三国志異伝~演算する剣鬼(守銭奴)~最強の秘書官・李司が通る道には死体と領収書しか残らない~ 作:斉宮 柴野
李司は損害を見切り、一度退いて立て直すことを決断します。
いつもなら、それが正解でした。
ですが今回――袁紹は、その「正解」に従いません。
四世三公の名門・袁家の当主でもなく。
天下を狙う群雄でもなく。
一人の袁本初として、どうしても曹操に譲れないものがありました。
今回は、そんな本初がちょっとだけ……本当にちょっとだけ格好いい回です。
空を横切る影が、足元を暗くしました。
左へ一丈半。
身をずらした直後、背後で地面が跳ねました。飛んできた石片が頬を裂き、その向こうで櫓が傾きます。柱にしがみついていた弓兵が、折れた木材とともに斜面へ消えました。
双頭戟を構えかけ、やめました。
岩を砕くことはできます。
ですが、破片は後ろの兵へ降る。受け止めれば足場ごと潰される。私だけ避けても、その先にいる兵までは逃げられません。
どれを選んでも、誰かが死ぬ。
なるほど。
あれは私を狙う兵器ではありません。
「いいぞ! その調子だ!」
砦の向こうから、孟徳の声が届きました。
「狙いなど適当で構わん! 岩が大きければ何かには当たる! 奴らが一晩かけて築いた櫓も土山も、名門の誇りごと粉々にしてやれ!」
――本当に、腹が立ちますね。
次の岩が土山へ突き刺さりました。斜面が崩れ、根元を失った櫓が兵を乗せたまま傾いていきます。昨夜から人足を動かし、木材を集め、ようやく建てたものです。
それが、たった一発で消えました。
「李司様。次は右です」
蔡文姫の声に、そちらを見ました。既に影が伸びています。
「麹義! そこを離れなさい!」
「分かってるっての!」
麹義が手近な弓兵の襟を掴み、櫓から飛び降りました。二人が斜面へ転がった直後、巨岩が櫓を貫きます。折れた柱と板が頭上へ舞い上がり、土煙の中へ降り注ぎました。
「ハッハァ! 危ねえじゃねえか! 面白くなってきやがった!」
額から血を流しながら笑っています。
少なくとも麹義については、士気の低下を心配する必要はなさそうです。少しくらい下がってくれてもよいのですが。
視線を戦場へ戻しました。
櫓から逃れた弓兵が、崩れた土山の周囲に固まっています。後ろから押し出された兵と、負傷者を運ぼうとする兵がぶつかり、身動きが取れなくなっていました。命令を伝える旗も二本消えています。
あと数発。
それだけで、この軍は戦う以前に動けなくなります。
昨夜から投入した木材、人足、兵糧、弓矢。損失を数えようとすると、その間にも次の何かが壊される。
計算が追いつきません。
これ以上は、残っているものまで失うだけです。
「本初。一旦退きますよ」
返事がありません。
「弓兵を下げ、崩れていない土山を盾にします。陣形を整えてから、霹靂車を潰す手段を考えましょう」
「……嫌だ」
聞き間違いでしょうか。
「何です?」
「退かん」
「ここで意地を張っても、失った櫓は戻りません。直ちに兵を――」
「ここで退けば、俺はまた孟徳に負ける」
今は、幼少期から続く張り合いを処理している場合ではありません。
そう告げるより先に、本初が歩き出しました。
最初は、退く方角を間違えたのかと思いました。
ですが、違います。
本初は一人で、岩の落ちてくる方角へ進んでいます。
「戻りなさい、本初!」
止まりません。
護衛に取り押さえさせるべきでしょうか。
総大将を連れ戻すだけなら難しくありません。ですが、味方に捕らえられる姿を兵へ見せれば、残っている士気まで失われます。
放置すれば、岩に潰される。
捕らえれば、軍が崩れる。
私の前へ、損失の出ない選択肢を用意しない。
昔から、そういう男でした。
「戻りなさい!」
もう一度呼びました。
返事はありません。
本初の背中が、土煙の向こうへ小さくなっていきます。
ここで私まで追えば、兵も前へ動くかもしれません。
それでも。
気づいた時には、双頭戟を握り直していました。
頭の中では、退くべき理由が並び続けています。
足だけが、そのすべてを無視して前へ出ました。
◆
「戻りなさい、本初!」
