三国志異伝~演算する剣鬼(守銭奴)~最強の秘書官・李司が通る道には死体と領収書しか残らない~   作:斉宮 柴野

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白馬で関羽の髭が散り、曹操軍には深刻なメンタル不調が発生。
一方、袁紹軍では顔良と文醜がまさかの体調不良に倒れ、李司の野戦オペが始まります。
そして劉備は、自分の首を守るため、またしても口先だけで地獄の商談に挑みます。


第四十二話:盲腸の手術と、髭オイルへの忠誠

【許昌】

 

白馬の敗報が届いてから、曹操軍の執務室にはどんよりとした湿り気がまとわりついている。

負けた事実そのものが痛いわけじゃない。兵も馬も武器も、帳簿の上で数字をこねくり回せばどうにか補填はきく。

 

厄介なのは、いつだって人間の心の方だよね。

 

ましてや、己のアイデンティティを髭に全振りしている武神の心なんて、想定の何倍も扱いづらい。

 

白馬の事後処理、官渡への補給線構築、袁紹軍の南下予測、それに汝南での黄巾残党の蜂起。

 

どれもこれも気が重くなる案件ばかり。そこへさらに、関羽という超高額アセットのメンタル不調まで乗っかっている。

 

経営者としては純粋に同情する。配偶者としては、もうちょっと普段から身内の衛生管理に気を配りなさいよと言いたいところだけど、今の私は袁紹陣営の人間だし。直接忠告してあげる義理もないかな。

 

「むう……白馬での損失処理がまだ終わらぬうちに、汝南で黄巾残党が蜂起か。劉辟め、よりによってこの時期に袁紹と呼応するとは。背後から尻を噛まれるとは、実に不愉快だ」

 

この男、感情的に見えがちだけど損切りは驚くほど速い。

関羽が髭を失い、顔良と文醜の不可解なポーズで前線を崩された時点で、即座に撤退の指示を出した。判断自体は完璧だ。

 

でも、その後に残される膨大な事務処理は、どれだけ正しい決断であっても胃の腑を……いや、精神を酷く重くする。

 

「汝南方面は放置できません。黄巾残党そのものは大した規模ではありませんが、袁紹軍が南下の圧をかけているこの局面で背後を荒らされると、兵站の信用が落ちます。市場で言えば、主力商品の販売中に倉庫が燃えるようなものです」

 

「嫌なたとえをするな、奉孝」

 

「実態に近いので。早めに鎮火しなければ、前線の兵たちが本拠地は大丈夫なのかと不安を持ちます。兵の不安は、配給量の不足よりじわじわ効きます」

 

「分かっている。だが、誰を向かわせる。夏侯惇も夏侯淵も主戦線から離しにくい。曹仁も動かしづらい。典韋は俺の護衛から外せん。子脩は別働で使うにはまだ惜しい」

 

視界の端で、布の塊が微かに揺れた。

人間だ。

 

関羽が極限まで己の体積を縮めようと膝を抱えている。

周囲を圧倒する巨体が小さく丸まっているのだから、かえって異様な圧迫感が生じている。

 

顎は布で厳重に覆われていた。

頬から下を完全に隠蔽し、発育途上の青髭を外界から遮断している。隠せば隠すほど周囲には痛々しさが伝播していくけれど、彼の精神衛生上、今は欠かせない防壁なんだろう。

 

「……拙者が参ります」

 

武神の咆哮というより、呪詛の類いに近い。

 

「雲長。いや、無理はせんでいい。お前は今、休養が必要だ。まずは髭……いや、心身の回復を優先してだな」

 

「今の拙者に、できることなど限られております。偉大なる髭を失ったこの身。曹公のために雑兵を掃くくらいしか、残された価値はござらぬ」

 

「雑兵というな。相手は反乱勢力だ」

 

「路傍の石、枯れた雑草、落ちた枝。それらを片づける程度なら、髭なき拙者にも可能でしょう。もし戦場で果てることがあれば、それもまた供養。せめて我が髭の冥福を……」

 

「死んだのは髭だけだ!お前は生きている!」

 

今の関羽は、論理的な言葉を受信できる状態にない。毛根が復活するその日まで、彼の自己評価は地の底を這いずり回るのだ。

 

郭嘉の気配が曹操に寄り添い、微かな空気の振動となって耳打ちする。

 

