三国志異伝~演算する剣鬼(守銭奴)~最強の秘書官・李司が通る道には死体と領収書しか残らない~   作:斉宮 柴野

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今回は官渡の戦い、その第二幕です。

袁紹軍の臨時軍師となった李司は、積み重なった兵站、陳情、予算超過、そして曹操の女関係によって、ついに処理能力の限界を迎えました。

幸い、目の前には殴っても問題にならない敵兵が数万人います。

妻から逃げて砦へ籠もる曹操。
砦を矢の雨で覆う蔡文姫と審配。
高所を与えられて完全に壊れる麹義。

そして、逃げ場を失った曹操軍は、空から降る矢へ岩で対抗しようとします。

今回は、矢と岩と夫婦喧嘩が飛び交う攻城戦です。



第五十一話 妻の怒りと、官渡に轟く霹靂

平原を埋めている兵を一人につき一日二升として計算すると、両軍が消費する兵糧は考えたくもない量になります。

 

死ねば育成費が消え、負傷すれば治療費が増え、勝ったところで壊れた道と城を直すのは私です。戦争とは、どこから眺めても金を燃やすだけの巨大事業でした。

 

いつもの私なら、少しでも損失を減らす方法を考えたでしょう。

ですが今日は、そういう気分ではありません。

 

本初は名門の威信を守るためなら予算を見ません。孟徳は勝つためなら後から私が帳尻を合わせると思っています。二人が好き勝手に膨らませた軍勢の維持費、兵糧の不足、各地から届く陳情書、そして戦の最中まで増え続ける孟徳の女関係。

 

今朝、とうとう私の処理能力を超えました。

 

幸いなことに、目の前には殴っても業務上の問題にならない人間が数万人もいます。

実に気の利いた職場です。

 

「私の前に立つ無駄な障害物はいますかァ!」

 

数は多い。動きも悪くありません。

しかし、殺気を隠す余裕がない兵は楽でいいですね。肩が動いた時点で、穂先の行き先まで教えてくれますから。

 

「今日は細かい計算などいたしません! 溜まりに溜まったものを、まとめて処分させていただきます! ヒャッハー!」

 

薙ぎ払うたびに悲鳴が遠ざかり、私の周囲だけ密度が目に見えて下がっていきます。

 

「正気じゃないぞ、あの女!」

 

失礼ですね。

私は正気です。

 

正気のまま、誰彼構わず殴り飛ばしたいだけです。

兵の壁が割れ、見覚えのある三人が出てきました。

徐晃、許褚、典韋。孟徳の手元にある物理資産の中でも、特に頑丈な三名です。

 

「我が名は徐晃公明! いざ、尋常に――」

 

「公明殿、正面は任せた!」

 

名乗りの途中で許褚が右へ回り、典韋は左から退路を潰しました。徐晃だけが律儀に最後まで名乗ろうとしているあたり、三人の役割分担には改善の余地があります。

 

「姐さん、悪く思わねえでくれ! 殿を守るのが俺の仕事なんだ!」

 

典韋の顔は、今にも泣きそうでした。

私と戦いたくはない。しかし孟徳を見捨てることもできない。そういう不器用な忠誠心は嫌いではありません。評価と手加減は別ですが。

 

「三人で来た判断は正解です。一人ずつなら面倒なので、まとめて処理しようと思っていたところでした」

 

「普通は逆だろ!」

 

徐晃の大斧を双頭戟で受け、力の向きだけを変えます。刃は私の横を通り過ぎ、代わりに地面へ深く食い込みました。

 

その隙を許褚が見逃すはずもなく、大剣が胴へ迫ります。

 

悪くない連携でした。

私が脚で剣を蹴り上げなければ、ですが。

 

典韋の鉄戟が双頭戟へ絡みつき、太い腕に一気に力が入りました。

 

「捕らえたぞ、姐さん!」

 

「そうですか」

 

得物を捻ると、二本の鉄戟が互いに噛み合います。典韋はそこで初めて、自分の両手が私の双頭戟へ固定されたことに気づきました。

 

「では、そのまま少し飛んでください」

 

「え?」

 

典韋の体は、重いだけあって振り回すと実によく働きます。立て直した徐晃へぶつけ、さらに許褚まで巻き込ませると、三人分の鎧がまとめて派手な音を立てました。

止まるまでに盾兵を十数名消費したのは、少々もったいなかったですね。

 

「ひえええええっ! 李司だ!」

 

曹の旗の下から、最も聞き慣れた悲鳴が届きました。

 

「まずい! あれは宛城で浮気がばれて、俺の愛馬を差し押さえられた時と同じ顔だ! 機嫌が悪い時の李司だぁぁぁ!」

 

