DCユニバースvsプラスチック姉さん   作:スカンジナビア半島

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バットマンVS+チック姉さん前日譚:ナイトウィングVSデスストローク/ 国木防衛戦

  その日、スレイド・ウィルソンは米軍に入隊した。

 

  それは、純粋なる愛国と正義の心から来るものだった。

 

宇宙最悪の危険地帯ゴッサムシティの地下深く、

あらゆる知識と技術の粋を凝らしたトレーニングエリアにて、

肉と肉が打ち合う音が響き渡る。

 

空間の対角にはそれぞれ青年・少女が分かれ、

タンクトップの屈強な出で立ちのジェイソンを、

黒髪黒目でしなやかな刀剣を想起させる少女カサンドラ・ケインが打ち据えていた。

 

バットマンの薫陶を受けたロビンと、

バットマンの後を追って戦場に飛び込んだバットガールは

常に手を取り合い、その上で張り合う関係だ。

 

全員の予定が合った日には、

こうして合同の訓練をするようになっている。

 

「ほらジェイソン、もう少しだ!

 あと30秒でラウンドの時間が切れるぞ!」

 

「ちょっとそんなルール初耳だぞ!?」

 

「イイだろ、そっちはキャスがいるんだから!」

 

ディックとバーバラが言い合う間も、

ジェイソンはキャスの攻撃をひたすらに喰らい、朦朧としながらも意識を保っていた。

初めは高かった彼のモチベーションも、初撃にカウンターをもらい、

それからも当たらない打撃と、痛烈な打撃を浴びせられ、

ぶるぶる笑いが止まらない膝を抱えて、せめてものパンチを仕掛けるのみだ。

 

一発出せば五発もらい、

二発出せば十五発もらう。

しかし、そこはロビンズ一位のファンキーガッツマンことジェイソン・トッド。

 

心は繊細でも体の頑強さは右に出る者がいない。

 

「このお!」

 

苦し紛れの肘打ちは少女の肩にいなされ、

お返しに手刀が鼻っ柱にあたる。

夥しい鼻血がジェイソンから流れ、

ようやくディックのスマホのアラームが鳴った。

 

「はい、休憩ね休憩!

 よく戻ってきたなジェイソン。

 すごく惜しかったぞ」

 

「ほ、本当……?」

 

丸椅子に座り、濡れタオルをかぶって肩で息をするジェイソン。

ティムは冷静にデータを集め、

ダミアンが耳元でエールを送る。

 

「気合だよ、気合!

 お前これくらいで勝てると思ってんじゃねえぞ、トッド」

 

休憩内にできるだけのマッサージをしながら、

ディックはファイターに声をかけた。

 

「苦しいだろう。でも忘れるな。

 お前が苦しい時は相手も苦しい時だ。

 ピンチはチャンスだ」

 

「ハイ、アヒル口ぃ!」

 

向かい側ではキャスを混ぜてバットガールズが自撮りをしている。

軽い汗を浮かべた少女は

息一つ乱すことなく、飲み物を飲んでいた。

 

「ねえ……あいつら自撮りしてる?」

 

「してないぞ、ジェイソン!

 お前らしくないぞ、そんな弱音を吐くなんて!」

 

「気合だよ、気合!

 気合を忘れんじゃねえぞ!」

 

「あの……ギブアップしたーー」

 

ジェイソン・トッドが言葉を言い終える前に、

休憩が終了し、第2ラウンドが始まる。

 

「諦めんな、ジェイソン。

 前は勝ったことだってあるだろ!」

 

「気合だ気合!」

 

ロビンズが声援を送っているのとは対照的に、

女衆は特に感慨もなく観戦している。

 

ディックの言葉に

折れかけていた勇気を取り戻したジェイソンは、

背筋を伸ばして眼光を鋭くした。

 

「掴め、ジェイソン!」

 

黙々とデータを分析していたティムが声を張り上げ、

それに応えたジェイソンが両腕を広げてキャスに掴みかかった。

隙だらけの動きだったはずが、キャスは一瞬躊躇い、

弱い貫手を肋に刺す。

 

「ぐうっ!」

 

血を吐いたジェイソンだが、

ダメージは少ない。

 

「大ぶりの攻撃だ。

 隙だらけの方が相手は困る!」

 

親に殺人言語のみを仕込まれてきたキャスは

戦闘の達人を超えた殺人兵器だ。

 

視覚的に相手の急所、突けば死ぬポイントを見抜ける彼女は、

すべての生命の死点を把握している。

 

そんな彼女に敢えて死点を晒す攻撃をすれば戸惑うのも当然だ。

 

しかし、キャスの優しさを逆手に取った急所剥き出し戦法も

すぐに対応されてしまう。

 

純粋に実力差がありすぎるため、

ただ型を繰り返すだけでジェイソンはたちどころにやられてしまう。

 

「ああっ、そんな!」

 

「気合出せえ!」

 

ディックとダミアンの悲鳴も虚しく、

顎にアッパーを喰らってジェイソンは膝をついた。

 

「イエーーーーイ、キャスってばスゴーイ!!」

 

勝者の背後から抱きつき、

頬ずりをするステファニー・ブラウン。

 

対照的にロビンズのムードは暗い。

歴代最強のジェイソンをぶつけて

手も足も出ないというのは由々しき問題だ。

カサンドラ・ケインに勝てというのが無理な話なのは当然だが、

それで諦めるのはロビンの名がすたる。

 

「どうする? 僕達の中の誰を出しても彼女には勝てないよ」

 

「はあっ!? 俺が今から瞬殺してくるけど!!」

 

「落ち着け二人とも」

 

いつもの調子でティムに食ってかかるダミアンを制し、

長兄は手を挙げた。

 

「次にこっちから出す奴が決まった」

 

「あら、もう死刑囚を決めたの」

 

余裕綽々でスマホを片手にくつろぐバーバラに、

ディックは口の端を吊り上げて言った。

 

「出ろ、ステフ」

 

「あたし?」

 

首を傾げ、ロビンとバットガールの両方を経験している

ステファニー・ブラウンは不思議そうにした。

 

「チャンスだ。ジェイソンを倒したキャスは

 これ以上ないほどに消耗している。

 ファミリー最強カサンドラ・ケインから

 勝利をもぎ取る栄誉をあげよう」

 

「なんだよ、それ! 俺が出る!」

 

「僕が出てもいいよ」

 

キャスの呼吸はとっくに整い、

特に負傷をしているわけでもない。

流石にそれがわからないステファニー・ブラウンではないが、

ダミアンとティムが立候補している流れがある。

これに乗らないステファニー・ブラウンでもない。

 

「なるほどこの状況はまさに

 鴨が葱しょってやって来たぜえ、グヘヘヘへ」

 

両肩を回し、ステフが満面の笑みで

ロビンサイドから出場した。

これぞロビンズで最も勇敢なハートを持つステフだ。

 

最弱でありながら勝ち目0の戦いに挑むのに

一切の躊躇がない。

 

「見ててティム!

