三国志異伝~演算する剣鬼(守銭奴)~最強の秘書官・李司が通る道には死体と領収書しか残らない~ 作:斉宮 柴野
戦に勝った後の国土整備、人事再編、装備更新までまとめて進める回ですが、たぶん一番削られているのは袁紹様の胃です。
【冀州城 州牧府 広間】
界橋で公孫瓚の白馬義従の骨を砕き、不快な騒音源をはるか北方の易京へと押しやってから数ヶ月。現在の冀州は、全土を己の指先で切り刻み、自在に再構築できる無上の環境に仕上がっています。
ええ、実に良い。
人は勝つために戦をしますが、私は勝った後のほうが好きです。勝利とは純然たる資産であり、資産とは己の美意識に従って整形可能な素材に他なりません。荒れた国土も、無秩序に散らかった官僚機構も、無駄な脂肪を蓄えた地方豪族も、すべては等しく素材。分解し、再配置し、美しい数式に従って組み直せばよいだけのこと。
したがって、今日の私はひどく機嫌がよろしいのです。
足元には、広間の床材を覆い隠すほどの巨大な冀州全土の地図を敷き詰めてあります。特注の分厚い紙を何十枚も精巧に繋ぎ合わせた一品。墨の滲みは一切なく、真鍮の定規が滑らかに走り、コンパスの鋭利な針が不用意に沈み込むこともない。
指先で撫でれば、上質な紙の滑らかな感触と、わずかに鼻を掠めるインクの乾いた匂いが私の脳を心地よく刺激してくれます。地図とは国の顔。土台となる紙質からして、完璧な美しさを備えていなければなりません。
私はその広大な紙片の中央に立ち、冷たい真鍮の定規を当て、巨大なコンパスの脚を広げます。昨夜のうちに脳内で算出した黄金の角度を、墨を含ませた筆で次々と書き込んでいく。
水路の分岐点。
風の抵抗を相殺する植林帯の配置。
区画整理のための絶対的な基準線。
主要街道から辺境の村への最短到達時間。
すべてをひっくるめ、たった一本の洗練された数式の中へ落とし込んでいく。ああ、たまりませんね。人間の発する言葉は総じて無秩序なノイズですが、地図に描かれた線と数字は、ただ沈黙をもって私の論理に従属してくれます。
「さて」
冷え切った空気を切り裂く、短い第一声。
「北の公孫瓚は先の敗戦により、易京へ完全に引き籠もりましたわ。敵が市場から一時撤退し、外部のノイズが遮断されている今のうちに、この冀州全土を天下無双の強国へ根本から改造します。今期インフラ整備のテーマは――『数式の具現化』です」
広間から一切の物音が消え失せました。
私はこの完全な静寂が好きです。人間が未知の概念に直面し、意味を咀嚼できずに思考を停止させる瞬間は、私の絶対的な勝利を意味するからです。
上座に座る袁紹様が、重苦しい空気を押し退けて口を開きました。
界橋での勝利以降、冀州の覇者としての風格は確実に増しています。名門の看板に中身が追いつき始めたと言えば聞こえは美しいものの、実際のところは己の臓腑を削り取って得た対価に過ぎません。頬の肉は削げ落ち、目の下には消えない暗色がこびりつき、極度の重圧に晒され続けた優良企業の経営者そのものの顔立ち。
大変よろしい。組織の頂点に立つ者には、適度な疲弊と緊張感が不可欠です。
「いや、普通に治水工事をして、普通に豊かになればそれでよくないか?」
「よくありません」
「即答するな。しかも目を輝かせるな。嫌な予感しかしない」
「ご安心ください。今回は実益と絶対的な美が完全に両立します」
「その言い方で安心できた試しがないんだが」
額を押さえる袁紹様の不安は論理的に正しい。ですが、正しい不安と不正確な結論は常に同居し得るものです。私はその矛盾を正すためにここに存在しています。
「まずは農地改革です」
私は手に持った指示棒で、地図の一点を叩きます。
