三国志異伝~演算する剣鬼(守銭奴)~最強の秘書官・李司が通る道には死体と領収書しか残らない~   作:斉宮 柴野

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張飛は黄河の渡し場へ辿り着いた。
完璧な通行許可証と危険分散の名のもとに、彼は渡し場の船を一艘残らず借り切っていく。
その数時間後、書類も船も髭もない関羽が到着する。
最後の関所で待っていたのは、書類を愛する若き守将・秦琪と、怒れる師・夏侯惇だった。


第四十八話:在庫切れの渡し場と、夏侯惇の猛追

【黄河の渡し場】

 

物流の要衝であり軍事的な境界線でもある黄河の渡し場。

 

そこに駐留する秦琪は、手元にある一枚の紙切れを舐め回すように見つめている。

丞相府が正式に発行した特級の通行許可証らしい。

 

「ふむ……。素晴らしい。実に素晴らしい。この特別通行許可証、発行元は確かに我が丞相府の正式な部署。書式の最新版への完全対応はもちろんのこと、決裁印の押印角度まで正確だ。一切のブレがない。さらに素晴らしいのは、この添付書類だ。退職に伴う人員、つまり奥様方の移動理由書まで、完璧な論理構成で記述されている。感情的な言い訳など一切なく、極めて隙のない、法的に何一つ瑕疵がない状態に仕上げられている」

 

どうやら彼は書類の美しさに感極まっているらしい。

一体どのような人生を歩めば、通行手形一枚でここまで感動できる官僚が育つのか。

 

「そしてこの護衛配置の陣形図!長旅における不測の事態を想定した危険分散が見事の一言に尽きる。前衛、中衛、後衛の戦力配置が、確率論と兵法に基づいて最適化されているのがわかる。これほどの完璧な申請書を作成できる人材が、我が軍の外部に存在したとは……」

 

「許可証、確かに確認いたしました!張飛将軍、貴殿の順法精神の高さ、実に見事なり!一つのミスも許されない軍規において、これほどまでに透明性の高い確たる証拠を提示できるとは、感服の至りにございます。師匠である夏侯惇様からも、貴殿の噂はかねがね伺っておりますぞ。夏侯家に新しく加わった、極めて聡明で強い最高の親戚、すなわち最強の協力関係が結ばれたのだと!」

 

目の前の巨漢、張飛は豪快に笑っている。その風貌はどう見ても暴の化身である猛獣そのものなのだが、なぜか醸し出す空気だけは有能な文官のそれである。この男の頭脳は一体どういう構造をしているのか。

 

「おう!分かる奴には分かるんだな!ありがとよ!書類ってのはな、自分を守る最大の武器であり、同時に相手への最大の敬意なんだよ。お前さんみたいに、ちゃんと意図を汲み取ってくれる現場責任者がいてくれると、こっちとしても非常にやりやすいぜ。今度落ち着いたら、酒でも飲みながら兵站について語り合おうぜ!夏侯惇の旦那にも、最高の親戚がよろしく言ってたって伝えてくれや!」

 

「はっ!光栄にございます!書類の美しさは心の美しさ。貴殿のような素晴らしい御仁を通すことができるのは、渡し場の守将としてこれ以上の喜びはありません!船を直ちに用意させましょう」

 

なぜ守将が自ら進んで渡し場の船を根こそぎ提供しようとしているのか。それはもはや関所の機能を自ら停止させる行為に等しいはずだが、書類の魔力に取り憑かれた秦琪には微塵も疑問に思わないらしい。

 

「お、悪いな!さすが分かってるじゃねえか。一艘に集中させると、万が一の沈没で荷が全て海の藻屑になっちまう。複数台に分けて配置を組むのが、これからの安全保障の基本ってやつだ。助かるぜ!じゃあお言葉に甘えて、ここの船を全部借りていくわ!対岸に着いたらちゃんと乗り捨ての手続きもしておくから案ずるな。あばよ!」

 

張飛の指揮の下、整然とした動きで馬車や兵士たちが次々と船に乗り込んでいく。一切の無駄がない乗船作業を見つめながら、秦琪はただただ陶酔している。やがて、全ての船を貸し切った張飛一行は悠々と黄河を渡っていく。

そして渡し場には、文字通り一艘の船も残されなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それから数時間後。

荒い息を吐く赤兎馬と共に、渡し場に一人の男が到着する。かつて武神と謳われた男、関羽である。

 

関羽はひたすらに岸辺を見渡している。だが、そこには虚しく波が打ち寄せるだけで船など残っていない。完全な品切れ状態である。

 

