何も知らない一般人さん 作:愉悦時間
いつもはアラームが鳴る前に目が覚めてしまう。けど、今日は違ったのだ。毎日聞くけたたましい音なんかとは比べ物にならないくらい、自分を起こしてくれたのは優しい音だった。
うっすらと瞼を開けて、何も考えずに優しい音がする方へと目を向けた。ここで可笑しい、と疑問を持たなかった自分を殴りたい。知らない壁に、知らないベッド。いつもなら、硬い床が俺の体をバキバキにしてくれる。眠ったはずなのに、眠った気がしなくて布団に縋りたくなる。そんな敷布団で寝ているのに、なぜだかその日は別の意味で布団に縋っていた。
久しぶりにちゃんと熟睡出来たのに、起きなければならないなんて嫌に決まっている。
一度は、優しい音を遮るように布団の中に潜った。だけど、優しい音はどんどんと近づいて、音が大きくなって次第には、ずっとなり続けるようになってしまった。
だから、俺は情けない声を出しながら、一生懸命起き上がったのだ。
「んぅ⋯⋯」
「あ、すみません。無理に起こすつもりはなかったんです。⋯その、体調の方はどうですか? アグライア様がとても心配していて⋯⋯」
目を擦りながら、寝ぼけたままの脳を必死に働かそうとして、やっと視界が鮮明になった。
いつもと同じ質素な部屋、ではなく可愛らしい女の子を彷彿とさせる部屋。それと、美しいと可愛らしいどちらとも言える、二次元にしかいない女の子。
「え?」
「えっと、どうかしましたか?」
可笑しい、そう思った時にはもう遅かったのだ。
「うぐっ⋯っ⋯!」
「ヒアンシー様っ! すぐに痛み止めを飲んでください。少しですが、楽になるはずです。落ち着いてください」
さっきまでは、腹の痛みなんてしなかったのに、急に腹が焼けるように痛くなった。ばくばくと心臓は音を立てて、呼吸も荒くなって、汗も止まらなくて、俺死ぬんじゃないかな? なんて思って。しまいには、頭も痛くなってきた。
目の前の女の子が必死に大丈夫かと、声をかけているのだろうけど、俺の耳がおかしいのか、俺は心臓の音しか耳に入らなくて、周りの音が聞こえない。それに、なんだか瞼が重くなっているような気がする。さっきまでぐっすり寝ていたはずなのに。何故だろう。
ここは夢の中なのか。それとも現実? 腹がものすごく痛い夢なんて見たくもないのに。久しぶりにぐっすり眠れたからいい夢かと思ったけど、悪夢だったなんて。こんな夢から覚められるのなら、もう一度寝てしまってもいいのかもしれない。夢の中で寝るなんて、可笑しいな。
「ヒアンシー様! 目を閉じないでください! お願いです⋯ヒアンシー様⋯⋯」
ヒアンシー様と呼ばれる子は、何度も少女の名前を縋るように呼び続ける彼女を無視して、ただ苦しそうに呻き声をあげるだけ。
「あ、ヒアンシー⋯様⋯⋯起きて、ください」
彼女が望む「ヒアンシー様」は、もう居なくなってしまったのに、それに気が付かず彼女は少女の名前を呼び続けた。
◀◁◀
ここは夢の中だ。男はそう頭の中で何度も唱えた。この世界は本当であり、夢なんかじゃない。こんなことをしても意味が無いのに。この世界がそう告げているのに。現実を直視せず、男は現実逃避をするという愚かな選択を選んでしまった。
夢の中で再び眠りについた男は、ようやく目を覚ました。アラームの音でも、男が思う優しい声でもなく、腹部が焼けるような刺激に起こされてしまった。
焼けるような腹部は、さっきと変わらずに痛みを訴え続けている。呼吸が荒く、汗も止まらない。ただ一つ変わったのは、先程の覚醒よりも今の方が明らかに落ち着いているということだけ。
汗のせいで、長い髪がべたりと顔や首に引っ付いてうざったい。腹が痛い。頭が痛い。呼吸が苦しい。夢の中だと信じてやまない男に、絶望と、全ての痛みを突き刺していった。それでもまだ、男はここが夢の世界だと信じている。そうでなければいけないから、信じることをやめられない。元の男の容姿とは全く似ても似つかないのも、喉仏がなくなり高い声になってしまったことも、それら全て夢の影響のせいだ。
男がずっと転がっていようと、この世界は何も変わらない。ましてや、男が感じる痛みだって。だから、男は仕方なくこの夢の世界について知ってみることにした。
体を起こして、悲鳴をあげる腹を無視する。
腹を押さえ付たり、腕を抓ったりして、無理にでも痛みを違う方向へて紛らわそうとする。けれど、痛みは止まらないし、さっきよりももっと苦しくなってしまう。
なにか、痛み止めがあればいいのだが。そう思い辺りを見回してみる。すると小さな机に置かれた、錠剤とコップが目に入った。ピンク色の可愛らしい部屋とまったく合わない、サイドテーブル。まるで、錠剤と水のために置いてあるようなものだ。
サイドテーブルは、起きてすぐ手に届く範囲にあるわけではないが、寝具から少し移動すれば届く範囲にある。
