三国志異伝~演算する剣鬼(守銭奴)~最強の秘書官・李司が通る道には死体と領収書しか残らない~   作:斉宮 柴野

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河北の宿敵・公孫瓚は、ついに易京に追い詰められた。
だが、その最前線に立つのは、戦を芸術と呼び、崩れる城壁に美を求める女、蔡文姫。
そして河北統一を果たした袁紹のもとへ、李司が久方ぶりに視察へ訪れる。
勝利、狂気、監査、そして逃げ足だけは天下一品の男。
河北の新体制は、早くも胃薬必須の局面を迎えていた。


第三十九.五話:幾何学的崩壊と、巨大な寄生虫の到来

【易京 公孫瓚の要塞前】

 

易京の砦は、ただ堅固なだけではない。

 公孫瓚という男の執念と恐怖、そして意地が、土と木と石に形を変えて積み上がった妄執の結晶だ。外から仰ぎ見れば巨大な要塞。だが中から見れば、北の雄が自らの未来を閉じ込めた巨大な棺に他ならない。

 

 その要塞の前で、袁紹軍の工兵たちは黙々と地下へ向かって坑道を掘り進めている。

 通常であれば、城壁の基礎を崩して敵の防備を削る、土と汗に塗れる地道な作業だ。

 

 だが、この現場に常識は通用しない。

 現場を指揮する監督が、蔡文姫だからだ。

 

「ストップですわ。現在の掘削角度、二度ほどズレています」

 

土煙の舞う中で、蔡文姫は白皙の顔に微かな笑みを浮かべている。喪服姿に『安全第一』と記された木札付きの兜という出で立ちは、視覚的な混乱を引き起こすが、彼女は欠片も意に介していない。彼女の美学において、機能と美しさが成立していれば服装の矛盾など些末な問題なのだ。

 

「監査役殿、二度くらいなら誤差の範囲では……」

 

工兵隊長の声は弱々しく震えていた。

 ここ数週間の業務で、彼は骨の髄まで理解させられている。蔡文姫の前で誤差という単語を口にすれば、その誤差がどれほどの致命的欠陥を生むか、自らの人体構造を用いて物理的に証明されかねないということを。

 

「誤差ですって?」

 

蔡文姫の唇の端が吊り上がる。

 その瞬間、背筋を撫でるような悪寒に当てられ、兵たちは一斉に後ずさった。

 

「二度のズレが十間続けば、崩落点は大きく狂います。崩落点が狂えば、城壁の落ち方が乱れます。城壁の落ち方が乱れれば、瓦礫の積み上がり方が醜くなります。醜い瓦礫の上で公孫瓚が逃げ惑えば、最期の導線まで汚れますわ。そんなもの、戦争ではありません。ただの雑な土木工事です」

 

「いや、俺たちは雑でも勝てればいいんですが……」

 

「勝つだけなら獣でもできます。私たちは人間です。ならば、勝利には美が必要です」

 

工兵隊長は目を伏せた。

 肌を撫でる風は心地よく、空は晴れ渡っている。これが通常の坑道掘りであったなら、どれほど穏やかな労働だったことか。彼の胸の内に、諦念という名の泥がゆっくりと沈殿していく。

 

「それから、排出した土砂の積み方もいけません。そこの赤土、黄色土、黒土を混ぜないでください。層にして積みなさい。地上から見た時、左から右へ自然な階調になるように。公孫瓚の兵が城壁から見下ろした時、なぜ敵陣に美しい山脈ができているのだ、と不安の種を植え付ける程度には整えてくださいませ」

 

「土砂の色で心理戦をするんですか」

 

「もちろんです。戦場における精神汚染は、剣より安価で、弩より長く効きます」

 

隊長は開いた口を閉じた。

 理不尽に対して言葉を節約する知恵は、戦場で命を節約する術と酷似している。

 

「なあ田豊。あれは、何をしているんだ。俺には坑道を掘っているのではなく、大地に何かの呪いを刻み込んでいるように見えるんだが」

 

袁紹の声に、北の覇者としての威厳はない。現場の異常性に置き去りにされた、孤独な管理者の疲労だけが滲んでいる。

 

「殿。あれは極めて高度な土木計画です」

 