「現状、農民がその場その場の思いつきで開墾した不揃いな畑が、冀州全土に病巣のごとく散らばっています。極めて醜い。境界線は歪み、面積比は無秩序を極め、風の抜け方も最悪です。あの景色を見て美しいと錯覚できる脳髄をお持ちなら、一度頭蓋骨を開いて中身の回路を確認した方がよろしいですわ」
淀みなく言葉を紡ぎながら、理想の形を思い描きます。
「理想を言えば、冀州全土の畑の形状をすべてフラクタル図形へ統一したいのです。大区画も小区画も完全な自己相似形。上空から見下ろしても、地を這う虫の視点から見ても、全く同じ秩序が支配している状態。宇宙の真理がそのまま大地へ刻み込まれるのです。ああ、想像しただけで背筋に甘い痺れが走ります」
「俺は別の意味で背筋が凍った」
「天から舞い降りる雪の結晶そのものの形状を持つ畑が、州全土に広がるのですわよ?」
「やめろ。農民が泣く。というか耕しづらいだろ」
「そこは教育の徹底で」
「無理だ! 農具すら満足に足りん時代に、何が自己相似形だ! 農民は朝起きた瞬間に絶望して離反するぞ!」
「むむ」
口元に手を当て、少しだけ思案のポーズを取ります。
実際のところ、昨夜の計算の時点でこの程度の反発は完全に予測済みです。本命の数式は別に用意してあります。
「凡人の脳の処理能力では、まだ高次元の美に追いつけませんか。残念です。では大幅に妥協して、こちらの案を」
用意していた別の図面を広げます。
水路の分岐角度を三種類に限定して整理。風害の強い地域には計算された植林帯を配置し、湿りやすい低地は排水と兼用する細水路へと誘導する。村から主要道への距離は、人間の徒歩と牛車の車輪の回転数の両方から最適値を算出済み。畑の区画は日照条件と土壌成分の差異を平均化しつつ、徴税時の計量が容易になる絶対的な規格へと揃えます。
背後で、短く息を呑む音が聞こえました。
沮授です。
あの人は、物事の構造を『分かる』側の人間。優秀な脳髄を持つ人間が、初見の真理に触れて震える瞬間は、何度味わっても芳醇なものです。
「……おお」
そのかすれた吐息だけで、彼の論理武装はすでに半分崩れ去っています。
「これは……」
沮授はさらに身を乗り出し、地図へ顔を寄せました。彼の眼球の焦点が、私の引いた線に完全に吸い寄せられています。信者の脳内で新しいシナプスが接続される瞬間の、完璧な瞳孔の動き。
「この分岐角度……この植林配置……。まさか、風の通り道まで計算に入れておられるのですか」
「もちろんです」
「しかも水路の枝分かれに一切の無駄がない。主流と副流の負担比率まで完全に一致している……! これなら不要な水争いも消滅し、土の乾き方も均一化される。収穫量が……飛躍的に増える」
隣にいた田豊も、興奮に震える声を上げました。
「増えますぞ、殿! これは、間違いなく増えます! 三割……いえ、土壌条件の組み合わせによってはそれ以上もあり得る!」
袁紹様は上座から身を乗り出し、目を丸くしました。
「えっ、増えるの!?」
「はい」
「なんで!? 今の流れ、完全に『またヤバい落書きを始めた』って話じゃなかったか!?」
「最初の案はあくまで観賞用ですので」
「観賞用の国土計画を出すな!」
もはや田豊も、元の常識的な世界へは戻れません。あの頑固一徹を絵に描いたような忠臣が、今では私の図面を一瞥するたびに両手を震わせ、目頭を熱くしているのですから。人間の精神構造とは、正しい衝撃を与えれば容易く崩壊するものです。
「素晴らしい……」
田豊の指先が、空中で地図の線をなぞっています。
「ただの幾何学模様ではない。日照、風向、水利、徴税、輸送、労働配分……膨大な要素がすべて、淀みない一つの式の中に収まっている。蔡琰様、貴女は……」
