三国志異伝~演算する剣鬼(守銭奴)~最強の秘書官・李司が通る道には死体と領収書しか残らない~   作:斉宮 柴野

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義は、果たして信じるものか。
それとも、利用するものか。

群雄割拠の乱世において、
「義」を語る者こそ、最も計算に長けている。

これは、理想を掲げる者たちが、
その裏で何を選び、何を捨てたのか――
その記録である。


第四十話:愛の選択、号泣する英雄、連行される詐欺師

【冀州 袁紹の寝室】

 

 

河北の覇者たる本初は、絹の掛け布団を固く握りしめ、浅い呼吸を繰り返している。

四十六歳。

 

四世三公の血筋。

河北四州を平らげた男。

 

天下の半数に手が届く、巨大な権力を持つ大諸侯。

経歴だけを並べれば、非の打ち所がない優良資産だ。

 

だが、今の彼の顔は、翌日の行事を恐れて震える子供のそれに等しい。市場価値は極めて高いというのに、内面的な含み損が計り知れないほど大きい。

 

「眠れませんか、本初」

 

眠れていないのは明白だった。

目の下に落ちた濃い隈。落ち着きのない視線。そして、枕元に散乱している精神を鎮めるための苦い薬包。トップとしての体調管理機能が完全に破綻している。

 

「り、李司……。いや、少し気が高ぶっているだけだ。明日は軍議もある。官渡の準備も大詰めだからな」

 

「睡眠の欠如は意思決定の精度を著しく落とします。トップの判断の乱れは、組織全体の致命的な損失に直結しますよ」

 

「それは理解している。だが、分かっていて眠れるなら苦労はしない」

 

この男は、名門という虚飾をどうしても捨てきれない。それでも、私の前では少しずつその塗装が剥がれ落ちていく。

 

投資対象として見るなら、それは好材料だ。見栄という過剰な装甲が削ぎ落とされた方が、本質的な価値が見えやすい。

 

「単刀直入に確認します。本初。貴方は本当に孟徳と全面戦争をするおつもりですか」

 

「……する」

 

「理由は」

 

「理由だと」

 

「はい。孟徳は、貴方が見積もっているよりも遥かに厄介な競合相手です。軍勢の規模や、領地、兵糧、名門としての価値。そのどれもが貴方に優位性があります。しかし、孟徳は地の底からでも勝ち筋を拾い上げる男です。通常の投資家であれば、ここで全面衝突は避け、長期的な優位を保つ戦略をとります」

 

「つまり、俺は戦わない方が得だと」

 

「損得勘定だけで言えば、その通りです。河北四州の地盤を固め、北方の流通を整え、財政基盤を安定させる。焦って南下する合理的な理由はありません。蔡文姫の公共事業が少々過剰に膨らんでいますが、それでも冀州の生産力は右肩上がりです。無理に決戦の火蓋を切る必要性は極めて薄い」

 

「少々……。あれを少々と言うのか」

 

「話を逸らさないでください」

 

本初は視線を彷徨わせる。

彼がこうして目を逸らす時、決まって言い訳の糸口を探している。

 

天下安泰のため。

漢室復興のため。

 

曹操の専横を正すため。

名門の背負う責務。

 

綺麗な言葉なら、いくらでも並べ立てることができるだろう。

けれど、今求めているのは、陳腐な大義名分ではない。

 

「本音を出しなさい。本初。いまさら格好をつけても、貴方の薬の消費量まで私は正確に把握しています」

 

「そこまで見透かしているのか……」

 

「妻ですから」

 

「妻なら、もう少し優しくしてくれてもいいだろう」

 

「優しさにも費用対効果が求められます」

 

「だからそういうところだぞ」

 

本初の手が、布団の布地をぎりぎりと締め上げる。

顔に朱が差していく。

 

それは怒りからくる熱ではなく、隠しきれない羞恥だった。

名門を背負う男が、天下の覇権を前にして、ひどく個人的な本音を吐き出そうとしている。その準備に、彼の心は激しく軋んでいた。

 