対する田豊の眼差しは真剣そのものだった。かつて袁紹に対しても臆せず苦言を呈した硬骨の士は、蔡文姫の指揮を見る時だけ、まるで真理に触れた学者のように目を輝かせる。

 

「どこがだ。工兵が泣きそうではないか」

 

「工期が伸びることで雇用が生まれます。土砂の搬出、分類、積み上げ、補強、観測、記録。全てに人手が必要です。兵の不満も、確かな賃金と十分な食事が提供されれば吸収できます。これは戦時下における公共事業なのです」

 

「さらに、掘削で得た地質データは今後の治水にも転用可能。崩落角度の計算は城郭建築にも応用できます。蔡文姫様は目先の勝利だけでなく、冀州全体の基盤発展まで見据えておられるのです」

 

「田豊。お前、いつからそんなにあの女を信奉するようになった」

 

「界橋以後です」

 

「思想の書き換えを自白されているようで薄気味悪い」

 

袁紹は重い頭を抱えた。

 河北を制するため、公孫瓚を討つ。その大義と目的は揺るぎない。だが、城壁の崩落に芸術点を求める女を前線指揮に据えた記憶は、彼の頭のどこを探しても見当たらなかった。もしあったとすれば、過去の自分を殴り倒してやりたい。

 

 そんな本陣の苦悩など、蔡文姫の知る由もない。

 彼女は坑道の入り口に立ち、土の崩れる音、木材の軋み、足裏から伝わる微かな地面の振動を全身で感じ取っている。目を閉じている彼女の脳内には、地下の構造が精密な立体模型となって描き出されていた。

 

「あと八寸。右支柱を抜く準備を」

 

「八寸って、見て分かるんですか」

 

「聞けば分かります。土は嘘をつきませんもの」

 

「土が会話相手なんだ……」

 

「無駄口を挟むと、貴方を支柱の代わりに埋め込みますわよ」

 

「作業続行します!」

 

工兵たちは恐怖に背中を弾かれ、一斉に動いた。

 逆らう者はもういない。蔡文姫は兵士を怒鳴り散らすような真似はしない。花が綻ぶような笑みで無茶を命じ、笑みで達成させ、未達成者の人生設計を笑みで切り刻むだけだ。

 

 やがて、地面の奥深くから、巨大な獣が唸るような重低音が響いた。

 戦場の空気が一変する。

 

 公孫瓚の兵たちが城壁の上で浮足立ち、袁紹の本陣でも武将たちが身を乗り出した。

 

「な、なんだ。失敗か。坑道が崩れたのか」

 

袁紹がたまらず腰を浮かした。

 その視線の先で、蔡文姫はそびえ立つ城壁を見上げ、うっとりと頬を染めていた。

 

「いいえ。完成ですわ」

 

易京の城壁が、まず一箇所だけ垂直に沈む。

 次に、その隣が計算されたように斜めに割れた。上部の櫓が自重を支えきれず、ゆっくりと弧を描いて傾いていく。

 

 通常の崩壊であれば、土煙と瓦礫が無秩序に周囲を呑み込むはずだ。

 だが、眼前で起きている現象は違った。

 

 精密に組まれた絡繰りが順番にほどけるように、石と土と木が決められた導線に従って落ちていく。瓦礫は横へ広がり、内側へ折れ、階段状のなだらかな斜面を形成していく。

 

 それは無残な破壊ではなかった。

 攻め込むための道を、崩壊という現象そのものが自ら構築していく。破壊、通路作成、そして敵への心理的圧迫。それらを同時に成立させる、身の毛のよだつような合理性だった。

 袁紹は声もなく立ち尽くした。

 

「……本当に崩れ方まで設計したのか。狂っている。狂っているが、軍事的には完全な正解であることが一番恐ろしい」

 

隣の田豊は、今にも両手を合わせて拝み出しそうな熱を帯びている。

 

「美しい……。あの瓦礫の角度、攻め手の登攀効率を最大化しています。崩壊直後に突撃可能な地形が自動生成されるとは。これぞ土木と戦術の完全なる統合」

 

「拝むな。あれは女神ではない。人災だ」

 

蔡文姫は鼻歌でも歌い出しそうな足取りで、瓦礫の斜面へと向かう。両手には銀色に光る細い蛾眉刺が握られていた。

 崩れた城壁の向こうでは、混乱を極めた公孫瓚軍が逃げ惑っている。

 

