人類と魔族の共存する理想都市 作:ファストナハト
勇者ヒンメルの
死から31年後
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城塞都市ヴァイゼにて黄金卿のマハト、そして無名の大魔族ソリテールとの激戦を制したフリーレン、フェルン、シュタルクの3人は、帝国領を目指して北に向けて歩いていた。
「フリーレン様。あそこに農村がありますね、魔物などの危険はないのでしょうか?」
「…………」
「……フリーレン様?」
フェルンが森の遠くに見える村を見つけ、純粋な疑問を投げかけるが、フリーレンは一瞥もせず、何か考え込むように顎に手をやったまま歩く。その様子に、シュタルクも後ろから声をかける。
「おい、どうしたんだフリーレン。さっきからずっと黙ったままだぞ。具合が悪いって言うなら、今日は早めに野宿の──」
「2人とも、この先の帝国領の前に何があるか知ってる?」
顔を上げたフリーレンの問いに、フェルンとシュタルクは同時に顔を見合わせ、黙って首を横に振る。
フリーレンは、だよね、と呟きながら歩く。
「この先には、中央諸国と帝国の間に挟まれた緩衝地帯がある。名前は──レーア独立領」
「独立領、ですか?」
「うん。どこの国にも属していない、属さない領地、って言った方が正しいかな。国と変わらないよ」
フリーレンは先行する2人の後ろを歩きながら続ける。
「そのさらに北。独立領の中央に、首都である宴都ビューネがある」
「宴都……?宴の都ってことか?」
シュタルクが、思わず声を上げる。
フリーレンは小さく頷いた。
「この大陸で最も栄えている都市だよ。人間も、エルフも、ドワーフも……沢山暮らしてる」
フェルンは想像するように目を伏せる。
市場の喧騒、光る建物、書物でしか知らない巨大都市の姿が頭の中に浮かんでいく。
シュタルクも少しだけ弾んだ声で言う。
「なるほどな。いやー、長かったなあ。竜の群れに何度も遭遇して頭を齧られて……ヴァイゼに続いて、まともな食事にありつけそうだ」
フェルンも言葉にはしなかったが、安堵したように息を吐いた。
栄えている都市、という言葉には、それだけで安全と秩序の匂いがある。しかも大陸で最も栄えているとなれば、どのような都市なのか少しだけ期待してしまう。
だが、フリーレンの表情は変わらなかった。
「……シュタルク」
「ん?」
名前を呼ばれて、シュタルクが振り返る。
「レーア独立領はね、魔族の国なんだよ」
「え……?」
空気が、止まった。
フェルンの口が開いたまま固まり、言葉にならない音が喉からこぼれ落ちる。風の音だけが、3人の間を通り抜けていった。
シュタルクも先程までの笑顔を凍らせたまま言葉を失っていたが、数秒経ってようやく意味を理解したのか口を開いた。
「ま、魔族の……国?」
「正確には、魔族が創った国、だよ」
フリーレンはそう言って、一瞬だけ視線を逸らした。森の向こう、低く垂れ込めた雲の切れ間を見上げる。その目は、地図でも、進路でもなく──遠い記憶を見ているようだった。
「……もっとも今の話は、人伝てに聞いただけだけどね」
「え?フリーレン様、行ったことは……」
「一応、あるよ」
淡々とした答えに、フェルンとシュタルクは同時に息を呑む。
フリーレンは歩きながら説明を続ける。足音は相変わらず軽いが、その声には僅かな重みが混じっていた。
「魔族はね、基本的に社会は作らない。産まれた瞬間から孤独だから子育てもしないし、家族の概念すらない。利害で集まることはあっても、人間みたいな社会は作らないんだ」
フェルンは思わず眉を顰める。
人間にとって当たり前のものを、魔族が持たないという事実は、何度聞いても気味が悪い。
「つまり、国なんて……」
「うん。本来は、作らないはずだった」
フリーレンは小さく頷いた。
「でも、作った魔族がいる。名前は、レーア」
その名を口にした瞬間、風が強く吹いた。
木々の葉が騒めき、森全体がひそひそと噂話を始めたような音を立てる。
「レーアは強いというより、変わった魔族だったよ。人間の町を観察して、制度を真似て……人間と、魔族を共存させようとしていた」
フェルンの肩が、僅かに跳ねる。
その言葉が、あまりにも現実離れして聞こえたからだ。魔族と人間──互いに殺し合い、騙し合うしかない相手同士が、同じ都市で、同じ屋根の下で暮らす──そんな光景は、物語の中でさえあり得ない。
シュタルクは思わずフリーレンを見やる。
「……冗談だろ?魔族が、人間と一緒に国を作って暮らすって……」
「冗談じゃないよ。レーアは、人間の都市を歩き回って、役所の仕組みや、商人のやり取りや、兵士の配置を観察したって言ってた。そういうものを、全部真似しようとした」
フェルンは無意識に、自分のローブの裾を握る。真似るという言葉が、酷く不気味に響いたからだ。人間の形をして、人間の言葉を使うだけの猛獣が、人間の社会を──模倣する。
「……黄金卿のマハトも、同じようなことを言っていましたね。人間を理解したい、と」
「そう。でもマハトの理解は、破壊の上に成り立つものだった。魔族が持たない感情を理解するために、あいつは虐殺を選んだ。人間を壊して、その反応を観察することで、理解に近づこうとしたんだ」
フェルンは、無意識に唇を噛む。
ヴァイゼの黄金に染まった建物と、動かなくなった人々の影。あの光景が、脳裏に蘇る。
「……でも、レーアは違った」
フリーレンは歩みを止め、振り返る。
フェルンとシュタルクの目を、順番に見る。
「レーアは人間と魔族を共存させるために、まず“殺すこと”を禁じた」
「……禁じた?」
シュタルクが、思わず聞き返す。