男は荒い呼吸の中で密かにため息をついた。呼吸するだけでも痛いのに、ベッドから移動するなんてもっと腹が痛むことを嫌がっているのだ。それと、それだけでなく、男は錠剤を飲むのが得意ではなかったから。どいうわけか、錠剤が喉を通っていく感覚に強い拒否感を覚えていた。それなら食べ物も全て喉を通るから同じなのだろうけど、錠剤は別なのだ。粉タイプの薬だったら、男は薬を飲もうと痛む腹を気にせずに動けたかもしれない。だが、錠剤は嫌だと思っても、あれが痛み止めなのだとすると男に飲まないという選択肢は無い。無理にでも飲み込んで胃に押し込まなければいけない。
腹を刺激しないように、片手と足だけを使ってゆっくりと移動していけば順調に錠剤とコップに手が届きそうな範囲まで近づく。男がコップと錠剤に手を伸ばしてみると、掴むことができた。だけれど、残念なことにコップと錠剤の感触が分からなかった。それと、両手は一目見れば分かるほど激しく震えているし、手と脳の電気信号が絶たれたように力が入らない。優しく掴むことはできても、持ち上げることはできそうにないのだ。夢の中なのに、かなり再現度が高くて、面倒臭い。男はもう一度ため息をついた。
痛みも、この世界も、男自信も。夢にしてはかなり細部まで拘っている。普通、人間が見る夢は、突拍子もなくて、意味の分からないものばかりだ。
なのに、何故こんなにも現実に忠実なのだろう。もう一度目を閉じてしまえば、二度と起きれなくなってしまいそうだ。何もかも気持ち悪い。痛みも、世界も、自分も、全部気持ち悪い。あともう少しなのに手が届かない錠剤に腹が立つ。上手く動かない体が憎い。何故自分がこんな仕打ちを受けなければいけない。頭が熱くて痛いのに、答えは無いくせに自分に質問攻めをして、もう何も考えられなくなっているはずなのに。一体、自分は何がしたいの。
気持ち悪い。
あ
「おぇ」
口からドロドロと零れてくるものを一切汚れが無い布団が受け止めていく。幸いにも、男が着ている服に吐瀉物が染み付くことはなかった。胃液と黄金色に輝く液体だけを吐いたからか、ごろごろした物は布団にぶち撒けていない。
男は吐瀉物を目の前にしても冷静で、その様子はなんとも気味が悪い。もう精神が崩壊する寸前まで来ているせいか、目の前のことなど気にも留めることが出来なかったのかもしれない。
ほんの少しだけ吐瀉物を眺めて、やっと男は動き出す。さっきのがまるで嘘かのように動作が自然になり、布団に染み込む吐瀉物を避け、あっという間にサイドテーブルの前に立つ。
錠剤を掴んで、ぎこちなくプチプチとPTP包装から錠剤を取り出していく。空になったPTP包装を無造作に落として、空いた手でコップを掴む。そして、取り出した錠剤全てを口に放り投げて、コップに入った透明な液体で胃に流し込んでいった。急に錠剤と液体を胃に流し込んだせいで、最初は不快感を覚えた。だがすぐに慣れる。
コップを置いて、男は窓を見つめた。窓の向こうには男の知らない世界が広がっている。今は忌々しい太陽がこの世界を照らしてはいないが、時期に日が昇るだろう。元いた場所とは変わらない星空だけに親近感が湧くような気がした。何もかも違う世界で変わらないのは、偽りのない綺麗な星空だけなのかもしれない。
ガッ、と勢いよく窓を開けると気持ちよくも悪くもない風が長い髪や着ている服の裾を煽った。風のせいで吐瀉物の臭い匂いが鼻にツンとくるが、気にせずに窓に足をかける。
「はぁ⋯はぁ⋯、ヒアンシー様っ! ⋯」
キャストリスがヒアンシーの部屋の扉を開けた時、彼女はもうそこにいなかった。
いつも開いていない窓が開いていて、突風がキャストリスを襲った。
もぬけの殻の部屋で彼女は顔を歪める。
◀◁◀
記憶がない。大切な記憶だけすっぽりと抜けてしまったようで、凄く寂しかった。
今の自分が子供みたいで笑えてくる。知らないうちに変な奇行をして、知らない場所まで来てしまった。まるで家出した子供だ。きっと、一人になりたくてずっとさまよってたんだろう。
風と冷たい地面が気持ちよくて、腹の痛みなんか吹っ飛んでしまった。それと、瞼が重い。だけど、眠ったらここで終わりなような気がして、必死に目を開けている。
ここは夢の世界じゃない。ちゃんと自覚した。前の記憶は無いけど、何となくわかるんだ。ここは元いた場所とは違う。
ここにいてはならない、自分の居場所はここじゃないと。
じゃあ何故俺はここにいる。自分はここにいてはならない、それを自覚しているくせに。
「ヒアンシー、どうしてここに⋯⋯?」
俺には無理だ。俺が俺じゃないとわかっていても、自殺なんて出来るわけがない。
「お前は⋯⋯⋯⋯」
それしか方法が無くても、俺はそんな選択肢を選んだりしない。
アッハタイムって何だろう。