「では、仕上げの工程へ移ります。公孫瓚将軍の生命活動を、可能な限り美しい形で停止させてまいりますわ」

 

花見にでも出かける令嬢のような軽やかな声だった。

 

「いや待て、蔡文姫。普通に捕縛すればいいのではないか。降伏勧告とか、身柄確保とか、常識的な選択肢があるだろう」

 

蔡文姫は振り返る。

 その硝子玉のような瞳には、戦場と、絵画的な構図と、死の計算式しか映っていない。

 

「公孫瓚は、もはや河北統治における不要な旧式機構です。残しておけば反乱の火種になります。けれど、無造作に命を散らすのは品性に欠けます。ここまで長く競合として存在し、私たちに公共事業の機会まで与えてくださったのですから、最期くらいは丁寧に処理しませんと」

 

「丁寧に処理という言葉の響きが恐ろしいんだが」

 

「ご安心を。悲鳴の音程まで、完璧に調律してみせますわ」

 

「安心できる要素が微塵もない!」

 

蔡文姫の背中は、立ち込める土煙の向こうへ優雅に消えていった。

 しばらくの後、遠くから短い悲鳴が響き渡る。

 その音が、不自然なほどに美しく整った音階を刻んでいたため、袁紹は思わず両手で耳を塞いだ。

 

「公孫瓚……憎き宿敵だったが、あれに処理されることには少しだけ同情を禁じ得ない」

 

「殿、勝利でございます」

 

「勝利の味が、ひどく苦い」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

【冀州 鄴】

 

公孫瓚の滅亡により、河北四州は袁紹の名の下に統合された。

 時価総額という指標で測るなら、袁紹陣営の価値は急騰している。

 

 問題は、最大株主である袁紹本人の精神が暴落の一途を辿っていることだ。

 

 私は袁譚を伴い、鄴の地を踏んだ。

 久しぶりの冀州視察である。

 

 城門は威容を誇り、城壁は厚い。すれ違う兵の装備も磨き上げられている。農地の区画整備、税務台帳の管理、兵站倉庫の運用。数字と機能だけを見れば、非の打ち所がない優秀な支社だ。

 

 ただし、送られてくる報告書に漂う狂気の濃度が、年を追うごとに上昇している。

 

 赴任当初、蔡文姫から提出される月次報告は、美しい数式と合理的な改善案で満たされていた。だが最近は、『公孫瓚の断末魔における音程の評価』『瓦礫崩落時の芸術的採点』『袁紹様の悲鳴の波形分析』など、本来の業務範囲を著しく逸脱した項目が目立つ。

 

 常軌を逸する速度が加速している。

 その原因がこの広大な環境にあるのか、彼女自身の本質が露呈しただけなのかは、現在判定を保留中だ。

 

 隣を歩く袁譚は、十八歳という年齢相応の若々しさを持ちながら、私の教育によって培われた冷徹な計算高さを身内に潜ませている。長安と許昌で厳格に育て上げた成果だ。

 

 加えて最近は、劉備から得体の知れない交渉術まで吸収しているため、相手を見据える時の顔つきが少しばかり腹黒くなった。これが資産としてプラスに働くかは、まだ未知数である。

 

「母上、あれが父上の城ですか。想定していた数値を上回る規模ですね」

 

「ええ。固定資産としては極めて優秀です。維持費も莫大でしょうが、北方支配の中枢としては十分な機能を持っています」

 

「父上は、この巨大な機構をうまく運用できているのでしょうか」

 

「帳簿の数字上は、できています。精神面の監査はこれからですが」

 

「精神面……」

 

袁譚の眉根が微かに寄る。

 賢い子だ。数字がどれほど完璧でも、運用する人間の精神が摩耗すれば組織は容易に瓦解する。彼はそれを理解している。

 

 城内へ足を踏み入れると、袁紹が待ち構えていた。

 いや、待ち構えていたというより、こちらに向かって駆け寄ってきた。

 

 河北の覇者が、妻の顔を見た瞬間に涙ぐみながら全力疾走してくるのは、組織の頂点として視覚的な問題がある。威厳の再構築が必要だ。

 

「李司……! 来てくれたのか! 本当に来てくれたのだな!」

 

袁紹は私の目前で膝を屈しかけた。

 私は静かに一歩横へ身を躱す。涙で衣が濡れれば、後々の処理に手間がかかる。

 