「うん。独立領の中では、魔族が人間を殺すことは基本的に許さなかった。逆も同じ。人間が魔族を殺すことも、禁止していた」
フェルンの目が見開かれる。
確かに、人間も法律で殺人などの犯罪を禁止することによって秩序を保っている。だがそれはあくまで人間の道理だ。魔族は言葉を話すだけで本質は人間を殺す魔物なのだから、魔族に“人間を殺すな”というのは、エサを前にした猛獣に“待て”を言うのと何ら変わらない。
「そんなことが……守られるんですか?」
「守られてたよ、前に私が見た限りではね」
フェルンの背中に冷たいものが這い上がる。
魔族にとって、人間は本能の対象だ。それを抑えろ、と命じられる世界。
脳裏に勝手に光景が浮かぶ。見えない鎖で縛られたように立ち尽くす魔族と、怯えながらも日常を送る人間──微笑みの仮面の下で、互いの喉元を測る視線。
一方のシュタルクは少し考え込むように腕を組み、首を傾げた。
「……でも、それならすげえことなんじゃないか?人間と魔族が、同じ都市で、同じルールで生きてるんだろ?……少なくとも、ずっと殺し合ってるよりは、マシなんじゃないのか」
言葉は不器用だったが、そこにはシュタルクなりの真剣さがあった。故郷を魔族に滅ぼされてもなお、殺し合いたいとは思えないのが彼の優しいところだ。
フリーレンはそんなフェルンとシュタルクの顔を見比べて、ただ淡々と告げた。
「正直に言えば──」
フリーレンの脳裏に、かつての魔王討伐の旅の光景が浮かぶ。逃げも隠れもせず都市を訪れた勇者一行の前に姿を現して、ヒンメルの判断に自らの命を差し出したあの小さな魔族。
「──私は、最初に会ったときにレーアを殺しておくべきだったと思ってる」
フェルンの息が、喉で止まる。
シュタルクも、思わず足を止めた。
フリーレンはただ、前を向いて歩き出す。
「魔族が人間の社会を真似て、法律を作って、秩序を保つ。それ自体は確かに凄いよ。でも、魔族は人間とは違って、“何故”殺してはいけないのかまでは理解出来ない。“都合が悪いから”殺さないだけだよ」
フェルンは、胸の奥が痛むのを感じた。
逆に何故そんなことを聞くのか──という、マハトの言葉と重なったからだ。
「レーアの国は上手く回っていた。少なくとも外から見た限りはね。人間も、魔族も、同じ市場で買い物をして、同じ道を歩いて、同じ酒場で酒を飲んでいたよ」
フリーレンの声は淡々としている。
だが、何処か重たいものが滲んでいた。
「でも──その“都合”が、変わったら?」
森の奥で、何かの鳥が羽ばたく音がした。
それがやけに大きく聞こえるほど、3人の間に沈黙が落ちる。
「殺すことの方が、都合が良くなったら?秩序を壊した方が、得になる状況になったら?そんなとき、魔族が何をすると思う?」
シュタルクは言葉を探すようにゆっくりと口を開き、小さく呟いた。
「……簡単に全部、ひっくり返す、か」
「うん」
フリーレンは短く頷いたまま、視線を前へ戻した。横顔は淡いままで、感情の起伏も読み取りにくい。だが、そこに残っている重みだけはフェルンにもシュタルクにも伝わっていた。
言葉にしてしまえば簡単だ。
魔族が都合で動く、というのは理解出来る。理解は出来るのに、胸の底が冷えるのは、“都合”という言葉があまりにも軽く万能だからだ。人間にとっての“罪悪感”や“躊躇い”が、そこには存在しない。ただ、便利かどうか。得かどうか。邪魔かどうかで即座に判断する。
シュタルクは唾を飲み込む音を立てた。
前方を睨むように見つめ、強く拳を握る。
「……だったら、避けた方がいいよな?そんなやべえ場所」
「避けられない」
「……やはり、迂回は出来ないのですね」
フェルンが思わず声を漏らす。
フリーレンは歩きながら、地図を開くでもなく当たり前の事実を並べるように言った。
「独立領はね、中央諸国と帝国領を繋ぐ道の真ん中にある。迂回しようにも、山沿いは道がない上に、竜の巣が点在していて危険すぎる。宴都ビューネは交通の要所でもあるんだよ。人も物も、全てがそこを通るように出来てる」
言葉は合理的だった。
それが余計に、逃げ道を消していく。
森を抜ける風が冷たくなり、雲がさらに垂れこめる。どこかから湿った土の匂いがする。
フェルンはローブの襟を握り直した。
冷えたのは身体だけではない。心の内側まで薄い氷が張っていくみたいだった。
しばらく歩くと、木々の切れ目の向こうに、煙が見えた。細く、白く、真っ直ぐにに伸びたそれは人の営みの証だ。
「さっきの村だな」
シュタルクが呟いた。
森の向こうに、小さな農村が姿を現す。畑は枯れ色で、干し草が積まれている。家々は素朴だが、壊れていない。煙突から煙が上がり、犬の鳴き声が遠くで聞こえた。
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結局、フリーレン一行はその村で路銀を惜しむことなく使って馬車を借り、宴都ビューネまで向かうことにした。
新しい国に入るのだから、現地に詳しい人物にガイドを頼むのは理に叶っている。加えて、それが人類ではない魔族の国なのだから、なおのこと自分たちでは把握しきれない情報があるかも知れない。
馬車が軋む音を立てながら動き出す。
木製の車輪が土の道を踏みしめ、乾いた音が一定のリズムで続く。森の影が幌の上をゆっくりと流れ、風が帆布を揺らした。
最初のうちは、ただの田舎道だった。
畑の名残がある土手、倒れかけた柵、刈り取られた後の麦畑。人の営みがあった痕跡がそこかしこに残っている。
フェルンは幌の隙間から外を覗き、シュタルクは何となく帆布を見上げ、フリーレンは黙って魔導書を読んでいた。