「殿。ここで止めすぎるのも逆効果です。自分にはまだ役目があると感じさせる方が、回復につながります」

 

「分かっている。分かっているが、あの目は完全に死地を探す目だぞ」

 

「では、過剰戦力をつけましょう。護衛を厚くし、本人には討伐任務という名のリハビリだと思わせる。無理をさせず、しかし武功は立てさせる。アセット価値の減損を防ぐには、稼働実績が必要です」

 

「お前、李司に似てきたな」

 

「便利な言葉を学びましたので」

 

曹操の視線が、苦味を噛み潰したように関羽へ向けられる。

 

「雲長。汝南へ行け。兵は五万つける」

 

「五万……?」

 

関羽の瞳の奥に、わずかな光が点る。

 

「黄巾残党相手に五万は多すぎるかと」

 

「大事を取る。お前は俺にとって重要な客将だ。髭が……いや、心が万全でない今、兵で支える。これは信頼の証だ」

 

「曹公……」

 

関羽の胸の奥で、確かな熱が脈打つのが分かる。

けれど、経営者としての曹操の次の一手が、痛恨のノイズになった。

 

「それと、つけ髭を手配している。到着するまで耐えてくれ」

 

関羽の瞳に点った光が、激しく明滅する。

 

「つけ髭……人工の……仮初めの魂……」

 

「だめか?」

 

「いえ……そのお心遣い、ありがたく……しかし、仮初めの髭に逃げるのは、武神としての誇りが……いや、でも、顎が寒い……」

 

無言のSOSが曹操の視線に乗って放たれたが、郭嘉は筆を走らせて事務処理を止めない。

 

「関羽殿の福利厚生として、つけ髭、育毛薬、専属髭師、オイル、香料。ただし香料は控えめ。前回の敗因として、香りの過剰主張が李司様に捕捉される原因となっています」

 

「そこまで分析するな。悲しくなる」

 

関羽の体が、亡霊のようにゆっくりと持ち上がる。

背筋の線だけは武神の矜持を保っていた。だが、その背に張り付いた虚無感はひどく重たい。

 

「曹公。このご恩、必ずや戦場でお返しします。たとえ髭なき身でも、関雲長、雑兵掃除に全力を尽くしましょう」

 

「だから雑兵掃除と言うな」

 

重鈍な足音を残し、関羽の気配が遠ざかる。

その痛々しい背中を見送った曹操は、両肘に深い疲労を預けていた。

 

「奉孝。俺は、優良資産を手に入れたと思ったんだ」

 

「今も優良資産です。ただ、髭という外部装置に精神を依存しすぎています」

 

「李司め……殺さずに価値を削るとは、やり方が悪辣すぎる」

 

「敵に回ると本当に厄介ですね」

 

「敵に回っていなくても厄介だ」

 

郭嘉は静かに肯定の沈黙を返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【袁紹軍 野戦病院】

 

消毒の薬効が漂う天幕の前で、本初の足音がせわしなく土を踏み鳴らしている。

軍議の席にいた時よりも顔色が優れない。いや、ここ最近はずっと不調の兆しがある。蔡文姫の医学的観察下に置かれた人間のバイタルサインは、総じて低下する傾向にあるのだ。統計を待つまでもない。

 

「何事だ!顔良と文醜が病で倒れるとは!あの二人、昨日まで元気に奇妙なポーズで敵の精神を削っていたではないか!」

 

「袁紹様。急性虫垂炎ですわ」

 

カルテ代わりの木簡をなぞりながら、蔡文姫が楽しげな響きを帯びた声で答える。

黒衣の上に医療用の前掛けという異様な出で立ちだが、本人の知的好奇心は満たされているようだ。

 

「虫垂炎……盲腸か?腹が痛くなるあれか?」

 

「ええ。顔良様と文醜様、どちらも右下腹部に強い圧痛、発熱、吐き気。特に文醜様は腹膜炎に移行しかけています。原因は、無理な幾何学ポーズの反復による内臓ストレスと、戦場後に肉を食べすぎたことによる消化器系の過負荷でしょう」

 

「肉を食いすぎて軍の二枚看板が倒れたのか!?」

 

「正確には、肉とポーズですわ。筋肉と内臓は仲良しではありませんの」

 

「何を言っているのか分からん!」

 

沸き立つ湯の中で手を清める。

煮沸した布、強い酒精の香り、火で炙った刃先、そして縫合用の糸。

 