「……勝ちたいんだ」

 

「孟徳にですか」

 

「ああ」

 

「なぜ」

 

「あいつは、昔から俺の横にいた。俺より家格は劣る。俺より見た目も地味だ。俺より持って生まれた看板は小さい。なのに、気づけば皆があいつを見ている。戦でも、政でも、人の心でも……あいつは俺の欲しいものをことごとく持っていく」

 

「劣等感ですか」

 

「違うと否定したいが、たぶん違わない」

 

本初の瞳が、私を真っ直ぐに捉えた。

微かに潤んでいる。

 

「李司。俺は、お前も持っていかれた気がしている」

 

「私は所有物ではありません」

 

「分かっている。分かっているが、俺にはそう感じるんだ。孟徳はいつもお前の隣にいる。筆頭株主だの何だのと、偉そうに。お前もあいつのところへ戻る。俺のところに来ても、仕事が終われば許昌へ帰っていく。俺は河北の覇者なのに、自分の妻一人、独占できない」

 

「独占したいのですか」

 

「ああ」

 

本初の言葉に、もう逃げの色はなかった。

ただ一人の男としての顔がそこにある。

 

「俺は、お前を俺だけのものにしたい。董卓でも、呂布でも、孟徳でもない。俺だけを見てほしい。共有財産みたいな妻なんて嫌だ。俺は、俺の妻を独占したい」

 

「天下よりもですか」

 

「天下よりもだ」

 

「漢室よりも」

 

「漢室には申し訳ないが、今この瞬間の俺には、お前の方が重い」

 

「名門の矜持よりも」

 

「それも捨てる」

 

天下を二分する決戦の前夜。この男は大義を捨て、名門の面子を捨て、英雄としての建前を全て投げ捨てた。

 

あとに残ったのは、私を独占したいという、極めて個人的で、非合理的で、ひどく重たい欲求だけ。

 

面白い。

この価値は高い。

一般的な市場価格では到底測ることのできない、個別銘柄としての圧倒的な投資価値がそこにある。

 

「本初」

 

「……なんだ」

 

「貴方は、英雄としてはかなりの減点対象です」

 

「分かっている」

 

「天下を語らず、民を語らず、漢室も語らず、ただ妻を独占したいと願う。大義名分としてはあまりに雑です。プレゼン資料なら一瞥で差し戻しです」

 

「分かっていると言っただろう」

 

「ですが」

 

私はゆっくりと、本初の隣に腰を下ろした。

彼の表情が微かに強張る。こういう反応は、まだ可愛げが残っている。

 

「夫としては、合格点です」

 

「……本当か」

 

「はい。貴方が天下よりも私を選ぶというのなら、私も今回だけは貴方を選びます」

 

次の瞬間、大粒の涙が頬を伝って零れ落ちる。

河北の覇者が見せるこの涙は、投資家向けの説明会では絶対に公開できない類のものだ。

 

「李司……ほんとに、孟徳ではなく俺につくのか」

 

「今回は、私は本初陣営の李司として参戦します。孟徳の妻としてでもなく、貴方の妻として。貴方が私に示した独占欲を、確かな投資価値として評価します」

 

「投資価値……」

 

「愛と言い換えても構いません」

 

本初の表情が完全に崩れた。

大柄な男が、私の腰に縋りつくように顔を押し当ててくる。

 

やや重い。

しかし、今のこの状態は減点にはしない。

 

「李司ぃ……!俺は勝つ!絶対に孟徳に勝つ!そしてお前を俺だけの妻にする!」

 

彼の声が震え、部屋の空気をビリビリと震わせた。

 

「その発言は非常に危険です。負けた場合の処理が極めて複雑になります」

 

「今はそういう話をするな!」

 

「では、別の話をしましょうか」

 

私は本初の髪にそっと手を置いた。

彼は、もたれ掛かるようにしてひどく安心した表情を見せる。

天下を取る男としての危うさはあるが、夫としては非常に分かりやすい。

 