だが、進むにつれて景色は変わっていった。
家屋の屋根は崩れ、壁は黒く煤け、扉は叩き壊されたように歪んでいる。井戸は崩れ、縄は途中で千切れたまま、風に揺れていた。畑も踏み荒らされ、作物の代わりに、折れた槍や錆びた剣が転がっている場所もある。
そんな無人の村がいくつもあった。
馬車の中にはもう1人、同乗者がいた。
フリーレン一行が馬車に乗るよりも前から、幌の奥、荷物と毛布の間に、小さく丸まるようにして女性が横になっていた。
フードを深く被り、顔の大半は影に隠れているが、そこから見える髪は淡い蒼色だった。眠っているのか、目を閉じたまま、規則正しい呼吸だけが聞こえる。馬車が大きく揺れると、僅かに身じろぎするが、起きる様子はない。
フェルンは少しだけその姿を見て、何も言わなかった。旅の途中で馬車に同乗者がいることは別に珍しいことでも何でもない。
そして段々と日が傾いてきた頃、大きな川の橋を渡った馬車の外に、またしても崩れた村の光景が広がった。
フェルンは耐えきれず、御者に声をかけた。
「……すみません。どうして、この辺りはこんなに荒れているのですか?」
若い女の御者はフェルンの声に応えるように手綱を引く力を少し緩めると、馬車の揺れが僅かに穏やかになる。
その背中は小柄で、肩は華奢だ。旅人を運ぶには不釣り合いなほど細い体つきなのに、手綱を握る腕だけは不思議と安定している。
「この辺りが荒れてる理由?……ああ、お嬢さんたち、独立領は初めてみたいだね」
女は前を向いたまま言った。声は落ち着いていて、どこか事務的だった。
「この独立領では、3つの勢力が常に争ってる」
フェルンは思わず身を乗り出す。
「3つ、ですか?」
「ここは帝国と中央諸国の緩衝地帯だからね。独立領には、帝国の傀儡政権と中央諸国の傀儡政権が存在してるんだ。それから、どこにも属さない一般市民が集まって作った武装組織も」
御者の女は淡々と続ける。
「表向きは“独立領”って名前が付いてるけど、実際はどこも、この土地を自分のものにしたがってる。帝国は寒い地域ばかりだから、暖かい南に領土が欲しい。中央諸国はそんな帝国を北側に押し込めたい。それで、住んでいる人たちは──どっちの言いなりにもなりたくない」
馬車の横を、崩れた家屋が流れていく。
壁に刻まれた刃痕。焼け焦げた梁。地面に転がる、誰のものかも分からない兜。
「ま……その結果が、これさ。この国は基本どこにいってもこんな有様だよ」
フェルンは唇を結ぶ。シュタルクも帆布越しに外を見つめたままだったが、何かが降ってきたかのように不意に呟いた。
「……でも、ビューネは大陸で最も栄えてる都市なんだろ?戦争続きの国に、そんな余裕があるのか?」
シュタルクの問いは素朴だったが、核心を突いていた。馬車の外には、今も崩れた家々と踏み荒らされた畑が流れている。争いと疲弊の痕跡ばかりのこの土地で、何故1つの都市だけが“宴都” などと呼ばれ、繁栄していられるのか。
「……いい質問だね」
御者の女は小さく息を吐いた。
馬の歩調を保ったまま、前方の荒れた道を見据える。その横顔はどこか楽しげでもあり、同時に冷めてもいた。
「3つの勢力はね、ビューネには殆ど口を出せないんだよ」
「……出せない、ですか?」
フェルンが眉を顰める。
「それどころか立場としては逆だよ。ビューネは3つの勢力をコントロール出来る側にいる」
馬車の中の空気が僅かに張り詰めた。
フェルンは言葉を失い、シュタルクは思わず御者の背中を凝視する。
「どういう意味だよ、それ……」
「争っている組織の人間は心が荒むだろう?そして、上に立つ者ほど疲れて、逃げ場を探す。そんなときに必要になるものは……?」
御者の女は、肩越しに2人を見た。
少し考え込んだフェルンが、思いついた言葉をそのまま口にする。
「……休める場所、ですか?」
「正解、娯楽だよ」
馬車の遠く先に微かな光が見え始めていた。
まだ街の影と呼ぶには遠いが、夜の闇の中に、微かに色が滲んでいる。
「ビューネには酒場、劇場、賭場、祭り、音楽、夜の──おっと、キミたちにはまだ早いか。とにかく、戦場にはないものが全て揃えてある。そして、どこの勢力の人間でも同じ客として迎えられる。それは魔族も変わらない」
馬車の先では夜の闇の中に滲む都市の光が、少しずつ輪郭を持ち始めていた。黄や赤や青の点が、星のように瞬いている。
「帝国の将軍も、中央諸国の貴族も、武装組織の頭目も皆、ここに来る。辛い戦争を忘れて、酒を飲んで、音楽を聴いて、笑うためにね」
「まあ……逃げたくなる気持ちは分かるぜ。けど、そんなのただの遊び場じゃないのか?」
シュタルクが居心地が悪そうに御者の女に声を投げかける。
「ハハッ、そうだね。ただの遊び場だよ。でも……“ただの遊び場”がどれだけ強いか、考えたことはあるかい?」
御者の女は、前を向いたまま続ける。
「娯楽は人の弱いところに直接触れる。疲れた心、壊れかけた心……そこを、優しく撫でる。撫でられた側は、その感覚が手放せなくなる」
フェルンは無意識に自分の胸元を押さえた。
旅の途中で立ち寄った酒場や、祭りの夜、温かい食事と笑顔の記憶が、勝手に思い浮かぶ。それらがどれほど心を軽くしていたかを、今更ながら思い知らされる。
「それが、まず1つ目さ」
シュタルクは腕を組み、唸るように言う。
「……なんか、気持ち悪いな」
「まだあるよ」
御者の女は、何事もないように続けた。
「ビューネは元々あったこの土地の名産品──砂糖やワインの品質を上げたんだ。栽培方法も、精製方法も、保管も、流通も徹底的にね。結果、ビューネ産の砂糖は“白い宝石”って呼ばれるようになったし、ワインは一杯で金貨1枚と同じ値段になったよ」
