三国志異伝~演算する剣鬼(守銭奴)~最強の秘書官・李司が通る道には死体と領収書しか残らない~   作:斉宮 柴野

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劉備の手紙を受け、孫乾は関羽と張飛を迎えに向かう。
しかし白馬で髭を失った関羽は、曹操軍の髭ケア福利厚生に深く取り込まれていた。
兄弟の絆、曹操への恩義、友との約束、そして髭オイル。
関雲長、人生最大級の優先順位問題に直面します。


第四十三話:髭のない美髯公と、張飛の単独脱走

【許昌近郊 関羽の陣】

 

黄巾残党の討伐は、瞬く間に幕を下ろした。

五万の兵を預かった関羽が青龍偃月刀を一閃させた刹那、敵陣の最前列は砂上の楼閣のごとく崩れ去る。そこから先は戦というより、散らばった不用品の整理作業に等しかった。曹操が過剰な兵を与えたのは関羽を守るためであったはずだが、実際に庇護されていたのは周囲の兵たちの精神状態の方である。

 

今の関羽は強い。

強いが、暗い。

あまりにも、暗い。

 

戦場で敵を斬り伏せるたび、「髭があれば、もっと綺麗に斬れたものを……」などと地の底から響くような声でこぼすため、刃を向けられる黄巾残党のほうが同情の念を抱きそうになるほどだった。

 

討伐後の陣で、関羽は椅子に腰を下ろしている。

背筋を伸ばし、青龍偃月刀を傍らに立てかけている。

ただし、顎が寂しい。

そこにすべての問題が集約されている。

 

関羽は短くなった顎髭を指先でそっと撫でた。

伸びてはいるが、かつて天下に轟いた美髯には程遠い。

指先に触れる感触は、武神の誇りというより、朝寝坊した文官のそれである。

 

「……ジョリジョリしておる」

 

その一言だけで、天幕の中に言い知れぬ重圧が立ち込める。

 

部下たちは誰も言葉を発しない。

言葉を返せば、己の命が危ういと本能で悟っている。

 

笑顔を見せても、慰めを口にしても、待っているのは破滅。

沈黙こそが唯一の正解であった。

 

曹操軍から支給された髭オイルの瓶が、関羽の膝の上に置かれている。

まだ十分に伸びていない髭に塗る意味があるのかは怪しい。

 

それでも関羽は、朝、昼、晩と、祈りを捧げるように塗り込んでいる。

もはや薬というより信仰対象であった。

 

「曹公は……よくしてくださる」

 

「このオイル、油膜が薄く、香りも上品。しかも肌に刺激が少ない。李司殿の衛生管理に引っかかりにくいよう、白檀を控えめにしている点も実に細やかだ。曹公の御恩、重い……重いが……兄者……」

 

脳裏に劉備の顔が浮かぶ。

次に髭オイルの艶が浮かぶ。

その次に、李司が無表情で刃物を持つ姿が浮かぶ。

 

関羽は顎を押さえ、全身に微かな震えを走らせた。

 

「いかん。思考が乱れる。髭のない脳では、義の計算もままならぬ」

 

そこへ、部下が天幕の前から声を掛けた。

 

「関羽将軍。陣の周辺をうろつく怪しい者を捕らえました」

 

「怪しい者だと?」

 

関羽は腹の底から声を出そうとした。

しかし、力が乗らない。

 

昔なら、「何者だ、連れてまいれ!」の一声で兵たちの背筋が伸びたはずだ。

今は違う。顎の下の空気抵抗が足りない。声が軽い。己自身が一番それを理解していた。

 

「……連れてまいれ」

 

兵たちが一人の男を引きずり込んでくる。

旅商人風の身なりだが、視線が鋭く周囲を這う。

 

縛られていても、兵の数、出口、武器の位置を正確に把握しようとしている。密偵としての基礎が染み付いている証拠だった。

 

「離せ!私はただの旅の商人だ!塩も布も扱う善良な商人だぞ!」

 

関羽はその顔を見た。

見覚えがある。

劉備の配下、孫乾。

 

兄者に繋がる情報だ。

目の前の男は、劉備の消息を知っている可能性が高い。

 

「む……公祐ではないか」

 