「本初。久しいですね。河北の統一、おめでとうございます。ずいぶんと時価総額を引き上げましたね」

 

「そんな数字はどうでもいい! いや、良くはないが、今はそれどころではないのだ! 助けてくれ、俺はもう限界だ!」

 

「何がでしょうか」

 

「蔡文姫だ!」

 

予想通りの解答だった。

 

「月次報告書には、『袁紹様は私の構築した美しいシステムの一部として順調に稼働中』と記載されていましたが」

 

「そこが最大の問題だ! 俺は機構の部品ではない、生きた人間だ! 毎朝目覚めるたびに、今日の俺の悲鳴はどの音階か計測される身にもなってみろ! 食事の皿の配置は黄金比、庭の石の配置はフィボナッチ数列、兵の行軍は螺旋を描き、畑の畝にまで角度指定が入る! つい先日など、寝室の天井に俺の寝返りの最適角度を示す線が引かれていたのだぞ!」

 

「ほう。寝返りの動線まで」

 

「感心している場合か! もっと恐怖を感じろ!」

 

袁譚が一歩前に出て、流麗な動作で一礼した。

 

「父上、お久しぶりでございます。袁譚、ただいま参りました」

 

「譚……!」

 

 父親の顔に戻っている。この男は、血を分けた子供のこととなると、途端に人間としての正常な機能を取り戻す。その点に関しては高く評価できる。

 

「大きくなったな、顕思。実に立派になった。李司、こいつにちゃんと飯は食わせていたのだろうな。学問ばかりでなく、遊ばせてもいたのか」

 

「栄養価、武芸の練度、算術、行政処理、交渉術、すべて適正な数値で管理しています。遊びの時間も、予定表に組み込んでありました」

 

「予定表で管理された遊びとは何だ」

 

「効率的かつ、知能の発達を促す遊戯です」

 

「子供時代そのものが事業計画書になっているではないか……」

 

袁譚は柔らかな笑みを浮かべた。

 

「父上、ご心配には及びません。母上の教育は苛烈ですが、極めて合理的です。それに、許昌では劉備殿から度胸と虚勢の実践講義も受けました」

 

「劉備から何を学んでいるというのだ! あの男から吸収していいものなど、逃げ足の速さくらいしかないぞ!」

 

「交渉相手の警戒心を笑いで解き、その隙に財布の紐を緩めさせる技術です」

 

「李司! 教育課程に詐欺の実践演習が混入しているぞ!」

 

「詐欺ではありません。高度な心理誘導です」

 

「言い換えただけではないか!」

 

良い再会だ。少なくとも、意味のある対話が成立している。袁紹の精神はまだ完全には崩壊していない。

 

 その時、背後の空気が音もなく歪んだ。

 蔡文姫だ。気配の出し入れが、熟練の暗殺者のそれと酷似している。

 

「李司様。お待ち申し上げておりましたわ」

 

「ご苦労様です、蔡文姫。公孫瓚の処理、報告書で確認しました。数字上の成果は非常に優秀です。ただし、報告の後半が個人的な芸術批評に変貌していた点は、速やかに改善を要求します」

 

「ありがとうございます。公孫瓚将軍の最期は、想定よりも音程が安定いたしませんでした。恐怖が致死量を超えると喉の筋肉が硬直し、理想の完全五度に届かないのです。次回への有益な課題ですわ」

 

「次回があってはなりません」

 

「善処いたします」

 

「善処ではなく、厳守です」

 

蔡文姫は優雅に微笑むだけだ。指示を内面化する気配がない。

 彼女の視線が袁譚へと移る。

 

「顕思様。お久しゅうございます。骨格の成長、姿勢の歪みのなさ、視線の配分、発声の共鳴。李司様の管理が隅々まで行き届いておりますわね。加えて、劉備殿の不規則な社交性が僅かに混入している。危険な不純物ですが、観察対象としては非常に面白い変数です」

 

「恐縮です。蔡文姫殿の冀州改革も、提出された記録で拝見しました。農地の水路設計の効率化は見事の一言です。ただ、死亡時の悲鳴評価項目は、行政帳簿から完全に分離していただいた方が、後々の閲覧性が向上するかと」

 

「まあ。的確な指摘ですわ。さすがは李司様が育て上げた資産」

 