「……たった一杯で金貨1枚と同じって、とんでもねえな……」
「ああ、とんでもないよ。だからさ」
御者の女は、少しだけ声を落とした。
「帝国も、中央諸国も、武装組織も、それどころか大陸中がビューネと取引してる。上質な砂糖が欲しい。美味いワインが欲しい。それを贈り物に使いたい。宴会に使いたい。権威を示したい──」
フェルンの胸に嫌な感覚が広がる。
戦争と贅沢と取引の繋がりが、あまりにも生々しい。その輝くような繁栄の下に、どれだけの数の死体が埋まっているのだろう。
フェルンが物心ついたときには、家など無くなっていた。人の声は消え、煙だけが空に残っていた。誰の手が自分を引いて逃げたのか、誰の腕が途中で離れたのか、フェルンはもう覚えていない。ただ、寒さと空腹と、夜の暗さだけが、身体の奥に染み付いたままだ。
「……まるで、戦争そのものを“燃料”にして、街が光ってるみたいですね」
フェルンの声は思ったよりも低く出た。自分でも驚くほど、硬い音だった。
御者の背中が僅かに揺れたが、振り返りはしなかった。
「私は、それはあまり綺麗だとは思えません」
フェルンは手を包むようにして強く握りしめ、視線を落とす。
馬車の中に、短い沈黙が落ち、木の車輪の音だけが一定のリズムで続いた。
「……フェルン」
シュタルクが、低く名前を呼ぶ。
「……俺も同感だ。戦争でボロボロになったやつらが、酒飲んで、笑って、何もかも忘れたいって気持ちは痛いほど分かる。でもその裏で、俺の故郷と同じようなことが繰り返されてるっていうのは、嫌な感じだな……」
御者の女は、しばらく黙っていた。
馬車の車輪の音だけが、夜道に規則正しく響き、馬の鼻息と帆布を叩く風の音が、その沈黙を埋めるように重なった。
沈黙を破ったのは、フリーレンだった。
「……魔族の作った国が、ここまで巧妙に立ち回ってたなんてね」
フリーレンの声は普段通り淡々としているのに、どこか冷えていた。
魔導書から視線を上げ、幌の隙間から滲む遠い光を見つめる。遠かった光は都市の形を持ち始めている。無数の塔の輪郭、果てしない城壁、夜空を切り裂くように上がる花火の残光。
「正直、してやられた気分だよ。魔族が人類を真似る能力の高さを甘く見てた。フェルン、シュタルク、この都市にいる間は気を抜かないようにね」
しかし、そんなフリーレン一行のやり取りを聞いていた御者の女は小さく笑った。
「ハハ、そんなに身構えなくても大丈夫だよ」
馬車はついに、都市の街の輪郭がはっきりと見える位置まで辿り着いた。
見上げるほどに巨大な正門と、煌めく光に縁取られた黒塗りの城壁は、フリーレン一行が今まで見て来た都市とは規模感も造りも別物だ。
そして、無数の灯りが星の瞬きを掻き消すほどに、空に向かって淡い光を滲ませていた。
「ここは宴の都市ビューネ。どんなしがらみからも解き放たれる、最高で永遠の楽園だよ」
御者の女はどこか誇らしげに言葉を重ね、手綱を軽く引いた。馬車が減速し、重々しい都市の正門の影が幌の上を覆う。
「──この都市のこと、キミたちも気に入ってくれると嬉しいな」
フリーレン一行を乗せた馬車は、底知れない光の中に飲み込まれていった。まるで、笑顔で口を開けた何かの中に運ばれていくように。
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ビューネに入るための審査は意外なほど呆気なく終わった。名前と都市を訪れた目的、そして荷物検査を終えると、制服に身を包んだ検問担当はあっさりと馬車を通してくれた。詮索するような視線もなく、まるで誰が入ってこようと構わない、とでも言うような態度だった。
馬車は少し行った都市内で止まり、舗装された地面に降り立ったフリーレン一行の前に、眩いほどの都市の景色が広がった。
夜だというのに、辺りは全く暗くない。
無数の光が、通りを、建物を、人の輪郭を、まるで昼間のように照らし出している。装飾の光が大通りの両脇を走り、あちこちで鮮やかな看板が瞬き、花火が夜空を染め上げている。音楽と笑い声が洪水のように流れてくる。
「……ここ……夢の中じゃないよな?」
シュタルクの口から、素直な感嘆が漏れる。
フェルンも言葉を失って、視線を巡らせるばかりだった。まるで、世界中の“賑やかさ”だけを集めて詰め込んだようだ。
御者の女も軽やかに地面へ降りると、徐に懐から3枚の紫色のチケットのような紙片を取り出し、フェルンの手に握らせた。
「……これは?」
「ホテルのチケットだよ。ビューネでは一番有名なところさ」
「えっ……困ります」
フェルンが慌ててチケットを返そうとすると、御者の女は手を振って制した。
「いいからいいから、気にせずに受け取ってくれよ。ビューネに来たばかりの旅客が宿を見つけるのは、少し骨が折れるだろうからね」
御者の女は馬車の方へと視線をやる。
幌の奥では、淡い蒼色の髪の女がまだ眠ったまま毛布に包まれている。
「さて、それじゃあここでお別れだよ。これからあの人を事前に指定されていた場所まで送り届けなくちゃならないからね」
フリーレンが一瞬だけ、その淡い蒼髪の女に目を向ける。魔力量は大したことはない。だが、何か引っかかるような違和感が残る。
「……随分、気前がいいね」
少し棘の籠ったフリーレンの言葉にも、御者の女は肩を竦めて笑って見せた。
「フフ、旅客に都市を気に入って貰うのも、仕事のうちだからね。じゃあ、宴を楽しんで」
そう言い残すと御者の女は馬車に飛び乗り、手綱を軽く振る。馬が嘶き、車輪が再び軋む音を立てる。幌の中で淡い蒼髪の女が僅かに身じろぎしたが、目を覚ますことはなかった。