孟徳は相変わらず、余計なことだけはよく覚えています。

同じ顔という評価は間違いです。今日の私は、あの時より遥かに怒っています。

 

「勝てん! あんな状態の妻に勝てるものか! 全軍、砦まで退け! 死にたくなければ走れぇぇぇ!」

 

曹の旗が真っ先に後退を始めました。

将が逃げれば、兵も逃げます。槍を捨て、盾を捨て、邪魔な味方まで押し倒し、曹操軍は競うように砦へ殺到しました。

 

迷わず全軍撤退を選べる判断力。

孟徳の危機察知能力は、やはり天下を狙える水準にあります。

 

「ですが、逃げてよいとは言っていませんよ」

 

その一言で、曹操軍の足がさらに速くなりました。

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

砦の門は、私が辿り着くより先に閉じました。

 

内側から土嚢を積み、梁まで渡しているのでしょう。門板の向こうでは、兵を急かす孟徳の声と、槌を打ちつける音が重なっています。

 

「全軍、砦を包囲なさい。孟徳がどこかへ抜け出すかもしれません。鼠一匹ではなく、女一人通してはなりませんよ」

 

伝令たちの返事が、妙に大きく揃いました。私が誰を最も警戒しているのか、よく理解しているようです。

 

「弓兵は休まず射続けなさい。眠らせず、食べさせず、厠へ行く余裕も与えなくて結構です。孟徳が泣いて謝るまで、手を止める必要はありません」

 

最初の一射で、空が黒くなりました。

城壁の向こうから悲鳴が上がり、一射目が落ちきる前に次の矢が頭上を越えていきます。さらに三射目、四射目。胸の奥に詰まっていたものが、弦音に合わせて少しずつ軽くなっていきました。

 

「李司様」

 

蔡文姫の黒い衣には返り血が点々と散っていましたが、本人は袖口の皺の方が気になるらしく、指で丁寧に伸ばしていました。

 

「現在の射角では、城壁と建物の間に死角がございます。敵兵の多くが、そちらへ移り始めましたわ」

 

「何分あれば消せますか?」

 

「一晩」

 

審配の広げた図面には、砦を囲む幾つもの円と、城内へ伸びる無数の直線が描かれていました。兵舎、井戸、食糧庫、厩舎。兵が生き延びるために集まらざるを得ない場所ほど、線が多く重なっています。

 

「城壁の外へ土を盛り、その上に櫓を築きます。高さと角度を変えて矢を放てば、一つの建物へ複数方向から射線が通りますわ」

 

「特に井戸は念入りに。右へ逃げても矢。左へ逃げても矢。建物へ隠れても、別の櫓から矢。敵兵が選べる道を残したまま、どれを選んでも同じ結果になるよう整えます」

 

「死ですね」

 

「はい。美しいでしょう?」

 

人の死を美醜で判断する趣味には、今も完全には共感できません。しかし、今の私には非常に美しく見えます。

 

「うむ! さすがは我が軍の女神だ!」

 

「ただちに取りかかれ! 周辺から職人と人足を集め、今夜のうちにすべて完成させるのだ!」

 

「本初」

 

「なんだ、李司」

 

「高さだけを見て浮かれる前に、地盤の硬さを調べなさい。櫓が倒れれば、敵ではなく味方の兵が在庫処分されますよ」

 

「も、もちろんだとも。俺はそこまで含めて命じたつもりだ」

 

今、地盤という言葉を初めて聞いた顔でした。

 

この男は大枠を決める時だけなら優秀なのです。細部まで本人に任せると、名門の威光で地面まで固くなると思い始めるので、必ず誰かが横で管理しなければなりません。

 

審配へ必要な土量と木材の運搬経路を任せ、蔡文姫には城壁の高さと風向きを再計算させました。私は各隊の兵数を削りすぎないよう、人足と護衛を割り振ります。

 

東の空が白む頃、砦の周囲には昨日までなかった土山が連なり、その上へ櫓が立ち並んでいました。

最も高い櫓を麹義に与えたのは、少しばかり人選を誤ったかもしれません。

 

「ヒャハハハハハ! 見える! 全部見えるぞ!」

 

朝日を背負い、両腕を広げる姿だけなら勇壮な将軍です。

目が完全に血走っていなければ、ですが。

 

「曹操の鼠どもが、壁の裏で震えてやがる! 隠れたつもりか! 頭も背中も丸見えだぁぁぁ!」

 

「矢を放て! 矢を放て! やを! はな! てぇぇぇぇぇ!」

 