袁紹が再び重い頭を抱え込んだ。

 

「息子まで、ごく自然にあいつの報告書を審査している……。俺の家族の基準はどうなってしまったんだ」

 

「本初、諦めなさい。環境への適応です」

 

「こんな環境に適応したくない」

 

蔡文姫は懐から分厚い紙束を取り出した。

 線と角度、そして人体らしき図解が緻密に描き込まれている。嫌な予感が肌を撫でた。

 

「ところで李司様。本日は久方ぶりのご夫婦の再会。せっかくの機会ですので、今夜の生産活動について、私から最適解をご提案したく」

 

「不要です」

 

「まだ詳細をご説明しておりませんわ」

 

「不要です」

 

「ですが、この『後方四八度』の構図は、人体の曲線美、摩擦係数の最適化、重心の安定、快感効率の最大化、そして翌朝の腰痛リスク低減まで全てを計算し尽くした、現時点における私の最高傑作でして」

 

「不要だと言っています」

 

私は紙束を受け取らずに一瞥した。

 見ただけで理解できる。異常なまでに精密だ。人体工学の観点からは確かに成立している。しかし、部下が上司夫婦の寝室に分度器と計算式を持ち込む時点で、組織の倫理規定は完全に破綻している。

 

「蔡文姫」

 

「はい」

 

「貴女の業務範囲は、冀州の行政、軍事、監査、情報管理です。私と本初の夜間における私的な活動は、監査対象外です」

 

「しかし、トップの心身の状態は組織のパフォーマンスに直結いたします。夫婦生活の効率化は、広義の経営改善計画に含まれるのでは?」

 

「詭弁ですね」

 

「美しい詭弁ですわ」

 

「美しかろうが却下です」

 

袁紹の顔はもはや蒼白を通り越していた。

 

「ほら見ろ! この有様だ! 俺の寝室にまで定規と分度器を持ち込んでくるんだぞ! 俺の身体は測量対象ではない!」

 

「袁紹様、測量ではありません。最適化のプロセスです」

 

「結果は同じだ!」

 

「違います。測量は現状把握、最適化は未来への改善提案です」

 

「改善される側の同意を先に取れ!」

 

「母上。蔡文姫殿の提案は、本人の同意欠如と職務領域の逸脱という致命的な瑕疵がありますが、取得されたデータ自体は参考資料になるのでは」

 

「譚」

 

「はい」

 

「それ以上口を挟むなら、貴方の婚姻時における初夜の行動規則を、私が百ページにわたって作成し、暗記させますよ」

 

「申し訳ありませんでした。先程の発言は完全に撤回いたします」

 

「譚、今のは極めて正しい撤退だ。戦場では引き際の判断が命を繋ぐ」

 

「はい、父上。身を以て学びました」

 

「無念ですわ。せっかく、袁紹様の悲鳴が苦痛から幸福寄りへと推移する波形の変化も計算しておりましたのに」

 

「その発想の根源からして間違っています」

 

 やはり、常軌を逸する速度が上がっている。冀州という広大な実験場を与えたことが引き金となったのか。あるいは、本来彼女の中にあった歪みが、十分な権限と予算を与えられたことで開花しただけか。

 

「蔡文姫、少し環境を変えた方がいいかもしれませんね」

 

「転属の辞令ですか?」

 

「まだ検討の段階です」

 

「私、李司様のもとでならば、いかなる辺境へも赴きますわ。許昌での寝室監査業務でも」

 

「それは天地がひっくり返ってもあり得ません」

 

「頼む、こいつを許昌へ持って帰ってくれ」

 

「本初、彼女は極めて優秀な人的資産です」

 

「優秀すぎて、周囲の人間がすり減っていくのだ」

 

「それは運用方法の誤差です」

 

「俺の精神を調整用の実験台にするな」

 

 

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翌日、城外の空気がざわめきを孕んだ。

 城門の上から見下ろすと、地平線を黒く染め上げるように軍勢が動いている。

 かなりの規模だ。翻る旗には『劉』の文字が記されている。

 

劉備玄徳。

曹操の資金と兵力、さらには貴重な蜂蜜を持ち逃げし、交州で売り捌いた後、益州方面へ流れたと認識していた男。それがなぜ、突如として河北の地に現れたのか。

 

 しかも、兵数が異常に膨れ上がっている。寄生虫の分際で、宿主を食い破る速度が早すぎる。

 