馬車は人波の向こうへと溶けていき、光の洪水の中で、その姿はすぐに見えなくなった。
残されたフリーレン一行は、ただ立ち尽くしていた。
目の前に広がるのは、賑やかな飲食店街のようだった。大通りの両脇には、ジャンルもばらばらな店が軒を連ね、色とりどりの看板が夜空に向かって競うように輝いている。路地には屋台がひしめき合い、鉄板の上で肉が焼ける音、鍋の中でスープが煮立つ音、甘い菓子を揚げる油の弾ける音が、絶え間なく響いていた。
そんな中、フリーレンは1歩だけ前へ出た。呆然としているフェルンとシュタルクを庇うようにして、さりげなく立つ。
「(前来たときと全然街並みが違う……けど)」
通りの人々の中に、やはり混じっている。
人間と同じ服で、人間の言葉で笑い、人間の料理を片手に歩いている──魔族。人間の店で注文している者もいれば、屋台の近くの椅子に腰掛けて焼き串を頬張っている魔族もいる。
そんな光景を誰も気に留めていない。
誰も、疑っていない。
フリーレンの視線だけが静かに滑り、周囲に魔族が何匹いるか数える。
「……魔族が混じってる」
低い声だった。
その一言で、フェルンとシュタルクの背筋が同時に強張った。笑っている客の輪の中に、屋台の前で銀貨を数える手元の向こうに、酒場の入口で談笑している人々の中に、魔族が魔力はおろか角さえ隠さずに風景に溶け込んでいる。
「……まさか、あんなに堂々としているなんて」
フェルンは思わず低い声を漏らす。
「……伊達に魔族が創った国じゃないわけか」
シュタルクも周囲を警戒するように視線を走らせると、斧の柄に無意識に指が触れる。
そのときだった。
賑わいの渦の中で、不意に悲鳴が上がる。
音楽と笑い声の波が途切れ、屋台の前にいた人々が振り返り、誰かが何かを落とした乾いた音が石畳に転がった。人の流れが、見えない障害物を避けるように左右へ割れていく。
「行くよ」
フリーレンが短く言い、歩き出す。
フェルンは手元に杖を出現させ、シュタルクは斧の柄に指をかけたままついていく。
騒ぎの中心にいたのは、白いコートを羽織った女だった。
長い金髪は夜の光を受けて淡く煌めき、スラリとした姿は上流の貴人めいた気配すらある。だが、頭の両脇には、隠す気もない角が生えていた。誰の目にもはっきりと分かる、魔族だ。
そして、その白いコートの魔族の前で、人間の男が宙に浮いていた。
男の顔は赤黒く腫れ、唾と涙で濡れている。喉からは掠れた音が漏れ、足が空を蹴り、両手は首元の何かを引き剥がそうと必死に掻いているが、その指先は空を掴むだけだ。
白いコートの魔族の唇が動く。
静かでよく通る声色だったが、言葉の芯はぞっとするほど鋭いものだった。
「ほら、乱れた口を利く舌は、喉の奥にしまっておきなさい。私に言葉を投げるのは簡単。唾を吐くのも簡単。だけど、何が返ってくるかを想像する頭がないなら──」
男の身体がびくん、と跳ねた。
見えない力が一段と強まったのか、男の目が見開かれたかと思うと、白目が覗き、空を掻いていた手が力なく垂れ下がる。
次の瞬間、男の身体は糸の切れた操り人形のように力なく地面に落ちる。鈍い音と共に、男は地面に倒れ伏した。
白いコートの魔族は無造作に歩み寄ると、つま先で軽く──まるで道端のゴミでも転がすように男の身体を蹴り、仰向けにした。
石畳の上に、男の顔が向く。
固く閉じた目、泡を吹いて開いた口。そして白い喉元が、街の光に照らされて露わになる。
「──その首から、宴の終わりを告げさせてあげる」
フリーレンは、の喉元に向けられた白いコートの魔族の視線の冷たさを見て、目を細めた。
殺すことを何とも思っていない目だ。
道端の虫を踏み潰すのと同じくらいに、人間の命の終わりを扱おうとする冷たい眼差しだった。周囲の人間たちの中には顔を背ける者もいるようだが、かと言って逃げ惑うほどの混乱には至っていない。
「……フリーレン様」
フェルンの声は、息を呑む音の延長だった。
既に杖は既に手の中にあり、魔力が静かに集まり始めている。即座に《
シュタルクも無言のまま、斧を構える。斧の刃先が街の灯りを反射して鈍く光り、指は力が入り過ぎて白くなっていた。
白いコートの魔族は倒れた男の顔を見下ろしたまま、少しだけ口角を上げた。その笑みは慈悲ではなく、退屈が解消されたという愉悦に過ぎないようだった。
──もう尻尾を出したか。
フリーレンは杖を取り出し、先端を白いコートの魔族に向ける。狙いは一点。白いコートの魔族の胸骨の奥──心臓に最短で届く角度。
指先が冷たくなる感覚があった。
恐怖ではない。戦闘の前に訪れる、あの無駄のない感覚だ。魔力を巡らせ、視界に映るものを削ぎ落とし、必要な情報だけを拾い上げる。
魔力量が──多い。
目の前の白いコートの魔族は、今まで出会って来た大魔族に匹敵する魔力量を持っている。
にもかかわらず、白いコートの魔族はフリーレンに背を向けたままだった。
普通はあり得ない。
これほどの魔力を持つ大魔族が、至近距離で魔法使いに杖を向けられた気配に気づかないほど鈍いはずがない。特に魔族であれば、魔法使いの魔力の揺らぎなど嫌でも分かるはずだ。
なのに、振り返らない。
それはつまり、こちらを“脅威”として扱っていないということだ。あるいは、背中を見せたままでも、対処できるという確信があるのか。
フリーレンの視線が、倒れた男の方に向く。
喉元は不自然に赤く、締め上げられた跡がくっきりと浮かんでいる。呼吸も浅い。先程の時間が数秒長ければ、死んでいただろう。
フリーレンは杖の先を合わせたまま、視線だけで周囲を計った。
ここで撃てば──当たる。
だが、当たった瞬間に何が起きるかは別だ。