「止まれ。ここは黄河の渡し場だ。丞相府の直轄地である。正式な通行手形なき者は、ここから先へは一歩たりとも通さん。身分を証明する証拠を提示しろ」

 

「……またか。どこの関所もどこの関所も、判で押したように同じことばかり言いおって。手形はない。そんなくだらない紙切れに構っている暇は拙者にはないのだ。だが、先ほど我が弟の張飛がここを通過したはずだ。奴は目立つからすぐに分かるだろう。拙者はその義兄であり、客将である関羽だ。弟が通ったのなら、兄が通るのもまた必然の理。さあ、道を開けろ」

 

手形もなく口頭だけで親族を名乗って関所を突破しようとするとは。

 

「ふざけるな、知らん!先ほど通過された張飛殿には、我が師も認める完璧な証明書があった!法的根拠、論理的整合性、そして美しさにおいて、我が軍の監査部門すら感涙する芸術であった!貴様には何もないではないか。規則の欠片もない野蛮人が、張飛殿の兄を騙るなど言語道断!」

 

「騙るだと?この拙者の顔を見て分からないとは言わせんぞ。武神と称されたこの関羽の顔を」

 

「顔?どの顔だ。私の知る関羽という男は、見事な髯をたくわえた威厳ある武将だと記憶している。貴様のような、顎がツルツルで青白く、ゆで卵のような顔をした不審者が関羽であるはずがない。偽証罪も追加だな。それに……すでに各関所から早馬が届いているぞ!」

 

懐から何枚もの報告書を取り出し、突きつける秦琪。

 

「東嶺関の孔秀、洛陽の韓福、汜水関の卞喜、滎陽の王植……。我が軍が誇る優秀な同僚や部下たちを、貴様は次々と斬り捨てたという報告が上がっている!これは明らかな業務妨害であり、重大な反逆行為だ!奴らはただ関所の定めに従い、貴様に通行手形の提示を求めただけだ。その正当な職務執行に対して、貴様は暴力という最も野蛮な手段で応じた。この罪、絶対にここで償ってもらう!」

 

言っていることは至極真っ当である。

 

「……正当な職務執行だと?笑わせるな。彼らが拙者の誇りを笑ったからだ。彼らは手形を求めたのではない。この失われた髭を見て、拙者の存在意義を根底から否定し、あざ笑ったのだ。拙者の判断基準では何の問題もない。問答無用だ、そこをどけ」

 

逆恨みも甚だしい。執着のために守将たちを物理的に消去しておいて、自己責任と言い切る精神構造が恐ろしい。

 

「誇りだと?己の矜持のために惨殺しておいて、自業自得などとほざくか!そもそも、どいたところで無駄だ。船など出せるはずがないだろう。先ほど通過した張飛将軍が自身の輸送経路における安全水準を最大化するために、ここの船を一艘残らず借り切って行ったからだ!」

 

「な……ないだと……!?」

 

「翼徳……貴様……。兄が後から合流するというのに、一艘くらい残しておくという、最低限の危機回避は頭になかったのか……っ!?何が危険分散だ、何が部隊の配置だ!自分の安全だけを完璧に守り切り、兄の移動手段を完全に断ち切るとは……これが、桃園で誓い合った義弟のやることかァァァッ!」

 

「さあ、観念しろ関羽と名乗る髭無し男!貴様を通すための書類もなければ、貴様を乗せるための船も完全に尽きている!己の手配能力の欠如が招いた結果だ。ここで大人しく我が軍の規律に従って処刑され、黄泉の国で孔秀たちに詫びるがいい!」

 

秦琪が片手を上げると、背後の兵たちが一斉に武器を構える。

しかし。関羽の精神はすでに別の次元へと移行していた。

 

「……書類がないなら……船がないなら……」

 

「通る方法はただ一つだ。貴様をここで斬り捨てて、その体をイカダ代わりにしてでも、拙者は黄河を渡るのみだァァァッ!!」

 

論理も倫理も規則もすべてが吹き飛んだ、純粋な暴力の化身だ。

人をイカダにするという発想の飛躍にはもはやついていけない。

 

ズバァァァン!!