来ますね。論理の飛躍。思考の放棄。人は己の理解を超えた事象に直面したとき、対象を『人外』の枠組みへ押し込むことで精神の平穏を保とうとします。
「我らを導く、真の女神だ……!」
満足して顔を上げます。賛美の言葉の質としては、きわめて上等です。
袁紹様は、理解の及ばぬ異形を直視した恐怖を顔に貼り付け、田豊を見据えています。
「お前まで!?」
「殿、見てください。この一切の淀みがない線の美しさを」
「線の美しさより俺はお前の正気の喪失の方が怖い!」
「正気です。むしろ今までの自分の視界がどれほど濁っていたのかを悟ったのです」
「新興宗教の入り口みたいなこと言うな!」
「しかし殿」
「何だ」
「蔡文姫様は、具体的に何を司る女神として定義すべきなのでしょうな」
「そこ真顔で議論するのか!?」
「組織論として、明確な定義と整理が必要です」
「組織論に女神の担当領域が出てくる時点でもう大事故なんだよ!」
こういう曖昧な事象は、他者に委ねるより自分で定義してしまうのが最も効率的です。
「私は――数式を司る文学的女神ですわ」
よろしい。言葉とは、放たれた瞬間に世界の認識を縛る鎖です。
「理系と文系が頭の中で正面衝突してるじゃないか……!」
「衝突ではありません。高度な次元での融合です」
「融合の結果がこれなら今すぐ分離しろ!」
「嫌です」
「私は冷徹な計算式を愛していますし、同時に言葉の響きの持つ叙情性も愛しています。数字だけでは味気ないでしょう?」
「味気なくていいんだよ治水は! 治水に詩情を入れるな!」
「では『狂気と殺戮を司る女神』と名乗った方がよろしいですか?」
「そっちの方がまだ現実に即してる!」
人間という生き物は、自分より上位の者が理不尽な状況で苦しんでいる姿を見ると、無意識に安心感を覚える構造になっています。組織運営において、トップの受難とはガス抜きとして非常に有用な機能なのです。
「では、続いて人事異動です」
「まだ続くのか……」
大丈夫です。人間は死なないギリギリの範囲で負荷をかけ続けるのが、最も効率的な運用方法ですから。
整列した武将たちの中で、最前列に陣取る男が堂々と鼻をほじっています。
麹義。界橋の戦いを決定づけた功臣。武の腕は特級。口の悪さは絶望的。態度は輪をかけて劣悪。獣じみた体臭と、粗野な振る舞いが周囲の空気を濁らせている。
私はこういう人材が大好きです。正しい座標に配置すれば、硬直したシステム全体に適度な乱数を与え、活性化させてくれますので。
「麹義将軍」
「あ?」
発声の段階ですでに礼儀という概念が欠落しています。
「何だよ、監査役の姉ちゃん。俺は界橋で一番首を刈った男だぜ。今さら文句か?」
「はい」
「あるのかよ」
「山ほど」
広間の空気が、ほんのわずかに弛緩しました。皆、私がこの無作法な男を徹底的に叱責するのだと予想したのでしょう。残念ですね。人事は感情の排泄行為ではありません。純粋な論理の組み立てです。
「貴方は口が悪い。態度が極めて悪い。協調性の欠片もない。指揮系統への敬意も皆無。発言の半分以上が純粋な暴言で構成されている」
「褒めてるだろそれ」
「一切褒めていません」
「ちぇっ」
「以上の理由により、本日付で貴方を袁紹様直属の側近へ任命します」
広間の空気が完全に凍結しました。
この時間の停止具合は非常に上質ですね。全員の脳髄が、提示された情報の処理に失敗している証拠です。
「は?」
「は?」
完璧なユニゾンです。これなら十分に協調してやっていけるでしょう。
「二十四時間、片時も離れず常に袁紹様の隣にいてください」
「起床時、移動中、食事、軍議、休憩、視察、そして就寝前まで。可能な限りパーソナルスペースへ密着することを義務付けます」