「本初」

 

「何だ」

 

「あれは、どういう事象ですか」

 

「俺が聞きたい」

 

 八万。ざっと見積もってもその程度の数はいる。装備は統一されておらず雑多だが、奇妙な熱気と活気に満ちている。

 

 劉備の軍勢は、規律ある正規軍というより、彼の人たらしという病に感染した巨大な移動市場のようだった。商人、傭兵、流民、元兵士、現地で吸収した若者。その全てが、ただ一つの旗の下に吸い寄せられている。

 

 どうやってこれほどの混沌をまとめているのか、理解できる気もするし、永遠に理解したくもない。

 

 先頭の馬上で、劉備が大きく手を振っている。

 その顔に張り付いた笑顔は、多額の負債から逃亡中の債務者のそれではない。新たな投資家を見つけた起業家の、腹立たしいほど晴れやかな笑顔だ。

 

「おーい! そこの立派な城壁の上の方々! 俺が漢の皇叔、劉備玄徳だ! 曹操という労働環境の劣悪な職場から独立して、同じ反曹操の志を持つ袁紹殿を頼ってきたぜ!」

 

袁紹の眉間の皺が深くなる。

 

「俺はまだ採用など一言も口にしていないが」

 

「細かい条件は会ってから詰めようや! 八万の兵力付きで再就職だ! こんなお得な人材パッケージ、乱世でも滅多にお目にかかれないぞ!」

 

お得。

 あの男は、八万の混沌を連れて他人の陣営へ転がり込もうとしながら、自らを「お得」と称した。ある意味、その面の皮の厚さは天下の覇を競える水準にある。

 その時、劉備の視線がふらりとこちらへ向いた。

 視線が交差する。

 馬上の劉備の笑顔が、顔に張り付いたまま不自然に引き攣った。

 

「……ん? あの底冷えする目つき、どこかで見覚えがあるな。帳簿の角と剣の刃で物理的に人を殺しそうな、あの立ち姿……」

 

劉備の額から一筋の汗が流れるのが見えた。

 彼は瞬時に馬の横腹に身を滑らせ、自らの姿を隠した。その反射速度の異常な速さは、危険察知能力だけが極限まで研ぎ澄まされている証左だ。

 

「げっ。李司がいる。許昌で留守番してるって話じゃなかったのかよ。まずい、蜂蜜と兵と金の件、絶対にまだ帳消しにしてないやつだ」

 

風に乗って、焦りに満ちた声が微かに届く。

 自覚がある。ならば悪質性は極めて高い。

 

「朱霊! 路招! 盾だ! 俺の前に壁を作れ! 債務者の顔は見えなかったことにしてやり過ごせ!」

 

劉備の周囲から、見慣れた将が二人、馬を進み出てきた。

 曹操軍の将であったはずの、朱霊と路招だ。その動きは、完全に劉備の指揮下に組み込まれた者のそれだった。忠誠心の書き換えが完了している。

 

「社長をお守りしろ!」

 

「劉備様の姿を完全に隠すんだ!」

 

私は城壁の上から、冷ややかな視線で見下ろした。

 

「社長……?」

 

孟徳の資産を食い潰して起業した自覚があるのなら、罪状はさらに重くなる。

 

「許昌で拝見した時より、さらに胡散臭さの純度が上がっていますね」

 

「ええ。他者の資産を吸い上げて肥大化しています。寄生虫としては、ちょうど成長期にあたるのでしょう」

 

「あれほどの寄せ集めでありながら、軍勢の士気は異常に高いようです」

 

「そこが最も厄介な点です。被害者が、自分を被害者だと認識していない」

 

「人たらしの極致ですね」

 

「褒めているわけではありません」

 

本初は眼下の兵数に目を走らせ、深く腕を組んだ。

 河北の頂点に立つ男の目が、純粋な欲望と打算で揺れ動いている。

 

「李司。あれをここで殺すか、それとも雇い入れるか」

 

「私であれば、城門を開く前に弩兵を隙間なく配置し、劉備本人だけを狙撃させます。名付けて、殺虫剤の散布です」

 

「残された八万の兵はどうする」

 

「核となる指揮官を失えば自壊します。朱霊と路招の所有権を再回収し、残存兵力は選別した上で吸収すれば問題ありません」

 