 

轟音とともに、青龍偃月刀が一閃する。

防御や回避といった一切の選択肢を許さない、絶対的な破壊の光。槍を構えようとした秦琪の動きは完全に遅きに失していた。振り抜かれた刃は、槍ごと、その頑丈な体躯を真っ二つに分断する。

完璧な書類を愛し、規則を重んじた真面目な官僚の命は、あまりにも理不尽な理由で一瞬にして散った。

 

「ぐあぁぁっ!し、師匠……夏侯惇様、申し訳……ございません……書類の……ない世界なんて……」

 

体が二つに分かれていく感覚の中で、最愛の師の顔と、張飛が残していった美しい申請書の書式を思い浮かべながら、秦琪は崩れ落ちる。

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

「……本当に船が一つも残っていない。木っ端一つ、いや、木屑の残骸すら浮いていない。どうする?このままここで待機して、新たな船が到着するのを待つか?いや、それでは一刻千金という原則に反する。ならば、泳ぐか?拙者一人なら、この鍛え抜かれた肉体をフル活用して、黄河の濁流を泳ぎ切ることも決して不可能ではない。しかし……」

 

関羽の視線が、傍らで静かに主の決断を待っている一頭の美しい馬へと向けられる。全身が燃えるような赤色に染まったその名馬こそ、希代の駿馬と呼ぶべき絶対的な価値を持つ、赤兎馬である。

 

「問題は、この赤兎だ。風邪でも引かせたらどうなる?」

 

 

黄河のほとりで、赤兎馬の維持費と身内の厳しい監査の恐怖について延々と脳内会議を繰り広げている武神。もはや彼が何と戦っているのか全く分からない。

 

そんな彼の思考を、大地を揺るがす凄まじい大音響の蹄の音が遮る。

天を突くような巨大な砂煙と共に、凄まじい殺気を全身から放ちながら猛追してくる一人の猛将の姿がある。曹操軍における最強の武闘派、隻眼の夏侯惇である。

 

「待てぇぇい関羽ゥゥ!!逃げられると思うなよ!!曹操軍の中核を担う将軍、夏侯元譲、ここに参る!!」

 

「げっ!夏侯惇!わざわざ出向いてきやがったか……!ただでさえ船の欠品問題で頭が痛いというのに……!」

 

「秦琪……!ああ、なんということだ、秦琪……!俺の可愛い、本当に可愛がっていた一番弟子……我が軍が将来を賭けて育成していた、最高品質の若手が……!こんな、こんな無惨な姿で、理不尽に処理されているとは!」

 

「貴様ァァ!!自分が何をやったのか分かっているのか関羽!!この秦琪をここまで一人前の将に育て上げるために、俺がどれほどの膨大な時間と手間を投資してきたと思っている!!これは明らかな業務妨害であり、我が軍に対する許されざる反逆行為だぞ!!」

 

怒りに任せて、自らの得物である巨大な鋼鉄の槍を構え、その鋭い切先を関羽の鼻先わずか数センチの距離にまで突きつける夏侯惇。

 

「このままタダで済むと思うな!徹底的に罪を問い質してやる!この見窄らしい、ツルツルの髭なし野郎!!」

 

それは、彼が最も触れられたくない、絶対に侵してはならない領域だ。武神の逆鱗という名の地雷が、巨大な鉄槌でフルスピードで轢き潰された音であった。

 

「……誰が……髭なしだ!!」

 

「貴様、今なんと言った!?個人の身体的特徴、しかも、不慮の事故……いや、不当な関所の守将たちの嫌がらせによって失われた、我が最大の誇りを揶揄するなど、最低最悪の侮辱行為だぞ!!礼儀知らずも甚だしい!!やるか隻眼!!貴様のその残った生意気な片目も、今日ここでえぐり取ってやる!!」

 

武神としての誇りではなく、ただの失われた毛髪への異常な執着である。

 

ガキィィィン!!

 

激しい怒号と共に、青龍偃月刀が凄まじいスピードで振り下ろされる。それを迎え撃つ夏侯惇の槍。二つの規格外が正面から激突し、凄まじい衝撃波が周囲の空間を歪ませる。足元の地面が蜘蛛の巣状にひび割れ、渡し場の兵士たちがその余波だけで吹き飛ばされる。

 

二人の猛将が火花を散らして武器を打ち合い、周囲の地形すら変えるほどの激しい死闘を繰り広げているその時。

 

渡し場へと続く街道の彼方から、もう一騎の騎馬が尋常ではないスピードで爆走してくる。背中に巨大な大斧を背負い、馬の限界速度をはるかに超える勢いで駆け抜けてくるその男は、徐晃である。

 

「どけぇぇぇ!!どいてくれぇぇぇ!!」

 

「ん!?」

 