「なんで!?」
袁紹様の喉の奥から絞り出された擦過音が、天井の梁を震わせました。少しかすれ気味で、蓄積された疲労の深さがよく表れています。ええ、素晴らしい音色です。
「俺、こいつのガサツな性格かなり嫌いなんだけど!? 隣にいるだけで臓腑がねじ切れるほど痛いんだけど!?」
「それが最大の狙いです」
「認めるな!」
間違いなく、この殺伐とした空間で最も上品で美しい笑顔です。
「袁紹様、貴方は冀州を平定して以来、環境が少しばかり安定しすぎています。安定自体は悪ではありませんが、組織の頂点がぬるま湯に浸かりきると、判断の回路が急速に硬直します。ですので、あえて制御不能な乱数を至近距離に常駐させ、絶え間ないストレスを与えるのです」
「人間を乱数って言うな! しかも本人の目の前で!」
「麹義将軍は、極めて優秀な乱数です」
「おい姉ちゃん、それ褒めてんのか?」
「かなり」
「じゃあ許す」
複雑な思考を放棄してくれる人材は、扱いやすくて助かります。
「田豊や沮授のような精密機械めいた参謀ばかりを周囲に並べては、空気が美しすぎていずれ窒息しますわ。そこへ麹義のような野蛮で雑多なノイズを強制的に混入させることで、全体の思考回路が凝り固まらずに済みます。極限の負荷とストレスこそが、システムを次の次元へ進化させる唯一の母なのです」
「人間相手に人体実験みたいな理屈をこねるな!」
「組織のトップとは、巨大な実験装置における主要な被検体でもあります」
「嫌だよ!」
ほんの少しだけ純粋な本音を織り交ぜることにします。
「それに、貴方の悲鳴は最近、少しばかり単調になっていましたので」
「何の評価基準だそれは!?」
「麹義将軍を常に隣へ配置すれば、もっと深みと奥行きのある音色が期待できます。朝一番の苦悶の呻き、書類決裁中の深い諦観、食事時の臓腑の痙攣、就寝前の絶対的な絶望。弦の切断された擦弦楽器が奏でる前衛音楽にも等しい旋律となりそうで、個人的に非常に楽しみなのです」
「人間の精神崩壊の過程を演奏会みたいに語るな!」
恐怖は理解できます。ですが、すでに計算は終了し、決定事項として出力されているのです。
「へぇ。つまり俺は、殿の横で好き勝手に振る舞っていいってことか?」
「一定の許容範囲内であれば」
「鼻ほじっても?」
「構いません」
「寝起きに耳元で怒鳴っても?」
「心臓が止まらない程度であれば」
「飯を横取りしても?」
「そこは栄養状態の計算が狂うので私が管理します」
「ちぇっ」
「田豊! 頼む! お前は直言の士だろう! こいつの狂い果てた人事を今すぐ止めろ!」
名指しされた田豊は、深く、厳粛に頷きました。
「素晴らしい」
「お前もか!」
「君主にあえて耐え難い苦痛と負荷を与え続けることで、常に極限の緊張感を維持させる、これぞ真の臥薪嘗胆の策……! 蔡文姫様、やはり貴女は人智を超えた真の女神!」
「どこからどう見ても俺の臓腑を薪代わりにして燃やし尽くす策だろうが!」
広間の端の方から、必死に笑いを噛み殺すような空気の震えが伝わってきます。良い傾向ですね。トップが理不尽に苦しむ姿は、職場の空気を適度に緩和します。組織の潤滑油としてたいへん有意義です。
その時、武官の列の後方から、一人の男が滑り出るように進み出ました。
顔に張りついたような薄ら笑い。異様に低い腰の姿勢。口角は上がっているのに、眼球だけは一切の感情を含んでいない。
郭図。ああ、存在していましたね。湿気を帯びて腐りかけた紙のような人材が。
「蔡文姫殿!」