「私がついたからには、敗北など許しません。兵站、財務、諜報、前線運用、劉備の監視、蔡文姫の暴走制御。そのすべてを私が再設計します。貴方はトップとして、一切の迷いなく決断を下しなさい」

 

「ああ」

 

「それから、孟徳は必ず本気になります。あの男は私が敵に回ったと知れば、激しく号泣した後に燃え上がります。失恋と嫉妬は、彼の思考回路を異常な速度で回転させますから」

 

「号泣するのか」

 

「します」

 

「英雄なのにか」

 

「します」

 

本初の口元に、小さな笑みが零れた。

その笑みには、先程まで彼を苛んでいた不安の影は微塵もない。

 

「なら、あいつにも思い知らせてやる。俺だって、お前の夫だとな」

 

「ええ。大いに期待しています」

 

「李司」

 

「何でしょう」

 

「今夜は……その、俺のところにいてくれるか」

 

「明日の朝までであれば」

 

「十分だ」

 

「ただし、睡眠を優先します。戦前の過度な運動はパフォーマンスを著しく低下させますから」

 

「……分かった。分かったから、そんな真顔で釘を刺すな」

 

「トップの体調管理も私の仕事です」

 

「妻の言葉として受け取っておく」

 

「どうぞ」

 

本初は、ようやく掛け布団に身を横たえた。

私の手を固く握りしめたまま、決して離そうとしない。

 

独占欲というのは、実に面倒な感情だ。

けれど、それは時に人間を驚くほど強烈に突き動かす。

 

今回の私の投資判断は、決して合理性だけで導き出したものではない。

その自覚は十分にある。

 

だからこそ、絶対に負けるわけにはいきないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【許昌】

 

 

数週間後。

許昌にある孟徳の執務室へ、冀州から一通の封書が届けられた。

 

封蝋には李司の印が刻まれている。

書状を手にした瞬間、ざわめくような予感が曹操の胸を締め付けた。

 

郭嘉は部屋の隅で静かに茶を啜り、荀彧は山積みの書類に目を落とし、程昱は壁の地図を睨んでいる。

 

その全員の意識が、封を切る孟徳の指先に集中していた。

文字を追うごとに、孟徳の血の気が引いていく。

赤く染まり、青ざめ、白く抜け、最後には生気のない土気色へと変わっていく。

 

「……嘘だろ」

 

かすれた声が、乾いた空気に溶けた。

手紙の文面は、酷薄なほど淡々としている。

 

『拝啓、孟徳。厳密なる計算の結果、今回の官渡における決戦は、本初の陣営につきます。彼の方が今の私に対して示す独占欲が強く、投資価値が高いと判断しました』

 

手紙を持つ指先が、小刻みに震え始める。

 

『よって、戦場で会う時は完全に敵同士です。死にたくなければ、負けを悟った時点で潔く降伏しなさい。貴方の命くらいは、私が本初に助命嘆願してあげます』

 

「命くらいは……命くらいはって何だよ……」

 

『逆に、万が一そちらが勝った場合は、本初と袁譚を傷つけず保護するように。彼らは私の大切な家族です。勝ったからといって雑に処理したら、後で貴方の寝所に監査に入ります』

 

曹操の肩が、抑えきれない痙攣を起こす。

 

『追伸。貴方のことも変わらず愛しています。分散投資の一環として。ですので、あまり泣かないように。泣き顔は極めて見苦しく、英雄としてのブランド価値が暴落します』

 

その最後の一文で、曹操の膝が限界を迎えた。

 

「うわぁぁぁぁぁぁん!」

 

天下の奸雄たる男の口から、およそ似つかわしくない絶叫のような泣き声が執務室に響き渡る。

荀彧は静かに瞼を閉じ、程昱は無言で天井を仰いだ。

郭嘉だけが、面白そうに唇の端を歪めて茶器を置く。

 

「殿が泣いておられますね」

 

「見れば分かる!奉孝、何とかしろ!総大将が開戦前に妻から敵対通知を受けて号泣しているのだぞ!」

 

荀彧の声には、深い疲労の色が滲み出ていた。

曹操は机に顔を伏せたまま、手紙の端をくしゃくしゃに握りしめる。

 

