ラインハットのヘンリー王子に憑依転生してパパスを救う 作:拓拓
遺跡の内部は、冷たく湿った空気に満ちていた。
壁には苔がむし、崩れかけた天井からは地下水が滴り落ちている。
だが、その静寂はすぐに破られた。
――カタカタカタ……。
闇の奥から聞こえてくる、乾いた骨の音。
骸骨――スカルサーペントの群れだ。
さらに天井からは、不気味な瞳を持つ浮遊魔物、ダークアイが降下してくる。
「下がっていなさい、二人とも!」
パパスが叫び、大剣を一閃させる。
剛剣。
骸骨兵の盾ごと胴体を粉砕し、風圧だけでダークアイを壁に叩きつける。
さすがはレベル27(推定)。この辺りの魔物なら一撃だ。
だが、数は多い。
湧き出るように現れる魔物の群れに、パパス一人では手が回りきらない。
「リュカ、右だ!」
「はいっ! ……バギ!」
俺の指示に、リュカが即座に反応する。
右側面から迫っていた魔物の群れに向け、リュカが真空の呪文を放つ。
以前の特訓で暴発させたようなデタラメな威力ではない。収束され、狙い澄まされた鋭い風の刃。
先頭の魔物が切り裂かれ、後続が怯む。
「ナイスだ! トドメは俺がやる!」
俺はリュカの前に飛び出し、怯んだ魔物たちを斬撃で吹き飛ばした。
パパスが前衛、リュカが魔法支援、俺が遊撃。
即席のパーティだが、連携は驚くほどスムーズだった。
「……ふぅ。数が減りませんな」
第一層を掃討した後、パパスが額の汗を拭いながら言った。
遺跡は迷路のように入り組んでいる。まともに探索していたら、消耗するばかりだ。
「パパス殿、こっちです」
俺は迷わず、一見すると行き止まりに見える壁の方を指差した。
「王子? そちらは壁ですが……」
「この遺跡の構造図を、城の古い文献で見たことがあるんです。この壁の裏には隠し通路があり、最深部への近道になっているはずです」
嘘だ。
文献なんてない。あるのは俺の脳内に刻まれた、かつて数え切れないほど周回したゲームマップの記憶だけだ。
この壁の奥に隠し階段があることなんて、
俺は壁の特定の部分――石の継ぎ目が不自然な場所――を蹴り飛ばした。
――ズズズズ……。
重い音と共に、壁が回転し、下り階段が現れた。
「なんと……!」
「すごいです、王子さま!」
パパスとリュカが驚きの声を上げる。
俺は「偶然ですよ」と肩をすくめて見せ、先に立って階段を降りた。
その後も、俺のナビゲートは冴え渡った。
落とし穴の位置、魔物が潜む死角、そして最短ルート。
まるで自分の家の庭を散歩するかのように、俺たちは遺跡の深部へと進んでいった。
魔物との戦闘は避けられないが、無駄な探索を省いたおかげで、体力も魔力も温存できている。
何より、パパスの消耗を最小限に抑えられているのが大きい。
原作では、パパスは息子を探して遺跡内を彷徨い、疲弊した状態でゲマたちと戦うことになった(という説もある)。
だが今は、万全の状態だ。
そして。
俺たちはついに、巨大な青銅の扉の前に辿り着いた。
この奥が、最深部。
ゲマたちが待ち受ける祭壇の間だ。
扉の隙間から、禍々しい紫色の瘴気が漏れ出している。
肌がピリピリと痛むほどの邪気。
リュカが不安げに俺の袖を掴んだ。
「……王子さま」
「大丈夫だ」
俺はリュカの手を握り返し、パパスを見た。
パパスもまた、覚悟を決めた戦士の顔で頷いた。
「ここからは、何が起きるか分かりません。……リュカ、ヘンリー王子。決して私の背中から離れないでください」
「ええ。背中は任せてください」
俺は腰の『きせきのつるぎ』を抜き放った。
レベル38。最強装備。そして万全の仲間たち。
準備は終わった。
「開けますぞ」
パパスが重い扉に手をかけ、力を込める。
ギギギ、と軋んだ音を立てて、運命の扉が開かれた。
そこには、俺の記憶にある通りの光景が広がっていた。
祭壇。怪しげな儀式の痕跡。
そして、俺たちを待ち構える三つの影。
馬面の悪魔ジャミ。
巨体の戦鬼ゴンズ。
そして、中央に浮遊する、憎悪すべき僧侶姿の魔物――ゲマ。
「……おや、随分と早い到着ですね」
ゲマが薄ら笑いを浮かべ、慇懃無礼な口調で出迎える。
その瞳が、俺たちを値踏みするように細められた。
「ようこそ、パパス様。そして……可愛い生贄の皆様」
来たな、諸悪の根源。
俺は剣を構え、一歩前に出た。
挨拶はいらない。ここからは、殺るか殺られるかのデスマッチだ。