 この勝利をラッピングしてプレゼントしちゃう!」

 

「うん、がんばってね」

 

ステフとティムのやり取りを見ていると

ディックはつくづく最近の少年の淡白さに驚く。

自分がティムなら投げキッスの1つでもしていたものだ。

 

「しゃあっ!」

 

渾身の叫びを籠め、

初手から意表をついた胴回し回転蹴り。

 

「アビャーーーーーーーーーーーーっ!!!!」

 

迷いのない正拳突きを腹部に食らって、

ステフがリングアウトをし、洞窟の壁に頭が突き刺さった。

 

並の人間ならば五体霧散するダメージ。

しかし、ステフはかのブースターゴールドをして、

偉大なる先達、アホの血脈が源流と尊敬されるほどのヒーロー。

 

じきに壁から頭を抜いてくるだろう。

 

「よし、中堅は僕だ」

 

ジェイソン、ステフと勇者が続く中で、

今度は己が立候補した。

 

ここでなんとかキャスと相打ちをすれば、

あとはティムとダミアンが

頭を抜いたステフと女衆のリーダーであるバーバラを倒してくれる。

 

ティムとステフが戦えばステフが少し優勢だが、

いくらブースターゴールドの精神的先祖であっても

あのダメージから復帰するには20分はかかる。

 

「後は任せてよディック」

 

「気合忘れんじゃねえぞ!」

 

「ずっと気になってたんだけど、

 さっきからなんの影響なの?」

 

「影響じゃねーし!」

 

ダミアンが焦って否定するのが背中に聞こえる。

先日、ディックがお土産に買った漫画を気に入ってくれたようでなによりだ。

 

「さて、始めようかキャス」

 

軽く跳んでリズムを整え、

ディックが舞踏のリズムでステップを踏んだ。

それだけで殺人言語使いの少女が惑ったのがわかる。

 

要は初撃だ。

そこさえ切り抜けられたら芽がある。

 

「いいから攻めなさい」

 

バーバラの指示に従い、キャスがひとっ飛びに距離を詰めた。

速い。スーパーマンやフラッシュの物理的速度ではない、

武術が生み出した人体の錯覚すら利用した速度。

 

弾丸、音速、光速に打つ手があっても、

この速さに対応するのは絶対に無理なものだ。

 

「ぐっ!」

 

当然、攻撃は喰らう。

だが殺人言語のネイティブスピーカーであるキャスは、

初撃は必ず生命には避けられない動きで致命傷を仕掛けてくるのが読めていた。

 

急所をわずかにズラし、

返し刀でディックは宙高くに跳んだ。

完全に無駄な動き、近接でジャンプに頼るのは素人のやることだ。

 

「…………」

 

しかし、キャスはそこに追撃してこない。

動きが固まり、ディックの回転踵落としをまともに受けた。

 

「キャス!?」

 

壁から頭を抜いて観戦に混じったステフが叫んだ。

威力はないが、キャスに攻撃が通るのが大事だ。

 

側転・後転捻りを織り交ぜて距離を縮め、

バレリーナのやるスピンの動きで

回し蹴りを与えた。

 

脚はキャスの頬を掠め、

脇腹に手刀が来た。

 

肘で少女の手を挟み、

抱きかかえるように引き込み、

相手の両肩に手を置く。

 

敵に自重を預け、逆立ちをすると、

ディックとキャスの頭が上下に向かい合う。

 

影に生まれて影に育てられた少女が

戦いの目から日常の目に映るのが

サーカス育ちにはわかる。

 

キャスは言葉を話せるようになったのが十代半ばになってから。

それ以降も決して言葉をうまく使えているわけではない。

故に、彼女は人一倍、自己表現に強い関心がある。

 

ジャグリング、ダンス、新体操、サーカス。

言葉を用いないショーをカサンドラ・ケインは事あるごとに観に行っていた。

 

「どうだい、キャス」

 

キャスの肩から跳びはね、

宙を4回転し、大仰な仕草で着地する。

隙だらけだが、キャスの攻撃はない。

 

「これがサーカスの動き。

 スポットライトが当たる者の動きさ」

 

長兄としてディック・グレイソンは

ジェイソンの体術、ティムの頭脳、ダミアンの剣術、ステフの回復力はすべてトレースできる。

才能ではなく、兄としてそうなるように努力を欠かさなかった。

 

だが、ロビンズの動きではなく、

サーカスの動きは、時に暗黒の底でこそ映えるものだ。

 

############

 

  愛を見つけた、友も見つけた。

  だから、超人になることを志願した

 

自分で言うのも難だが、よく頑張った方だと思う。

テーピングでぐるぐる巻きになった体を引きずり、

何度目かの来日をディック・グレイソンは果たした。

 

アジアの極東、日本。

ダミアンやバーバラ、そしてティムは行くことが多い土地だが、

ディックとしてはそこまで縁が深いわけではない。

 

「ここがThe市か」

 

新千歳空港からバスに揺られ、

除雪されて、均された雪を踏みしめてディックは呟いた。

 

今日ここに来たのはバットファミリーとしてではなく、

タイタンズの一員としてだ。

かねてより、この街はアジアで最もゴッサムに近いとされ、

世界中に恐れられてきた。

 

だがゴッサムがそうであるように

闇が濃いと光も強く瞬くもの。

The市は未来有望なヒーローが数多くいるとされている。

 

見込みがあり、本人の意志も強いのなら

タイタンズによる少年少女のヒーロー指導機関、

タイタンズアカデミーに誘ってみたいと思ってきたのだ。

 

もちろんあてがないというわけではない。

バットマンがいつものように集めた詳細なデータを盗んできたのに加え、

偉大なるヒーローと落ち合う約束もしておいた。

 

礼儀のため、上着を脱いでコスチュームだけになり、

建物の屋上から待ち人を探す。

 

すぐに見つかった。

どこにでもいるような、腰が曲がりかけた

老齢の男性。

 

「はじめまして、マン」

 

相手の背後に無音で着地し、

両手を合わせてお辞儀をした。

挨拶をされた老人もすぐにマスクをかぶり、こちらに向き直った。

当然だが、このマンという名のヒーロー。

ナイトウィングの接近程度は驚くに値しない。

 

「へあっ」

 

理解不能な異音。

それだけなら紛うことなきよくいる不審者だ。

しかし、マスクをつけたことで曲がった腰が伸び、

全身が活力に漲る様を見れば、誰もがこの老人がどれだけ偉大かわかるだろう。

 

ゴッサムにはかつて初代グリーンランタンと尊敬を集める

アラン・スコットが活躍し、バットマンすら一目置いていた。

そしてこのThe市で幾多のヴィランと戦ってきたのがこのマンというヴィジランテ。

 

無能力でありながらもスーパーパワー、怪異、宇宙人、深海生物、

その他、多様な脅威と戦い抜いてきた伝説は

何度もジャスティスソサエティ・オブ・アメリカへの加入を打診された程だ。

 

「お会いできて光栄です」

 

「へあぁ〜〜。

 へあっ、へあああ?」

 

「ええ、貴方に聞きたいことがあります。

 最近、ついに後継者を指名したそうですね?」

 

「へあっ」

 

「それは国木……お尻警察で間違いありませんか?」

 

「へあっ!」

 

勢いよく頷くマンにディックは顎に手を当てて思案した。

大丈夫か、この人という思考だった。

 

国木の名を知らぬ者はそういない。

シークレットアイデンティティを隠すことなく、

ブラジャーとバットのみでゴッサムクラスの魔都を戦い抜く新人ヴィジランテ。

しかし、そこから受ける印象とは別に、国木……お尻警察には黒い噂が付き纏う。

 

「彼と会うことは可能でしょうか。

 出来るならば私達が運営しているアカデミーに体験入学をさせたいと考えているのですが」

 

「へあ……へあっ」

 

「ありがとうございます。可能なら、

 貴方が把握している他のヒーロー、ヒーロー候補についても教えていただけますか?」

 

「へあっ」

 

マンの眼光がマスク越しにも鋭くなったのがわかった。

やはりこのマン。まだまだ覇気に衰えがない。

 

「もちろんバットマンはこの街の少年少女についてもほぼすべてを知っています。

 ですが、出来るなら彼らに接触する許可を貴方から伺い、

 その他にも知っていることを教えていただきたいのです」

 

「へあ」

 

