三国志異伝~演算する剣鬼(守銭奴)~最強の秘書官・李司が通る道には死体と領収書しか残らない~ 作:斉宮 柴野
だが待っていたのは、涙の抱擁ではなく、軍規違反と信用失墜に激怒する張飛の怒号だった。
一方その頃、袁紹軍本陣では、劉備がまたしても口先だけで生き残りを図ろうとしていた。
ここは荒野にひっそりと佇む、古城。ここは現在、張飛の駐屯地、もとい場末のしがない砦として機能している場所である。
その古城の門前へと力なく歩を進めてくる一頭の赤い馬。かつては圧倒的な馬力と稀少価値を誇った名馬中の名馬、赤兎馬である。黄河の激流を湿った粗末なイカダで渡りきった疲労により、見るも無残に毛並みが劣化し、廃馬同然の哀れな状態へと陥っている。
そして、その背に跨る男の姿もまた悲惨である。彼の存在意義であり、最大の誇りであったはずの「美しい髭」が完全に消滅している。
どこからどう見てもただの遭難した不審者であるが、男の表情だけは異様に明るい。
精神的な負荷が限界を突破し、まともな思考力が崩壊した元武神、関羽である。
最愛の弟が管理する砦を見つけ出した喜びで、彼は有頂天になっていた。
「おおーい!翼徳!拙者がついにたどり着いたぞ!さあ、感動の涙と共に、この偉大なる将の帰還を盛大に歓迎するが良い!」
弟が涙を流して駆け寄り、熱い抱擁を交わすという兄弟愛の画が描かれているのだろう。
己の惨状とこれまでの蛮行を完全に棚に上げた、自己中心的な思考である。
しかし、現実は彼の甘い予想を無惨にも粉砕する。
城門がけたたましい音を立てて開き、中から一人の巨漢が飛び出してくる。
彼の顔には歓迎の喜びなど微塵もない。あるのはただ純粋な怒り、それも、軍規を著しく乱された冷酷かつ激しい怒りである。
「貴様!!どのツラ下げてのこのこやってきやがった!!通行手形の提示もない完全な不法侵入だぞ!!」
「つ、翼徳!?何を血迷っているのだ!よく見ろ、義理の兄である!幾多の死地を乗り越え、ようやく合流を果たせたというのに!もっとこう、再会を喜んで温かい茶の一杯でも差し出すのが、正しい作法というものではないのか!?」
城門の内側から姿を見せたのは、伝令や交渉を担当する孫乾であった。極めて事務的で冷ややかな視線が関羽を射抜く。
「ふん……関羽将軍?いったい誰のことですか、それは。そのような身なりの不審者は登録されておりません。我が劉備軍が誇る『美髯公』が、そんなツルツル顎の、肌荒れが酷い哀れなおっさんであるはずがないでしょう。お引き取り願います」
関羽が間の抜けた声を漏らす中、さらに追い打ちをかけるように、二人の女性が姿を現す。劉備の妻であり、この陣営において最も守られるべき存在である甘夫人と糜夫人である。
「孫乾の言う通りですわ。だいたい貴方、私たちを置き去りにして、自分だけ最高級の『髭油の定期配給』という恩恵を貰って、ぬくぬくとしていたのではありませんか。その結果が、その見るに耐えない肌荒れですか?自己管理能力の欠如も甚だしいですわ」
冷たく言い放つ甘夫人に、糜夫人も深く頷きながら同意する。
「本当に、最低の振る舞いですわね!張飛将軍の見事な立ち回りを見ましたか?