「私の字を知っている……?貴様、何者だ」

 

「何者とは。拙者だ。関雲長だ」

 

孫乾の動きが止まる。

そして、関羽を食い入るように見つめた。

 

特徴的な面差し。堂々たる姿勢。

青龍偃月刀。

 

確かに要素は揃っている。

しかし、顎。

顎が足りない。

 

「……ふざけるな」

 

「ふざけておらぬ」

 

「関羽将軍を騙るとは、命知らずにもほどがある。我が主・劉備様の義弟、関羽雲長殿は、天下に轟く美髯公。長く豊かな髭を風になびかせ、そこに義と武が宿るお方だ。貴様のその短いジョリジョリの無精髭で、美髯公を名乗るなど、詐欺にもほどがある!」

 

天幕の内に、致命的な静寂が落ちた。

 

関羽の目が大きく見開かれる。

青龍偃月刀が倒れるより先に、関羽の心が音を立てて崩れ落ちた。

 

「う……ぐ……」

 

関羽は胸を押さえる。

 

「あ、いや、その、言葉の勢いで……」

 

「ジョリジョリ……」

 

「違う、違います。今のは確認のための表現であって、決して人格否定では」

 

「無精髭……」

 

「関羽殿?まさか本当に関羽殿なのですか?いや、しかし髭が……ああいや、髭以外は確かに……」

 

遅い。

遅すぎる。

 

関羽の顔から血の気が引いていく。

もともと血色の良い顔が白く染まるという、視覚的に矛盾した現象が引き起こされていた。

 

「美髯公では……ない……」

 

関羽の身体が椅子から崩れ落ちた。

 

「関羽将軍!」

 

「将軍が倒れた!」

 

「顎の話は禁忌だと言ったはずだ!」

 

「誰だ言ったのは!」

 

「密偵です!」

 

「密偵なら仕方ない!」

 

「仕方なくない!李司様が残していった『えーいーでぃー』を持ってこい!」

 

兵の一人が木箱を抱えて走り込んでくる。

李司が置いていった緊急用の気付け薬一式である。

 

正式名称は誰も覚えていない。兵たちは勝手に「えーいーでぃー」と呼んでいる。意味は分からないが、李司の言葉だから特別なものだという認識で運用されていた。

 

木箱には、李司の筆跡で注意書きが添えられている。

 

『精神的ショックにより機能停止した場合、鼻先に嗅がせること。ただし、髭に直接塗布しないこと。毛根に悪影響が出た場合、責任は負いません』

 

兵たちは震える手で薬を取り出す。

 

「髭に直接塗るなって書いてあるぞ!」

 

「今は髭が短いから安全では?」

 

「そういう問題じゃない!」

 

孫乾は縛られたまま、顔面を蒼白にしていた。

 

「私は……私はとんでもない過ちを犯したのか」

 

「過ちどころではない。将軍の魂の根幹を破壊したのだ」

 

「知らなかったのだ!関羽将軍が、あのような……その……ちいさなお姿になっているとは!」

 

「言い換えてもだめだ!」

 

関羽は虚空を見つめたまま、微かに唇を動かした。

 

「ちいさな……」

 

「また反応したぞ!」

 

「薬!薬を!」

 

 

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

数時間後、関羽は寝台の上で意識を取り戻した。

顎には保湿布が巻かれている。

 

医療的な意味合いは薄く、あくまで精神安定を目的とした処置である。

曹操軍の兵たちは、この数日間で関羽の扱いを完璧に学習していた。

 

孫乾は正座の姿勢を崩さない。

その顔には深い反省の色が浮かんでいる。

 

その傍らで、腕を組んで仁王立ちする男がいた。

張飛である。

 

ただし、いつもの酒の匂いはしない。代わりに墨と紙、そして帳簿の匂いが染み付いている。

執務室から逃亡してきたばかりであり、全身から事務作業による疲労感が漂っていた。

 

張飛の目の下には濃い隈が刻まれている。

武将の顔ではない。

月末決算の修羅場を三日連続で乗り越えた秘書官の顔であった。

 

「目ぇ覚めたか、兄者」

 

「翼徳……なぜここに」

 