今まで悲鳴の聞こえなかった場所からも声が上がり、建物の陰から飛び出した兵へ別の櫓から矢が集まりました。

蔡文姫の図面に引かれていた線が、血でなぞられていきます。

 

「命中だぁ! 次! 次の弓を寄越せぇぇぇ!」

 

麹義は弓兵から弓を奪い、自分で射始めました。一本当てるたびに笑い声が大きくなり、周囲の兵まで彼から距離を取っています。

 

「……李司。やはり麹義は危険ではないか?」

 

「敵が残っているうちは、こちらへ降りてきません。問題ありませんよ」

 

「敵がいなくなった後は?」

 

「その時に考えます」

 

しかし、矢を浴びながら震えているだけで終わるほど、孟徳は素直な男ではありません。追い詰めれば追い詰めるほど、常識外れの悪知恵を働かせるのが、あの男です。

 

だからこそ、放っておけないのですが。

 

さて。

 

今度は何を持ち出してくるのでしょうね。

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

城塞の内側には、朝が来なかった。

 

空を埋める矢が太陽を隠し、昼間だというのに薄暗い。石畳も屋根も壁も無数の矢に覆われ、地面には足を置く隙間さえなくなりつつあった。

 

盾に矢が突き立つたび、腕まで痺れるほどの衝撃が伝わった。立ち止まれば同じ場所へ矢が重なり、動けばどこから落ちてくるかわからない。負傷者を運ぼうとした兵が射抜かれ、その兵を助けようとした者まで倒れていく。

 

曹操もまた、大盾の下で身を屈めながら城内を走っていた。

 

「いつまで降らせ続けるつもりだ、あいつらは!」

 

頭上で立て続けに矢が弾け、曹操は反射的に首をすくめた。

 

「厠へ行く隙どころか、息をつく暇もないではないか! 誰か、どうにかしろ! このままでは敵と戦う前に全員射殺されるぞ!」

 

そのすぐ横を、荀彧、郭嘉、程昱の三人が歩いていた。

盾も持たず、腰を屈めることさえなく、普段と変わらない足取りである。

 

一本の矢が荀彧の肩を目がけて落ちてきたが、彼が郭嘉の方へ顔を向けた瞬間、衣の端をかすめて地面へ突き刺さった。

 

続く矢は郭嘉の頭上へ向かったものの、酒瓶の栓を抜こうとして上体を傾けたため、背後を通り過ぎる。

 

程昱に至っては歩みを変えてすらいない。左右へ落ちた二本の矢が、足跡を挟むように石へ突き立った。

 

荀彧は曹操の慌てぶりを見て、わずかに眉を寄せた。

 

「殿、もう少し落ち着いて歩かれた方がよろしいでしょう。不規則に走り回れば、かえって矢の下へ飛び込むことになります」

 

「そうですよ」

 

郭嘉は平然と酒を口へ運んだ。

 

「当たらない時は、これほど降っていても不思議と当たらぬものです。こういう時こそ一杯やって、余計な力を抜くのがよろしいかと」

 

「逆に当たる時は、どれほど厚い盾の下にいようと当たります」

 

程昱が静かに続ける。

 

「人が天命に逆らおうとしても、疲れるだけです。いずれ射抜かれるのであれば、取り乱さずに受け入れるのが肝要でしょうな」

 

「受け入れてたまるか!」

 

怒鳴った直後、その頭上を矢が通り過ぎ、冠の飾りを弾き飛ばした。

 

三人の軍師は歩き続けている。曹操の周囲だけには、すでに十本近い矢が突き立っていた。

 

「なぜお前たちは、そんな涼しい顔をして歩いていられるのだ! お前たちの周りだけ、矢の方から避けているではないか! 少しは死にかけている者らしい顔をしろ!」

 

「死にかけている顔をすれば、矢が止まるのですか?」

 

荀彧に真顔で返され、曹操は言葉に詰まった。

城壁の近くから、ひときわ大きな怒声が響く。

 

夏侯惇が巨大な盾を掲げ、その下で片膝をついていた。盾の表面には、獣の毛皮のようにびっしりと矢が突き刺さっている。

 

「なぜだ! なぜ無事な方の目ばかり狙って飛んでくる!」

 

「見えぬ側から入ってきて、残った目を狙うとは卑怯だぞ! 俺の眼窩には鉄を引き寄せる何かでも埋まっているのか!」

 

少し離れた場所では、夏侯淵が強弓を空へ向けていた。

落ちてくる矢の軌道を見定め、目にも止まらぬ速さで弦を引く。

 