マンが指さした方角をナイトウィングも見る。

そこにはThe市とゴッサムシティが共同建築している最中の、

近未来超大型ショッピングモールこと、

The・ゴッサムが見えた。

 

「The・ゴッサム。すごい名前ですよね。

 考えた人間は頭がイカれてると思います。

 ブルース・ウェインが命名者ですから無理もないか。

 あれがどうかしましたか?」

 

「へあっ」

 

「なるほど、怪しい影があるから調べろと言うんですね」

 

「へあっへあっ」

 

「現地人? 貴方は駄目なんですか。

 …………なるほど、国木を連れて行けと」

 

マンの狙いがわかり、ナイトウィングは頷いた。

偉大なるヒーローからの許し、援助。

実に幸先が良い。初めて訪れた場所とは思えない。

これから出会うのがあの国木というのを除けば。

 

###########

 

  不死身の身体と強い技術。

  彼は間違いなく無敵の兵士になった。

 

まだ学生である国木が通っている学校、The高校。

The市の公立高校であり、有数の進学校だ。

国木、ヒーロー名「お尻警察」は野球部に所属しているというため、

学校の屋上に忍び込んで暇をつぶすことにした。

 

「世界二番目のゴッサムとは思えないのどかな景色だ」

 

フェンスに腰掛け、買っておいたコンビニおにぎりを開ける。

日本のファーストフードについては昔、

スーパーマンがハマっていたため、

おすすめを数多く教えてもらった。

 

ゴッサムに並ぶ治安が悪い街というのは

実際にはThe市以外にもある。

暗黒が闇を喰らう都市ゴッサムがゴッサムたる所以は、

事件の多様性だ。

 

ただ秒速で犯罪が発生するというだけでは、ゴッサムのゴッサムさを満たせない。

一般犯罪者、地下世界、怪異、神、宇宙人、魔法使い、

雑多な悪が暴れてなければゴッサムとはなりえない。

 

その点において、The市はアジアで最もゴッサムな街と言えるということだ。

 

雪が音を吸い込み、

日が沈もうとしていく世界、

晴れた青空が雪に映え、この一瞬が真なる平和と思えた。

 

「うん?」

 

腰掛けていたフェンスが微動する。

軽く乾いた音がし、見下ろすと屋上に向かって何やら叫ぶ男子生徒がいた。

 

「オラァ!!」

 

「おお」

 

ロックを壊した男子生徒が6名押し寄せてきた。

こちらへ叫んでいた下にいる生徒もすぐに来るだろう。

 

「テメエ、こんなとこで何してんだオラァ!!」

 

「オラオラァ!!」

 

ひと目でわかるいじめっ子だ。

世界中で社会問題になっているイジメだが、

日本も例外ではない。

 

「ごめんよ、ちょっと時間を潰していただけなんだ。

 怪しいものじゃないから許してくれ」

 

「十分に怪しいんだよ、オラァ!!!」

 

「イケメンプリケツのおっさんが何抜かしてんだオラァ!!」

 

「僕はナイトウィング、バットマンの元サイドキックさ」

 

「バットファミリーじゃねえかオラァ!!!!!!」

 

「ゴッサムの民は厄災を運ぶって言うぜオラァ!!!!!!」

 

「ゴッサム人は帰んな!!!! 帰ってくれ!!!!!!!」

 

徐々に様子がおかしくなっているのがわかる。

ゴッサム人が不幸の報せというのは実に差別的であり、

賛同できるものでは決してないが、判断としては納得できる。

 

そこではなく、男子生徒の呂律が回らなくなっていき、

目の焦点が合わなくなってきているのだ。

 

気のせいか、ケタケタと嗤う声も聞こえてくる。

 

「お前たち、何をしている」

 

低く、重々しくも凛々しい声音に、

ナイトウィングは後ろを振り返った。

目の前の敵よりも優先したのは、

ナイトウィングをして気配を少しも感じ取れなかったからだ。

 

「君は……」

 

「お尻警察だ。貴方は……ナイトウィングか?」

 

「君に会いに来た。

 これを片付けたら話をしてもいいかい?」

 

「○∪○→○∩○」

 

「なんて?」

 

「○∩○」

 

わけのわからないことを言うお尻警察、国木は無視し、

ナイトウィングは、こんなこともあろうかと持ってきた

バット対霊武装を装着する。

 

「やっぱりか」

 

全く危険がない背後の安全を保証する国木。

バット霊視ゴーグルがこの世にあらざるものを映してくれた。

素質の無い者は目視できないように存在感を希薄化させた小さな天使。

擬態した子鬼の類だろう。

 

バットマンはこの世のすべてに対策を取ることを信条としている。

当然、その中には幽霊、怪異、悪魔もいて当然だ。

ゴッサムでは幽霊の敵など少しも珍しくない。

 

「安心してください、貴方のお尻は俺が守ります」

 

「助かる」

 

「何無視してんだ疫病神がァァァァァ!!!」

 

「俺らのシマを……俺達の棲家を荒らそうってのかァァァァァ!!」

 

「いじめるぅぅぅうぅぅぅぅ!!!!!!」

 

エスクリマスティックよりバットアンチゴーストプラズマを放出させ、

向かってくる子鬼に操られし学生に対処していく。

プラズマを絵筆の如く滑らせると、

青い電磁を浴びた子鬼が昏倒していく。

 

人を乗っ取り、唆すくらいが関の山の怪異では、

これだけで十分というものだろう。

 

「終わったね。サポートありがとう。

 君に会いに来た」

 

「俺も会いたかった」

 

やけに据わった目で国木が言う。

ゴッサムによくある目つきだ。

爆発的狂気を抱えた者が持つものだ。

 

「ヒーローとして君に頼みがある」

 

「それより先に彼らの保護を、愛を与えていいですか」

 

倒れている学生を指して国木が告げる。

子鬼から解放された彼らは安らかに眠っているが、

何処かに移動させるべきと言われたらそうだろう。

しかし、それが愛に該当するのか、ディックはわからなかった。

 

「愛?」

 

「いや、狩りだ」

 

「どっち?」

 

「お尻警察の活動内容だ。

 こうして人助けをし、悪を倒し、無辜の人々を守り、

 あわよくば両方いただく。これは活動ではない、性的嗜好と言っていい」

 

ディックはそれを聞いて納得した。

実にゴッサムな論理展開だ。

故に、対応の仕方も理解している。

 

「理解した」

 

「貴方は愛を信じますか?

 信じてないなら愛を知りましょう。

 信じているなら満たされましょう。

 いっちょ俺の甘言にサーフィンしないか?」

 

「とりあえず今はヒーローをしよう」

 

ヒーロー・ヴィランどちらも相反する性質を抱えているものだ。

それはスーパーマンやバットマンも例外ではない。

こういう場合、外部から二面性の片側へ誘導すると、

自然とそちらへ流れてくれる。

 

「嫌っほう!」

 

「あ、待て!!」

 

ディックの狙いがハズレ、

ガニ股になってお尻警察が屋上から跳び下りた。

慌てて屋上から見下ろすと、国木の姿が消えている。

 

彼の性質についてはおおよそ把握している。

だが、1つだけ掴めないのが「本当にヤッているのか」だ。

バットマンをしても特定できなかった実行シーン。

 

それを見切るというのもディックがここに来た目的だ。

 

とは言ってもこうやって逃げられたらどうしようもない。

如何なる手段であれほどの逃げ足を持っているのか。

思案していると新たな猛者の鬼気を感じ、身構えた。

 

やはりゴッサムランキング世界二位の街。

強者・狂者には事欠かない。

 

「派手にやったわねえ、可哀想に」

 

「購買のババア……」

 

もちろん本名ではない。

購買のババアと呼ばれる彼女は

大陸有数の魔術師にして霊能者だ。

 

「ここまで復活するのにもけっこうかかったのよ。

 ところでジョンの坊やは元気にしてる?」

 

見た目は何処にでもいそうな小太りの中年女性。

しかし、その実力たるや日本のザターナと呼ばれて久しい。

コンスタンティンと知己の間柄なのも自然なことだ。

 

「元気にしているはずです。

 あまり会うことはありませんが。

 しかし、子鬼を保護しているのですか?