「ひどい……ひどすぎる……!俺だって愛しているのに!天下と同じくらい愛しているのに!いや、天下より少し上くらいの日もあるのに!なぜ本初なんだ!あんな優柔不断で、酒ばかり飲んでいる男のどこがいいんだぁ!」

 

「殿。言葉の端々で本初殿への評価が失礼です」

 

「うるさい文若!俺は今、夫として深く傷ついているんだ!政治的配慮なんか知るか!」

 

郭嘉の冷ややかな声が、熱を帯びた空気を切り裂く。

 

「ご安心ください。これは悪いことばかりではありません」

 

「どこがだ!正妻が敵に回ったんだぞ!しかも内容証明みたいに淡々と!」

 

「殿は極度の負けず嫌いです。李司様を奪われた、もしくは一時的に独占契約を失ったという強烈な失恋の刺激により、脳内物質が異常活性化します。結果として、戦場での判断速度と執念が飛躍的に向上する可能性が高い」

 

「俺を実験動物みたいに分析するな!」

 

「愛は強力な戦力です」

 

「それを言うならこっちに来てくれればよかっただろうが!」

 

曹操は椅子を蹴り立てるように立ち上がり、執務室の中を落ち着きなく歩き回り始めた。

涙をぼろぼろと零しながらの徘徊。

歴史の裏側でしか拝めない、滑稽で哀れな光景だ。

 

「そもそも本初の独占欲が高いから何だ!俺だって独占したい!でも李司が勝手に夫を増やしたんだろうが!董卓、本初、呂布、俺!俺は筆頭株主なのに、年々議決権が薄まっているんだぞ!」

 

荀彧が、小さく息を漏らす。

 

「そこは同情の余地があります」

 

「だろう」

 

「ただ、殿も側室を増やしすぎです」

 

「それは別腹だ!」

 

「その認識が李司様の投資判断に影響したのでは」

 

「ぐっ」

 

曹操は己の胸を強く押さえた。

急所を正確に突かれた痛みが、その顔に表れている。

郭嘉が、床に落ちた手紙を拾い上げる。

 

「しかし、李司様は極めて論理的に条件を書いておられます。本初殿と袁譚殿を傷つけるな、と。これはつまり、李司様は殿が勝つ可能性も十分に見越しているということです」

 

「……そうか」

 

「はい。完全に袁紹陣営の勝利しか想定していないのなら、このような保険は不要です。むしろ、殿の力に対する信頼の証です」

 

「俺への信頼……」

 

「李司は、俺が勝つかもしれないと見ている……」

 

「その通りです。そして、勝った場合に袁紹殿を保護しろという条件は、殿が勝者として李司様を取り戻す未来をも織り込んでいる」

 

「取り戻す……」

 

曹操の纏う空気が、一変した。

泣き腫らした惨めな目はそのままに、その奥底でどす黒い炎が爆ぜる。

郭嘉は満足げに目を細めた。

 

「そうだ。俺が勝てばいいんだ。官渡で本初を完膚なきまでに破り、李司に思い知らせてやる。俺の方が、夫としても英雄としても遥かに上だと!」

 

「その意気です」

 

「俺は泣いてなどいない!」

 

「激しく泣いておられます」

 

「泣きながら勝つ!」

 

「それはそれで兵の士気に響きますので、顔は洗ってください」

 

荀彧が冷たい布を差し出す。

 

「奉孝、文若。軍議だ。李司が敵に回るなら、本初軍の弱点も根本から変わる。あいつは兵站を完璧なまでに整え上げる。劉備のような不良債権も無理やりにでも働かせるだろう。蔡文姫の変態的な計算も、李司がある程度実用レベルに制御するはずだ」

 

立ち直った曹操の思考は、恐ろしいほどに速い。

感情という無尽蔵の燃料を得て、彼の頭脳は限界を超えて回転し始める。

 