「相変わらず、一切の容赦がないな」

 

「横領犯に対して払う礼儀は持ち合わせていません」

 

蔡文姫が背後から、吐息のような声で囁いた。

 

「劉備殿の首を物理的に落とすのであれば、城門前に半円形の弩兵配置を推奨いたしますわ。逃走経路を一箇所だけ意図的に残し、そこに深めの落とし穴を掘ると、非常に美しい死の導線が完成します。穴の底には、竹槍を螺旋状に配置して……」

 

「蔡文姫、発言を許可していません。貴女が計画に加わると、処刑の現場が前衛的な美術展に変貌します」

 

「それは残念ですわ」

 

「しかし、即戦力八万という数字は魅力的だ。曹操と事を構えるにあたり、兵の数はどれだけあっても困ることはない。劉備本人は欠片も信用できんが、あの異常な人心掌握力は手駒として使える。ここは一度、吸収合併を検討すべきではないか」

 

「安易に雇い入れれば、内部から組織を食い破られますよ」

 

「分かっている。だが、使い捨ての前線部隊として最前線に配置するなら」

 

「あの男を使い捨てるつもりで雇い入れた者は、大抵の場合、先に自分の財布を使い捨てられる結果に終わります」

 

「……それは絶対に避けたい」

 

袁紹が再び胃の辺りを押さえた。薬の袋を探す指が微かに震えている。

 

 ここで劉備を殺す。短期的には最も安全な処理だ。

 しかし、八万の兵の統制を失い、彼に絡め取られている朱霊と路招の再回収にも手間がかかる。加えて、劉備は腐っても『皇叔』というブランドを掲げている。無造作に処理すれば、世論という名の見えない負債を抱え込むことになる。

 

 一方、雇い入れる。

 短期的には手持ちの兵力が大幅に膨れ上がる。孟徳に対する強烈な嫌がらせの駒としても機能するだろう。

 

 しかし、内部に寄生されるリスクは跳ね上がる。本初の金庫は、すでに蔡文姫の異常な公共事業によって少なからず傷んでいる。ここに劉備という巨大な消費器官を繋ぎ合わせれば、財務担当者は血の涙を流すだろう。

 

「本初」

 

「何だ」

 

「雇うのであれば、固定給ではなく完全な成果報酬制にしなさい。兵糧の支給は最低限に絞る。行動範囲は厳密に限定。そして彼の部隊の帳簿は、全て蔡文姫の監査下に置くこと」

 

「あの劉備が、そのような厳しい条件を呑むか?」

 

「最初は呑みます。内部に入り込むことを最優先にするからです」

 

「その後は?」

 

「必ず契約の抜け道を探し始めます」

 

「それでは意味がないではないか」

 

「だからこそ、息の詰まるような監視が必要なのです」

 

「父上、母上。私に最初の交渉役をお任せいただけませんか」

 

「譚が?」

 

「はい。劉備殿の言葉の組み立て方は、多少なりとも分析しています。許昌で彼が講義していた時、その構造を観察しておりました」

 

「お前、あの男から本当にどんな技術を吸い上げているのだ」

 

「相手に得をしたと錯覚させながら、自分の逃げ道だけは確保する技術です」

 

「それを実の父親の前で堂々と申告する神経はどうなっている」

 

 暗い炎を宿した、良い目だ。私の教え込んだ冷徹な計算と、劉備から学んだ図太さ。劇薬同士の混合だが、盤上の駒としては十分に使える。

 

「許可します。ただし、単独での最終決定は禁止。私と蔡文姫が後方から推移を観測します」

 

「承知いたしました」

 

「相手の人の良さそうな笑顔を、一ミリも信用してはなりません」

 

「はい」

 

「『皇叔』という肩書に、無駄な配慮を見せないこと」

 

「はい」

 

「自身の財布の位置を、常に意識しなさい」

 

「はい」

 

「あと、どれほど耳障りの良い言葉で褒めちぎられても、絶対に契約書に判を押してはいけません」

 

「母上、さすがにそこまで愚かではありません」

 

「劉備を相手にする時、『さすがに』という油断は命取りになります」

 

「肝に銘じます」

 

「息子が頼もしいのは喜ばしいことだが、育ち方の方向性が少しだけ怖い」

 