 購買のババアは人に仇なす怪異に容赦しないと思っていました」

 

「常世のヒーローと幽世のヒーローの違いね」

 

蠱惑的に購買のババアが笑う。

こちらの無知を受け入れ、諭すことの出来る、

深い知見に裏打ちされたものであった。

 

「我ら魔に関わる者が重視するのは常に調和。

 白が過ぎても黒が過ぎても破滅に至る。

 貴方が知っているヒーローも、世界が純白になれば

 已むを得ず黒を選ぶことでしょう……逆もまた然りよ」

 

「それでは子鬼も調和のために必要ということですか、購買のババア?

 貴女のような淑女にババアとは言いたくないものですが」

 

「これはあなた達のせいでもあるわ、バットファミリー」

 

「えぇ?」

 

何故かこちらに矛先が向き、ディックは眉を上げる。

伸びた子鬼を摘んでババアは嘆いた。

 

「バットマンとジョーカーのせいで、この子たちのような

 恐怖を糧に生きている子達は食いっぱぐれてしまった。

 あなた、這い寄る混沌を知ってる?」

 

「ハブシティを根城にしてる神でしょう」

 

ゴッサムとは違い、通常の犯罪がメインだが

治安が劣悪なことで知られるのがハブシティだ。

クエスチョンやテッド・コード、ブルービートルの街でもある。

 

「悲しい話よ。バットマンとジョーカーに腰を抜かし、

 みるみる力を無くしてしまい、今や街の地下深くに引き籠もるばかり。

 太古には千の無貌と恐れられた程なのに」

 

「まあかなりアレな奴だったらしいけど。

 それに似たような神はごまんといるでしょう」

 

ババアは愛おしそうに子鬼を撫でる。

慈悲深いその光景は彼女が正しく偉大な魔女だと理解させるものだった。

魔の領域には疎いディックでも感銘を受けるものがあった。

 

「とにかく、そういう悲劇を少しでも無くすために、

 私はこうして弱った子鬼に私の陽の氣をわけてあげてるの。

 ほら、見て? 弱った可愛い子たちが強い氣に膨らんでいき

 たちまち弾けてやれやれ汚え花火だぜ」

 

掌の上で苦しみ悶えて子鬼が破裂した。

青年ヒーローの雄はただただ深く重々しく頷いた。

The市。聞きしに勝る手強さだった。

 

############

 

  ドラゴンが叫んでいる。

  腹の底から出ようとしている。

 

国木との合流は叶わなかったが、得たものも多い。

ここに来たのは失敗だと判断するに足る材料だ。

お尻警察には危うさが見えすぎる。

 

マンが信じるに足るだけの戦闘力は確かにわかる。

しかし、ヒーローに必要なのは精神であり、

国木の抱える危うさは未熟さよりも成熟さから来ている。

 

少年少女は二面性と呼べる程に確立した自我を持つことは稀だ。

中にはビリー・バットソンのように押し付けられた運命から、

外的に二面性を確立することはあるが、それこそが例外だ。

 

国木は既に大人だ。

タイタンズアカデミーには入れられない。

 

建設中の超巨大ショッピングモールのThe・ゴッサムに忍び込んだナイトウィング。

単独の任務は地元ヒーローの心情を考慮すれば避けたいところだったが、

マンの許可を得ていて、共闘候補も行方不明となれば致し方ないだろう。

 

The・ゴッサム、この宇宙の厄災すべてをここに集中させたい願いが感じられる。

悪気は無いだろうが旗から見たら日本を滅ぼしたいとしか思えない名だ。

そんなことを考えながら殺風景な工事現場の中を進んでいく。

 

ゴッサムとThe市の親交の証に薄暗い影があるというマンのタレコミ。

本当なら見過ごすわけにはいかない。

 

「チィッ、予想通り来やがったぜ!!

 ぶっ殺したらあ!!」

 

「考え直さないかお前達。

 こんなことをしても誰も喜ばない、

 悪の存在に喜ぶのはこの俺、国木だけだ。

 ありがとう……黒いのをいっぱい向けてくれて」

 

「ひぎゃあぁぁぁぁぁぁ!!!」

 

どうやら国木も来ていたらしい。

マシンガンの音が響き渡るが心配は無用だろう。

彼は撃たれたら打つタイプだ。

犯罪者の後ろの方の心配は後回しにする。

 

怪しい臭いがするというのは何なのか

マンの話をもっと詳しく聞くべきかもしれないが、

あれ以上のことはわからないだろうとも思う。

 

彼はジャスティス・ソサエティと同年代の古豪だ。

己の直感と直接の見聞を重視している。

 

たしかこのモールはブルース・ウェインと

The市の市長の話し合いによって進んでいたもの。

ブルースによる黒い影の可能性はもちろんのことだが、

市長の暗躍も考慮しないといけない。

 

「ひえぇぇぇぇぇぇやめてえええええ!!」

 

「おいおい、おかしいぞお前ら。

 勝利を敗北だと思ってやがる。

 いいか! これは勝利!

 お尻警察に負けるのは勝利だ!

 お前たちは今から栄光の階段を昇りイクんだ!」

 

向こうはどうやら順調のようだ。

こちらも負けてはいられない。

 

手がかりがないかとあちらこちらを探し回っていると、

柱の陰から聴き慣れている奇妙な音がしてくる。

建築中の巨大建造物の中においてはありえない音ではない。

だが、近くで銃とガンが撃ち合うだろうシチュエーションでは

甚だ不自然な音、声だった。

 

「これは……!」

 

目を見開いたナイトウィング。

そこには半透明のアストラル体で睦み合う男女の姿があった。

 

「性交霊(セックスゴースト)か」

 

日本では八百万の神々が信仰されていると言うが、

それは今の世界ではただの事実だ。

セックスの神もセックスの霊も当然、実在している。

 

本来はドゥームパトロールの領域である事象、怪異。

しかし、The市で性交霊が出現するのはありえないことではない。

性交霊とは強いセックスパワーを放つ土地に出没する。

男女問わず喰らう伝説のヤリマン種族も暮らすこの街は潜在的な

超性交力場(ハイパーセックスエナジースポット)。

 

しかし、普段は大人しく、周りをムラムラさせるだけの性交霊が

こちらへ襲いかかってきた。

落ち着いてナイトウィングは性交霊をプラズマで処理していく。

 

頭上に気配がし、バックステップをすると、

ディックのいた場所に霊が跳んできた。

 

「《女上位(ホッパー)》型」

 

男に乗った女の上下移動により高い跳躍を果たすタイプ。

初めにカスった《男上位(チャリオッツ)》型と組み合わされれば厄介だ。

だが本来は性交霊とはいわば強力な力場によって発生する自然霊に属する。

人類がセックスを忘れない限りは牙を剥くことがないと

ドゥームパトロールより聞いている。

 

数々と湧いてくる性交霊。

存在が剛烈な催淫を引き起こすのを理性で耐えながら、

プラズマで青く発電するエスクリマスティックで処理していく。

 

頭、脳内が熱暴走したように温度が上がり、

体の芯が燃える錯覚の中で霊を消していく。

 