「だが、李司には致命的な弱点もある。身内を切り捨てられないことだ。本初、袁譚、蔡文姫、劉備ですら、利用価値があるうちは手元で守ろうとする。そこを容赦なくつけ込む」

 

「劉備も身内扱いですか」

 

「不良債権扱いだろうが、己の管理下に置くなら死なせはしない。あの男を盤上でどう使い潰すかが鍵だ」

 

郭嘉が深く頷く。

 

「殿、ぱふぉーまんすが上がってまいりましたね」

 

「その妙な言い方をやめろ」

 

「失恋は極上の劇薬です」

 

「殺すぞ」

 

「李司様に怒られますよ」

 

「……くそっ!」

 

曹操は、手の中の手紙をもう一度睨みつける。

最後の『変わらず愛しています』という一文を、指の腹で強く擦った。

分散投資の一環として、という忌々しい注釈は、今だけは視界から弾き出す。

 

「待っていろ、李司。俺が勝って、お前を必ず取り戻す。ついでに本初の無様な泣き顔も拝んでやる」

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【冀州】

 

 

深夜。

本初軍の大陣が深く寝静まる頃、馬小屋の裏手で不審な影が蠢いていた。

 

劉備玄徳である。

彼は大きな風呂敷を背負い、馬の鼻面を宥めるように撫でながら、ひそひそと語りかけている。

 

「いいか、声を出すなよ。俺たちはこれから自由を取り戻すんだ。袁紹と曹操がガチで殴り合うなんて、どっちに転んでも危険すぎる。こういう時は、勝ち馬に乗るんじゃない。戦場から降りるんだ。分かるな」

 

馬に言葉が通じるはずもない。

それでも劉備の横顔はひどく真剣だった。

 

「袁紹軍にいれば曹操に狙われる。曹操軍に戻れば横領で首が飛ぶ。なら、南の荊州あたりに避難だ。劉表は甘そうだし、あそこならしばらく飯にありつける。いやあ、俺の危機管理能力、惚れ惚れするね」

 

彼が馬の手綱を引こうとしたその瞬間、私は背後から彼の襟首を正確に掴み取った。

逃げ足だけは一級品だが、逃走前の念入りな準備が命取りだ。

 

「こんな夜更けに、どこへ行くおつもりですか。皇叔」

 

「ひぇっ」

 

劉備の全身が硬直した。

首だけを不自然に振り向かせる顔は、同情を誘うほど見苦しい。

 

「や、やあ李司殿。こんばんは。いや、ちょっと夜風に当たりながら厠へ」

 

「厠は反対方向です」

 

「馬も厠へ」

 

「馬用の厠はありません」

 

「じゃあ散歩」

 

「荷造り済みの散歩ですか」

 

「健康に気を使って」

 

「その風呂敷の中身は何です」

 

「夢と希望」

 

「開けなさい」

 

「現実と小銭です」

 

私は彼から強引に風呂敷を奪い取った。

中には金、干し肉、地図、簡易帳簿、身分証、替えの服。そしてどこかからくすねたと思われる小型の蜂蜜壺まである。

 

逃亡セットとしての完成度が高すぎる。

腹立たしいほどに実務的だった。

 

「逃亡準備が完璧に整っていますね」

 

「いや、違うんだ。これは万が一の災害対策袋で」

 

「災害とは官渡のことですか」

 

「天下分け目の大災害だろ」

 

「正直なのは良いことです」

 

「褒めても見逃してくれない」

 

「絶対に見逃しません」

 

私は劉備の襟首を掴んだまま、陣の奥へと歩き始める。

彼は地面に足を踏ん張って抵抗するが、体重そのものが軽い。人間としての質量はごく普通だ。借金と抱える兵力だけが無駄に重い。

 

「劉備殿。貴方が冀州へ連れ込んだ八万の兵の多くは、元々は孟徳の資産です。さらに道中で各地の人材と物資を吸い上げ、今では独自の生物兵器に近い集団へと変貌しています」

 

「ひどい言い方だなあ。せめて成長企業と言ってくれ」

 

「寄生型の成長企業です」

 

「悪化した」

 