 劉備はまだ馬の陰に身を隠している。朱霊と路招が盾を構え、借金取りから身を守るような見苦しい防壁を構築していた。

 見苦しい。

 だが、その見苦しさを武器にして、彼は今日まで生き延びてきたのだ。

 

「劉備玄徳」

 

私は城壁の上から、冷ややかな声を響かせた。

 

「隠れても無駄です。貴方が抱える債務、横領した資金、兵力のロンダリング、蜂蜜の無断売却益。その全ては、一文の狂いもなく帳簿に記録されています」

 

盾の隙間から、劉備の声が返ってくる。

 

「いやぁ、李司殿! お久しぶり! 相変わらず息を呑むほどお美しい! その氷のように冷たい目で見つめられると、俺の財布の中身まで凍りついちゃいそうだよ!」

 

「薄っぺらい世辞で、利息が減額されることはありません」

 

「そこを何とか! 今回は袁紹殿への純粋な就職活動で伺っただけだから! 過去の行き違いは水に流して、未来志向の建設的な話をしようじゃないか!」

 

「貴重な蜂蜜も、水に流したと申すのですか」

 

「あー、甘い水として胃袋に流れたかも」

 

「本気で殺しますよ」

 

「ごめんなさい!」

 

城壁の上で、本初が深く顔をしかめた。

 

「会話の応酬だけで、ひどく精神を消耗する男だな」

 

「ええ。だからこそ、優れた寄生虫なのです」

 

「でも、あの泥まみれの生命力は美しいですわ。どれほど逃げ場を塞いで追い詰めても、必ず次の宿主を見つけ出す。社会性を備えた害虫として、完璧な完成度を誇っています」

 

「貴女の美の基準は、相変わらず独特ですね」

 

「可能であれば、生きたまま標本にしたいですわ」

 

「殺さずに観察にとどめなさい」

 

袁紹の肩が小さく震えた。

 

「今、殺さずに観察と言ったか。標本化を前提としている女に向かって」

 

「言いました」

 

「俺の周囲には、恐ろしい女しかいないのか」

 

「本初。貴方が真に河北の覇者として君臨するためには、この程度の混沌を飼い慣らす必要があります」

 

「この程度、だと?」

 

「蔡文姫、劉備、麹義、田豊、袁譚、そして私。これら全てを盤面に配置し、それでもなお己の意思で決定を下せるなら、貴方は本物の頂点に立つ器です」

 

「課せられる試練が重すぎる」

 

「時価総額に見合った当然の負荷です」

 

「俺は、もう少し規模の小さな会社の社長でよかったのかもしれん」

 

弱音を吐きながらも、袁紹の目は城外の軍勢をしっかりと見据えていた。その瞳の奥に、かつて公孫瓚を打ち破った覇者の色が微かに戻っている。

 摩耗し、壊れかけてはいるが、芯の強さはまだ残っている。

 

「よし。劉備を陣営に入れる。ただし、厳密な条件付きだ。顕思、前線で交渉しろ。李司、抜け穴のない契約書を作成しろ。蔡文姫、即座に監査体制を構築せよ」

 

「ようやく、経営者らしい指示が出ましたね」

 

「褒め方に棘しか感じないのだが」

 

「事実を述べたまでです」

 

袁譚が一礼し、城門へと向かう。

 若く細い背中だが、歩みに迷いはない。私が時間と労力をかけて育て上げた資産としては、十分に機能するはずだ。

 その眼下で、劉備が盾の隙間からひょっこりと顔を出した。

 

「おっ、若いのが来るな。あれが袁譚か? 大きくなったな。いい目をしている。財布の紐が岩のように固そうだ」

 

「社長、どう対応しますか」

 

「基本に忠実にいく。まず徹底的に褒める。次に隙を突いて笑わせる。最後に、しれっと飯を要求する」

 

「いつもの定石ですね」

 

「基礎の反復こそが生き残る道だ」




最後まで読んでくださってありがとうございました。
今回は、蔡文姫による易京攻略と、河北に転がり込んできた劉備の再就職騒動でした。
袁紹の胃がどこまで耐えられるのか、袁譚はどの方向に育ってしまうのか、そして劉備は本当に監査に耐えられるのか。
よろしければ、好きだった場面や、蔡文姫・劉備・袁紹の誰が一番ひどかったかなど、気軽に感想をいただけると嬉しいです。
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