大ぶりで霊を薙ぎ払い。

側面部に強い衝撃が襲いかかった。

《後背位(ドギー)》型、スピードに長けた種類のセックスが

ディックに喰らいついてきた。

 

バランスが乱れ、維持していたリズムが霧散した。

幾多のセックスがナイトウィングにできた隙に喰らいついてくる。

闇雲に棒を振り回しても埒が明かない。

国木はどうなっているのか、

彼の性質的に性交霊は天敵になりえるはずだ。

 

そう思いお尻警察のいた方角へ耳を澄ますと、

明確に戦闘音が聴こえてきた。

それも、かなりの激戦だ。

 

こちらもセックスの嵐に打つ手がなくなり始めてきている。

向こうが勝っても、こちらの分を押し付けると

敗北の可能性が高い。

 

「……よし、お尻を連れて逃げ――」

 

「ずいぶんと苦戦しているようね、坊や」

 

撤退を決めたナイトウィングに群がる性交霊が次々と粉砕されていく。

 

「購買のババア!!」

 

昼にも会った魔術ヒーローがセックスの頭部を鷲掴みにしていく。

単体では到底太刀打ちできなかった性交の山が、

ババア一人に次々と消されていく。

 

「なぜ、貴女がここに?」

 

「異常な気配を察知してきたのよ。

 貴方は事態を解決させなさい」

 

「しかし、このセックスの群れをどうやって――」

 

「ここはヤリマンの街。けれども、

 今まで性交霊の大量発生が無かったということは、調和が取れていた。

 この近辺にセックスのバランスを乱す何かがあるわ」

 

「わかりました。ここはお任せします」

 

そう言ってババアにセックスを任せ、

ディックは国木の方へと進む。

こちらを襲う僅かな霊を退けて、

工事現場の一画に至ると、全身に斬り傷と弾傷を作った国木がいた。

 

「お尻警察。無事かい?」

 

敵との間に立ち、国木に声をかける。

 

「ちょうどウォーミングアップが終わったところさ。

 ところで貴方は……いやそのケツ、昼に会ったな」

 

「どけ、ナイトウィング」

 

「つれないことを言わないでよ、スレイド」

 

エスクリマスティックを握り直し、

ディックは緊張感を高めていく。

 

敵はデスストローク、スレイド・ウィルソン。

タイタンズの不倶戴天の敵だ。

奴が持つ戦闘技術は極めて高く、並び立てる者は世界に十人もいない。

 

「あんたの狙いは?」

 

「お前ではない、後ろのそいつだ」

 

「僕がそれを通すとでも」

 

「驕るなディック・グレイソン。

 詐欺師の代表者め」

 

「心外だね、子供を騙すのはあんたの専売特許だろ」

 

刀を振るい、ディックの頸動脈付近を冷たい感触が走る。

遅れてディックのつま先がスレイドの顎を捉え、

床に両手をついて横蹴りに移行するが、

刀の腹が受け止めた。

 

「こうして戦うのはもう何度目か」

 

「一緒に戦ったことも会っただろ」

 

「すべては賽の目次第だ」

 

袈裟斬りを弾くと、もう片方で長杖による突きが繰り出される。

 

「あのセックスゴーストもあんたの仕業か。

 誰の依頼で動いている!?」

 

「誰も」

 

前方へのステップで躱した突きが、

背後の壁を破壊した。

一発、二発、打撃を喰らわせる。

 

スレイド・ウィルソンは強力な自己治癒を持っている。

数発の打撃は秒単位で回復してしまう。

そこでナイトウィング、キャスの殺人術を使う。

 

疾風迅雷、黒き雷光、黒い獣(ブラックバット)と呼ばれるキャスに、

ディックが及ぶ道理は1億に1つもない。

しかし、彼女の動きを模倣するのは造作もない。

 

スティックを捨て、脱力で相手の懐に入り、

手足の先端を鋭利な形状にし、

全自重を打撃に集中する。

 

首を突き破り、背骨を掴む、それを引きちぎる前に

銃身が頬を打ち、離れたところに

ハンドガンの銃弾が吐き出された。

 

一発目を打ち返し、二発目を避け、

三発目を肩に喰らうが、そのまま腕ひしぎに移行する。

 

「危ない!」

 

お尻警察が打ってきた野球ボールが

ナイトウィングに距離を取らせ、

遅れてデスストロークの腹部でプラスチック爆弾が起爆した。

 

爆風に身をかがめ、顔の前を両腕でガードするディックを、

追ってきたスレイドが横蹴りする。

 

爆発のダメージで胴体の内臓は消失し、

下顎から下も無くなったのを再生しながらの攻撃。

ダメージではなく、プレッシャーを目的とした

連打でディックを壁に追い込んだ。

 

スレイドが両手をディックの首にかけ、

壁に押し付けてから床に組み伏せる。

 

「貴様……命が惜しくないのか」

 

スレイドに遅れて動き出した国木が

敵の背にバットを押し付ける。

ナイトウィングと違い、防御姿勢を取らずに

動きを優先。爆発の負傷は、

愛を生命力に変換する技法でカバーしていた。

 

「…………お前はなんだ? お尻警察、いや国木よ」

 

「愛」

 

「違う、お前は俺だ」

 

ディックがスレイドの目を刳り、

上半身のバネでマウントを跳ね返す。

 

眼球の再生より先に音を頼りに

マシンガンを手にしたスレイドの耳にラングを投げる。

耳朶に刺さった刃物を踵でさらに押す。

 

「あんたは狂っている、スレイド」

 

残っている方の耳にディックが囁く。

 

「なら貴様は邪悪だ、ディック」

 

スレイドが転がっていた長杖を捻り、

真ん中から2つに分割させる。

 

ディックの肋に片方の棒が刺さり、

肺の空気が押し出される。

怯んだところにスレイドの両の拳が右から、左からやってくる。

頬の左右を繰り返し打たれたナイトウィングは、

辛うじて意識を維持するが、戦闘が困難になるまで追い詰められた。

 

「どういうことだ、貴様の何処が俺だ」

 

トドメを刺そうとするスレイドを国木が尋ねる。

 

「お前のことを調べ、理解した。

 俺とお前はあまりに似ている」

 

「馬鹿なことを、貴様の何処に愛がある。

 もしや愛を知らないのか?

 教えて欲しいってことか? 二人まとめて愛をスリスリしてやる」

 

「それだ、国木。お前はヒーローをやり、

 衝動を発散させようとしている。

 しかし、その二面は騎士と悪竜、相容れないものだ」

 

「それはやってみないとわからないだろう。

 俺はやってみて相容れないと理解してきている。

 だが、貴様は? 騎士とは何処にある」

 

「国、そして家族だ」

 

国木が話を聞く姿勢を見せたことで、

スレイドはディックから離れている。

ここで体力の回復に集中し、

不意打ちを仕掛けることをディックは考えた。

 

だが、どれだけ非生物想定の攻撃をしても、

結果は自分が地に伏し、デスストロークは無傷同然。

 

「しかし、俺にはいつしか悪竜(ドラゴン)が棲み着いていた。

 深く、騎士すらも喰らうほどに。

 お前と同じように、どれだけの美辞麗句を並べようと、

 臓腑の奥、心の臓より芯にあるそれに勝つことは、不可能だ」

 

「それで何が言いたい。

 俺は悪には与さず、悪と組み合う男だ」

 

「俺の息子になれ、国木」

 

「…………なんだと?」

 

端正な顔立ちに定まりきった意思が狂気にも見えるのが国木という男。

しかし、デスストロークの言葉を聞いた彼には、

めったに浮かべることのない戸惑いがあった。

 

「俺が導いてやる。悪竜と同化し、騎士の夢を叶える術を教えてやる。

 そして、この街をともに支配し、The市こそを俺達のゴッサムにするのだ」

 

「馬鹿な、何を言っている。

 俺はヒーローだ。愛のヒーロー、お尻警察だ」

 

「巫山戯たマネはやめろ。

 そうしたところで、お前の中の衝動が

 鎌首を下ろすことは永劫にない」

 

「貴様に俺の何が……!」

 

眉間に皺を寄せ、お尻警察が

デスストロークを鋭く睨めつける。

あの国木が精神的に図星を突かれている。

 

「お前は狂っている。

 息子とは、家族とはこうしてなるものじゃない。

 心で通じ合い、互いが互いの救いとなるものだ。

 そこに例外は許さない、例外は――」

 

「――俺だけでいい。

 奉仕し、ひたすらに愛を与えたいのだろう。

 相手からの無条件の肯定を下に!!