離反の挨拶状の提出から、荷の引き継ぎ、そして撤退の段取りに至るまで、何一つ突っ込みどころのない手続きを完了させて、誰一人傷つけることなく、この陣営を構築したのです!それに比べて貴方のその無軌道な振る舞いは何ですか!見習いなさい!」
「おっ、奥方様たちまで拙者を非難するのか……!?い、いや、誤解だ!拙者だって、決して曹公の厚遇に溺れていたわけではない!兄者との合流を一刻も早く果たしたくて、急いでここへ駆けつけたのだ!」
「黙れ!!兄者に会いたいだと?だったら、お前が張遼将軍と交わした約束はどうしたんだ!!この恩知らずの不義理者め!!」
「お前はあの時、『拙者がいる限り、曹公の戦に負けなどない!確実な勝利をお約束しよう!』って大見得を切ったよな!?その口で、戦の決着も終わらねえうちに裏切るのか!お前が抜けた後の士気の低下をどう責任取るつもりだ!誓いの概念すら理解していないただの気分屋か!お前なんぞ武将の風上にも置けん恥知らずだ!!」
道義的にも倫理的にも全く隙のない正論である。
「そ、それは……その……文遠、いや張遼殿には、後で丁重な詫び状を出して、事後承諾を得るつもりで……いや、その……」
「だ、ならば妥協案だ、翼徳!この利害関係をすべて解決する、究極の共有制度を提案しよう!名付けて『一日交代の貸し出し将軍』という仕組みはどうだろうか!?」
「あ?なんだそのふざけたものは」
「よく聞け!月曜日は、我が主君である兄者、劉備殿のため任務に全力で当たる!そして火曜日は、恩義ある曹公への義理を果たすため、出向扱いの将軍として武勲を叩き出す!そして……水曜日から日曜日までの五日間は、すべて『失われた髭の手入れと育成』のための専属期間とする!これなら、双方の顔も完全に立つ上に、拙者の誇りである髭の回復も劇的に進む!どうだ、この見事な解決策は!!」
週に二日しか働かない武神。しかも休日の理由が髭の育成である。当然ながら張飛の堪忍袋の緒は修復不可能なレベルでブチ切れた。
「ふざけるなァァァッ!!何が共有制度だ、何が妥協案だ!!働く日が圧倒的に少なすぎるだろうが!!週休五日ってどこの宮廷の腐敗官僚だ!!お前は隠居後に趣味で槍を振るっている暇なジジイか!!月に数日しか働かない人間に払う俸給など、存在しねえんだよ!そんなふざけた言い訳が通ると思っているのか、この算術音痴め!!」
張飛が激しい怒号を上げ、関羽に対する追放を執行しようとした時である。
古城の彼方、黄河へと続く街道の方角から凄まじい規模の砂煙が巻き上がる。それは一個の軍団が進軍してくる証拠であった。やがて砂煙の中から、曹操軍の猛将・蔡陽の名が記された軍旗が近付いてくるのが確認できる。
「見ろ翼徳!あれを!曹操軍からの追撃がやって来たぞ!なぜ彼らがここまで必死に拙者を追いかけてくるか分かるか!?それはな、拙者がここに至るまでの関所で、通行を阻もうとした守将どもを、ことごとく真っ二つにして、この世から退場させてきたからだ!
これこそ、拙者が曹公との義理を完全に断ち切り、決別の意思を行動で示してきた何よりの証拠ではないか!!」
非道な関所破りによる殺人を、忠誠心の証明として自慢する異常者。
その言葉を聞くと、張飛の顔面が真っ赤に染まった。
「それが余計なんだよ、この救いようのないバカ兄貴ぃぃぃいいっ!!」
「お前は自分がどれほど取り返しのつかないことをしたのか、全く理解していないのか!!俺が!!俺がせっかく、挨拶状、荷の移送届、危険回避の陣形図を、徹夜に次ぐ徹夜で書き上げて!!ただの一滴の血も流さずに、法的に安全な撤退路を構築したというのに!!」
「後から来たお前が!!関所の守将たちを全員ぶち殺して、書類を全部無効化しやがって!!その蛮行のせいで、我が軍と曹操軍の間の信用は地に落ちたんだぞ!!
これは単なる殺人事件じゃない、陣営間の重大な裏切りであり、深刻な軍規違反だ!!