李司の声は聞こえていた。
聞こえているからこそ、振り返れなかった。
あいつの言う通りにすれば助かる。
兵を立て直し、霹靂車を壊す策を考え、もう一度攻めればいい。俺に思いつかなくとも、李司なら必ず何か見つける。
そして勝つ。
袁本初の勝利として、歴史には残るだろう。
だが、それは俺が勝ったことになるのか。
李司が示した場所に立ち、李司から渡された命令を叫び、李司が用意した勝利を受け取る。
これまでも、そうだった。
俺より正しいのだから、従うのは当然だ。
ただ、その正しさに救われるたび、袁本初という男がいなくても何も困らないのだと思い知らされた。
風を押し潰すような音が迫った。
目の前へ巨岩が落ちる。
土が跳ね、石片が肩へぶつかった。身体が勝手に後ろへ下がりかけ、右足で土を踏み抜いて止まった。
怖い。当たり前だ。
こんな岩に当たれば、名門も、総大将も、天下への大望も関係ない。肉と骨を撒き散らして終わる。
一歩退けばいい。
李司のところまで戻れば、あいつが何とかしてくれる。
その考えが浮かんだ途端、腹の底が熱くなった。
またか。俺は、またあいつの後ろへ戻るのか。
「俺は、ずっと四世三公という鎧を着ていた」
「俺は、孟徳のように何でもできるわけではない」
岩の向こうに、孟徳がいる。
昔から、あいつは俺より先へ行った。剣を持たせても、詩を作らせても、悪さをさせても、最後には一番うまくやる。
「美しい詩も詠めん。敵の動きを見ただけで、次に何が起こるかを言い当てることもできん」
孟徳だけではない。
振り返らなくとも、李司がどこにいるのか分かる。
「お前のように、何が起きても冷たい計算だけで動くこともできん」
言ってしまった。ずっと、認めたくなかった。
袁家の嫡子が、宦官の孫より劣っている。
天下の名門を率いる男が、自分の妻に勝たせてもらっている。
口にすれば袁本初という人間が潰れると思っていた。
だが、何も起きなかった。
名門の威光も、天下への大望も、俺の身体から剥がれ落ちてはいない。ただ、肩が少し軽くなった。
「俺は孟徳より、人の器として遥かに劣っているのかもしれん」
次の岩が背後へ落ちた。土煙に退路が消える。
「天下を統べる器など、最初からないのかもしれん。名門の皮を剥ぎ取れば、ただの見栄っ張りで、度量の狭い俗物なのかもしれん」
それでも、譲れないものは残っている。
孟徳より賢くなくてもいい。
天下を取れなくてもいい。
後世の人間が、袁紹は曹操に及ばなかったと笑っても構わない。
だが、あいつだけは駄目だ。
李司だけは、孟徳へ渡せない。
最後の土山を越えた。
砦との間を遮るものは、もうない。盾もない。櫓もない。頭上を飛ぶ岩の数まで、よく見える。
足が震えた。
李司のもとへ戻りたい。
今すぐ振り返り、あいつの言う通りにしたい。
それよりも強く、孟徳に李司を奪われる自分が許せなかった。
「だが!」
腹の底から声を絞り出した。
「今回ばかりは、この俺が絶対に勝つ!」
孟徳に届けばいい。李司に聞こえていれば、それでいい。
「天下の覇権など、どうでもいい! 名門の名声が欲しければ、孟徳にくれてやる!」
剣を抜いた。鞘から刃が走る音が、妙にはっきりと聞こえた。
「あれだけは渡さん!」
岩が頭上を越え、背後で地面を揺らした。
「李司は、この袁本初のものだ!」
言ってやった。
胸の内へ押し込め、名門らしい言葉で飾り続けてきたものを、とうとう吐き出した。
「孟徳にも渡さん! これから先の歴史が、孟徳こそ正しいとどれだけ綺麗事を並べようとも、絶対に渡してたまるか!」
欲しい。誰にも渡したくない。
それだけで、岩の下へ立つ理由としては十分だった。
「俺は天下のためではなく、李司のために勝つ! あいつを誰にも渡してたまるかァァァッ!」
返ってきたのは、李司の声ではなかった。
「殿が……」
背後にいた兵たちが、俺を見ている。
「岩の雨の中を、たった一人で……」
「一つも当たっていないぞ」
「天が、殿を守っている……!」
違う。ただ運が良かっただけだ。
俺自身が一番よく分かっている。