設備としてはお粗末極まりない。でも、野戦の只中でこれ以上の環境を求めるのは非現実的だよね。

 

この時代において開腹手術は常軌を逸した所業。とはいえ、常識を守っていては腹膜炎の進行は止められない。

 

命の流出を塞ぐには、物理的に切り開くしかないのだ。

隣り合う粗末な寝台の上で、顔良と文醜が死相を浮かべている。

戦場を駆け抜ける猛将たちも、自身の体内から湧き上がる炎症の激痛には抗えないらしい。

 

「李司様……俺、死ぬのか」

 

「死にません。死なせると戦力計画が狂います」

 

「それ、励ましなのか?」

 

「事実です」

 

文醜が汗に塗れた顔を歪ませる。

 

「腹に刃を入れるって聞いたぞ。俺たち、敵に斬られる前に味方に開かれるのか」

 

「患部を取り除くだけです。不要な部位を切除する。経営で言えば、炎上した支店を閉鎖するようなものです」

 

「俺の腹の中に支店があるのか」

 

「虫垂支店です。赤字なので閉鎖します」

 

「怖ぇよ!」

 

金属の器具が陶器の盆に並べられ、硬い音が鳴る。

 

「麻酔は特殊な酒と薬湯を併用します。意識が飛ぶ直前、痛みと恐怖でどのような声が出るか、少し興味がありますわ」

 

「蔡文姫」

 

「はい、記録は業務に必要な範囲に留めます」

 

「趣味を混ぜないように」

 

「努力します」

 

時間との苛烈な闘いだ。

僅かな躊躇いが感染症のリスクを跳ね上げ、無駄な出血を招く。

 

メスを入れる。

患部を特定する。

血管を結紮する。

炎症部を切断する。

内部を洗浄する。

傷口を縫い合わせる。

 

工程を言葉にすれば単純だけど、これを乱れなく完遂できる人間はそういない。

 

まずは顔良から片付けよう。

刃先から伝わる筋肉の抵抗が重い。腹腔に達する前から、過剰な鍛錬の痕跡が指先に伝わってくる。蔡文姫が強要した異常なポージングに耐え抜いた肉体だけあり、組織の密度は驚異的だ。

 

だが、その内側にある臓器は悲鳴を上げていた。

熱を持った虫垂を切除し、出血点を押さえ、縫合の糸を走らせる。

 

文醜の処置も同様の手順。

こちらは周囲への癒着が進行しかけていたけれど、私の手技が間に合う範疇だった。

ついでに、腹筋周辺の組織の突っ張りを緩和し、関節の可動域を僅かに拡張する処置を施しておく。

 

人体を壊すような無茶な改造じゃない。戦場での異様な姿勢を維持する際の、肉体的負荷を減らすための微細な調整。

 

投資した時間と労力に対し、確実なリターンが見込める手技だ。

薬の匂いが充満する天幕を出ると、本初がすがりつくような勢いで距離を詰めてきた。

濡れた手袋を剥ぎ取る。

 

「騒々しいですね。本初」

 

「どうだった!顔良と文醜は助かるのか!俺の軍の二枚看板だぞ!あれを失うと時価総額が大幅に下がる!」

 

「問題ありません。虫垂は切除しました。炎症の範囲も洗浄済み。縫合も完了。二人とも生きます」

 

「おお!」

 

「ついでに、今後のポージングに耐えやすいよう筋肉の可動域も調整しておきました。戦闘効率は三割ほど上がる可能性があります。ただし、三日間は安静。一週間は過度なジョジョ立ち禁止です」

 

「ジョジョ立ち禁止令が医療指示として出る日が来るとは……!」

 

この人の感情の起伏は、隠すことなくそのまま表面に出る。

次の瞬間、彼は両腕を大きく広げて突進してきた。

 

「李司ーーー!お前は本当に俺の女神だ!兵法だけでなく、腹まで開けるとは!愛している!愛しているぞ!」

 

激突される直前、的確な角度で顔面に両手を添え、物理的に進行を阻む。

力を誤れば関節が外れるから、ベクトルには注意を払う。

 

「近い。不衛生です。術後の環境に唾液を撒き散らさないでください」

 

「むぐぐ!俺の愛が不衛生だと!?」

 

「愛情表現と飛沫感染は別管理です」

 

「もっと抱きしめさせろ!俺は感動しているんだ!」

 

