三国志異伝~演算する剣鬼(守銭奴)~最強の秘書官・李司が通る道には死体と領収書しか残らない~ 作:斉宮 柴野
韓福の仇を討たんとする王植は、関羽を焼き討ちにかけるべく、乾いた薪を敷き詰めた特別室を用意していた。
だが、その部屋には数日前、張飛翼徳が残した恐るべき防災対策が施されていた。
火攻め、内部統制、そして水属性関羽。滎陽関の夜が、湿っぽく荒れ狂う。
【滎陽関】
第四の関所である滎陽関。
「おやおや、これはこれは関羽将軍。遠路はるばるこの辺境の滎陽関へようこそお越しくださいました。黄巾の残党どもという雑魚掃除の数々に続き、数々の関所での強行突破案件……さぞや心身ともにお疲れのことでございましょう。本日はもう夜もすっかり更けております。当関所が誇るVIP向け宿泊施設をご用意させましたので、どうぞごゆっくりと、それこそ永遠に眠るかのように心ゆくまでお休みくださいませ」
白々しい歓迎の辞には、隠しきれない殺意がたっぷりとコーティングされている。
だが関羽は、失われた髭の幻影を求めて虚空で顎を撫で回すという虚無の作業に没頭するばかりである。そもそも武将のアイデンティティが毛髪に依存している時点で組織として大いに問題があるのだが、今の彼にそれを指摘できる者はいない。
「うむ、かたじけない。丁重な接待の提案、確かに受け取った。細かいリスクアセスメントは明日の朝に回すとしよう」
背を向けて歩き出す関羽の背中から立ち上る哀愁は、もはや武将のそれではなくリストラ宣告を受けた窓際族の悲哀である。
「おい胡班、聞いたな。あのヒゲ無しポンコツ将軍を例の特別室へご案内しろ。徹底的に乾燥しきった薪をぎっしりと敷き詰めた、我が関所で最も引火点の低いマッチ一本で一瞬にして在庫処分すなわち完全な焼殺が完了する素晴らしい部屋だ。韓福殿の無念、あの部屋の業火をもって完済してやる。絶対に逃がすなよ」
「は、はい……。承知いたしました……。関羽将軍、お部屋はこちらでございます。どうぞ足元にお気をつけて……色々な意味で……」
◇
胡班に導かれた先は、死のトラップが仕掛けられた絶好の処刑場――のはずであった。
ここは亜熱帯の密林か、はたまたロウリュウ直後のサウナか。人間が快適に睡眠をとるための環境設定からは完全に逸脱している。
「……胡班殿。確認なのだがこの部屋なんだか妙に湿っぽくないか。というより壁が限界まで水分を吸い込んで膨張しているぞ。床を踏むたびにジュクジュクと音が鳴るのだが、これは最新のリラクゼーション設備か何かか。おまけに天井から無数に吊るされているあの大量の水桶の群れは一体なんだ。まるで頭上に何かの群れが張り付いているようで全く落ち着かないのだが」
「誠に申し訳ございません。実は数日前、あなたの義理の弟君である張飛将軍が劉備将軍の奥方様方を連れてこの関所を通過された際、まさにこの部屋に宿泊されましてね」
【数日前】
「おいコラ。なんだこのふざけた宿泊施設は。貴様ら、防災意識が市場の底値よりも低すぎるだろうが。監査役のこの俺の目を誤魔化せると思うなよ」
「見ろこの壁を。木材が乾燥しきっていて引火点が基準値を大幅に下回っているじゃないか。こんな状態では万が一、不審者が敵対的買収としての放火を仕掛けてきたらあっという間に全焼だぞ。おまけに避難経路の確保も全くできていねえ。廊下に余計な観葉植物を置くなと言っているだろうが」
「い、いや張飛将軍どうか落ち着いてください。ここはただの辺境の古い宿場に過ぎません。そんな大層な内部統制や最新の防災設備を求められましても予算も人員も全く足りておりませんし、そもそもここは戦場でもない安全な後方施設でして――」
コンプライアンスの権化と化した張飛に、現場の言い訳など通用するはずもない。
「言い訳無用。こんなコンプライアンス違反の塊みたいな施設、もし我が軍の最高法務責任者である李司殿の監査が入ったら一発で廃業処分すなわち強制取り壊しの対象だぞ。今すぐ防災設備の完全な点検と大規模な改修工事を執行しろ。現場の壁という壁に今すぐ井戸から水を汲み上げてブチ撒け。徹底的な難燃加工を物理的に施すんだ。床下にも水を撒け」
「そ、そんなことをしたら部屋が水浸しで誰も寝られなくなってしまいます。奥方様方も風邪を引いてしまいますよ」