「貴方は孟徳陣営にとっては許されざる横領犯。本初陣営にとっては高コストな客将。このまま何の利益も生み出さずに逃げれば、双方の陣営から優先的な処理対象にされますよ」

 

「世知辛い」

 

「自業自得です」

 

「何も言い返せない」

 

劉備は観念したように全身の力を抜く。

いや、ふりをしているだけだ。

 

この男は、絶望した顔を作りながらも、眼球だけは次の逃走経路を必死に探っている。

私は襟首を掴む角度を僅かに変え、気道を塞がない絶妙な力加減で彼の動きを封じた。

 

「苦しい苦しい。首のコンプライアンスが壊れる」

 

「壊れないギリギリの強度で掴んでいます」

 

「その精密さが怖い」

 

「明日の緒戦、貴方には先鋒を務めていただきます」

 

「……え」

 

「顔良、文醜の両将と共に、孟徳軍の最前面へ出なさい」

 

「ちょっと待て。顔良と文醜って、あの筋肉の化身みたいな二人だろ。会話が『殴る』『斬る』『飯』の三種類しかない猛将たちだろ」

 

「彼らは極めて優秀な武力アセットです」

 

「俺、そういう体育会系の空気は致命的に苦手なんだけど」

 

「問題ありません。貴方の役割は囮ですから」

 

「もっと深刻な問題があるだろ!」

 

劉備は泥に爪を立てる勢いで本気の抵抗を試みる。

四十近い男が、地面を引きずられながら労働拒否をする姿は、どんな歴史書にも記し難い無様さだ。

 

「貴方は孟徳軍に対して最大級のヘイトを抱え込んでいます。横領、裏切り、兵力私物化、蜂蜜の不正売却。孟徳軍の兵が貴方の姿を見れば、自然と攻撃の矛先が集中します」

 

「自然じゃなくて怨念だよね」

 

「その間に顔良と文醜が敵陣を切り裂きます。つまり貴方は、敵意を全て吸収するタンクの役割です」

 

「俺、英雄であって盾じゃないんだけど」

 

「現代の英雄は多機能であるべきです」

 

「ひどい時代だ」

 

私は歩調を緩めない。

劉備は無様に引きずられていく。

 

途中で夜回りの兵が目を丸くしてこちらを見るが、誰一人として止めに入ろうとはしない。

 

李司が劉備を引きずっている。

その異常な光景を見て口出しするほど、本初軍の兵は愚かではなかった。

 

「李司殿、考え直そう。俺は後方で応援するのが得意だ。あと士気を上げる演説もいける。最前線に置くより、後ろで『いけー!』ってやった方が費用対効果が高いって」

 

「貴方の演説は、放置するといつの間にか募金活動にすり替わります」

 

「少しだけなら」

 

「一切の許可は出しません」

 

「じゃあ、前線でもいいけど、せめて二列目で」

 

「最前列です」

 

「盾は」

 

「貴方自身が肉の盾です」

 

「防具は」

 

「顔良と文醜の巨大な筋肉の影に隠れなさい」

 

「あの二人、絶対に俺を守る気ないよ」

 

「大丈夫です。彼らには『劉備を死なせるな。死なせたら貸し倒れになる』と厳命しておきます」

 

「貸し倒れ扱いかあ」

 

「事実と違いますか」

 

「違わないのがつらい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

良と文醜は、深夜だというのに焚き火を囲んで大量の肉を喰らっていた。

明日の戦場を見据えたタンパク質の過剰補給だそうだ。

 

蔡文姫が考案したという奇妙な曲線を描く武器を、二人ともやたらと気に入って傍らに置いている。

 

「おう、李司様。そいつが明日の囮か」

 

顔良が肉を咀嚼しながら劉備を見下ろす。

文醜も同じように劉備を見た。

 

どちらの瞳にも確かな知性は宿っているが、思考の方向性が完全に物理的な破壊に偏っている。

 

「ええ。丁重に扱いなさい。極めて高額な債権ですから」

 

「債権って人間のことか」

 

「この男の場合は、ほぼ債権という認識で間違いありません」

 