「監査役とはいえ、我らが殿をないがしろにする数々の暴言、この郭図、断じて看過できませぬぞ! 殿は天下に名高き四世三公の名門! 下劣なストレスなど一切不要! もっとこう、私のように心地よい蜜のような言葉で――」
「郭図」
不要なノイズを途中で切断します。
「はい?」
「左遷です」
「早い!?」
判断が早いも何も、変数はとうの昔に出揃っています。この男の発言は、常にトップの顔色を窺い、機嫌を取る方向へ局所的な最適化が行われているだけ。組織の全体最適化には一切寄与しない。つまり、美しくない。組織の血流を阻害する、最悪の粘着質なノイズです。麹義のような有用な起爆剤ではなく、ただ腐敗を広げるだけのぬめぬめとした停滞。除去されるのは数式上の必然です。
「貴方の提示する策は、常に他者の顔色ばかりを計算しており、論理的整合性が完全に破綻しています。局所的に甘く、全体として腐敗を引き起こす。よって本日付で、貴方を閑職へ異動させます」
「か、閑職!?」
「厩の馬糞掃除係から、己の存在意義を再計算し直してください」
「なっ、ななな、何ですとぉぉぉ!?」
郭図の喉から飛び出した絶叫は、鼓膜を劈くほどに甲高いものでした。耳障りですが、物理的な距離をとれば問題は解決します。
「天才軍師たるこの私が、獣の排泄物の世話などと! そのような非生産的な業務を!?」
「非生産的?」
彼の思考回路が全く理解できません。
「冗談を。馬の消化器官の蠕動運動から排泄物の正確な落下地点と質量を予測し、地面を一ミリたりとも汚染することなく空中で回収する『究極の排泄物回収計算式』を確立できた暁には、元の席へ戻して差し上げますわ」
「実行不可能にも程があるだろ!?」
「単なる知力と努力の不足です」
「まだ始めてもいないわ!」
「ならば、今すぐ一秒でも早く始めなさい」
「ひどいィィィ!!」
衛兵に引きずられ、涙と鼻水を撒き散らしながら連行されていく郭図。
「……俺の、唯一の癒やしが」
「不要な湿気は、いずれ致命的なカビを呼び寄せます」
「お前ほんとに容赦ないな!?」
「ええ、一切」
◆
「では次、武官の装備変更についての通達です」
私は短く指示を出し、背後に控えていた者たちに布を取り払わせます。
覆いが外され、鈍い鉄の輝きが現れた瞬間、顔良と文醜の眼球が見開かれました。彼らの思考回路はきわめて単純で助かります。筋肉で構成された武将にとって、複雑な理屈よりも視覚的な質量と形状がすべてなのです。
「顔良、文醜」
「ハッ!!」
床の石材が微かに震えるほどの、過剰な音量の返事。ええ、純粋な暴力装置としては極めて優秀です。知能指数の低さを補って余りある。
「貴方たちは袁紹軍の武を象徴する二枚看板です。ですが、ただ無思慮に力任せに棍棒や斧を振り回し、敵の肉体を肉片へ変えるだけの戦い方は、野蛮極まりなく全く美しくありません」
顔良と文醜の肩が、目に見えて落胆に沈みました。己の存在意義である暴力を否定されたと勘違いしたのでしょう。ですが、アメを与える準備はとうに整っています。
「ですので、貴方たちの持つ筋力をより効率的かつ芸術的に敵の首を切断できるよう、この特注武器を支給します。これを使用しなさい」
布の下から姿を現したのは、奇妙にうねるような軌道を描く刀身を持った大剣と、複雑怪奇な曲線で構成された巨大な戟です。三日三晩徹夜で計算式を組み上げ、鍛冶職人に無茶な要求を突きつけ、三度の失敗を経て四度目でようやく図面通りに現界した逸品。
刀身のカーブはすべて黄金比を基準に設計してあります。人間というものは、「黄金比」という単語を聞くだけで無条件にありがたがる性質があるので非常に便利です。