「命と健康、どっちの時価総額が高いと思ってんだ。リスクマネジメントの基本中の基本だぞ。いいからやれ。あと天井の構造が全く火災に対応していねえ。俺が今から設計図を描いてやるからそれに従って感知式スプリンクラーをこの部屋の天井に百個設置しろ」
「か、かんちしきすぷりんくらー……?それは一体どのような兵器でございますか……?」
未知のテクノロジーに震える王植の目の前で、張飛は木簡にスラスラと図面を描き始める。三国時代の武将がスプリンクラーの設計図を引く光景など、歴史書をどうひっくり返しても出てこないシュールな異常事態である。
「簡単な物理演算だ。大量の水を張った水桶を天井からロープで吊るす。そのロープは火の気が上がれば真っ先に燃え切るようにあえて燃えやすい素材で作る。万が一、部屋に火が放たれて温度が上昇しロープが燃え切れば百個の水桶が一斉にひっくり返り部屋中を滝のように水浸しにして初期消火を完了させるという極めて合理的かつエコなシステムだ」
「俺が寝ている間に万が一の火災というアクシデントが起きて、この俺の命と健康が損なわれたら貴様らどう落とし前をつけるつもりだ。劉備兄者に顔向けできねえだろうが。さあ全員で突貫工事だ。終わるまで俺は絶対に寝ないし貴様らも一秒たりとも寝かせねえからな。タイムイズマネーだ、今すぐ動け」
「ヒィィィイイ。悪魔だ。やります、やりますから命だけはお助けを。今すぐ工事を開始しますぅぅ」
深夜労働の割増賃金などという概念は存在しない。
全兵士を巻き込んだ地獄の水撒きマラソンにより、木材は腐敗の一歩手前まで水分を強制吸収させられた。
天井には、火の気を感知した瞬間に大洪水を巻き起こす百個の時限爆弾ならぬ時限水桶が鎮座している。
かくして、王植の執念の火攻め部屋は、物理法則をねじ伏せた絶対消火空間へと強制リノベーションされてしまったのである。
◇
「……なるほど。事情は理解した。張飛め、李司殿の監査基準をしっかりと現場で実践しているようだな。今や立派なインテリゴリラとして成長したというわけか。素晴らしい。これほどまでに頑丈で狂気に満ちた防災対策を見せつけられるとは。拙者、義弟の成長に深く感動している」
「これならば王植殿がどれほど悪質なインサイドリスクを抱え復讐のための火攻めを画策しようとも物理的に着火することすら不可能であろう。この部屋はもはや燃える要素が完全に排除された絶対安全領域である。張飛の残した内部統制の遺産ありがたく使わせてもらうとしよう。胡班殿、この部屋はこのままで構わん。拙者は安心して眠りにつくことができる」
すべてを見透かされた上で、自らの殺意が義弟のコンプラ意識によって事前に無力化されている事実に、胡班はただ震えながら頭を下げるのみである。
「は、はい……。ごゆっくりお休みくださいませ……」
一方、執務室で火の手を待ちわびていた王植は、一向に焦げ臭い匂いすら漂ってこない事態に業を煮やしていた。
自ら松明を握りしめ客間に突撃したものの、壁に近づけた火はジュッという間抜けな音とともに強制終了させられる。
滴る水滴と異常な湿度の前では、火打石すらただの石ころと化していた。
「馬鹿な……。私の完璧な計画が……。韓福殿の仇を討つための一世一代の焼き討ち作戦が……。こんな湿っぽい理由で失敗するなんて。張飛の奴め、どこまで私の計画を先回りして……いや、あいつはただコンプライアンスを遵守しただけだというのか……」
◇
丑三つ時。草木も眠る静寂の中、王植は宿の周囲に百名の武装兵を配置し、完全包囲網を敷いていた。手には引火性の高い油を塗りたくった弓矢。王植の顔には狂気めいた笑みが張り付いている。
「クックック……。ハーッハッハッハ。哀れな髭なし武神め。いかに戦場で無双の物理的火力を誇ろうとも、睡眠中という無防備状態を狙われればひとたまりもないだろう。ここが貴様の永遠の墓場となるのだ。洛陽の関所で貴様に無惨にも斬られた我が親戚である韓福殿の仇、今こそこの燃え盛る業火をもって完全に晴らしてやるぞ。お前たち最終確認だ。目的は関羽の焼却による証拠隠滅だ。一切の妥協や手抜きは許さん。着火百パーセント、生存率ゼロパーセントを目指せ」
「王植隊長。質問があります。火矢を放つタイミングですが、全弾を一斉に射ち込むべきでしょうか。それとも時間差で徐々に温度を上げていく波状攻撃を採用すべきでしょうか。まずは少量の火種で燻して一酸化炭素中毒を誘発する戦術の方が効率が良いかと思われますが」
