三国志異伝~演算する剣鬼(守銭奴)~最強の秘書官・李司が通る道には死体と領収書しか残らない~   作:斉宮 柴野

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霹靂車によって袁紹軍の攻勢をどうにか退けた曹操。

しかし、戦場から逃げることには成功しても、兵糧不足からは逃げられませんでした。

粥は水になり、届くはずの荷駄は消え、敵の輸送隊を見つければ名将たちが「飯をよこせ」と突撃する始末。

一方、そんな父の窮状とは無関係に、曹昂のもとには母から荷物が届きます。

今回の主役は兵糧です。

そして、空腹になった曹操が一通の書状を書いたことで、官渡の戦いは次の局面へ動き始めます。


空腹の英雄と、母からの残酷な仕送り

匙の上に、米粒が三つ乗っていた。

器を傾け、底を探る。四つ目は見つかった。五つ目と思って拾ったものは、木の匙から剥がれた欠片だった。

 

「……昨日より減っている」

 

湯気は出ている。温かい。炊事の兵は、きちんと火を焚いたらしい。

肝心の米がない。

 

「昨日は、まだ粥だった。匙を入れれば何か引っかかった。今朝は底が見えるぞ」

 

「よく澄んでおりますね」

 

「川の水を褒めているのではない!」

 

向かいで瓢箪の栓を抜く音がした。

奉孝は器を脇へ寄せ、朝から酒を飲んでいる。こちらは頬がこけ、帯の穴を一つ詰めたというのに、あの男の鼻先はつやつやと赤い。

 

「殿もいかがです。少し飲んでお休みになれば、昼はすぐですよ」

 

「昼になれば肉が出るのか」

 

「夕方になります」

 

「飯の話をしろ!」

 

怒鳴った拍子に腹が鳴った。

奉孝は瓢箪を差し出したまま、俺の腹へ目を落とした。

 

「よくお鳴りになる」

 

「俺に言うな。中へ入れるものがないのだ」

 

匙に乗せた米粒を口へ運ぶ。噛もうとしたが、舌で探しているうちに喉へ流れていった。

食った気がしない。

 

器を舐めるべきか。

兵の前ではやりたくない。ここには奉孝しかおらん。こいつなら酒の肴にするだけで、言いふらしは――いや、するな。必ずする。

 

「李司め……」

 

砦を捨てて陣を引き直してから、届くはずの荷駄が来なくなった。

西の道へ兵を出せば待ち伏せ。南へ回せば橋が落ちている。ようやく帰ってきた斥候の報告も、袁家の旗を見たという話ばかりだ。

 

本初に追われている間は、逃げ切れば何とかなると思っていた。

逃げた先の飯がなかった。

 

「妻を取り戻しに来た夫への仕打ちか、これが」

 

「迎えに行く前に、謝ることがあったのでは?」

 

「謝った」

 

「お許しは?」

 

器の底に、小さな米粒が張りついていた。

返事をせず、匙で剥がした。

 

その時、天幕の入口が跳ね上がった。

 

「殿! 敵の輸送隊を発見いたしました!」

 

公明だった。土のついた膝を折るなり、街道の方角を指した。

 

「穀物を積んだ荷車が三十余。干し肉の樽もございます。北へ進んでおりますが、今なら間に合います」

 

「肉」

 

「はっ」

 

「干し肉と言ったか」

 

「近くへ寄った斥候が、荷を掛け直すところを確認しております」

 

立ち上がった途端、目の前が暗くなった。

机へ手をつき、こらえる。ここで倒れている場合ではない。肉が逃げる。

 

「馬を出せ。動ける者を集めろ」

 

「殿、護衛の数を確かめてから――」

 

「確かめる。確かめながら奪う。何も考えずに飛び込むほど飢えてはおらん」

 

奉孝の視線が、机を支える俺の手へ落ちた。

見なかったことにしろ。

 

「街道脇の林は調べさせます。荷車が本物なら、少量を奪う手もありましょう」

 

「そうだ。全部よこせとは言っておらん。十台ほどでよい」

 

「言葉をご存じですか」

 

「では五台だ。早くせんか、冷める!」

 

「干し肉は冷めませんよ」

 

剣を腰へ吊り、外へ出た。

 

兵たちの顔色は悪かったが、輸送隊と聞いて立ち上がる足には力があった。中には空の袋を持ってくる者もいる。

よい心掛けだ。食料を奪いに行くのだから、持ち帰る準備は必要だ。

 

「よいか、狙うのは荷車だ! 余計な首を追うな!」

 

「おおっ!」

 

「米と肉を取るぞ!」

 