 観念しろ、国木。いや、お尻警察!!!

 お前の運命は、今、定められた!!」

 

「口説きが長いぜ、スレイド」

 

背後からのハイキックを腕で防がれる。

薄々感づいていたが、ディックはここで確信した。

今日のスレイドは極めて冴えている。

 

いつもに比べても動きに一切の迷いがない。

常ならば、少年の未来を謳いながら少年を斬り、

少女の成長を目指して少女を突き上げるのがスレイド・ウィルソンだ。

 

本人の言う、悪竜と騎士の内の悍ましき悪竜が見えない。

 

「この街で何があった?」

 

質問には応えずに、

スレイドはグラップリングで吹き抜けから上階へと向かわんとする。

こちらを見ることなく、単刀直入なフレーズを残して。

 

「上がって来い。

 貴様の死を持って、この街の再誕としてくれる」

 

デスストロークが上がっていく。

吹き抜けから見える上階は性交霊の気配がない。

1階に何かがあるということだ。

 

「お尻警察、下は任せよう。

 悪いが性交霊の発生源を探してくれ。

 近くに購買のババアがいるから協力するんだ。

 攻撃手段は大丈夫か」

 

「愛がある」

 

そう返す国木の顔には平静が戻っている。

先の激昂がナイトウィングから

デスストロークの気を引くための演技なのか、

それとも本心のものか、ディックにはわからない。

 

「みんな同じだ」

 

お尻警察の肩を数回叩いて、

月並みなことを言うことにした。

 

「みんな同じようなことで悩むんだ。

 お前だけじゃないさ」

 

「○∪○→○∩○→○∪○」

 

「………………まあ、とにかくそういうことだから、

 後でゆっくり話をしようぜ」

 

「貴方は」

 

「うん?」

 

「貴方の悪竜(ドラゴン)はどんなのなんだ?」

 

#############

 

  卵が孵った

 

  最初からドラゴンだったのかもしれない

 

  ドラゴンは暴れていく

 

  守る卵を踏み潰しながら

 

「来たか」

 

デスストロークが正眼に刀を構え、

上がってきたディック・グレイソンを迎えた。

 

「お尻警察からも、この街からも手を引け」

 

「断る」

 

上段斬りを受け流し、

距離を離さずに膝蹴りをお見舞いする。

 

「随分と野心家になったじゃないか。

 ジェリコやローズが聞いたらどう思う?」

 

「あの子達のためでもある」

 

靴から仕込みナイフを出し、

スレイドが後ろ蹴りをしてくる。

その脚に跳び乗って跳躍、

宙で数回転し、両膝を相手の後頭部に押し付けた。

黒と橙のツートンカラーのマスクが床に激突する。

 

しかし、スレイドは己の顔面を守らず、

腕だけを動かしてディックの肩に軍用ナイフを刺す。

防刃のコスチュームのため、深手にはならない。

肩に意識が向いたのをスレイドは見逃さずに、

上体を捻ってナイトウィングの膝から抜け出す。

 

互いに獲物を構え、ジリジリと機を伺う。

膠着状態になった。

 

 

「この街をゴッサムにし、

 俺が世界中の力ある若者を集め、正しく訓練する」

 

「あんたがそんなことをやっても上手くいくわけがない」

 

「今回は別だ」

 

そう言ってスレイドは自由の効く手でマスクを外す。

見飽きた顔のはずが、目を見開いた。

 

あまりにも爽やかで、澄んだ表情だったからだ。

 

「ここの市長の暗殺任務で、俺は性交霊に出くわした。

 俺は…………絶叫した。10時間。

 永遠にも思える高濃度性交力場の催淫作用が消えた時、

 目の前の色彩を事細かく認識でき、

 吸う空気の味をじっくり堪能したのだ」

 

デスストロークと言えども

性交霊(セックスゴースト)に会うのは初めてだったか。

だが、無理もないことだ。

 

デスストロークのような手合は、

大抵の場合において、ドゥームパトロールが担当する領域を無条件に見下す。

ディック視点ではそれこそが無知蒙昧の証拠でも、

彼らにはそれを自覚する客観性が無いのだ。

 

バットマンのように万物の未知を貪欲に取り入れるのが稀少なのだ。

 

「認めよう。これまでの俺は間違っていた。

 だが、今は違う。過ちも、為すべきことも、

 霊峰から見渡す景色のように見通せる」

 

その言葉が証明するように、

常のスレイドにある情欲の衝動の気配はない。

ただ、確固たる賢人の理性が見えた。

 

「この街、セックスゴーストがあれば、

 俺の悪竜は鎮まってくれる。

 このThe市、このThe・ゴッサムが希望だ。

 信じてくれ、ディック・グレイソン」

 

そう訴えられると、ディックの胸が痛む。

彼がこういった精神状態になるのは、

いったい何十年ぶりなのだろうか。

スレイドが似合わぬ全能感に満たされても、

責められないことなのだろう。

 

「すまない……スレイド。

 でも、それは……まやかしの理性だ」

 

性交霊の特性を通して正気になる。

悪竜に溜まった焔を吐き出させ、

騎士だけの自分になる。

 

それは、一見して有効のようにも見えるが、

直に当たり前のことのように気づく。

悪竜を外的要因で鎮めるのに、近道はないと。

 

「このやり方で、あんたの暴走する衝動を永遠に抑えられるとは思えない。

 それに、性交霊を一箇所に集めるのは危険が大きすぎる。

 僕はあんたにそういう意識があるのを嬉しく思うよ。

 だから一緒に別の方法を探そう。きっと見つかるから」

 

手を差し出すことはしても、

スレイドが裏切られた気分になっているのはわかる。

ヴィランとはいつも、例外なく迷信深く、傷つきやすい。

 

「忘れるな。あんたには元妻も、息子と娘も、親友もいるんだ」

 

「…………お前達ヒーローはいつもそうだ……!!!!」

 

清々しき騎士然としていたスレイドに、

地獄の奥底、暗黒よりも激しい爆発が発生する。

いつものスレイドが戻ろうとしている。

 

「愛する者がいれば、家族がいれば、親友がいれば救われると!!!」

 

世界一の傭兵たる実力を持ち、

磨き上げられた合理性と戦略眼、家族への深い愛情。

それら全てを無自覚なままにどうしようもなく醜悪にする悪竜が。

 

「だが、妻も、子供も、戦友も、誰も俺を救いはしなかった!!!」

 

咆哮をあげ、スレイド・ウィルソンが突進をする。

カウンターにソバットを当てる。

靴の裏から鼻骨が折れた感触がした。

 

鼻血を出してスレイドがよろめくのを

ディックは見逃さずに仕掛けていく。

スレイド・ウィルソンが世界最高の傭兵の名声を得て、

装備を整えればスーパーマンとも斬り結べるのは、

自己治癒能力があるからではなく、痛みを忘れていないからだ。

 