「馬鹿野郎。これは確実性とスピードを最優先する一世一代の作戦だぞ。手加減などしている場合か。最初から全力で火矢と松明を全弾投入するのだ。熱さに気づいて飛び起きてくる前に一瞬で部屋の酸素を奪い尽くし逃げ道を塞ぐ。それが一番確実な暗殺法だ」
「了解いたしました。では予算の上限を無視して全力で攻めさせていただきます」
「勝てば官軍燃やせば灰だ。さあ野郎ども準備はいいな。韓福殿の無念を乗せて全弾発射。今すぐ火矢を放て」
王植の号令とともに、百本の火矢がオレンジ色の軌跡を描いて客間に撃ち込まれる。さらに油をたっぷり含ませた松明が次々と投げ込まれる。本来ならば一瞬で大爆発を引き起こし、宿全体が業火に包まれるはずの光景である。
しかし。
ジュッ。
プスプスプス。
ボボッ……ジュジュワァァァ。
王植の耳に届いたのは、どう考えても爆発とは無縁の、酷く間抜けで湿り気のある不発音ばかりであった。
「……ん?おかしいな。どういうことだ。全く火の手が上がらんぞ。煙すら一本も出てこないではないか。なんでだ。計算上は今頃部屋の温度が跳ね上がっているはずだぞ。おい火力不足か。もっと油だ。油を惜しみなくバンバン撒き散らせ」
「だ、ダメです隊長。全く燃えません。窓から投げ込んだ火矢や松明が壁や床に接触した瞬間に全部ジュワッと音を立てて鎮火してしまいます。部屋の中がまるで海底神殿のように水浸しです」
「消えるだと。魔法か何かか。なぜ消える。あの部屋には乾燥した薪を限界まで敷き詰めておいたはずだぞ」
「隊長の指示通り薪は敷き詰めてありましたが、数日前にここを通過したあの張飛という恐怖の現場監督に強制執行された狂気の水撒きのせいです。壁も床も薪も信じられないほどの水分を含んで膨張しビチャビチャに湿っております。我々が投げ込んだ火種が全部過剰な水分によって無効化されています。この環境下での燃焼は物理的に不可能です」
「なんだと。あの非常識極まりない水撒きがこんなところで私の焼き討ちを防ぐ強固な盾として機能しているというのか。張飛め、どこまで私の邪魔をすれば気が済むのだ。ええいならば天井だ。天井裏の木材なら水は届いておらず乾燥しているはずだ。上に向かって火矢を放て。屋根から崩落させて圧死させてやる」
「ああっ隊長。天井に向かって放った火矢が、張飛が設置した謎の無数の水桶を吊るしている紐に命中しました。紐に火が燃え移っています」
「馬鹿野郎。なぜそんなピンポイントで関係ない設備を狙う。……いや待てよ。紐が切れてあの水桶が落下してくれば寝ている関羽の頭を直撃してダメージを与えられるかもしれないな。水攻めと物理攻撃の合わせ技だ。それはそれでアリかもしれないぞ」
王植が謎の前向きさを発揮したその直後であった。
ザバァァァァァァァァァァッッッ!!
宿の屋根が吹き飛ぶかと思うほどの凄まじい轟音が響き渡る。天井から吊るされていた百個の水桶の紐が燃え切った瞬間、水桶が一斉に反転。客間の中に、まるで滝壺の真下にいるかのような尋常ではない質量の水が降り注いだのである。室内にあったわずかな火種も、一瞬にして完全なる鎮火を迎えた。
「なんだあれは。天井から滝が降ってきたぞ。屋内にいながら鉄砲水に襲われる宿泊施設がこの世のどこにあるんだ。どんな頭の構造をしていればこんな狂った設備を思いつくんだ」
「……張飛将軍の言った通り自動の仕掛け水桶が見事なまでに完璧に作動しましたね。火の気を感知して紐が燃え自重で水桶が反転して初期消火を行うというあのゴリラが考案した恐ろしいほどの技術性能。もはや単なる武将ではなく一流の職人です」
「おい胡班。なんでお前まで全身びしょ濡れになっているんだ。いつからそこにいた」
「私は最初から隊長の背後でこの無謀な作戦の末路を見届けるために立っておりました。あまりの水量と水圧に、外にいる私まで窓から吹き出した水しぶきの被害に遭っているのです。隊長、もう諦めましょう。あの部屋はすでに火災という概念が存在できない深海のような空間に成り果てています。我々の負けです」
ガラッ……。
胡班が諦めの言葉を口にした直後、サウナのような湿気だけが充満している宿の扉がゆっくりと開く。中から現れたのは、全身ずぶ濡れになり衣服から滝のように水を滴らせた関羽であった。手には愛刀である青龍偃月刀。髭は無いが、その鋭い眼光と水気を帯びた圧倒的なオーラは、まさに怒れる水陸両用の鬼神である。