先ほどより大きな返事が上がった。

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

荷台の揺れに合わせ、槍の石突をずらした。

左に浅い溝。右に林。道幅が狭まる地点には、若君の騎兵を置いてある。

 

車輪を止める場所も、盾を出す向きも、昨夜のうちに確かめた。御者たちは騒がず手綱を握っている。

 

美しい。

鎧を磨く手間と、列を整える手間を惜しまなければ、街道はこれほど見事なものになる。

 

「張郃将軍」

 

馬を寄せた若君の声に、穂先を下げた。

 

「前方の合図が出ました。林の外に敵兵がいます」

 

「では、予定の位置で止めましょう」

 

「承知しました」

 

馬首を返し、片手を上げる。その指示を受けた騎兵が間隔を開いた。荷車の前後へ歩兵が入り、積荷の陰から盾を引き出す。

 

曹操軍の姿は、道の向こうに見えていた。

走ってくる。

荷車を見つけた途端、さらに速くなった。

 

「飯をよこせぇぇッ!」

 

先頭の大斧を見て、槍を握り直した。

 

徐公明か。

なかなかの相手だが、今日の第一声には少々失望した。名乗りを期待していたのに。

 

荷台を蹴り、地面へ降りる。

着地と同時に迫った斧へ穂先を当て、軌道を外した。刃が車輪の手前へ食い込む。引き戻される柄を追わず、一歩横へ動いた。

 

次は薙ぎ。

槍を立てて受け流すと、髪の脇を風が抜けた。

 

「ずいぶんとお急ぎですね、公明殿」

 

「張郃……!」

 

「お食事を探しに?」

 

「退け!」

 

「積荷を傷つけるお客様は、お通しできません」

 

斧の柄を押し、距離を取った。

腕力はある。しかし、踏み込んだ足が戻るのは遅い。呼吸も、打ち合いの数に見合わぬほど荒かった。

 

こちらの槍を睨む目には力が残っている。

油断できる相手ではない。

 

「若君、車列の左を」

 

「はい!」

 

背後を蹄の音が通り抜けた。

 

溝を越えようとしていた曹操兵の前へ、袁の旗が出る。騎兵を見上げた先頭の足が止まり、後続とぶつかった。

 

「荷から離れろ! 槍をそろえ、押し返せ!」

 

若君の号令で、盾の隙間から穂先が出た。

足を突かれた兵が飛び退く。積荷へ手を伸ばした者は、盾で肩を押されて道の外へ転がった。

車列は崩れていない。

いい動きだ。

 

「李司様から、くれぐれも食料を落とすなと申しつかっておりましてね」

 

斧を避けながら告げると、公明殿の眉が動いた。

 

「貴軍が困っているのは存じております。通る道も時刻も、よく相談して決めたのですよ」

 

「誘ったか!」

 

「おかげで、どなたをお待ちすればよいか分かっておりました」

 

車輪の陰に残した兵へ指を向けた。

弩が一斉に上がる。

公明殿は斧を引き、味方の方へ振り向いた。

 

「前へ出るな! 伏せろ!」

 

放たれた矢が街道へ刺さった。荷へ向かっていた兵たちは足を止め、盾を探して身を寄せる。

 

その後ろに、曹の旗が見えた。

曹操殿ご自身のお出ましとは。

 

「おのれ、張郃! こんなところにおったか!」

 

「本日は輸送の護衛を任されております」

 

「見れば分かる! ええい、右を回れ! 荷車の後ろへ出るのだ!」

 

そちらには、若君の予備兵がいる。

林の端から盾を並べて進み出ると、回りかけた曹操兵は向きを変えた。退こうとする者と押す者がぶつかり、槍の穂先が空を向く。

 

「父上たちの食料に手を出すな!」

 

若君の声がよく通った。

 

「母上から預かった荷だ。一俵たりとも持ち去らせん!」

 

「顕思、お前、少しは遠慮というものをだな!」

 

「盗みに来た方が何をおっしゃるのです!」

 

剣を上げた曹操殿の口が開いた。

号令より先に、低い音がした。

長かった。

 

馬の腹からかと思いかけたが、御本人が帯の辺りを押さえている。

隣の兵も、思わず主君を見ていた。

 

公明殿の斧が下がった。

これは困った。私も槍を出しづらい。

 

「……張郃将軍」

 

若君は曹操殿を見つめ、声を落とした。

 

「随分と、お困りのようです」

 

「そのようですね」

 

「追撃は控えましょう。荷を守れればよいのですから」

 

頷き、後ろへ合図した。

盾を打つ音がそろう。

 