兵たちは、先ほどまで岩を見ていた。今は俺を見ている。理由が天命でも勘違いでも、誰も逃げようとしていない。
近くに残されていた愛馬の手綱を取った。白い泡を吹いて暴れていたが、首を撫でながら声をかけると、どうにか足をかけられた。
馬上から剣を掲げた。
「全軍、怯むな!」
最初の返事は、ほんの数十人だった。それが周囲へ広がり、後方から同じ声が重なってくる。
「俺に続け! 四世三公の威光ではない! ここにいる俺たち自身の意地を、孟徳へ見せつけてやれ!」
「…………本当に」
李司の声が聞こえた。
振り返ると、土煙の中に双頭戟を持った李司が立っていた。
怒鳴られると思った。あとでいくら請求されるのかと、少しだけ身構えた。
だが、李司は俺を見たまま、何も言わない。
やがて、口元が少しだけ緩んだ。
「私の計算を、ことごとく狂わせる男ですね」
金を引き出す時の笑顔ではない。
署名を迫る時の顔でもない。
俺が知っているどの笑い方とも違った。
「……バカ」
それだけ言うと、李司は俺から目を離した。双頭戟が高く掲げられる。
「皆! 殿に続きなさい!」
声が全軍を貫いた。
「私のバカな夫を死なせるような真似をしたら、許しませんよ! 戦が終わった後、地獄の果てまで追いかけ、骨の髄まで徹底的に在庫処分して差し上げます!」
返ってきた声は、俺の時より大きかった。
少し腹が立った。
それでも、笑わずにはいられなかった。
「全軍、遅れるな!」
右手から張郃の声が上がった。
「殿を一人で行かせるな! この張郃が先陣を切る! 突撃だ!」
張郃の剣が岩の雨へ向く。
「これだ……! これこそが、私の求めていた究極の劇的な美!」
何を言っているのかは分からない。
だが、ついてくるらしい。
「やれやれ。本当に人使いの荒いお方だ」
高覧も槍を担ぎ、前へ出てきた。
「四世三公の当主が、あれほど無様な姿をさらして突っ込んだんだ。俺たちだけが安全な場所に残っていては、男の立つ瀬がないな」
槍の穂先が砦へ向く。
「死に物狂いで行くぞ! 殿の道をこじ開けろ!」
崩れた櫓の下から、麹義が這い出してきた。血に濡れた顔で、足元へ落ちていた剣を拾う。
「ケッ。鼻持ちならねえ名門野郎だと、ずっと思っていたんだがな。ここへ来て、とんでもねえ一皮の剥け方をしやがった」
岩が近くへ落ちても、麹義は砦を見たままだった。
「勘違いするなよ、袁本初! 忠義だの何だのじゃねえ! ただの義理だ! だが、その義理で地獄の底まで付き合ってやらァ!」
次々と武器が上がった。倒れていた旗が立つ。崩れた櫓を乗り越え、兵が前へ集まってくる。
今まで、こいつらは袁家の旗についてきているのだと思っていた。
四世三公の名があるから、俺の命令を聞くのだと。
今は、誰も旗を見ていない。
俺を見ている。
俺が進むのを待っている。
「我が誇り高き兵たちよ!」
手綱を握る手から、震えが消えていた。
「戦え!」
剣を砦へ振り下ろした。
「俺たちの命懸けの愛と意地を、あの小賢しい曹操の頭蓋へ叩き込んでやれェェッ!」
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
愛馬の腹を蹴った。
一頭分先へ出たところで、左前方へ岩が落ちた。先を走っていた兵が、土煙の中へ消えた。
見ていれば、足が止まる。
だから砦だけを見た。
空いた場所へ、後ろの兵が駆け込んでくる。一人が倒れても、列は途切れない。左右から、背後から、幾万もの足音が追ってくる。
これほど多くの人間が、俺の一声についてくる。
四世三公の名があるからではない。
袁家の富があるからでもない。
今だけは、俺自身の背中を追っている。
ならば、もう止まれない。
止められるものなら、止めてみろ、孟徳。
才覚で勝てないなら、意地で押し潰す。
俺が持っているものを、すべて叩きつけてやる。
◆
「曹公! 敵が外柵へ迫っています!」
そんなことは、俺にも見えている。
見えているものが、どう考えてもおかしいのだ。
霹靂車から放たれた岩が、袁紹軍の先頭へ落ちた。兵も盾も、まとめて土煙の中へ消える。
そこへ次の列が突っ込んできた。