「この計算された角度で刃を振るえば、貴方たちの過剰な筋力と遠心力がロスなく最大化され、最小の消耗でより深い骨の切断が可能となります。要するに、今までより遥かに楽に、そして今までより圧倒的に綺麗に敵の首が中空を舞うのです」
我ながら、対象の知能に合わせた完璧な説明です。
「しかも、首の飛び方が非常に美しい。放物線の軌道に一切の無駄が生じない。これからは単なる殺戮ではなく、芸術点を意識して刃を振りなさい」
「芸術点!」
「なんかすげえ格好いい響きだな!」
文醜も、巨大な戟の柄を撫でながら深く頷きます。
「よく分からんが、この変な曲がり方、めちゃくちゃ禍々しくて俺好みだ! 気に入ったぜ!」
ほら、数式の通り。簡単な制御です。
「明日から俺たちは、戦場の芸術家だな相棒!」
「おう! ただぶった斬るだけじゃなく、美しく首を飛ばすんだな!」
「その通りです」
「戦場における一振りには、結果としての死と、過程としての美の両方が求められます。死体は言葉を語りませんが、切断された部位の飛び方は、生前の恐怖を雄弁に語りますので」
「言ってることはめちゃくちゃ怖いのに、なんか妙に納得しちまうんだよな……」
極めて正確な事象の言語化です。ええ、私の提示する論理は絶対ですから。
「張郃、高覧」
名指しされた二人が進み出ました。若く、まだ可塑性のある肉体。適切な鋳型に流し込めば、いくらでも鋭く伸びる素材です。
特に張郃の動きは素晴らしい。静止状態からの歩法、足の運び、関節の角度、視線の切り方。その挙動のすべてに、彼自身の確固たる美意識が通底している。己の見せ方を完璧に理解している男は、部品として非常に扱いやすい。私の構築する戦術計算式の中に、最初から「見栄え」という変数を組み込んで処理できるからです。
「貴方たちは今後、将軍職と並行して、私直属の護衛を兼任しなさい」
「部隊の指揮は引き続き許可します。ですが、戦場において事態が動いた際は、まず私のそばへ駆けつけること」
高覧は、目に見えて戸惑いの表情を浮かべています。妥当な反応です。出世と絶対的な拘束が、同時に叩きつけられたのですから。
しかし張郃だけは、口元に優雅な薄笑いを浮かべていました。
「光栄です」
「特に張郃」
「貴方の歩法と槍の軌道には、無駄な肉が削ぎ落とされた美しさがあります。私の構築する完璧な戦術計算式の、最も忠実な『実行ファイル』として大いに期待していますよ」
ええ、彼の核にあるプライドの最も脆い部分に、私の言葉が正確に突き刺さりました。
「美しい数式に従えと仰るのなら」
彼は滑らかな動作で、床へ片膝をつきました。
「戦場というキャンバスに、血の赤を用いて、完璧な芸術を描き出してみせましょう」
文句のつけようがない、満点の返答です。人材面接であれば一秒で採用を決定します。
「また変なのを起こした……」
「変ではありません。美の追求です」
「いや、美意識という名の狂気で意気投合してる時点でだいぶ危険だろ!」
高覧は、一拍遅れて慌てたように胸を張ります。
「お、俺も全力で頑張ります!」
「はい。まずは隣の張郃の挙動を見習いなさい」
「はい!」
素直な反応です。純朴な素材は研磨しやすい。自ら突出する才能はなくとも、余計な自意識でシステムを乱さない限り、組織にとって極めて有益な歯車となります。
ここまでくれば、広間を満たす空気の九割以上は私の支配下にあります。多くは私の提示した数式を前提として、すでに脳を回し始めている。これが組織掌握の最適解です。人間に考える余白を与えすぎると、必ず余計なエラーを引き起こします。ですから、考えるべき道筋だけを限定的に残し、それ以外の選択肢はすべて壁で塞ぐ。組織の運営は水路の設計とまったく同じです。無駄な逃げ道を作れば、全体の水圧が落ちるだけのこと。