「感動は請求書で表現しなさい」

 

ピタリと動きが止まる。

 

「請求書?」

 

「当然です。緊急手術二件、特殊酒を使った麻酔、煮沸布、器具消耗、縫合糸、術後管理、さらに可動域調整の特別技術料。通常の診療報酬に加え、軍事的アセット保全の成功報酬を乗せます」

 

「払う!いくらでも払う!顔良と文醜が助かったなら、金など惜しくない!」

 

「よろしい。では、冀州の今年度軍事予算からではなく、袁紹家の私費から落とします。公費で私への過剰報酬を処理すると、田豊に怒られます」

 

「田豊め、こういう時だけうるさいからな……。分かった。俺の財布から出す」

 

「優良顧客ですね」

 

「俺は夫だぞ!」

 

「支払い能力のある夫は、優良顧客でもあります」

 

「李司様。術後の経過観察は私が」

 

「任せます。ただし、傷口の治癒過程を芸術作品として観賞しないこと」

 

「……はい」

 

「今、間がありましたね」

 

「業務に必要な範囲で観察します」

 

「その言い回しは危険です。昭姫、患者を患者として扱いなさい。素材ではありません」

 

「善処いたします」

 

本初の顔に再び不安の影が差す。

 

「顔良と文醜、助かったのは嬉しいが、術後管理を蔡文姫に任せて大丈夫なのか?」

 

「大丈夫です。彼女は技術的には極めて優秀です。倫理が少し個性的なだけで」

 

「それが一番怖いんだが」

 

「私が監査します」

 

「なら安心だ」

 

目に見えて肩の力が抜けるのが分かる。

私への依存度が危険な領域に達しているわね。感情的な投資対象としての価値は認めるけど、経営的視点から見れば管理コストの肥大化が懸念されるところだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

バイタルが安定した直後、またしても厄介な負債の種が持ち込まれた。

 

劉備。

この男が関与する事象は、いかなる陣営においても帳簿の数字と人間の倫理を著しく狂わせる。

 

上座に腰を下ろす袁紹。

その傍らに控える私。

 

一歩引いた位置から観察を続ける蔡文姫。

彼らの視線の先で、後ろ手に縛られた劉備が引き据えられている。

 

拘束具の冷たさを肌で感じているはずなのに、その表情は商機を窺う老獪な商人のそれだ。この精神的なタフさは評価に値する。評価はするが、ひどく不愉快だ。

 

「劉備。細作から報告が入った」

 

「汝南の反乱鎮圧に向かう曹操軍の将が、関羽らしい。しかも白馬で顔良と文醜に当たったあの髭……いや、髭を失った男も関羽だったと聞く。お前は俺に、曹操と戦うと言った。だが義弟は曹操のために働いている。これはどういうことだ?」

 

劉備の眉が僅かに反応を示す。

だが、瞬時に無辜の被害者を思わせる誠実な仮面を被り直した。

この表情管理の速度、完全に熟練の詐欺師の領域に達している。

 

「袁紹様、それはとんでもない誤解でさあ。曹操って男は、底なしの悪党です。俺と袁紹様の固い絆を裂くために、関羽に似た大男を用意したんでしょう。青龍偃月刀も似せた偽物。赤い顔も化粧。つまり、悪質な偽装工作です」

 

「ほう。曹操が偽関羽を?」

 

「あり得ます。あの男は詩も書くし、演出も好きだ。偽の関羽くらい雇います」

 

私はただ淡々と、事実の刃を突きつける。

 

「劉備殿。関羽本人です」

 

「反応が早すぎます!」

 

「私が髭を刈りました」

 

「本人確認の方法がひどい!」

 

「顎の骨格、目線、青龍偃月刀の癖、赤兎馬への乗り方、そして髭喪失時の悲鳴。すべて本人と一致しています」

 

「悲鳴までデータ化するなよ」

 

袁紹の瞳に鋭い光が宿る。

 

「劉備。貴様、やはり俺を欺いたな」

 

「いやいやいや!欺いてない!俺も被害者!雲長のやつ、曹操の髭オイルに魂を売っているだけで、本心では俺を慕ってるはずで……あっ」

 

「髭オイルに魂を売っている?つまり関羽は曹操のもとにいるのだな?」

 

「今のは比喩で」

 

「ええい、この舌先三寸の小悪党を外へ連れ出せ!今すぐ斬れ!」

 