確実に処罰されて、我が軍全体が賊軍として討伐される大事件なんだよ!!」
「う……また弟に、しかも書類の不備で怒られた……」
「な、ならば……あの追手としてやってきた将、あれも拙者が真っ二つに斬って捨てよう!奴の命を消去することで、拙者の身の潔白を今度こそ証明してみせる!」
「やめろバカ!!解決策も行動も間違ってる!!これ以上、命を無駄に奪うな!!ここでさらに犠牲者を出せば、李司殿の直接の裁きが入って、我々劉備軍は一発退場、文字通りの全滅処分を受けることになるんだぞ!!お前は少しの間、そこから一歩も動かずに大人しくしてろ!!」
現場が事後処理のパニック状態に陥っている中。
古城の脇にある山道の陰から、一人の男が姿を現す。元黄巾党に所属していた山賊であり、現在は野良の武闘派として活動している周倉である。彼の目はキラキラと輝いており、全身が感動と興奮で打ち震えている。
「お、おおおおっ……!お待ちしておりました!ずっと、ずっとお待ちしておりましたァァッ!天下にその名を轟かせる義の将、乱世において武名を誇る伝説の男、あの関羽将軍がこの辺境を通過しているという情報を耳にしまして、夜通し山を駆け下りてきたのです!」
「俺は、関羽将軍の持つ威光、その生き様に深く憧れて生きてきた男なのです!お願いです!どうかこの俺を、貴方の陣の配下に組み込んでください!貴方という御仁に、人生のすべてを預けさせてください!赤兎馬の世話係でも、毎日の予定管理でも、帳簿付けの代行でも、何でも喜んでやります!!」
その言葉を聞いた瞬間、関羽の顔がこの日一番の輝きを放った。張飛や女性陣からボロクソに批判され、底辺まで落ち込んでいた自尊心が、一気に急上昇を見せた。
「おおっ……!まさか、こんな辺境の地で、拙者の価値を理解できる理解者が現れるとは!堅苦しい掟に囚われた連中とは違う、本物の価値を見る眼を持った男よ!」
「うむ!貴殿のその情熱、見事である!偽りなく、拙者が関雲長である!貴殿の熱意に免じて特別に許可しよう!許す、これより拙者の副将として、この関羽の輝かしい武勲に最後までついて参れ!」
関羽はここぞとばかりに全身の筋肉を硬直させ、最も美しく威厳に満ちた「美髯公らしいポーズ」を決めた。左手で自慢の長い髭を優雅に撫でながら、右手で青龍偃月刀を掲げるという、あの伝説の型である。
しかし、悲しいかな。彼が左手で撫でているその顎には、風になびくはずの美しい髭は存在しない。あるのはただ、ストレスと冷水で荒れ果て、中途半端な無精髭がジョリジョリと生えかけただけの、極めて見苦しい空間だけである。
周倉は、熱狂的な笑顔を浮かべたまま、関羽の顔を凝視する。
一秒。
二秒。
三秒。
周倉の顔から、一切の感情が消え失せた。彼は、ポーズを決めたまま静止している関羽を数秒間凝視し続けた。
「……は?」
「いや、ちょっと待て。俺の知る関羽将軍は、風になびく美しい二尺の長い髭こそが最大の誇りであり、存在意義である『美髯公』のはずだ。俺はその容姿と威光に憧れていたんだ」
「お前はなんだ。ただの、首の周りに血の匂いを染み付かせた、顔の赤い、肌荒れした青白いキモいおっさんじゃねえか。どこをどう見たら関羽将軍なんだ。規律以前の問題だ、これは明白な詐欺、極めて悪質な虚報だぞ!!完全な偽物じゃねえか!!」
「俺の憧れを返せ!!お前みたいな偽物に仕えるくらいなら、その辺の石ころに仕えた方がマシだ!!帰る!!俺は山へ帰るぞ!!」
失望し吐き捨てるように叫ぶと、周倉は持っていた武器を地面に投げ捨て、来た山道へと足早に引き返していった。
「う、うぐぐぐぐっ!!!!」
「拙者の……拙者の誇りが……暴落……いや、最初からこの世に存在すらしていなかったと……?拙者はただの、顔の赤い不審者……」
バタン!!
あまりのショックの大きさに両目を見開いたまま白目を剥き、関羽は卒倒した。
◇◇
「おのれ関羽!!どこへ逃げた!!卑劣な不義理者め!!俺の可愛い甥の秦琪をよくも理不尽極まりない理由で殺しやがって!!出てこい関羽!!隠れても無駄だぞ!!これはもはや単なる私怨ではない、我が軍に対する明らかな敵対行為だ!!人材を奪われた恨みを、貴様のその命で支払ってもらうぞ!!」
怒号が荒野に響き渡る。蔡陽は怒りのあまり足元への注意が完全に散漫になっており、乗っている馬の蹄が、地面で行き倒れている関羽の頭部をあわや踏みつけそうになっている。
ギリギリのところで馬が自発的に障害物を回避したため物理的な破壊は免れたものの、蔡陽自身は自分の足元に転がっている不審な物体に一切の関心を払っていない。
蔡陽の視線は、古城の入り口で腕を組んで立っている、張飛へと向けられた。
「おい、そこの見るからに賢そうな、しかし腕力も異常に強そうなガチゴリラ!!単刀直入に聞く!!このあたりに、関羽という極悪非道な男が通過しなかったか!?