「こっちが聞きてえよ。何で天下の関雲長が、密偵に『ジョリジョリ』と言われただけで卒倒してんだ」

 

「言うな。傷口に再度、塩と酢と唐辛子を練り込むな」

 

「兄者の傷口、多すぎてどこから手当てすりゃいいか分からねえよ」

 

孫乾が深く頭を下げる。

 

「関羽殿、このたびは大変失礼しました。まさか本当にご本人とは思わず……。その、ずいぶん大胆な……」

 

「その先を言うな」

 

「……名誉の負傷で」

 

「それも危ない」

 

「では、衛生管理上の不可抗力で」

 

「もうやめてくれ」

 

張飛は額を押さえた。

 

「重症だな。髭だけでここまで人間の芯が折れるとは思わなかったぜ」

 

孫乾は気まずさを仕事の顔で塗り潰すように、一つ咳払いをした。

 

「では、本題に入ります。劉備様からの伝言です」

 

「兄者は……生きておられるのか」

 

「はい。現在、袁紹様のもとに身を寄せておられます」

 

張飛が低い声で挟む。

 

「寄生の間違いだろ」

 

「公的には身を寄せておられます」

 

「公的にはな」

 

「劉備様は、関羽殿、張飛殿、そして甘夫人、糜夫人を連れて合流するように、とのことです。曹操のもとに長居すれば、ますます状況が複雑になります。すぐに出立しましょう」

 

関羽は寝台の上で身を起こした。

その瞳には迷いの色が揺れている。

 

劉備が生きている。

兄が呼んでいる。

桃園の誓いを重んじるならば、即座に駆けつけるべきだ。

 

しかし、関羽の視線は無意識のうちに天幕の片隅へと吸い寄せられていく。

そこには、曹操軍から支給された髭ケア用品が整然と並べられていた。

 

高級髭オイル。

保湿布。

育毛薬。

つけ髭試作品。

専用櫛。

 

曹操軍の福利厚生は、武将の魂の奥深くまで浸透する仕様であった。

 

「公祐。兄者の無事は、何より嬉しい。今すぐ駆けつけたい気持ちはある。だが……」

 

「だが?」

 

「拙者には、曹公から受けた恩義がある」

 

張飛が頷く。

 

「そこは分かる。だからこそ、李司殿との条件があるだろう。兄者の行方が分かれば、即座に去る。そういう契約だったはずだ」

 

「それは分かっている」

 

「じゃあ行くぞ」

 

「しかし……」

 

関羽は顎をそっと押さえた。

 

「この髭オイルの定期供給は、どうなる」

 

「今、何て言った」

 

「いや、だからだな。兄者のもとへ行くことに異存はない。ただ、このジョリジョリ期において保湿と育毛は極めて重要であり、途中でケアを断つと、かゆみ、肌荒れ、毛流れの乱れを引き起こす。結果として、美髯公への復帰が遅れる。そうなれば、兄者のもとへ戻っても完全な関雲長として働けぬ」

 

「屁理屈が、李司殿の稟議書みたいに長い!」

 

「事実だ」

 

「事実でも優先順位がおかしい!」

 

関羽は真剣そのものであった。

あまりにも真剣なため、孫乾が対応に苦慮し始める。

 

「関羽殿。劉備様は、貴殿の忠義を信じておられます」

 

「拙者も兄者への義を忘れてはおらぬ」

 

「では」

 

「だが、髭は武の根幹だ」

 

張飛の内に渦巻いていた苛立ちが、ついに限界を突破した。

 

「この不義!不忠!髭と兄者、どっちが大事だ!」

 

関羽は頭を押さえ、瞳に微かな涙を浮かべた。

 

「兄者だ!兄者に決まっておろう!」

 

「なら行け!」

 

「兄者に決まっているが、髭のない状態で兄者に会うのがつらいのだ!」

 

「乙女か!」

 

「武神にも羞恥心はある!」

 

「兄者はお前の顎を見せに来いと言ってんじゃねえ!助けに来いと言ってんだ!」

 

「分かっている!分かっているが、せめて一年、いや半年、いや三ヶ月だけでも……」

 

「三ヶ月も待てるか!戦が終わるわ!」

 

張飛の激しい感情の裏には、彼自身の切実な事情が隠されている。

 