大魔族1匹を討つこと自体は可能だろう。問題はその“後”だ。ここはビューネ、魔族の創った国だ。街の規則はこちらの常識とはかけ離れたものだろう。何より、周囲に通行人が多すぎる。魔法の余波が一筋でも逸れれば、人質として盾にされれば、二次被害は避けられない。
何より、この場所の“空気”が異様だった。
人間の男が締め上げられ、倒れた。にもかかわらず、群衆は完全には散っていない。逃げる者はいるが、逃げるというより距離を取るだけ。屋台の店主は串を握り直し、酔客は顔を歪めて覗き込み、遠巻きにした輪の向こうからは小さく話す声すら聞こえてくる。まるで舞台の見世物を見ているみたいだ。
──見慣れている。
そんな風に見えた。
フリーレンは喉の奥に冷たいものが貼り付くのを感じた。街に魔族が混じっているとかというだけなら、まだ理解の範疇だ。グラナト伯爵領でも見たことがある。だが、魔族が人間を傷つける光景が“風景”として処理されているというのは、全く別の話だった。
杖を握る指先に、僅かに力が入る。
同時に、視界の中央で白いコートの魔族が、ゆっくりと振り返った。
長い金髪が光を受けて揺れ、大きな双角が通りに影を落とす。表情は水のように穏やかで、整っている。怒りも焦りもない。むしろ、微笑みの形だけを丁寧に浮かべている。
やはり最初からこちらに気づいていたのだ。
フリーレンが杖を向けた瞬間から、ずっと。
「あら?ふふ、この私に杖を向けるなんて。もしかして旅客かしら?」
声は透き通っていて、上品な響きだった。
だがフリーレンは答えない。答える必要がない。魔族は言葉を“武器”として使う。こちらが口を開けば、そこから情報を抜く。感情を揺さぶる。あるいは、罪悪感に触れてくる。
だから、フリーレンは黙ったまま杖先を1ミリも揺らさない。
白いコートの魔族もフリーレンの沈黙を咎めるでもなく、楽しげに目を細めた。まるで、礼儀知らずな子供を面白がる大人のように。
「その顔、知らないのね。ここがどういう街で、ここで何が許されて、何が許されないか」
言葉自体は柔らかいが、底にある冷たいものを隠し切れていない。
フリーレンは、フェルンの魔力が背後で更に張り詰めたのが分かった。シュタルクの足が半歩前へ出る音も。だが、フリーレンは動かない。動けば、相手も動く。ここは都市の中だ。戦いが始まれば、必ず誰かを巻き込む。
白いコートの魔族は、ゆっくりと指を立てた。細く白い指先が、夜の光を反射する。
──パチン。
指を鳴らした音は小さかった。けれど、合図として充分すぎるほど明確だった。
「それじゃあまずは、ここの流儀を身をもって味わって貰わないと」
周囲の空気が変わる。
先程まで酒と油と甘い菓子の匂いで満ちていた通りに、別種の気配が混ざる。複数の足音が一斉に揃い、遠巻きの人々の輪の外側から、人影が滑り込むように入ってくる。
現れたのは制服を着た人々だった。
同じ意匠の上着、同じ帽子、同じ靴音。
携えた武器を隠す気もなく、短杖や片手剣を携えた者たちが、無言で円を描くようにフリーレン一行を取り囲む。制服の人間たちは、訓練された動きで距離を詰め、輪を狭めてきた。
「フリーレン様……どう、しますか」
フェルンの声は小さかった。
問いというよりは確認だ。戦うなら戦う。退くなら退く。フェルンなりにフリーレンの判断に従う覚悟を固めているのだろう。
「これ……やるしかないのか」
シュタルクの声も同じだった。
背後の屋台、路地の入口、2階の窓。ここは戦場ではない。街の灯りに照らされた人間の顔がいくつも見えている。
フリーレンは杖先を下げないまま、思考を速く回した。
あの白いコートの魔族を討ったとして、次は都市そのものが敵に回るかも知れない。逃げる道は狭い。フェルンとシュタルクを守りながら、この密集した街中で包囲を抜けるのは難しい。しかも、相手が大魔族である以上、最初の一撃で仕留め損ねれば、逆にこちらが詰む。
──手詰まりだ。
フリーレンがそう結論を置きそうになった瞬間だった。
輪が、ほどけた。
制服の人間たちが一斉に散り、まるで物音に驚いた鳥の群れのように、左右へ、前へ、後ろへと流れた。彼らは近くの屋台へ、飲食店へ、暖簾の下へと入り込み、それぞれ店主や料理人の耳元へ身を寄せて何か短く囁き始めた。
次の瞬間、街の空気が反転した。
まず、鉄板が鳴った。
火が上がり、油が弾け、包丁がまな板を叩く音が一斉に響く。甘い香りと香辛料の刺激が、鼻腔を刺し、肉の焼ける匂い、煮込みの湯気、焦がした砂糖の甘さが一気に押し寄せてくる。
「……え?」
フェルンは戸惑いながら杖を下ろす。
シュタルクに至っては斧を下ろしきれないまま、視線だけを左右に走らせた。
「な、なんだ……これ……」
フリーレンも理解が追いつかなかった。
包囲が解けたわけではない。制服の人間たちは、店の中や屋台の影からこちらを見ている。
白いコートの魔族の方に視線を戻せば、そこにはいつの間にか曲線の美しい椅子が置かれていた。今まで何処にも無かったはずだ。なのに当然のように椅子が石畳の上に置かれ、白いコートの魔族は当然のようにそこに腰掛けている。
脚を組み、指先を軽く膝に置く姿は、まるで舞台の最前列で観劇する貴人のようだった。
「ねえ、一体何のつもり?」
フリーレンの声は刃のように鋭い。杖の先も白いコートの魔族から外していない。
しかし、白いコートの魔族は椅子に腰掛けたまま、微笑みを崩さない。こちらの警戒と殺意を無害なものとして扱う態度。大魔族が持つ、あの不愉快な余裕。
「さっきも言ったでしょう。ビューネに来たばかりの可愛い旅客に、ここの流儀を身を持って味わって貰うだけよ。葬送のフリーレン……本当に魔族嫌いなのね。けれど、ここは宴の都ビューネ。そんな考えは、そこらの石ほどの価値もないわ」