「以上です。今期の国土改造、人事再編、装備更新は、すべてこの方針で実行に移します。異論のある者は」
誰一人として、手を挙げる者はいません。微かな衣擦れの音すら生じない、完璧な統制状態。たいへんよろしい。
「では、全会一致で承認と――」
「待て」
袁紹様だけが、力なく右手を虚空へ掲げました。その顔色はもはや土気色を通り越し、死後硬直が始まる一歩手前のようですが、それでもまだ言葉を発するだけの意思は残存しているようです。さすがは腐っても巨大組織のトップです。
「俺の承認は」
「形式上は必要です」
「形式上って言うな! 必要ならもう少し俺の意思を尊重しろ!」
「最大限に尊重した結果が、この完璧なスケジュールです」
「どこが!? 俺、今もうほとんど判子を連続で押すだけの機械になってないか!?」
その自己分析は、半分だけ正解です。
「違いますわ」
慈愛に満ちた笑みを浮かべ、優しく訂正して差し上げます。
「判子を押すという物理的動作だけでなく、絶妙なタイミングで悲鳴を上げるという、重要な精神的役割も付与されております」
「最悪の方向へシフトしてるじゃないか!」
袁紹様はもはや私を見ることを諦め、天井の梁を見つめたまま完全に遠い目をしていました。
「ああ……軍は確かに強くなってる。組織の歯車も狂ったように回ってる。冀州は以前より遥かに、途方もない強国に変貌しつつある」
「事実ですね」
「でも、それに反比例して、俺の居場所が音を立てて崩れ去っていく」
「被害妄想ではありません。正確な観測結果です」
「そこは嘘でも否定しろよ!」
「トップの役割がより高次元へと変質しただけです。消滅はしていません」
「どう変質したんだ」
「無条件の承認と、極限状態での発狂です」
「最悪だ!」
◆
【冀州城 州牧府】
その日の深夜。
袁紹は己の私室の寝台で、膝を抱えるようにして座り込んでいた。
机の上には積み上げられた承認済みの書類の山。傍らには、荒れ果てた内臓をどうにか誤魔化すための、味気のしない薄い粥。
そして壁際には、腕を組んで仁王立ちする麹義の姿がある。
蔡文姫の絶対命令どおり、二十四時間の密着配置が忠実に実行されているのだ。
「帰れ」
「嫌だね」
「ここは俺の私室だぞ」
「殿のそばから一歩も離れるなって、あの監査役の姉ちゃんが言ったからな」
「お前、人に言われたことをこんな時だけ忠実に守るな!」
「だって面白ぇし」
「俺は面白くない!」
袁紹は本気で腹部を強く押さえる。昼間の異常な会議で致命的なダメージを受けた内臓に、夕食時から続く麹義の豪快で下品な咀嚼音が、容赦ない追撃を加えているのだ。
「お前、どうしてそんなにずっと鼻をほじっているんだ」
「指が寂しい癖だ」
「やめろ」
「嫌だ」
「やめろ! 視界の端で動いているだけで腹が立つ!」
「じゃあ目ぇ瞑って見なきゃいいだろ」
「隣に気配があるから無理なんだよ!」
一方、田豊と沮授は別室にこもり、蝋燭の火を限界まで灯して、蔡文姫が残した図面の写しを前に熱烈な議論を交わしていた。完全に思考を乗っ取られた信者の姿である。
「この植林帯の配置角度……見れば見るほど、一切の隙がない美しい論理だ」
「しかもそれが、単なる机上の空論ではなく実利と完全に一致している。まさに美と実利の究極の融合だ」
「……女神だな」
「ああ。間違いなく女神だ」
同じ頃、郭図は冷え込む厩の中で、強烈な獣の臭気にまみれながら木桶を構え、馬の臀部を血走った目で見つめていた。
「腸の蠕動運動から、排泄物の落下地点を予測しろだと……! そんな神の領域の計算、ただの天才軍師である私にできるわけがないだろうが!」
次の瞬間、彼の不完全な予測は見事に外れ、肩口へ生温かい質量がべちゃりと落下した。