一歩進むたびに、槍の列を前へ出す。道端へ押し出された敵兵は武器を構え直す余裕もなく、仲間の背へしがみついた。

 

「下がれ! 荷から離れろ!」

 

公明殿の声に、敵の列がほどけた。

曹操殿は剣を掲げたまま、恨めしそうに積荷を見ていたが、やがて馬首を返した。

 

「撤退だ! 陣へ戻るぞ!」

 

「殿、こちらへ!」

 

「分かっておる! くそっ、またあの水か!」

 

曹の旗が遠ざかる。

若君は追わなかった。馬を降り、車輪の周囲を歩いて負傷者を確かめている。

 

「この者を荷台へ。空いた場所を使ってくれ。将軍、車軸に傷はありませんか」

 

「問題ありません。実に見事な指揮でした」

 

「母上の指示どおりです」

 

照れたような顔をして、積荷の縄へ手をかけた。

緩みを見つけると、自分で結び直している。

 

李司様に似たところがある。

 

「では、出発しましょう」

 

槍を上げると、先頭の車輪が回り出した。

私は荷台へ戻り、鎧についた泥を払った。

 

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

何も取れなかった。

米も、肉も、荷車に掛けてあった布もない。

持ち帰ったものは、靴に入った砂と、公明の重いため息だった。

 

「申し訳ございません」

 

「お前が謝るな。俺も行けと言った」

 

馬を降りると膝が折れかけた。

手綱を渡し、何事もなかった顔で歩く。兵が見ている。腹を押さえたいが、ひとまず我慢した。

 

張郃め。

出てきた瞬間から髪が整っていた。鎧も光っていた。飯を食っている人間は、戦場であんなところへ気を遣う余裕があるのか。

 

顕思も立派になりおって。

幼い頃に抱いてやった恩を忘れたか。こちらが荷へ近づくたび、実に正確に槍を向けてきた。

 

母親の教え方がよすぎる。

天幕へ入ろうとして、足が止まった。

匂う。

 

煙ではない。焦げた革でもない。

肉だ。

鼻から息を吸い直した。

脂の焼ける匂い。その下に、米の甘い匂いがある。

振り返ると、公明も同じ方角を見ていた。

 

「……公明」

 

「はっ」

 

「お前にも分かるか」

 

「肉かと」

 

「やはり肉か」

 

二人で天幕の裏へ回った。

小さな火鉢を囲み、子脩たちが座っていた。

 

膝の上に木の箱がある。白い飯が詰まっている。その隣には分厚く切った肉。別の器には青菜の漬物。

 

部下たちの手にも、同じ箱があった。

一人は網の上で肉を温め直していた。脂が落ち、炭から細い煙が立つ。

 

これだ。

俺を呼んだのは、この匂いだ。

 

「子脩」

 

声が掠れた。

肉を口へ入れた息子は、こちらを見ると、急いで噛んで飲み込んだ。

 

「お帰りなさいませ、父上」

 

「うむ」

 

「お疲れのようですね」

 

「うむ」

 

箱を見る。

子脩の顔を見る。

もう一度、箱を見る。

 

「それは何だ」

 

「昼食です」

 

「それは分かる! どこから出た!」

 

「母上から届きました」

 

膝の横に置かれた包みを示された。大きな籠が二つ。脇には、まだ開けていない箱もある。

 

「先に矢文が入りまして。指定の場所へ取りに行かせたら、運んできた者が待っていたそうです」

 

「李司から」

 

「はい。お手紙も」

 

膝に力が戻った。

何だ。何だ、そういうことか。

 

怒っているのは分かっていた。少し懲らしめるつもりだったのだろう。俺が本当に飢えていると知って、さすがに放っておけなくなったのだ。

素直に送ればよいものを。息子を通すところが、いかにもあいつらしい。

 

「早く言わんか。俺の分はどれだ」

 

籠へ伸ばした手を、子脩に止められた。

強い。

朝から飯を食っている腕だ。

 

「父上の分はありません」

 

「……箱が余っているぞ」

 

「見張りに出ている者の分です」

 

「俺も見張ってきた」

 

「父上は輸送隊を襲いに行かれたのでは?」

 

「詳しいな、お前」

 

子脩は箱の蓋を閉じ、懐から手紙を出した。

嫌な予感がした。

折り方に見覚えがある。李司は請求の書状も、いつもこの幅にそろえる。

 

「お読みしますか」

 

「聞こう」

 

「『子脩へ。そちらでは食事が足りていないと聞きました。あなたと、付き従って働く者たちの分を届けます。人数分ありますから、交代で食べなさい』」

 

「うむ。実によい心掛けだ」

 