放たれた一本が上空の矢をへし折り、続く二本目が別の矢を弾き飛ばした。三本、四本と次々に射落としていくが、その間にも新たな矢が空を埋めている。

 

「兄者、伏せていろ! 俺がすべて撃ち落としてやる!」

 

「やめろ、妙才!」

 

曹仁が盾を構えたまま駆け寄り、夏侯淵の肩を掴んで引き戻した。

直後、それまで夏侯淵が立っていた場所へ何十本もの矢が降り注ぎ、地面を黒く染める。

 

「相手は櫓をいくつ築いたと思っている! お前が一本落とす間に、百本が降ってくるのだぞ。そんな真似を続けていたら、敵より先に腕が動かなくなる!」

 

「では、黙って射られていろというのか!」

 

「そうならぬために、今考えている!」

 

「考えている間にも降ってくるぞ!」

 

一夜のうちに築かれた土山は城壁よりも高く、その上から弓兵が絶え間なく矢を放っている。低い壁や屋根の陰へ隠れても、別の方向から矢が落ちてくる。どこへ兵を移しても見つかり、追い立てられ、射抜かれた。

 

「間違いなく李司と蔡文姫の仕業だ。あの二人、城の中に安全な場所をひとつも残しておらん!」

 

曹操は荀彧の腕を掴み、盾の下へ引きずり込んだ。

 

「文若、何か策を出せ! あの高台を壊さぬ限り、こちらは矢を浴び続ける。だが城門を開いて打って出れば、外には李司が待っているのだぞ。あれと矢の雨のどちらかを選べなど、死に方を選べと言っているようなものではないか!」

 

「では、高台へ近づかずに壊しましょう」

 

荀彧は曹操の手を外すと、懐から巻物を取り出した。

広げるために一歩横へ動いた直後、先ほどまで立っていた場所へ矢が刺さる。荀彧は振り返りもせず、巻物を壁へ押し当てた。

 

「以前から考えていたものです。作る機会がなかったので、図に起こしたままにしておりました」

 

頑丈な木枠の中央に太い柱が立ち、その上へ長い腕木が渡されている。一方の端には石を載せる革袋、もう一方には何本もの縄が結びつけられていた。

 

「何だ、これは。巨大な秤か? それとも、子供が乗って遊ぶ板か?」

 

「発石車です」

 

「長い腕木の一端に岩を載せ、反対側へ結んだ縄を大勢で一斉に引きます。梃子の働きによって、数十斤の岩を城壁より高く放つことができるでしょう。向こうの土山へ近づく必要はありません」

 

「岩を、あの櫓まで飛ばすのか?」

 

「矢は盾で防げますが、大岩は盾ごと人を砕きます。櫓は高い分、横からの強い衝撃には脆い。柱を折る必要すらありません。土台へ岩を何度も当てれば、自重に耐えきれず崩れます」

 

「なるほど。あれほど高く築いたことが、今度は仇になりますか」

 

「木材と縄さえ揃えば、構造は複雑ではありません。城内にある荷車と壊れた建物を解体すれば、複数を同時に組み立てられます」

 

「矢の届く高さへ、こちらから岩を送り返す。雷鳴のような音が響くでしょうな」

 

「ええ。ゆえに、霹靂車と名付けます」

 

曹操が図面へ食い入るように顔を近づけた、その時だった。

一本の矢が盾のわずかな隙間を抜け、曹操の両脚の間へ深々と突き刺さった。

 

曹操は股下の矢を見下ろしたまま、しばらく声を失っていた。

やがて震える両手で荀彧の肩を掴み、力任せに揺さぶった。

 

「作れ! 今すぐ作れ! 城内の大工も兵も、動ける者は全員集めろ! 荷車でも梁でも、使える木は何でも使ってよい!」

 

「殿、揺らさないでください。図面が読めません」

 

「あの櫓をひとつ残らず叩き潰すのだ! 上から好き勝手に射てるのも今のうちだと、狂人の麹義に思い知らせてやれ!」

 

命令はただちに城内へ伝えられた。

 




ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

今回は、機嫌を損ねた李司が曹操軍を砦へ追い込み、袁紹軍が土山と高櫓から矢の雨を降らせる回でした。

徐晃・許褚・典韋の三人がかりでも止まらない李司。
安全地帯を計算上から消していく蔡文姫。
高所を与えられ、誰よりも楽しそうな麹義。
そして矢の雨の中でも妙に無傷な荀彧・郭嘉・程昱。

印象に残った人物や、特に面白かった場面がありましたら、感想で教えていただけると嬉しいです。

次回は、曹操軍の発石車が袁紹軍の櫓へ襲いかかります。
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