「ひどいィィィ!!」
絶望の悲痛な声が夜の厩に響き渡り、原因を作った馬は、少しだけ嬉しそうに尻尾を振った。
中庭では、顔良と文醜が松明の明かりを頼りに、夜風を切り裂きながら新武器を振り回し続けていた。
「見ろ相棒! 今の刃の軌道、なんかすげえ綺麗に弧を描いてなかったか!?」
「おう! 敵の首がすぱんと飛んでる図を想像するだけで、テンションが爆上がりするぜ!」
「これが芸術ってやつか!」
たぶん根本的に概念が間違っているが、本人たちが最高に楽しそうなので、戦力としては問題ない。金属の鈍い輝きが、夜の闇の中で不気味に躍動している。
そして張郃は自室の寝台で、磨き上げられた愛用の槍を布で拭いながら、昼間の蔡文姫の言葉を何度も脳内で反芻していた。布が金属の上を滑る微かな音が、静寂の部屋に響く。
「完璧な実行ファイル、か」
彼は窓から差し込む冷たい月の光に照らされた槍の穂先を見つめ、陶酔したように笑う。美しいと評価されることに、極端に弱い男なのだ。
高覧は隣の部屋の寝台で「実行ファイルって結局なんなんだ……?」と本気で頭を抱えつつ、明日起きたらとりあえず張郃の真似をしておけばいいと結論づけ、無理やり目を閉じた。
そして、翌朝。
袁紹は重い瞼を開けた瞬間、自分の顔のわずか数寸の距離で、大口を開けて欠伸をしている麹義の顔面を視界に収めた。獣のような息の匂いが、直接鼻腔を直撃する。
「……っ!」
声にならない、純粋な恐怖の表出。
「おはようございます、殿」
なぜか朝の挨拶だけは、最低限の敬語が使われていた。
「朝一番で、俺のパーソナルスペースにその顔を侵入させるなぁぁぁ!!」
冀州城の長い廊下に、悲痛な響きがこだまする。すれ違う使用人たちは掃除の手を止めず、「ああ、殿は今日も元気に出社されているな」としか思わなくなっていた。
◆
【冀州城 州牧府 私室】
「極めて順調ですね」
傍らに控えていた侍女が、恐る恐る口を開きました。
「あの……何が、順調なのでございますか……?」
「袁紹様の発する音色です」
「はあ」
「まだ完全には精神の形を失っていませんが、よい具合に表面が削り取られています」
「……左様で、ございますか」
侍女は全く理解できないという顔で黙り込みました。分からなくて結構です。この高度な美意識を理解する者が増えすぎても、世の中のバランスが崩れて気持ち悪いですから。
城下ではすでに水路測量の人足たちが正確な歩幅で動き始め、農地再編の通達を持った早馬が走り出し、工房では黄金比の武器の量産体制が整えられ、厩では郭図が泣きながら放物線の勉強を強いられているはずです。
すばらしい。州全体という巨大なシステムが一つの数式へ組み込まれ、ようやく私の愛する秩序だった形に収束しつつある。
ああ、本当にいい響きですね。論理の冷たさと文学の詩情が完璧に調和しています。
遠くの広間から、再び喉を切り裂くような音が空間を震わせました。
「李司ーーーッ!! お願いだから早く長安から来てくれぇぇぇ!! この喪服を着た悪魔を、今すぐ回収してくれぇぇぇ!!」
朝から実に伸びがあり、肺活量をフルに使った良い響きです。
私は手元の書類から視線を上げず、小さく笑みをこぼします。
「無理ですわ」
聞こえるはずもない長安の空へ向けて、静かに言葉を落とす。
「袁紹様。貴方の臓腑は、まだまだ削れる余白を残しておりますもの」
読んでいただきありがとうございました。
蔡文姫が冀州を好き放題に作り替えていく回でしたが、楽しんでいただけたなら何よりです。
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