「『剣を振り、馬に乗るのですから、食事を抜いてはいけません。怪我の手当も怠らないように。青菜も残さず食べること』」

 

横にいた兵が、箸で漬物を拾った。

食え。よく噛め。

俺はその後の文章を待っている。

 

「『それから、孟徳についてですが』」

 

「おお」

 

「『宛城で浮気し、馬を失って帰ってきた男へ渡す食料は入れておりません』」

 

火鉢の炭が弾けた。

 

「『肉一片、米一粒、口へ入れさせてはいけません。反省が足りておりませんので、日に当てて光合成でもさせておきなさい』」

 

「俺は草か!」

 

手紙を掴もうとしたが、すっと畳まれた。

子脩は懐へしまい、箱の蓋を開け直した。

 

「そういうことです」

 

「どういうことだ! 父が戦から帰ったのだぞ!」

 

「お帰りなさいませ」

 

「挨拶を!うぐっ!!」

 

肉が持ち上がる。

俺の目の前で、息子の口へ入った。

 

あまりに自然だ。

何をためらうこともなく、噛んでいる。

 

「……うまいか」

 

「はい」

 

「そうか」

 

「温めると、さらにおいしいです」

 

「そうか!!」

 

隣の兵が顔を伏せた。笑いをこらえているのか、目を合わせたくないのかは分からん。

 

俺はその兵の箱を見た。

そっと抱え直された。

 

「取らん。部下の飯を奪うほど落ちぶれてはおらん」

 

「は、はい」

 

息子の分なら、少し分けてもらってよいだろう。

子脩へ向き直り、指を二本立てた。

 

「二口」

 

「いけません」

 

「一口」

 

「母上に叱られます」

 

「黙っていれば分からん」

 

子脩は箸を止めた。

妙に静かな目で、俺の顔を見ている。

 

「父上」

 

「何だ」

 

「宛城でも、そうお考えだったのですか」

 

公明の咳が聞こえた。

後ろを向くな。顔を見せろ。

俺は息子の前へしゃがんだ。

 

「頼む。肉の端でよい。ここだ。この小さいところをだな」

 

「いけません」

 

「お前を抱いて歩いたことがある」

 

「ありがとうございます」

 

「夜中に泣いた時も、あやしてやった」

 

「その節は、お世話になりました」

 

「ならば米をくれ!」

 

子脩は困ったように眉を下げたが、箱を渡しはしなかった。

 

「父上。母上から、食べ残しも出さないよう言われております」

 

「隙がないな、あの女!」

 

籠の底には、空箱を包むための布が敷いてあった。

返せと言われているらしい。箱の数を確かめれば、食った人数も分かる。いや、米粒を数える女だ。蓋についた脂の跡から俺が舐めたことを見抜くおそれすらある。

 

腹が鳴った。

子脩の部下たちが、いっせいに飯を口へ入れた。

急ぐな。俺がいたら食いづらいのか。そうだろうな。

 

「水をお持ちしましょうか」

 

「……もらおう」

 

差し出された椀を受け取り、一息に飲んだ。

水だ。

 

今朝の食事との差が、ほとんど分からなかった。

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

夜になり、筆を持った。

机の隅には夕餉の器がある。底はもう見ていない。昼のうちに、見るだけ無駄だと学んだ。

 

許昌へ戻した文若に、書状を送らねばならん。

荷駄の手配も、各地からの徴発も、あいつに任せてある。俺が腹を鳴らしている間にも、必死でかき集めているはずだ。

 

分かっている。

分かっているが、待てん。

 

『兵糧は完全に底を尽きた。大至急、食料を送られたし』

 

書いてから、しばらく眺めた。

足りぬ。

これでは、いつもの催促と同じに見える。文若は眉を寄せ、急いでおりますと返すだろう。俺が欲しいのは返事ではない。

 

米だ。

 

『兵は疲弊し、馬を動かすことも難しい。我が命にも関わる』

 

筆の先が震え、墨が一滴落ちた。

目を閉じると、昼の肉が浮かぶ。

脂の照り。噛み切った断面。子脩の満足そうな顔。

 

よく食うようになった。育っている証拠だ。父として喜ばしい。

 

『米がなければ、土でも樹皮でも構わん』

 

そう書いて、筆を止めた。

土はある。

 

天幕の外へ出れば、いくらでもある。許昌から運ばせる必要がどこにある。

文若に真顔で指摘される様子が浮かび、最後の一文を消そうとしてやめた。

 

届くものなら何でもよい。

食えるものを選んでくれ。

 

「殿」

 

入口から声がした。

奉孝だった。瓢箪は持っているが、さすがに口へ運んではいない。

 