足を潰された兵が、地面を這いながら剣を振っている。そのすぐ横を、後ろの兵が飛び越えてくる。
誰も振り返らない。
岩を見上げる者すらいない。
「岩が当たっているのだぞ!? なぜ進んでくる!」
俺の声に、守備兵がこちらを見た。
答えられる者などいるはずもない。
兵たちは武器を握ったまま、じりじりと後ろへ下がっている。
無理もない。
俺だって下がりたい。
いや、今すぐ逃げたい。
何より恐ろしいのは、先頭にいる本初だった。
何度岩を飛ばしても、あいつだけには当たらない。前へ落ちれば馬が飛び越え、横へ落ちれば土煙の中から現れる。背後へ落ちても、振り返りすらしない。
本初の周囲だけ、岩が道を空けているように見える。
「何だ、あの目は……!」
昔から知っている男だ。
自尊心だけは天より高く、李司の前では頭が上がらず、俺に何かで負けるたび、袁家の名を持ち出して張り合ってくる。
それが、なぜあんな顔でこちらへ向かってくる。
「狂気か!? 怨念か!? なぜ本初が、あんな英雄のような顔をしている!」
文若は図面を握ったまま、押し寄せる袁紹軍を見ていた。指に力が入り、図面の端が潰れている。
「……読み違えました」
「何をだ! 岩なら当たっている! 櫓も土山も壊したではないか!」
「はい。霹靂車の威力には、何の問題もありません」
「ならば、なぜ止まらん!」
「袁紹軍の兵が、死を恐れていないわけではありません」
外柵の向こうから、兵たちの咆哮が押し寄せてきた。腹の底まで震える声だった。
「主君が自分たちより先に、岩の雨へ踏み込みました。あの姿を見たあとでは、自分だけが逃げることの方が恐ろしいのでしょう」
「では、あれは忠義か!?」
「愛です」
「愛だと!?」
本初の剣が、こちらへ向けられている。
「あれが、李司への愛だというのか!? たったそれだけで、人間はあそこまで理性を捨てられるのか!」
俺だって李司を愛している。
あいつの冷たい顔も、容赦のない言葉も、時折見せる柔らかな顔も、誰よりよく知っているつもりだ。
だが、愛する妻のために岩の雨へ正面から突っ込めと言われても、それは無理だ。
俺の愛は、李司と少しでも長く生きるため、危なくなったらあいつを抱えて全力で逃げる愛だ。
あんな狂気と一緒にしてもらっては困る。
「無理だ!」
外柵の向こうを、袁紹軍が埋め尽くしている。
「俺には、あそこまでの狂気は真似できん! 今の本初と正面からぶつかれば、こちらまでまとめて飲み込まれるぞ!」
「敵の先頭が外柵へ到達!」
「霹靂車、次弾の装填が間に合いません!」
「左翼の兵が崩れ始めました!」
なぜ悪い報告だけが、競うように押し寄せてくるのだ。
「た、退却だ!」
声が裏返った。
今さら威厳など知るものか。
「全軍、直ちに陣を引き払え! 霹靂車は撃てるだけ撃て! その間に後方へ退くのだ!」
「しかし曹公、ここを捨てれば――」
「ここで命まで捨てるよりましだ! 一度下がって、奴らの勢いが尽きるのを待て!」
本当に尽きるのか。
あの勢いが、どこかで止まってくれるのか。
考えないことにした。
「今のあいつらと正面からぶつかるな! あの怪物どもに飲み込まれれば、跡形もなく消されるぞ!」
命令が伝わり、こちらの兵が走り始めた。
霹靂車が最後の岩を放つ。
本初は避けなかった。
剣を掲げたまま、その下を突っ切ってくる。
俺が李司を奪おうとした。
ただ、それだけの話だったはずだ。
なぜ、その結果として何万もの兵に命懸けで追いかけられているのだ。
「急げぇぇぇっ! 本初に追いつかれる前に走れぇぇぇぇっ!」
俺はまたしても、妻とその夫から逃げるため、全軍の先頭に立って駆け出した。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、ついに袁紹が「四世三公だから」ではなく、「袁本初だから」兵を動かした回でした。
今回の袁紹について、
「格好よかった」「やっぱりバカだった」「李司の反応が好きだった」など、どの場面が印象に残ったか感想をいただけると嬉しいです。
そして曹操は今回も逃げます。
妻と、その夫から。