奴は赤兎馬という真っ赤な名馬に乗り、顎には風になびく美しい二尺の長い髭を蓄えた、威厳のある男だ!!奴の居場所を即座に教えろ!!情報提供の対価として、我が曹操軍との交渉を優遇してやってもいいぞ!!」
張飛は無言のまま、右手の親指を下へ向けた。その指が示す先には、蔡陽の馬の足元で、白目を剥いて口から泡を吹き、機能停止に陥っている哀れな男が転がっている。
「……そこに転がって、気絶しているハゲ顎のおっさんが、あんたの探している関羽だが?手配書とは大幅に姿形が変わっているが、骨格や背丈を調べれば間違いなく関雲長という個体として識別されるはずだ。どうぞ、煮るなり焼くなり、あるいは恨みを晴らすなり、好きに持っていってくれ。こっちは軍規違反の事後処理で手一杯で、そんな厄介者を抱え込んでいる余裕は一切ないんでね」
「……は?これが?これが関羽だと?」
蔡陽は顔を上げ、張飛を睨みつける。
「嘘を言うな、このインテリゴリラめ!!追っ手をごまかすための虚偽報告か!?よく見ろ、この男の顎には、関羽の最大の誇りであるはずの美しい髭が、存在していないではないか!!明らかな人違いだ!!俺が探しているのは、こんな見るからに無価値なその辺の石ころと同レベルのゴミではない!!!」
髭がないというだけでここまで言われる武神が不憫すぎる。蔡陽は関羽の顔を完全に「関羽ではない別の何か」として認識し、再び周囲の草むらや古城の城壁の上、果ては空の雲の隙間まで、探し回り始める。
「うーん……おかしい。斥候の報告によれば、関羽は確実にこの近辺に存在しているはずなのだが。ここには無いようだな。間者の持ってきた情報が間違っていたか、あるいは伝令の途中で致命的な遅れが発生したか。くそっ、これだから情報網は信用できないんだ!」
蔡陽は刀を天に向けて振りかざし、周囲の荒野に向かって大声で叫び始めた。
「おーい!!関羽ーー!!どこに隠れているんだーー!!追及から逃れるための他国への逃亡でも図ったのかーー!!出てこい!!隠蔽工作は俺には通用しないぞーー!!」
その時、関羽が叫び声によって、うっすらと意識を取り戻した。
「う……うう……」
敵とはいえ、自分の名前をこれほど熱心に呼んでくれる存在がいる。それは、己の存在意義を喪失しかけている関羽にとって一縷の希望のように思えた。
「せ……拙者が……その探している……正真正銘の……関……雲長……だ……。偽物でも……落伍者でもない……。かつて……美髯公と呼ばれた……男だ……。頼む……拙者を……関羽として認識し……そして……正々堂々と……武将としての……決闘を……」
必死に自己の存在証明を訴えかけるが、蔡陽は足元から聞こえる弱々しい声に激しい嫌悪感を露わにする。
「うるさいぞ、そこのハゲ顎のおっさん!!関羽の威光を利用して少しでも自分を高く売ろうとする不審者は黙っていろ!!こちらは追跡調査で忙しいんだ!!お前みたいな偽物にかまっている時間は一秒たりともない!!」
「よし!!全軍、直ちに撤収の準備に入れ!!ここに関羽は存在しないことが確定した!!これ以上の捜索は兵の無駄遣いであり、著しい士気の低下を招く!!本日の行軍はこれにて終了とする!!他の場所をあたるぞ!!」
こうして「蔡陽、関羽と物理的に接触したにもかかわらず、関羽の威光が地に落ちすぎて認識できなかったため、無傷で生還を果たす」という、後世の兵法書にも決して載らないであろう究極の危機回避が成し遂げられたのである。
関羽は、遠ざかっていく蔡陽軍の立てる砂煙に向かって虚しく右手を伸ばしたまま静止している。
「殺されるより……」
「斬り殺され、肉体が破壊されるより……。目の前にいるのに、武名を否定され、存在そのものを無いものとして扱われる方が……。武人として……これほど辛く、屈辱的なことはない……!!拙者は……世間から……見放されたのだ……!!うぐっ……!!」
バタン!!