「なるほどな」

 

劉備が露骨に顔をしかめる。

 

「そこ、納得しないでくれる」

 

文醜が立ち上がり、劉備の肩を無造作に叩いた。

力加減という概念が欠落しており、劉備の膝がカクンと沈み込む。

 

「安心しろ、皇叔。俺たちが前で派手に暴れてやる。お前は敵の恨みを一身に集めてくれればそれでいい」

 

「それが一番不安なんだよ」

 

「敵に死ぬほど狙われるのも才能だ」

 

「そんな才能いらない」

 

顔良が巨大な剣を肩に担ぎ上げる。

 

「曹操軍には関羽と張飛がいるんだろ。お前の義弟だよな。助けてくれるんじゃないか」

 

「助けてくれるかな……いや、あいつら、俺が何度も置き去りにしたから激怒してるかも」

 

「何回置き去りにしたんだ」

 

「具体的な回数を聞かれると少し困る」

 

文醜が豪快に笑い飛ばす。

 

「じゃ大体、明日は感動の再会だな」

 

「殺意に満ちた再会かもしれない」

 

「どっちにしても戦場は盛り上がる」

 

「俺の命で盛り上がらないで」

 

私は懐から一枚の木札を取り出し、劉備に突きつけた。

 

「これは何」

 

「貴方の背中に取り付ける識別用の札です」

 

「何て書いてあるの」

 

「『劉備玄徳。高額債務者。生け捕り推奨。ただし逃走時は容赦なく足を狙え』です」

 

「外していい?」

 

「外した場合は首に焼き印を押します」

 

「付けます」

 

顔良と文醜が腹を抱えて爆笑する。

劉備は魂を抜かれたような虚ろな顔つきになった。

 

それでも、目の奥の光はまだ完全に死んではいない。

この男は、崖っぷちに追い詰められるほどに泥水を啜ってでも生き延びようとする。

 

だからこそ、極上の囮として機能するのだ。

 

「李司殿」

 

「何でしょう」

 

「俺が明日、無事に生き延びて大功を立てたら、借金を少しは減らしてくれるか」

 

「成果次第で検討します」

 

「じゃあ、曹操軍の将を一人でも寝返らせたら」

 

「適正に査定します」

 

「関羽か張飛を説得できたら」

 

「不可能でしょう」

 

「即座に言い切ったな」

 

「彼らは今、こちらよりも向こうでの待遇が遥かに良い状態です。関羽殿には最高級の髭の手入れ油、張飛殿には私の秘書官としての安定した給与と慰労品が支給されています。貴方についていく経済的な合理性が皆無です」

 

「義兄弟の情は」

 

「貴方がこれまでに何度も担保に入れて消費しました」

 

「ぐうの音も出ない」

 

私は劉備の風呂敷を顔良に手渡す。

 

「これは担保としてこちらで厳重に保管します」

 

「俺の夢と希望が」

 

「現実と小銭でしょう」

 

「そこは言い直さなくていい」

 

劉備はとうとう力尽きたように座り込んだ。

逃げ道が完全に断たれたと理解すると、彼は瞬時に思考を切り替える。

 

この恐るべき切り替えの速さだけは、高く評価できる。

人間としては最低だが、生存能力においては極めて有能だ。

 

「分かった。やるよ。どうせ逃げても捕まるなら、前線で派手に立ち回ってやる。曹操軍の連中に『劉備ここにあり』って見せつけて、逆にビビらせてやるさ」

 

「その意気です」

 

「ただし、報酬は確実に出してくれよ」

 

「生存そのものが報酬です」

 

「ブラック企業!」

 

「貴方にだけは言われたくありません」

 

 

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

【本初軍・軍議天幕】

 

 

 

夜明け前。

軍議の天幕に、本初、田豊、沮授、蔡文姫、顔良、文醜、袁譚、そして私が集結する。

劉備もいる。逃亡防止の措置として椅子は与えず、顔良と文醜の間に挟まれる形で立たせている。

 

「扱いが完全に罪人なんだけど」

 