この絶望的な盤面からでも、彼は逆転の糸口を探り当てようとしている。

その執念深さだけは本物だ。

 

劉備は首を垂れ、不自然なほど肩を震わせ始めた。

笑い声が漏れる。

 

あまりにも芝居がかった、意図的な挑発の笑い。

 

「何がおかしい」

 

「ふ……ふはははは!」

 

引き上げられた瞳には、見る者を錯覚させる奇妙な引力が宿っていた。

窮地に立たされた詐欺師は、時として劇作の英雄のような輝きを放つ。そこがこの男の最も危険な特性だ。

 

「袁紹殿。俺を殺すのは簡単だ。今ここで首を飛ばせば、確かに気は晴れるでしょう。だが、それで何が手に入る?俺の首一つ。小汚い首だ。大して価値もない」

 

「自分で言うな」

 

「しかし、俺を生かせば話は変わる。関羽と張飛。この二人が手に入る」

 

極めて単純な誘惑。

だが、現在の袁紹軍の台所事情において、関羽と張飛という傑出したアセットの魅力は抗いがたい。顔良と文醜は術後の回復待ち。麹義の武力は頼もしいが精神的な摩擦係数が高すぎる。劉備軍の残存リソースはすでに吸収済みだが、あの二人の戦術的価値は別次元にある。

 

「雲長と翼徳は、俺と生死を共にすると桃園で誓った義兄弟だ。今は曹操のもとにいても、それは俺の所在を知らないから。俺がここにいると一筆書けば、必ず来る。必ずだ。曹操のもとを捨てて、俺のところへ駆けつける」

 

私は静観を貫く。

劉備のプレゼンテーションには常に誇張が混入しているが、ゼロから創り出された虚構ではない。

 

関羽と張飛の劉備に対する異常なまでの執着は事実。だが、そこに孟徳が提供する髭オイルという極めて強力なノイズが干渉している。

 

関羽の脳内で、義と福利厚生のどちらが優位に立つかが焦点だ。

劉備の弁舌はさらに熱を帯びる。

 

「俺を斬れば、関羽と張飛は袁紹様を恨む。特に張飛は見た目に反して頭が回る。必ず裏で策を打ってくる。関羽も、髭が戻れば鬼の強さだ。だが、俺を生かし、俺の手紙で呼べば、二人は味方になる。顔良、文醜、関羽、張飛。さらに俺という人望の塊。これ、天下最強のスターターセットでしょう!」

 

「人望の塊というより、粘着質の詐欺細胞ですわね」

 

「昭姫、表現が医学寄りすぎます」

 

「先ほどのオペの影響ですわ」

 

完全に商談のテーブルに着いてしまったわね。

資金力は潤沢だが、こうした実体のない青写真に簡単に投資してしまう。それが名門の弱点だ。

 

「確かに……関羽と張飛が手に入るなら、処刑するより利益があるか」

 

「本初」

 

「この男の話には、常に隠された手数料が存在します」

 

「だが、関羽と張飛は欲しい」

 

「欲しいか欲しくないかで言えば、欲しいです。ですが、取得コストと維持費を見なさい」

 

「維持費?」

 

「関羽は髭の福利厚生が高額です。オイル、専属髭師、湿度管理、香料制限。張飛は有能ですが、劉備の尻拭いで常に精神をすり減らしています。雇えば働きますが、劉備が近くにいると処理コストが跳ね上がる」

 

「俺を不良債権の発生源みたいに言うなよ」

 

「発生源です」

 

「否定が早すぎる!」

 

「さらに、関羽をこちらに呼ぼうとしても、現在の彼は曹操軍で相当な髭ケア待遇を受けています。曹操は福利厚生に本気を出しています。そこへ野戦陣地の埃、乾燥、蔡文姫の観察、顔良と文醜の奇妙なポーズ。関羽殿が本当にこちらへ来たがるかは微妙です」

 

劉備の顔に焦燥が走る。

 

「いや、来る!雲長は来る!髭オイルと俺を天秤にかけたら、そりゃ俺を選ぶだろ!」

 

「自信がありますね」

 

「桃園の誓いだぞ!生まれた日は違っても死ぬ日は同じって誓ったんだぞ!」

 

「それは張飛殿の私有地を売却した詐欺案件の美談化では?」

 

「やめろ!美談の裏帳簿を開くな!」

 