再び両目を見開き、本日二度目となる卒倒を遂げる関羽。
「……まあ、追っ手が、勝手に帰還してくれたなら、結果良しと言えるか。余計な戦闘も防げたし、俺の手続きの有効性もギリギリのところで保たれた」
足元で完全に意識を失っている義兄を見下ろす。かつては天下無双と謳われ、絶対的な自信に満ち溢れていた男のあまりにも哀れな末路。
「それにしても、兄者……あまりにも不憫すぎる。尊厳が失われた厄介者じゃねえか。
……仕方ない。義兄弟の契りを結んだ手前、ここで見捨てるのは俺の信念に反する。このハゲ顎の髭が元通りになり、本来の威厳が戻るまでの間、俺がまとめ役として守ってやるかね……。あーあ、また骨折りが増えちまったぜ」
◇◇
【袁紹軍 本陣】
関羽と張飛が古城で再会を果たし、深刻な課題に直面しているのと同じ時刻。
「おい!!劉備!!どこにいる劉備!!」
怒鳴り声が広大な陣幕に響き渡る。その声に呼ばれ、部屋の隅から顔面には張り付いた愛想笑いを浮かべた男が小走りに近づいてくる。
天下無双の逃亡と横領の達人にして、息を吐くように嘘をつく天才的な口八丁の詐欺師、劉備である。
「はいはい!!お呼びでしょうか、偉大なる袁紹様!!我が軍はいつでも袁紹様のために全力で尽くす準備が整っております!!」
袁紹は劉備の胡散臭い笑顔を睨みつけ、さらに激しく机を叩く。
「ふざけるな!!貴様『関羽と張飛という天下無双の傑物が、俺からの手紙を送るだけで曹操を見限り、こちらに合流してくる』と自信満々にぶちかましてから、もう何日経っていると思っているんだ!!一向にその二人の姿が見えないではないか!!貴様、また期待を煽るだけ煽って、実体のない空手形で兵糧をかすめ取る詐欺を働いたな!!この損失、どう補填するつもりだ!!」
追及は極めて厳しい。しかし、幾多の死地をその圧倒的な話術と逃げ足だけで切り抜けてきた劉備にとって、この程度の苦情対応は日常茶飯事である。
劉備は一切の動揺を見せることなく、むしろさらに愛想笑いを輝かせ、両手を大きく広げて見せた。
「いやー!!おかしいですねぇ袁紹様!!関羽と張飛という我が軍最高の人材は、すでにこちらの見立てでは『出立済み』になっているはずなのですが!!あ!そうだ、原因が分かりましたよ!おそらく、国境付近の街道が、農繁期と祭事が重なる時期のせいで、想定外の交通渋滞を引き起こしているのでしょう!!馬車がストップしている状態です!!こればかりは、いくら彼らが猛将であっても、どうすることもできません!!不可抗力というやつです!!」
当然ながら袁紹の疑いの目は全く晴れない。
「農繁期だと?今はそんな時期ではないはずだが……」
「あ!!そうだ!!そんな些細な道の混雑など完全に吹き飛ぶような!!袁紹様にとって超絶的に利益をもたらす、素晴らしい同盟の提案がございます!!これを聞けば、関羽たちの到着の遅れなど些末な問題に思えるはずです!!」
「む?なんだ。また怪しい儲け話か?これ以上俺の軍資金を無駄にするような話なら、即座にその首を刎ねるぞ」
劉備は自信満々に胸を叩き、語気を一段階上げる。
「とんでもない!!今回は超がつくほどの確実な案件です!!袁紹様は、荊州を領有する、劉表をご存知でしょう!!」
袁紹は腕を組む。
「劉表か。確かに、荊州の豊富な水資源と農業生産力を背景に独自の勢力を築いている大物だな。だが、奴は保守的で、我々のような外部の勢力との提携には常に消極的だ。あの男を動かすのは容易ではないぞ」