スーパーパワーの付与はさながら新たな感覚を身につけるが如し。

中でも、傭兵にとってうってつけに見える超人的再生は、

唯一人の例外を除き、無能力時代に修めた技を致命的に錆びつかせる。

 

「どうだ、スレイド。

 鼻が折れ、血が吹き出る不快感と苦痛。

 性交霊が消していた、あんたの情動だ」

 

スティックで頬を殴ると

脇腹に弾丸が当たる。

押し通して右から、左から

遠心力で大きく∞の軌道で殴打を続ける。

 

白銀の刃が腹を横一文字に裂く。

ナイトウィングが壁を蹴ってスレイドに変則的な角度の肘打ちをする。

相手の攻撃を受け、その上で三次元的な攻撃を続けていく。

 

スーパーマンが空を飛べるとしても、

真の三次元戦闘はサーカスの分野だ。

 

傷は負うが、今の敵が相手なら、

ついて行くことができる。

 

「性交霊で悪竜を沈めたら、

 直にあんたは理性に基づき、この感覚を排除していた。

 わかるだろう、これじゃ駄目なんだ」

 

「黙れ!!」

 

額に青筋を浮かべたデスストロークが

武器を捨ててディックを殴り飛ばす。

歯が折れ、血と一緒に砂と埃の多い建設現場に転がる。

 

肩で息をしたスレイドが、

大きく深呼吸をして懐からカードを取り出す。

 

「いっそ、俺の息子になれ、ディック・グレイソン」

 

斜め下に視線をやりながら、

スレイド・ウィルソンは言った。

 

「そうすれば全てが手に入る。

 富も、名誉も、女も」

 

投げられたカードには、

養子縁組の契約についてが記載されていた。

デスストロークなら、戸籍偽造も容易いだろうが、

正規の手段に訴えかけていた。

 

ディックが決して受け入れないとわかっているように見えた。

 

「できない。僕には家族が多すぎる」

 

カードを投げ返すも、スレイドは見ることなく

手首のスナップで斬り落とした。

 

「なあ、スレイド。よく考えてくれ。

 もしも悪竜がいたとしても、あんたは騎士を夢見た悪竜なんだよ。

 あんたの全てが悪竜になることなんて無いんだ」

 

無言になったデスストロークに

二カッと笑ってディックは告げた。

 

「友人として協力するから、それでいいでしょ。

 ほら、ディックとストロークって本来は相性100%なんだからさ」

 

「お前が何故、詐欺師かわかるか?」

 

静かに、スレイドが語る。

階下では未だに性交霊が暴れているだろうが、

こちらまでは届かない。

 

「ロビンの存在が、全世界の子供に希望を与えた。

 力のない自分でも、まだ子供でも、世界のために戦えるとな」

 

耳鳴りの一種か、微かに赤ん坊の声が聴こえた。

それが意味するものに、全身が総毛立った。

 

「だが違う。ディック・グレイソンは子供だった時などない。

 奴はタロンになることを切望され、

 物心ついた時には舞台の上で演じていた。

 ”ディック・グレイソンが子供になったのは、

 ブルース・ウェインに引き取られてからだ”」

 

下から、上へ赤ん坊の泣き声が昇っていく。

静かに、しかし、着実に。

 

「ティーン・タイタンズを結成したのも、弟を持ったのも、

 全てはディック・グレイソンがつけた仮面だ。

 ウェインに引き取られ、子供を演じ、

 仲間達相手には、リーダーを演じ、

 後ろに続くロビンには、兄を演じた。

 世界が、ディック・グレイソンの演目に魅了され、

 次から次へと騙されたのだ」

 

初めに見えたのは、潜水艦の潜望鏡。

しかし、それは人間の形をした男の頭頂部から生えている。

彼の腹は膨らんでおり、妊娠しているのがわかった。

不可解なのは生まれる前から、腹の奥より泣き声を発している、

生まれていない赤ん坊の存在。

 

「お前は未だに、両親が死んだ夜、浴びるスポットライトで演じているのだ。

 本来のディック・グレイソンは仮面の下で風化し、崩れ落ちたのに」

 

セックスゴーストの気が高まるところに降臨するのが性交悪魔(セックスディモン)。

性氣が極限まで上昇したことで腹部にThe・ベイビーを妊娠。

出産、誕生をすることで世界から子作りという概念が消え、

純粋なる性交という行為のみが固定される。

 

「ここから俺は第二の人生を始める、

 いや、第三の人生か。

 俺の子も、あらゆる子も二度と戦わなくて済む世界にするため、

 まずは出生をコントロールし、導く子供と不要な子供を選別する」

 

「あんた……コントロールすると言っても

 出生を再開させる術はあるのか?」

 

「後で見つけよう。

 今は貴様を殺し、次にお尻警察とかいう小僧を殺す」

 

「ふざけてる!!! あんたは狂っているぞ!!」

 

「性交霊に触れればまた正気になる」

 

ナイトウィングがプラズマを放出して

悪魔に襲いかかろうとする。

そこをスレイドが覆いかぶさり、羽交い締めにしている。

 

赤ん坊の鳴き声が加速的に強まり、

悪魔の腹部が膨らんでいく。

必死にスレイドから逃れようとするが、

強まった淫氣がディックの脳髄を沸騰させ、

思考を熱くし、鼻から夥しい血が放出される。

 

「おおおおっ!!」

 

混乱する思考と、視界。

邪魔するスレイドがディックの背中に

ひたすら硬いものを突き刺そうとしてくる。

 

「お前が悪いんだぞ、ディック。

 お前が悪い。なにもかも」

 

「黙れ!! このクソ野郎!!!」

 

「フッ、それが本性、

 本音というわけ「お尻がスキだらけだぜ?」ぬごぉっ!」

 

 

全力でディックを羽交い締めにしていたスレイドの体が、不意に弛緩した。

腕を抜け出て振り返ると、デスストロークが臀部を押さえて蹲(うずくま)っている。

その背後には、バットを片手に持った「お尻警察」こと国木が立っていた。

 

「お尻警察! 助かったよ。……けれど、この状況は一体?」

 

「下の淑女から事情は聞いています。性交霊の発生源が判明しました。

 地下に『夢精王』が拉致され、

 巨乳写真を餌にトレッドミルで強制走行させられているようです」

「夢精王……。そうか、中学生男子の性欲か!!」

 

バットマンのデータベースには、当然その記録があった。

未来のヴィジランテ有力候補。

親の歪んだ性教育により

「勃起したら全力疾走して性欲を発散する」

という生活を送り続けた結果、

類まれなる身体能力に目覚めた少年だ。

 

その異常発達した性欲のエネルギーを一箇所に留めれば、

なるほど、これほどの性交霊も発生しようというものだった。

 

「後は、あいつをどうにかするだけだな」

 

そうしている間にも、

悪魔の股の間からついに「The・ベイビー」が産まれ落ちようとしていた。

これまでにない淫氣(いんき)がナイトウィングの全身を打ち据える。

 

堪らず鼻血どころか吐血までした。

極まったエクスタシーとナイトウィングの理性が衝突し、

その相克が人体に多大な負荷を与えているのだ。

蝙蝠の訓練を積んだ彼をもってしても、

眼前のセックスを前に正気を保つのが限界だった。

 

「無事ですか」

 

平常を保っている国木が、心配そうに声をかけた。

 

「お前、なんで平気なの!?」

 

「愛が性欲を凌駕し、愛こそが性欲になっているからです」

 

「……何それ」

 

「俺にとっては、これくらいの淫らは日常ですから。

 バットはとっくに二本になっていますがね」

 