「桃園の誓いとは、そういうものだったのか?」

 

「袁紹様、そこは今重要じゃない!」

 

「いや、少し気になる」

 

「気にしないで!そこを掘ると俺のブランドが落ちる!」

 

再び本初へと意識を戻す。

 

「処刑は一旦保留にしましょう」

 

劉備の顔に安堵の色が広がる。

 

「ほら!李司殿もそう言ってる!」

 

「勘違いしないように。生かす価値が、殺す価値をわずかに上回っただけです。貴方の信用が回復したわけではありません」

 

「生きてれば勝ちだ」

 

「その根本的な思考回路が問題なのです」

 

「では、劉備に関羽と張飛を呼ぶ手紙を書かせる。もし二人が来ればよし。来なければ」

 

「その時は、この男の担保価値が消滅します」

 

「つまり処刑か」

 

「あるいは最前線で囮として再利用です」

 

「俺の人生、常に囮か処刑の二択なの?」

 

「横領犯に対する温情です」

 

顔を引き攣らせながらも、強烈な生への執着を見せている。

 

「分かった!書く!魂を込めて書く!雲長と翼徳が涙を流して駆けつけるような名文を書いてみせる!」

 

「誇張は不要です。事実だけを書きなさい」

 

「事実だけだと俺の立場が悪い!」

 

「ならばこれまでの行いを反省しなさい」

 

「反省で人は救われないんだよ!」

 

滑らかな動作で筆と木簡が準備される。

 

「では、劉備様。こちらにどうぞ。文面は私が横で監査いたします。不自然な美談化、過剰な自己正当化、泣き落とし、情緒的詐欺表現は赤字で修正します」

 

「それ、俺の文章の良いところ全部じゃない?」

 

「詐欺文書の長所は、契約書では致命的な欠陥ですわ」

 

露骨な嫌悪感を浮かべながらも、生き延びるためなら手段を選ばない男は、震える手で筆を握った。

 

「雲長、翼徳へ……兄は今、袁紹殿のもとで厚遇され……」

 

「厚遇?」

 

私の指摘で、筆が止まる。

 

「……そこそこ生存を許されており」

 

「正確な事実認識ですわ」

 

蔡文姫の朱筆が容赦なく介入する。

 

「曹操の監視から逃れ……」

 

「貴方が勝手に逃亡したのでは?」

 

「……諸事情により別行動となり」

 

「曖昧な表現ですが許容範囲ですわ」

 

「兄弟の絆を信じ、汝らが一刻も早く駆けつけることを望む。追伸、雲長、髭の具合はどうだ。兄は心配している」

 

その文面の効果を脳内で計算する。

 

「その追伸は一定の心理的効果を生む可能性がありますね」

 

「だろ?俺は雲長の心を分かってるんだ」

 

「ただし、曹操の髭オイルより俺を選べと直接記述すると逆効果を招きます」

 

「書こうとしてたのに!」

 

「やめなさい」

 

完成した木簡を検分する袁紹の目が厳しい。

 

「これで関羽と張飛が来るか」

 

「来る可能性はゼロではありません。特に張飛殿は、劉備殿の尻拭いをせずにはいられない性質の持ち主です。関羽殿は髭の生育状態次第ですね」

 

深い絶望を抱え込むように俯く姿がある。

 

「兄弟の絆が髭の状態に左右されるの、本当に嫌だな……」

 

「日頃の行いの積み重ねです」




ここまで読んでくださりありがとうございます。
今回は、髭を失った関羽、腹を開かれる顔良・文醜、そして処刑寸前から口先で生還を狙う劉備の回でした。
一番ひどい目に遭っていたのは誰だったか、ぜひ感想で教えていただけると嬉しいです。
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演劇を愛し、演劇に愛された女子大生・聖上真樹(19)。 彼女は観光で訪れた冬木市にて、役作りの練習中に通行人を驚かせ、不運な交通事故を誘発してしまう。 その被害者は、指名手配中の連続殺人鬼・雨生龍之介だった。▼罪悪感(と興奮)に震える彼女の前に現れたのは、奇怪な術衣を纏った目玉の大きな外国人。 彼は涙を流し、真樹を見てこう叫んだ。▼「おお!! ジャンヌ!! …


総合評価:8662/評価:8.54/連載:74話/更新日時:2026年04月05日(日) 18:04 小説情報


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