「そこですよ、袁紹様!!実はですね、あの劉表殿は、俺と同じ『劉』という姓を持つ、『自称・親戚』、すなわち我が軍が保有する血縁網に連なる人物なのです!!過去の家系図を都合よく解釈……いや、遡って綿密に調査した結果、我々は強い繋がりを見込める関係にあることが証明されています!!」
「こうなったら、俺が!!この劉玄徳自身が!!特命全権大使として単独で荊州へと赴き!!劉表と直接膝を交えて説得を行ってきます!!『今こそ袁紹様と手を結び、あの憎き曹操の背後を挟み撃ちにする連合軍を成立させようではないか』と!!俺のこの天才的な口八丁……いや、誠実な語り口をもってすれば、劉表も必ずや同盟に署名するはずです!!どうです!?この策は!!」
「むむ……劉表軍との同盟か。確かに、それが成功すれば曹操は南北から補給路を寸断されることになる。現在我々が直面している決戦は、我が軍にとって有利になることは間違いない。策としては極めて魅力的だ……」
顎を撫でながら熟考する袁紹だが、すぐに鋭い視線を劉備に向ける。
「だが……本当に行くのか?貴様の経歴を見る限り、路銀だけを前払いで受け取って、途中で夜逃げして連絡がつかなくなるんじゃないだろうな?過去に何度もその手口で複数の勢力を泣かせているという悪評が上がってきているぞ」
「まさか!!滅相もない!!俺は偉大なる袁紹様と、そして何よりあの完璧な手腕を誇る李司殿の、下僕ですよ!!袁紹様の用意してくださる潤沢な軍資金と待遇を捨てる理由がどこにありますか!!必ず、必ずや約束通りに、最高の結果を持ってすぐさま戻ってまいります!!この劉玄徳の首にかけて!!」
表向きは誠意の塊のような顔をしながら、劉備の心の中では全く別の極めて邪悪な計画が進行していた。
『よし!!食いついた!!バカめ、劉表なんぞのところへ真面目に頭を下げに行くと思っているのか!!おい、朱霊!!路招!!お前たちはすでに俺の私兵だ!!袁紹から支給された路銀と、お前たちの部隊をまとめて、ダッシュで脱出するぞ!!行き先は荊州じゃない!!急げ、準備を怠るなよ!!』
「うむ。その意気や良し。名門であるこの俺を信じさせてみろ。貴様のその口八丁には期待しているぞ。路銀の支給は許可を出してやろう」
「ありがとうございます!!袁紹様のその迅速なご判断、一生ついていきます!!では、直ちに出立の準備にとりかかります!!」
深々と一礼し、踵を返す劉備。
そして、ハッタリと事前の根回しにより、劉備は袁紹軍の監視の目をすり抜け、朱霊と路招とともに軍糧を横領し、見事に袁紹の本陣からの華麗なる逃亡劇を成功させたのである。
「ふぅー、チョロすぎるぜ名門!!あいつら、名誉だ軍規だ言ってる割には、適当な戯言にコロッと騙されやがる!!チョロすぎて逆に心配になるレベルだぜ!!劉表との同盟なんて最初から知ったことか!!あんな堅物のジジイのところに行っても、茶一杯すら出されずに門前払いされるのがオチだ!!」
「俺たちが目指すのは荊州なんかじゃない!!黄巾党の残党がいまだに暴れ回り、秩序が崩壊している無法地帯、『汝南』だ!!あの地で好き勝手に暴れてやる!!そして、あそこで今頃路頭に迷っているであろう関羽や張飛たちと合流し、今度こそ独立勢力を旗揚げしてやるぜ!!曹操の厳しい管理も、袁紹のウザい追及ももうたくさんだ!!サヨナラだ、大物ども!!俺は俺のやり方で、この乱世に名を上げてやる!!」
ここまで読んでくださりありがとうございます。
今回は、ようやく張飛と再会した関羽が、歓迎されるどころか全方位から叱られ、さらに蔡陽からも本人認識されない回でした。
髭を失った関羽、事後処理に追われる張飛、憧れを粉砕された周倉、また逃げた劉備。
一番ひどい状況にいるのは誰だと思ったか、感想で教えていただけると嬉しいです。