「よくそれで正気を保っていられるな……」

 

時間がない。

下には尻を押さえたデスストローク。

目の前には、子供という概念を抹消せんと迫るベイビー。

 

「国木、あれを頼む。赤ん坊が産声を上げる前に、股の中へ戻すんだ」

 

「合点承知」

 

「させん……!」

 

デスストロークが立ち上がり、

今度は背後からディックを羽交い締めにする。

ディックは窓へグラップネルガンを射出し、

外の街路樹にフックを突き刺した。

 

「何をする!」

 

「一緒に落ちてやるよ」

 

酷薄な笑みを浮かべ、ディックは躊躇なく窓から飛び出した。

超大型ショッピングモール「The・ゴッサム」の最上階は10階。

ゴリラや深海人、果ては神までが来場できるよう、

一階あたりの天井高は5メートルもある。

 

地上50メートルからの自由落下。

デスストロークがグラップネルガンを取り出そうとするのを、

ディックは払い落とした。

 

室内では、潜望鏡を生やした雄悪魔による出産、

禍々しき誕生の産声が響いている。

そのイカれた空間から開けた空へと躍り出て、

二人は重力に身を任せた。

 

「狂ったか!?」

 

「僕のホームへ招待したのさ」

 

頭から下へと落ちていく。

全身に強烈なGがかかり、

そのスリルが先ほどまでの強制的な性欲とは異なる、

爽やかな快感を運んでくる。

 

「僕は、落ちていく人のためのセーフティネットでありたいと思っている。

 底に叩きつけられて動けない辛さは知っているから。でも僕はね――」

 

ディック・グレイソンの顔を間近で見つめるスレイドの表情に、

ありうべからざる事態を目にした者特有の、

言葉なき恐怖が浮かんだ。

 

「落ちるのが、大好きなんだ」

 

焦燥に駆られたデスストロークが指で目を抉ろうとするのを、

ディックは首の動作だけで回避し、

逆に頭と肩で相手の腕を挟み込んで距離を保つ。

 

地上に激突すればディックは死ぬ。

だが、スレイドなら再生に少し時間がかかる程度で済むはずだ。

それなのに、怯えているのはスレイドの方だった。

 

壁に軍用ナイフを突き刺して制動をかけようとするのを、

ディックは爪先で蹴り上げる。

半狂乱の頭突きを額で受け止め、

両腕で相手をホールドしながら、

ディックは高らかに歓声を上げた。

 

ヒーローとヴィラン。時には殺し合い、時には共闘した間柄。

敵でありながら、その息子や娘の面倒まで見てきた奇妙な宿縁。

その二人が抱き合って墜落している現状が、たまらなく可笑しかった。

 

「イヤッッホォォォオオォオウ!!

 抱きしめてやるぞ、スレイド・ウィルソン!!

 こんなチャンスは、滅多にないんだぁ!」

 

「やめ、やめろ!!  離せ!!  もうすぐで俺の大願が……!」

 

「イィィヤッホォォォオオオオオオウウウウウ!!!

 イヤッホウ! イヤッホウ! イヤッホウ!!」

 

3階の高さまで落ちても、

往生際の悪いスレイドはもがき続けた。

腹部に忍ばせていたプラスチック爆弾を起爆させ、

その爆風を利用して上階のフロアへ転がり込もうとする。

 

「逃がさないぞ」

 

ディックは膝蹴りでスレイドの横隔膜を打ち、

奥歯に仕込んだ予備の起爆スイッチを押させない。

 

ついに手の打ちようがなくなったスレイドの顔に、

恐怖を通り越した諦念が浮かぶ。

目を瞑り、落下という運命を受け入れた世界最強の傭兵。

 

そんな彼から、ディックはそっと身を離し、

腰に固定していたグラップネルガンのワイヤーを射出した。

 

 

「え?」

 

呆気にとられるスレイドへ、にこやかに手を振って、

ディックは優雅にモール内へと帰還していく。

ひとり、デスストロークは寂しく落ちていく。

 

「貴様あああああああああ!!!」

 

背後から響く憤怒の咆哮を余所に、

ナイトウィングはスムーズに着地した。

楽しい落下ショーが終わり、ディックは大きく伸びをして、

吹き抜けの遙か上を見上げた。

 

「おつかれーーーー!!」

 

#####

 

ブルードヘイヴンの自室。

ディック・グレイソンは熟睡していたが、スマホの着信音と愛犬に顔を舐められたことで目を覚ました。

 

「はいはい、今起きるよ」

 

片手で愛犬ハーレイを撫でながら、着信に応じる。

 

『お寝坊さんね』

 

「勘弁してくれよ、本当にヘトヘトなんだ」

 

電話を繋いだまま、洗面台の前に立つ。

 

『で、勧誘活動はどうだったの?』

 

「アハハ、一応はやってみたけど……無理強いはしないよ。あそこには、あそこのヒーローが必要だ」

 

別れ際、国木にはタイタンズ・アカデミーの場所を伝えておいた。それでいい。

きっと彼はデスストロークにはならないだろう。

もしそうなったら、また北海道へ観光に行けばいいだけだ。

 

『ウォリーにでも任せればよかったんじゃない? あなた、いっつも肝心なところで一歩届かないんだから』

 

「言うね。そっちだって彼氏をとっかえ引っ変えしてた時期があったじゃないか」

 

『あなたに言われたくないわよ――』

 

バーバラ・ゴードンと話す時間は好きだ。

虚勢を張る必要がなく、兄でも息子でもリーダーでもない「自分」でいられる。

この時間があるからこそ、

デスストロークの言葉も笑い飛ばすことができる。

 

『ありがとうね』

 

改まった口調で言われ、ディックは鏡の前で首を傾げた。

鏡面の向こうには、自分と同じ顔で、

同じ動きをする「誰か」が見える。

 

『いつもあなたって、誰かが望む自分であろうとしてくれるでしょう?

 本当は、私の弟分なんかよりもずっと先の存在に進んでいるはずなのに』

 

そう言われ、ディックは反射的に生唾を飲み込んだ。

鏡の向こうの自分も、僅かに遅れてそうした気がした。

歯ブラシを手に取り、歯磨き粉を乗せるべきか迷う。

 

「そんなことないよ」

 

『実はキャスにも勝てたんじゃない?

 

でもあなた、あの子のことを気にかけていたものね』

強く否定したかった。

 

キャサンドラ・ケインとの模擬戦は、

 

今話しているバーバラが「目を閉じて戦え」

と一言助言しただけで完敗だったのだ。

自分はカサンドラには絶対に勝てない。

デスストロークにだって、純粋な実力では勝てないのだから。

 

「そういえばさ、今日どこかで会わないか? ちょっとリフレッシュしたいんだ」

 

『デートしたいなら、そう言いなさいよ』

 

「……デートしたいでぇす」

 

『よろしい』

 

心のどこかで、この気恥ずかしくも幸福な会話を遠くから俯瞰している自分を感じながら、ディックは電話を切り、身支度を整える。歯を磨き、髭を剃り、顔を洗う。

そして、鏡の中の自分をじっと見つめた。

そこに悪竜は潜んでいるのか。この顔の皮を剥げば見えるのか。

 

国木に悪竜は何処か尋ねられ、自分は何と答えたのだったか。どうしても思い出せない。

試しに、顔と首の境界線に手をやってみた。

そこに「切れ目」があるような気がした。そこを指で摘まめそうな気がした。

 

性交霊はもういない。だから、一切の高揚感はない。

ただ、スレイド・ウィルソンに告げられた言葉が脳内でリピートする。

 

静かに、顔の付け根から手を上方へ動かすと――

 

「Wow」

 

 

 

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