彼は李司不在の間の秘書官として、言葉通りの地獄を味わっていた。

毎朝、日の出前に叩き起こされ、財務諸表の数字を追い、兵站のカロリー計算を行い、曹操の浪費を差し戻す。

 

関羽の髭オイル予算の妥当性を精査させられ、さらに荀彧から「張飛殿、数字が一桁ずれています。脳筋ですか?」と氷のような視線で指摘される日々。

 

戦場で蛇矛を振るっていた頃よりも、明らかに精神が摩耗していた。

 

「俺はな、兄者。もう戻りたくねえんだよ。執務室へ。毎日毎日、帳簿、稟議、報告書、監査、コンプライアンス、月次決算。俺は武将だぞ。なぜ俺が、夜中まで『曹操様の女遊び関連支出の費目振替』を処理しなきゃならねえんだ」

 

「張飛殿、そんな仕事を……」

 

「しかも曹操様、項目名を『文化交流費』とか『詩作取材費』にしてくるんだぞ。李司殿がいれば一目で『下半身経費ですね、却下』って赤を入れる。不在の間俺はその代りに差し戻し処理をする。何だこの人生」

 

「翼徳……苦労しているのだな」

 

「だから逃げるんだよ!兄者を連れて、奥方様たちを連れて、劉備兄者のところへ行く。それで俺は秘書官を辞める。もう二度と財務諸表なんか見ねえ」

 

「だが、李司殿に無断で辞めるのはリスクが高いのでは」

 

「高いよ!だから急いで逃げるんだよ!」

 

関羽は深く思考に沈んでいく。

考えれば考えるほど、身動きが取れなくなる。

 

「曹公に正式に辞去を申し入れ、髭オイルのサブスクリプションだけ継続できないか交渉してからでも……」

 

「サブスク言うな!」

 

「定期購入契約」

 

「言い換えても同じだ!」

 

孫乾が恐る恐る口を挟む。

 

「その髭オイルとは、それほどのものなのですか」

 

「分かるか、公祐。まず香りがよい。強すぎず、弱すぎず、戦場で汗をかいても嫌な臭いに変化しない。油分は軽く、毛穴を塞がぬ。しかも、李司殿に『不衛生』と判定されにくい成分設計だ。曹公は、拙者の髭を本気で守ろうとしてくださっている」

 

張飛が深く頭を抱え込んだ。

 

「ダメだこいつ。完全に曹操軍のエコシステムに囲い込まれてる」

 

「囲い込みではない。恩義だ」

 

「その恩義、油瓶に入ってるぞ!」

 

「恩は形を持つこともある」

 

「もっともらしく言うな!」

 

関羽は祈るように髭オイルの瓶を両手で包み込んでいる。

孫乾は、目の前にいる男が本当に天下に名高い関羽なのか、再び深い疑念を抱き始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天幕の外から、馬の蹄の音が近づいてくる。

兵の声が響いた。

 

「関羽将軍。張遼将軍がお見えです」

 

「来たか。曹操様も動きが早い。張遼殿は兄者と親しい。情に訴えて引き止めるつもりだろう」

 

関羽も表情を引き締めた。

 

「文遠か……」

 

「兄者、ここはきっぱり言え。劉備兄者のもとへ行くとな」

 

「うむ。言う。拙者は義を選ぶ」

 

「髭オイルの話はするなよ」

 

「……交渉の余地だけ」

 

「するな」

 

張遼が天幕へと足を踏み入れた。

その身なりは旅装束であった。

 

関羽も張飛も、僅かに意表を突かれた。

引き止めに来た者の装いではない。これから遠方へ旅立つ者の姿だった。

 

張遼はいつもと変わらぬ清々しい空気を纏い、どこか晴れやかな雰囲気を漂わせている。

 

「雲長。翼徳殿。急な訪問ですまない」

 

「文遠。どうした。その格好は」

 

「今日は別れの挨拶に来た」

 

関羽の表情に戸惑いが浮かぶ。

 

「別れ?」

 

「うむ。徐州の呂布様のもとへ戻る」

 

「曹操様のもとへ出向していたんじゃなかったのか」

 