その言葉選びが気に入らなかった。
殺人未遂が目の前で起きた。人間の男が締め上げられ、石畳に落ちた。都合が悪くなければ簡単に命を刈る──魔族の本性そのものだ。
しかし、そんなフリーレンの内心を見越したように、白いコートの魔族は言葉を紡ぐ。
「あら、怖い顔。無愛想だと良い男が寄りつかないわよ?さ、そんなしがらみは忘れて、一緒に宴としましょう?」
白いコートの魔族は椅子に腰掛けたまま頬杖をつき、もう片方の指を再び鳴らした。
すると、屋台の1つから、皿を抱えた店主らしき人間が早足でこちらへ向かってくる。別の屋台からも、別の店からも、木皿、紙包み、湯気の立つ椀、串焼きなどを手にした者たちが、白いコートの魔族の合図を待っていたかのように一斉に集まり始めた。
「えっ?ちょ、ちょっと待ってください」
フェルンが反射的に1歩引く。
だが引いた先にも、別の店主がいる。両手いっぱいに、香りの強い何かを抱えて。
「お嬢さん!これ、ビューネ名物の“トリックスターチュロス”!揚げたてだよ!」
「そっちより先にこれ!“七幕目のマドレーヌ”!噛むたびに味が変わるんだ!」
「“星降り港のブイヤベース”だ!熱いうちに食いな!舌が踊るよ!」
皿が押し出され、紙包みが押し付けられ、椀が差し出される。湯気が顔に当たり、甘い匂いと脂の匂いと香辛料が混ざり合って、鼻腔の奥がくらくらする。通りの光も相まって、料理が輝いて見えた。
「お、おい!これ以上は持てねえって……!?」
シュタルクが両腕を広げて困惑する。
斧の刃が誰かに当たりそうになり、慌てて背中に引っ込めると、その代わりに串焼きが腕に引っかけられ、木皿が胸元に押し付けられる。
「お兄さん!こっちこっち!“竜鱗ソルトチップス”!噛みごた抜群だよ!」
「“夢路の焼きリンゴの肉串焼き”!ほら、この香り嗅いでみな!目が覚めるぜ!」
「“朱月のシロップウォーター”!飲んだらお腹が燃え上がる!でも気持ちいい!」
フェルンは身を固くし、視線を走らせた。
人間は当然として、中には魔族も混ざっているが、誰も殺意や敵意は向けて来ない。押し付けてくる手が多少強引、というだけで。
屋台の人々の波に押され、揉まれたフェルンがやっとのことで口を開く。
「……あの、待ってください。私たち、そんなにお金持ってません。これだけ頂くのは——」
フェルンが言い終える前に、視界の端で白いコートの魔族が小さく笑った。椅子に腰掛けたまま頬杖を解くと、楽しげに息を吐く。
「……お金?」
白いコートの魔族は、ゆったりとした声音で繰り返した。お金という言葉そのものが、酷く場違いに聞こえるほどに。
「ここは宴の都、ビューネ。些細な食べる眠る遊ぶに金貨を数えるような場所じゃないわ」
「……!?そんなの……信じられません」
フェルンの声は、呟きに近かった。
拒絶というより、理解が追いついていない。これまでの旅路で路銀に困ったことは一度や二度ではない。どれだけおやつ有りと抜きの日の勘定をしてきたことか。
「お、おい……いや、待て待て」
シュタルクが、腕いっぱいの串と皿に埋もれながら口を挟む。先程まで斧を握っていた指が、いつの間にか油で滑っている。
「そんなわけあるか……?じゃあ、どうやって店が回ってんだよ……何をするにも金は要るだろ、普通?」
腹の探り合いではない、純粋な疑問。
それをぶつけられても、白いコートの魔族は軽く溜息を吐くだけだった。唇に浮かぶ微笑みは崩れず、瞳は淡い光を湛えている。
「あなたたちは本当に外の国の人間なのね」
フリーレンは黙っていた。
杖は構えたままだ。だが、先端が僅かに下がっている。さっきのように一点を射抜く角度ではない。状況を測り直している角度だ。
白いコートの魔族は、その杖先を一瞥してから、唐突に話題を変えた。
「ねえ、フリーレン。あなた、好きなことは?趣味は何かしら」
「…………魔導書集め」
渋々、という音がつくような声だった。
別に魔族の問いに答える必要はない、と分かっているのに答えたのは、相手の意図を探るための釣り糸を垂らすためだ。
白いコートの魔族は僅かに口角を上げる。
「へえ、魔導書集め。素敵ね」
隠す気がないほど上っ面だけの褒め言葉に、フリーレンの頭の中で淡い蒼色の髪をした
「──じゃあ、あなたのそれはお金を貰わないと出来ないことなの?」
不意打ちのような問いだった。
白いコートの魔族は舞台の上で客席に語りかけるように、相変わらず声の通りがいい。
フリーレンは、視線を通りの端へ滑らせる。
屋台の鉄板の上で肉が踊り、鍋の湯気が夜の光に白くにじみ、砂糖菓子の匂いが甘くまとわりつく。店主たちは忙しなく動いているのに、その表情はどこか楽しげだった。疲れ切った顔でも、義務に追われる顔でもない。
「魔導書は好きだから集めるんでしょう?だったら、好きなことに“対価”が必要なの?誰かから支払われないと、手が動かないの?」
「…………」
フリーレンは、答えなかった。
答える必要がない──というより、答えが出ない問いだった。魔導書は好きだから集める。好きだから読む。好きだから、ときに
白いコートの魔族はその沈黙を“刺さった”と、見なしたのかさらに言葉を紡ぐ。
「ここも同じよ。見てごらんなさい」
フリーレンの視界の端で鉄板が鳴り、油が弾け、鍋の蓋が開いて蒸気が噴き出す。
忙しなく手を動かす料理人の腕、皿を並べる手、焼き目を確認する目。笑いながら怒鳴り、怒鳴りながら笑う声。怒られているのに口元が緩んでいる店員。無茶して客に派手な盛り付けを誇示する料理人。
──皆、楽しんでいる。