「……随分と夜中に騒々しい真似をしてくれたものだな。せっかく髭を失った心の傷を質の高い睡眠で回復しようとしていたというのに。張飛製のお手製水桶が全力で作動して見事に叩き起こされてしまったではないか。水風呂に入るにはまだいくらなんでも早い時間帯だぞ。おまけに外には火器を武装した怪しい男たちが百人規模で集結している。これは一体どういう集まりかな」
関羽は青龍偃月刀を地面に引きずりながらジャリジャリと不快な音を立てて進み出る。そして恐怖で顔を引き攣らせている王植に冷酷な視線を向けた。
「王植よ。貴様、拙者の神聖なる寝所で許可なく火遊びなどという危険行為を働いたな。火の不始末や意図的な放火というものは我が軍のお目付け役である李司殿が最も嫌う無駄な行為だぞ。お主、安全第一という言葉を知らんのか」
「ひっ……。ば、馬鹿な……。俺の完璧に練り上げられた焼き討ちの計画が……。韓福殿の仇を討つためのこの確実な復讐がなぜ一切燃えない。なぜそこまでこんな辺境のオンボロ宿の防災対策が大国の王宮よりも完璧に整備されているんだ。どんな妖術を使えばこんな水浸しの要塞がたった一晩で完成するんだ」
「フッ……知れたこと。こんなものは妖術でも魔法でもない。ただの地道な環境改善の結晶だ。ここを拙者より数日先に通過した義弟、翼徳の徹底された安全確認のおかげよ。あやつの最近の口癖を知っているか。『点検怠るべからず、安全確認ヨシ!』だ。あの男が現場に残していった極めて高い防災意識のおかげで拙者はこうして命拾いしたというわけだ。あやつの危機管理能力には兄として頭が下がる思いだ」
命を狙われている状況で弟の防災意識を絶賛している場合ではない。
「おのれ張飛。どこまで俺の邪魔をすれば気が済むんだあのゴリラは。卓越した職人技と常軌を逸した現場の安全管理で俺の完璧な軍略を根底から狂わせるとは。武将なら武将らしく力と力のぶつかり合いで勝負しろ。なんで裏方の作業で前線の将軍を無力化してくるんだ。ええいこうなれば小細工は不要だ。火が使えないなら直接物理的にこの手で関羽を斬り捨ててやる。全員かかれ。数の暴力で押し潰せ」
半ばヤケクソになった王植は自らの剣を抜き放ち、水しぶきを上げながら関羽に向かって一直線に踏み込んでいく。
「愚か者め。火の気すら一切存在しないこの完璧に安全が担保された戦場でこの関羽に勝てると思ったか。お主の現状認識能力の欠如には呆れ果てるわ」
「黙れヒゲ無し。覚悟しろ」
「今の拙者は頭の先から足の先まで大量の水を纏っている。通常の乾燥した関羽ではない。水分を極限まで吸収し失われた髭の代わりに圧倒的な潤いを取り戻した新時代の関羽だ。いわば水属性へと進化を遂げた状態。属性相性で言えば火炎攻撃を企てたお主らなど赤子も同然。喰らえ青龍偃月刀ならぬ水属性特化型の一撃、青龍水月刀!」
関羽は青龍偃月刀を無造作に空中で一振りし、刃にこびりついた血と大量の水を同時に払い落とす。
「……ふぅ。火の用心、火事の元だな。乾燥する季節には特に注意が必要だ。初期消火の重要性を身をもって体験する夜であった。おい胡班とやら。そこにいるな」
「ヒィッ。は、はいぃぃ。おります。命だけは、命だけはお助けを」
「実によい設備、素晴らしい仕掛け水桶であった。お主らの日々の整備が行き届いている証拠だ。この宿の安全管理体制には高い評価を与えざるを得ない。感謝のしるしとしてお主の命は奪わずに置いていってやる。素直に受け取るがよい」
「は、はいぃぃ。ありがとうございますぅぅ。張飛将軍にも『現場の安全確認ヨシ!ゼロ災害でいこうヨシ!』と必ずお伝えくださいぃぃ」
かくして、最強の武神が理不尽なまでの防火設備と謎の水属性への覚醒によって危機を脱した。もはや彼らの進撃を止めることができる障害は存在しない。残る関所はあと一つ、ついに黄河の渡し場のみである。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
今回は、王植の火攻め計画が、張飛の異常な防災意識によって完全に潰される回でした。
一番ひどい目に遭ったのは、王植、胡班、関羽、あるいは徹夜工事をさせられた滎陽関の兵士たちの誰だったか、感想で教えていただけると嬉しいです。