「その出向が解除された。呂布様が徐州から豫州方面へ市場拡大を進めておられてな。勢いはすごいが、統治の帳簿が混沌としているらしい。陳宮殿から、悲痛な書状が届いた。『張遼殿、至急戻られたし。このままでは呂布将軍が善意で三県同時に予算を燃やす』とな」

 

「どこの陣営も大変だな」

 

「曹公に相談したら、快く許してくださった。『奉先のもとを支えてやれ』と。李司殿の許可は……まあ、後で取る形になるが」

 

関羽は深く頷いた。

 

「そうか。文遠がいなくなるのは寂しいが、主君のもとへ戻るなら止められぬ。呂布殿は強いが、確かに計算は苦手そうだ」

 

「苦手というより、数字を見ると眠くなる方だな」

 

「それは重症だ」

 

「だが、俺は嬉しい。やはり古巣を支えたい。呂布様は危なっかしいが、裏表のない方だ」

 

張遼の表情には一点の曇りもない。

関羽の胸に、静かな感動が広がっていく。

 

主君のもとへ戻る武人の姿。

自分もまた、そうあるべきではないのか。

 

関羽がそう心に決めた瞬間、張遼が真剣な面持ちで関羽の手を強く握りしめた。

 

「そこで、雲長。頼みがある」

 

「何でも言ってくれ。貴殿の頼みなら、できる限り応えよう」

 

「兄者。何でもとか言うな。契約書を読まずに判を押すなって、李司殿に百回言われただろ」

 

「翼徳、友との会話に契約書を持ち込むな」

 

「持ち込め。持ち込まねえから毎回巻き込まれるんだ」

 

張遼は爽やかに微笑んだ。

 

「大したことではない。俺が曹公のもとを離れれば、武の布陣が少し薄くなる。夏侯惇殿も夏侯淵殿もいるが、今の曹公は官渡を前に大きな不安を抱えている。李司殿は袁紹陣営にいる。殿は平気な顔をするが、内心ではかなり堪えている」

 

関羽は言葉を失った。

脳裏に曹操の顔が浮かび上がる。

 

自分に髭オイルを支給し、つけ髭まで手配し、去るなら止めぬと告げた男。

そこには確かな情があった。

 

「だから雲長。俺の代わりに、曹公を支えてやってくれ」

 

張飛の顔色が瞬時に青ざめた。

孫乾もまた、最悪の展開を本能で察知する。

 

関羽は、ゆっくりと口を開いた。

 

「……うむ」

 

言ってしまった。

武人として、友の真面目な頼みに対して、はっきりと首肯してしまったのだ。

 

「おお!引き受けてくれるか!」

 

「いや、文遠、その、拙者も実は……」

 

「ありがたい。関雲長に二言なし。貴殿が曹公のそばにいてくれるなら、俺も安心して呂布様のもとへ戻れる」

 

張飛が関羽の袖を強く引く。

 

「兄者、取り消せ。今ならまだ間に合う。咳払いだったことにしろ」

 

「咳払いで『うむ』とは言わぬ」

 

「言え!今だけ言え!」

 

張遼は感極まった様子で言葉を続ける。

 

「曹公は、強い。だが寂しがりだ。李司殿に敵へ回られ、劉備には逃げられ、雲長まで去れば、殿の心はかなり削れる。俺は曹公に恩がある。だからこそ、雲長に頼みたい。あの方を支えてくれ」

 

関羽の喉の奥が熱くなる。

 

恩義。

友情。

義理。

曹操からの破格の待遇。

髭オイル。

 

劉備からの呼び出し。

あらゆる感情と義理が、一斉に関羽の心に押し寄せてくる。

 

「文遠……」

 

「雲長ならできる。髭は短くとも、義は長い」

 

「うわ、痛いところを突きやがった。今の兄者には効きすぎる」

 

関羽の瞳にうっすらと涙が浮かぶ。

 

「髭は短くとも、義は長い……」

 

「反復するな!心に刻むな!」

 

張遼は満足そうに微笑む。

 

「それに、髭は必ず伸びる。曹公のもとなら良い油もある。焦るな。美髯公は復活する」

 

「文遠……貴殿は……真の友だ」

 

「では、頼んだぞ」

 

「……任せておけ。拙者がいる限り、曹公の陣営を揺るがしはせぬ」

 