「南の道へ出す者を選びました。街道を外れ、二度馬を替えさせます」

 

「敵の斥候は」

 

「おります。間を抜けるほかありません」

 

書状を巻き、封じた。

食料を求める手紙を送るにも、命懸けか。

 

「捕まるなよ」

 

呼び入れた伝令へ渡すと、日に焼けた顔が深く下がった。

 

「必ずや、お届けいたします」

 

「危うければ書状を捨てろ。中身は覚えたな」

 

「食料を、大至急」

 

「そうだ。大至急だ。文若に会ったら、俺の頬がこけたと伝えろ」

 

「はっ」

 

「怒鳴る声も小さくなった」

 

「承知いたしました」

 

奉孝は机の器を見て、何も言わずに蓋をした。

 

「……酒はまだあるのか」

 

「少々」

 

「肉の味はせんだろうな」

 

「いたしませんね」

 

「ならばよい」

 

李司。戻ってきたら謝る。

浮気の話も、馬の話も、途中で口を挟まずに聞く。

だから飯を食わせてくれ。

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

捕らえた伝令の口から、細い紐が垂れていた。

書状を噛み切ろうとしたらしい。

端には歯形が残っていたが、文字は読める。火へ近づけすぎぬよう、両手で広げた。

 

『兵糧は完全に底を尽きた』

 

ほう。

続きを追い、思わず頬が緩んだ。

命に関わる。

土でも樹皮でも。

孟徳が、こんな手紙を書くとはな。

 

「ほかに持っていたものは?」

 

「替えの馬を受け取る場所を書いた札が一枚。銭はわずかです」

 

斥候の差し出す札を受け取った。

道筋も使える。伝令が通る場所を押さえれば、次の書状も拾えるだろう。

 

だが、今はこれだ。

曹操軍の兵糧が乏しいことなど、陣中の誰もが噂している。しかし噂と、当人の泣きついた書状では値が違う。

 

李司殿は荷駄の数を数え、道を塞いで、いかにも何もかも承知しているような顔をしている。

敵陣の机を覗けるわけではあるまい。

孟徳は尽きたと書いた。

この一通を本初へ差し出せば、俺の言葉を聞かぬわけにはいかん。

 

「許攸様。書状は、すぐに本陣へお届けしますか」

 

「俺が持っていく」

 

折り畳み、懐へ入れた。

 

「捕らえた者を逃がすな。水を与えておけ。勝手に痛めつけるなよ」

 

「はっ」

 

この書状を持っていた男が、本人の口で曹操の窮状を語れば、なおよい。痩せた頬も震える膝も、飢えている証拠になる。

椅子へ腰を戻すと、足元の薪が崩れた。

 

赤い炭を見ながら、切り出す言葉を考える。

全軍で攻めよ。

兵糧の尽きた今こそ、孟徳を潰す好機だ。

 

そう進言すれば、殿は喜ぶ。あれは孟徳に勝てる話が好きだ。李司殿の前で勝利を約束できれば、なお喜ぶ。

その喜んだところで、恩賞の話をする。

口約束はいかん。

 

戦が済んでからでは、働いた者が大勢いると言われかねん。張郃だの麹義だの、槍を振るう連中へ先に褒美が回る。

今回は俺が先だ。

 

金。土地。屋敷も悪くない。

李司殿の蔵に納められた財物を思い浮かべた。出入りする荷車を、俺は何度も見ている。勝利に必要な情報なら、あの女も財布を開くだろう。

 

値を低く言い出す必要はない。

払える相手だ。

 

「……孟徳。腹を空かせてくれて、助かったぞ」

 

懐の上から書状を押さえた。

焚き火の向こうでは、捕虜に椀が渡されていた。両手で持ち、こぼさぬように飲んでいる。

俺は立ち上がり、衣の皺を伸ばした。

 

「馬を引け。殿に会う」




ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

今回は曹操軍の兵糧難でした。

米粒を数える曹操。
酒だけは確保している郭嘉。
敵の輸送隊を見るなり「飯をよこせ」と突撃する徐晃。
そして母から豪華な昼食を送ってもらいながら、父には米粒ひとつ分けない曹昂。

李司は戦場にいなくても、きっちり孟徳へ制裁を加えています。

一方、その兵糧不足を訴えた曹操の書状が、とうとう許攸の手へ渡りました。

今回、特に印象に残った場面や、
「さすがに曹操がかわいそうだった」
「いや、宛城の件を考えればまだ足りない」
などありましたら、ぜひ感想で教えていただけると嬉しいです。

次回、腹を空かせた曹操以上に厄介な男が動き始めます。
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