二人が動きを止めたその隙間を縫うように、徐晃の乗る馬が猛烈な勢いで突っ込んでくる。

 

「ゼェ……ゼェ……。ハァ……ま、間に合った……」

 

徐晃は馬の手綱を限界まで引き絞り、蹄から激しい摩擦の煙を上げながら、二人の間に滑り込むように停車する。彼は馬上で息を大きく切らせながら大粒の汗を拭う。

 

「夏侯惇将軍!関羽将軍!直ちにその無意味な武器の打ち合いを収めてください!これ以上の不毛な戦闘行為は、李司様の怒りを買うことになります!いますぐ武器を引いて、この争いから離脱するのです!」

 

息も絶え絶えに警告を発する徐晃に対し、夏侯惇は槍を下げずに激しく怒鳴り返す。

 

「徐晃か!お前こそ俺の邪魔をするな!こいつはただの通行人ではない!俺が手塩にかけて育て上げた一番弟子を無惨に殺し、俺の大切な姪を不当に奪い去った側の人格破綻者だぞ!将としての責任が問われる事態なんだよ!」

 

徐晃は首を横に振り、懐から厳重に保管されていた一つの品を取り出す。

 

「お言葉ですが夏侯惇将軍!これをご覧ください!この偽造防止の特殊な透かしが入った極上の書状を!曹操様から正式に発行された特級の許可証、紛れもない本物の公文書です!」

 

「曹操様からの絶対命令です!『関羽の通行を一切阻むな。彼が黄河を渡るための船も、道中の兵糧も、すべて我が軍の倉から無償提供せよ。この命令に逆らう者は、即座に追放処分となります!」

 

「曹公……!おお、曹公よ……!やはり貴方だけだ!」

 

関羽は感激のあまり、青龍偃月刀を取り落としそうになっている。

 

「このツルツルに成り果てた拙者の顎を見て、他の連中が皆、武神の完全な終わりだと嘲笑い見下す中、貴方だけは違った!拙者の未来における見事な髭の復活を真に信じ、この逆境にあっても惜しみない支援を与え続けてくれる真の理解者は貴方だけだ……!この最高級髭油という、涙が出るほどありがたい贈り物、必ずや恩を返しましょうぞ!」

 

敵将からの施しである髭油に武神がむせび泣いている。もはや誇りもへったくれもない。

 

「……くそっ!孟徳の……命令であるならば……我々がそれに逆らうわけにはいかん。それが軍というものだ。」

 

「だが関羽!これだけははっきりと心に刻んでおけ!俺の可愛い姪っ子に、もし万が一、髪の毛一本でも傷がつくようなことがあれば、地の果てに逃げ込もうとも追い詰めて、貴様らを丸ごと叩き潰して、跡形もなく消し去ってやるからな!!」

 

「あと、あの張飛にこの伝言を伝えろ!『李司の強権発動による強制的な縁組みだろうが何だろうが、そんな内情はどうでもいい!現実問題として、結婚に伴う結納金がまだ未払いのままなんだ!その金を、分割ではなく、今すぐ一括で支払え!支払い遅延は許さん!』とな!」

 

関羽は夏侯惇の凄まじい剣幕に押され、再び顔に冷や汗を浮かべる。

 

「確実に伝えておく……」

 

「到着前に部下に命じて、近隣の山林から木材を緊急調達し、即席のイカダを大至急組ませました。突貫工事の急造品ゆえに、多少の湿り気と安全基準ギリギリの浮力しかありませんが、関羽殿の巨体と赤兎馬の重量という条件はなんとか満たしております。これで対岸へお渡りください」

 

関羽はそのイカダを見て一瞬顔を引き攣らせるが、選択の余地がないことを悟る。

 

「かたじけない、徐晃殿。貴殿のその場での臨機応変な対応力、まさに一流の将の証だ。この恩は、いつか必ず戦の場で返すとする」

 

「……さらばだ、夏侯惇!結納金の件については、しかるべき者に伝えて善処する!だが、これだけは最後に言っておく!二度と、二度と拙者の前で、髭の話をするなよ!次にそのような暴言を吐いた時は、問答無用で貴様の陣営を乗っ取ってやるからな!」




ここまで読んでくださりありがとうございます。
今回は、張飛が完璧な書類で船を全部持っていき、関羽が黄河の渡し場で完全に詰む回でした。
一番ひどい目に遭ったのは、秦琪、関羽、夏侯惇、あるいは船を全部貸した渡し場の兵たちの誰だったか、感想で教えていただけると嬉しいです。
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