「兄者ーーーッ!」

 

張遼は深々と一礼する。

 

「感謝する。では、さらばだ。次に会う時、敵味方は分からぬが、互いに恥じぬ武で会おう。髭が立派に伸びたら文をくれ。祝いの酒を送る」

 

「うむ。達者でな、文遠」

 

張遼は一陣の清々しい風のように去っていった。

何一つ悪意がない。

だからこそ、これ以上ないほど完璧な呪いとして関羽の心に縛りをかけたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

張遼が去った後、天幕には鉛のような沈黙がのしかかっていた。

 

関羽は椅子に腰を下ろしたまま、石像のように動かない。

張飛は腕を組み、こめかみに青筋を立てて小刻みに震えている。

 

孫乾は二人の間で息を潜めていた。

 

使者として重要な任務を帯びてきたはずが、巨大な家庭内の揉め事に巻き込まれている感覚に陥っている。

 

「兄者」

 

張飛の声は地を這うように低かった。

 

「今、何をしたか分かってるか」

 

「……友との約束をした」

 

「その前に、劉備兄者との約束があるだろ」

 

「分かっている」

 

「分かってねえよ。兄者は今、曹操様を支えるって言った。関雲長に二言なしって張遼殿に確認されたうえで言った。これ、もう契約だぞ。口頭契約だぞ。李司殿なら即座に木簡に起こして印を押させるやつだぞ」

 

「しかし、文遠の頼みを断るのは……」

 

「だから最初から何でも言ってくれとか言うなって言ったんだ!」

 

「すまぬ」

 

「謝る相手は俺じゃねえ。劉備兄者と、甘夫人と糜夫人と、お前の判断力だ」

 

関羽は顎を掌で覆う。

 

「翼徳よ。武人として、友との誓いを反故にするわけにはいかぬ。約束を違えるは信義にもとる」

 

「急に体面を気にするな!だったら李司殿との契約はどうした!」

 

「あれも大事だ」

 

「全部大事って言って動けなくなってるだけだろ!」

 

関羽は言葉を返せない。

 

張飛の内に渦巻く怒りは、もはや兄の優柔不断さに対するものだけではなかった。

 

「もう知らん」

 

張飛の声が不気味なほど静かになった。

彼が静かになる時は、最も危険な時である。

 

「翼徳?」

 

「俺は行く。兄者が髭オイルと友との口約束に縛られて動けねえなら、俺一人で行く」

 

「待て。単独行は危険だ。曹操軍の関所を越えねばならぬ。李司殿の監査網もある。貴殿一人ではリスクが高すぎる」

 

「リスク管理なら毎日やらされてる。関所の通行許可証の書式も、曹操軍の経費精算ルートも、李司殿の監査印の癖も、全部頭に入ってる。皮肉な話だが、あの地獄の秘書業務のおかげで、俺は曹操軍の裏側に詳しくなりすぎた」

 

「張飛殿、そんなに実務を?」

 

「やらされたんだよ。兵站表、財務諸表、監査報告、髭オイルの購入稟議、曹操様の怪しい文化交流費の差し戻し。俺はもう、そこらの文官より曹操軍の帳簿に詳しい」

 

関羽はただ戸惑うばかりであった。

 

「翼徳、貴殿は本当にどこへ向かっているのだ」

 

「兄者を迎えに来たはずが、人生の清算をしてる俺が一番聞きてえよ」

 

張飛は力強く立ち上がる。

 

「甘夫人と糜夫人は俺が連れていく。孫乾、お前も来い。兄者はここに残って曹操様の陣営を守ってろ。髭が伸びたら、好きなだけ義を語れ」

 

「待て、翼徳。奥方様方の護衛なら拙者も」

 

「来るのか?」

 

「……文遠との約束が」

 

「なら座ってろ!」

 

張飛の一喝に、関羽は縫い付けられたように動けなくなった。




ここまで読んでくださりありがとうございます。
今回は、関羽が髭オイルと義理に挟まれ、張飛が秘書業務から逃げ出す回でした。
関羽、張飛、孫乾、張遼のうち、誰が一番ひどい状況にいると思ったか、感想で教えていただけると嬉しいです。
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