フリーレンは、喉の奥に張り付いていた硬い氷が、僅かに溶けるのを感じた。
先程までのフリーレンの頭の中では、ここは“魔族の国”だった。だから全てが罠に見えた。けれど、この通りの人々は、魔族も含めて──少なくともこの瞬間だけは、目の前の皿をどう美味くするかにしか意識が向いていない。
フリーレンは杖を握る指の力を少しだけ抜いた。完全に構えを解くまでには至らないが、“即座に魔法を撃つ角度”ではなくなった。
フェルンもそれを察したのだろう、肩の力が落ち、呼吸が少し深くなる。シュタルクも腕に山ほど抱えさせられた食べ物を整理し始める。
視界の隅で、鉄板の前に立つ若い料理人の姿が目に入った。忙しなく手を動かしており、どこか落ち着きがない。油の跳ねる音に紛れて、焦った息が混じる。
その料理人の横──屋台の狭い調理台の端に、少女がいた。
見た目は10代の半ばほど。肩口で揺れる淡い髪に華奢な輪郭、丸みの残る頬。だが、その額からは小さな角が覗いていて、瞳には人間にはない光が宿っている。魔族だ。
少女は客の列に紛れているわけでも、見物人の輪の外から覗いているわけでもない。最初からそこに“居る”のが当たり前だという顔で、料理人の手元をじっと見つめていた。
「……火、強すぎる。焦げるよ」
短い言葉。けれど命令でも嘲りでもなく、ただの指摘だった。
指摘された料理人が慌てて魔法の火力を落とそうとした瞬間、少女が指を軽く曲げると、火が従順に縮む。燃え盛る勢いが収まり、細い舌のような炎へと姿を変えた。魔力の無駄がない。必要な位置に必要な分だけ張り付くように火が燃えている。
料理人は目を丸くして、唾を飲んだ。
「……す、すげえ……それ、どうやって……」
「火の魔法は自分が熱くなっちゃダメ……押さえ込むみたいに扱うんだよ。こんな風に」
少女は言いながら、指先で円を描く。
炎がその円に沿って整い、熱の輪郭が目に見えてに揃っていく。鉄板の油が跳ねる音が減り、香りだけが強くなる。
「……な、なるほどな……よし!」
料理人は、教えられた通りに手順を変えると、火の魔法の扱いが上手くいったのか、周囲で見ていた客たちが小さく声を漏らし、次の瞬間には笑い声が混じる。屋台の灯りの下で、料理人が思わず照れたように歯を見せた。
フリーレンは、その光景を黙って見ていた。
魔族がここまで大人しくしている理屈が分からない以上、潜在的な危険が消えたわけではない。今いる場所が魔族の国であることも変わらない。だが、ここは戦場ではなく都市なのだと身体が納得し始める。
そして、遂にフリーレンは杖を消した。
フェルンもそれを感じ取って、杖を消して息を吐く。喉の奥に溜めていたものを、ようやく外に出すような呼吸だった。
一方で、シュタルクは抱えた木皿と紙包みと串の山を見下ろし、心底困った顔をしたまま、そっとフリーレンの方を見た。
「……なあ、フリーレン。これ、食っていいのか?」
シュタルクは両腕いっぱいの木皿と紙包みと串を持ったまま、まるで大量の爆弾を抱えてしまったような顔をしていた。
「……毒見の魔法を使ってみる」
淡々と言って、フリーレンは手のひらを軽くシュタルクの抱えている料理に翳す。
《料理が身体に毒か見分ける魔法》。
元々は腐った食材を使った料理や腐らせた料理がイケるかどうか見分けるための民間魔法だが、いつからか提供された料理の毒見のためにも使用されるようになった魔法だ。
フリーレンは皿と紙包みと椀の1つ1つに、薄く魔力を流していく。毒物特有の反応、腐敗した食材の反応がないかを判別していく。
シュタルクは息を殺して見守り、フェルンも料理の山とフリーレンの指先を交互に見る。
数秒。
それは短いのに、やけに長く感じた。
フリーレンは魔力を引き、手を下ろす。
「大丈夫、毒は入ってない。食べていいよ」
「おお、それじゃあ……!」
シュタルクは串焼きを1本選び、恐る恐る口元へ運ぶ。噛んだ瞬間、脂と塩気と焦げ目の香ばしさと焼きリンゴのフルーティな味わいが同時に広がり、目が見開かれた。
「これ………美味いな」
美味い、という一言に含まれる安堵が、張り詰めていた空気を少しだけ緩める。
フェルンも手元の紙包みをそっと開いた。
“七幕目のマドレーヌ”。小ぶりで黄色いそれは、表面に薄い砂糖の膜が光っている。鼻先に近づけると、バターの甘い香りの奥に柑橘と、僅かな花の匂いが混ざっている。
ひと口。
外側はほろりと崩れ、内側は驚くほどしっとりしている。甘さが舌に広がった直後、後味がすっと変わった。2口目でさらに変わる。香りが滑るように移り、余韻だけが残る──それが7回も繰り返された。
「……美味しい」
一方、フリーレンだけは料理に手を伸ばさず、再び静かに通りを見渡していた。料理の湯気の向こうで魔族の角と人間の笑顔が揺れ、魔法の装飾の光がそれらを同じ色に染めていた。
「魔族が人を殺さないように“している”場所は見たことがある。でも──」
フリーレンは視線を白いコートの魔族に戻す。
「魔族が人間と一緒に“楽しんでいる”ように見える場所は、初めて見たよ。ここがどういうところか……少しだけ知りたくなったかな」
「へえ、それは光栄ね。じゃあ、私も1つ礼儀を返さないと。自己紹介が遅れたわ」
白いコートの魔族はゆっくりと椅子から立ち上がり、軽く肩を払う。
「私は、
その名が、七色の花火の下で響いた。
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書き溜めはないのでスローペース更新です。
短めに連投が良いのかこれくらいが良いのか。
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