんてなくなるはずだ!」

 

「ほう」

 

労働意欲の向上。素晴らしい動機付けだ。不純だが、結果としては極めて生産的だ。

 

「俺は名君になるんだー!!お前と生産活動(セックス)するくらいなら過労死してやるー!!見てろよ李司!俺は誰よりも立派な行政官になって、お前を近寄らせない結界(聖域)を作ってやる!」

 

本初の姿が小さくなる。彼は一度も振り返らない。全速力だ。あの速度なら、予定より早く任地に着くだろう。そして、宣言通り、彼は死に物狂いで働くはずだ。私という恐怖から逃れるために。

 

「……行ってしまいました」

 

床に落ちた帯を拾う。土埃を払う。クリーニングが必要だ。経費で落とそう。

 

「まあいいでしょう。彼が死ぬほど働けば、私の保有する『袁紹株』も上がりますから」

 

あばら屋の入り口に立ち、彼の消えた方向を見つめる。夕日が沈んでいく。空が赤く染まる。まるで、これからの乱世を予感させるような色だ。

 

私の計算通りだ。曹操は「法の鬼」となり、権力者を叩き潰すことで名を上げた。袁紹は「清廉な能吏」となり、私から逃げるために仕事に没頭し、名声を博すだろう。二人の英雄。その原動力は、すべて「金」と「恐怖」と「私」だ。

 

「計画通り(オールグリーン)」

 

彼らが偉くなればなるほど、私の資産価値も向上する。彼らは私の財布であり、私は彼らの管理者だ。この関係は、彼らが死ぬまで続く。いや、死んでも続く。遺産相続までが私の仕事だ。

 

懐から算盤を取り出す。パチリ。一つ玉を弾く。今日の利益、プライスレス。いや、正確には将来価値換算で金貨一万枚。

 

「さて、洛陽に戻って、曹嵩様に報告しましょうか。『息子さんたちは順調に育っています』と」

 

あばら屋を後にする。足取りは軽い。私の歩く道には、黄金の花が咲いているように見える。幻覚ではない。未来予想図だ。

 

風が吹く。私の髪を揺らす。その風に乗って、遠くから阿瞞と本初の悲鳴が聞こえた気がした。気のせいだろう。彼らは今頃、私のために必死で金を稼いでいるはずだ。

 

ありがとう、私の可愛い「資産」たち。これからも、しっかりと搾取させてね。




ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

李司は、正しい存在ではありません。

ですが、一貫して合理的です。

彼女の行動を「怖い」と感じたでしょうか。
それとも「納得できる」と感じたでしょうか。

もしあなたがこの洛陽に生きていたなら、

・彼女に従いますか
・逃げますか
・それとも利用しますか

よろしければ、あなたの感想を聞かせてください。

彼女は今も、帳簿をめくりながら、
次に最適化すべき世界を探しています。
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