「実質的にそうです」

 

「腐っても皇叔だよ」

 

「高額債務者です」

 

上座の本初は、昨夜の憔悴が嘘のように血色が良い。

私が明確にこちらへつくと決断したことで、精神のバランスが保たれている。

この驚くべき単純さは欠点でもあるが、開戦前においては極めて質の良い燃料となる。

 

「全軍の配置を最終確認する。顔良、文醜、劉備を先鋒として配置。中央は俺が直接指揮を執る。蔡文姫は弩兵と工兵の統括を。李司は全体の兵站と緊急時の指揮補佐。顕思は母の補佐をしつつ、機を見て騎兵を動かせ」

 

「承知いたしました」

 

顕思が力強く、淀みなく応じる。

若いながらも、その眼差しには確かな落ち着きがあった。

本初の目元が和らぐ。

 

覇者としてではなく、父としての顔が微かに覗いている。

 

「孟徳軍は兵力こそ少数ですが、指揮官の質が圧倒的に高い。特に郭嘉、荀彧、程昱の知的資産は決して侮れませんわ。そして、孟徳様本人は失恋の反動により、通常よりも凶暴化している可能性が極めて高いです」

 

「失恋の反動って何だよ」

 

劉備が呆れたように呟く。

 

「妻が明確に敵へ回ったことで、孟徳の脳内物質が過剰に分泌されています。思考の切れ味は増しますが、私に関連する挑発には脆くなります」

 

「なるほど。じゃあ俺が戦場で『李司は本初のものだー!』って煽ればいいんだな」

 

「絶対にやめなさい。貴方に孟徳軍全体の殺意が一点集中しすぎて、囮としての耐久限界を瞬時に超えます」

 

「ちぇっ」

 

「ただし、タイミングを見計らった限定的な挑発は有効に働きます」

 

「有効なのかよ」

 

「孟徳は、俺への嫉妬で動くか」

 

「動きます。ただし、孟徳は感情の炎で燃え上がっても、戦術の根幹は決して崩しません。そこが一番厄介な点です」

 

「分かっている。あいつは涙を流しながらでも、必ず勝ち筋を掴み取ろうとする男だ」

 

「その評価は極めて正確です」

 

兵力差は本初軍が圧倒的に有利。

しかし、孟徳は必ずこちらの兵站の喉首を狙ってくる。

 

大軍を維持する莫大なコスト。

烏巣のような巨大な補給拠点をいかにして守り抜くか。

 

劉備をどう消耗品として効率的に配置するか。

蔡文姫の歪な美学を、どこまで実戦の戦術に転用させるか。

 

そして、本初の精神状態をどう最後まで保たせるか。

山積する課題はあまりにも多い。

 

「本初」

 

「……なんだ」

 

「勝利の絶対条件は、貴方が途中で決して迷わないことです」

 

「分かっている」

 

「孟徳は、貴方の僅かな迷いを針の穴を通すように突いてきます。貴方が私を独占したいと願ったその強い感情は、最大の強さにもなり、同時に最大の弱点にもなります」

 

「弱さにもなる、か」

 

「はい。私を失う恐怖に囚われすぎれば、決断に致命的なノイズが生じます。逆に、私を得るために一切の躊躇なく前へ進むのなら、貴方は誰よりも強くなれます」

 

本初は深く、長く息を吸い込んだ。

その瞳から、一切の揺らぎが消え去る。

 

「俺は進む。孟徳を叩き潰して、お前を得る」

 

「よろしい」

 

 

愛も、戦争も、結局のところはリソースの適切な配分だ。

ただし、そこに人間の感情が絡むと、完璧な計算式も容易く狂い出す。

だからこそ、この世界は面白い。

官渡の戦いが、今、幕を開ける。




ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

この物語では、「義」や「王道」を掲げる人物たちの内面に焦点を当てました。

もしよろしければ、
・最も印象に残った人物
・共感できた/できなかった考え方
などを教えていただけると嬉しいです。

あなたにとって、「正しさ」とは何でしょうか。
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