♢
「……いい眺めですねぇ。絶望に染まる前の、希望に満ちた魂というものは」
ゲマがゆらりと空中に浮き上がり、両手を広げた。
その背後で、馬面のジャミと巨体のゴンズが、下卑た笑い声を上げて武器を構える。
「フフフ……。さあ、こい。 地獄の使者が、むかえにきたぞ!」
「フン! お前が、パパスか。 なかなか、いい面がまえだな」
原作通りの、胸糞が悪くなる台詞。
パパスが激昂し、大剣を握りしめる。
リュカが恐怖に震え、身を縮こませる。
――シナリオ通りなら、ここから泥沼の消耗戦が始まり、やがて悲劇の幕が上がる。
だが。
「……うるせえ、雑魚ども」
俺は冷徹に呟き、懐から小さな小瓶を取り出した。
『ファイトいっぱつ』。
錬金術師に特注で作らせた、攻撃力を限界まで引き上げる禁断の秘薬だ。
さらに、素早さを高める『すばやさのたね(濃縮液)』も一気に煽る。
ガリッ、とガラスごとかみ砕き、破片ごと液体を喉に流し込む。
瞬間、心臓が破裂しそうなほど脈打ち、全身の筋肉がミシミシと悲鳴を上げて膨張した。
視界が赤く染まる。世界が止まって見える。
「ヘ、ヘンリー王子……?」
パパスが俺の異変に気づくが、もう遅い。
俺は地面を蹴った。
世界から音が消失したかのような静寂の加速。
あまりの加速に、空気が置き去りにされたのだ。
俺の姿がかき消える。
次に俺が現れたのは、ジャミとゴンズの目の前──いや、その背後だった。
「な……!?」
二匹の魔物が、間の抜けた顔で振り返ろうとする。
遅い。
あまりにも遅すぎる。
「消えろ。──はやぶさ斬り」
俺の剣が、認識不可能な速度で閃いた。
『星降る腕輪』で加速された、音すら置き去りにする神速の二連撃。
手加減なし。レベル38のステータスに、ドーピングによるブーストを乗せた、正真正銘の全力全開。
──ヒュンッ……ドォォォォォォンッ!!
斬撃が速すぎて、破壊音は一瞬遅れてやってきた。
十字の剣閃が、ジャミとゴンズを同時に切り裂き、その余波だけで空気が爆ぜる。
断末魔すら上げる間もなく、二匹の巨体は細胞レベルで寸断され、衝撃波に吹き飛ばされて霧散した。
斬撃の威力は留まるところを知らず、そのまま背後の遺跡の壁をも抉り取り、広間全体を揺るがす轟音となって吹き荒れた。
「え……?」
ゲマの目が点になる。
パパスが口をあんぐりと開ける。
一瞬だ。
瞬きする間に、中ボス級の側近二匹が、文字通り「消滅」したのだ。
「──次はお前だ。ゲマ」
俺は『きせきのつるぎ』をゆらりと構え、ゆっくりとゲマの方へ向き直った。
全身から立ち上る湯気。過剰なエネルギーがオーラとなって噴出している。
「パパス殿!!」
俺は呆然としているパパスに一喝した。
「リュカを守れ! 一歩も動くな! 雑魚は俺が片付けた、残るゴミ掃除は俺一人で十分だ!」
「は、はいっ! ……し、しかし王子、相手は……!?」
「関係ない。……今の俺は、機嫌が悪いんだ」
俺は剣先をゲマに突きつけた。
ゲマの顔から、余裕の笑みが消え失せていた。
脂汗が、その青白い額を伝う。
「ば、馬鹿な……。ジャミとゴンズを一撃で……? 人間ごときが、ありえません……!」
「ありえない? なら、もっと見せてやるよ」
俺は一歩踏み込む。
ゲマが条件反射的に杖を振るった。
「おのれ、小賢しい! 燃え尽きなさい! メラゾーマ!!」
極大の火球。
本来ならパパスの命を奪うはずだった、絶望の炎。
それが俺に向かって放たれる。リュカが悲鳴を上げる。
だが、俺は避けなかった。
真正面から、その炎に突っ込んだ。
――ボォォォォッ!!
紅蓮の炎が俺を飲み込む。
ゲマが勝ち誇ったように口角を上げる。
しかし。
「……なんだ、この温風は」
炎を切り裂き、俺はゲマから視線を外すことなく――現れた。
『しんぴのよろい』と『マジックシールド』、それから俺自身の高い魔法耐性。
かすり傷程度のダメージも、鎧と剣の神秘的な力ですぐさま癒えていく。
メラゾーマのダメージなど、微々たるものだ。
「な、なにィィッ!?」
「驚くにはまだ早いぞ」
俺はゲマの懐に潜り込み、がら空きの腹部に蹴りを叩き込んだ。
ドゴッ!!
「ぐ、おぉっ……!?」
ゲマがくの字に折れて吹き飛ぶ。
壁に激突し、ずり落ちる魔道士。
俺は追撃の手を緩めない。
回復する隙など与えない。詠唱する暇など与えない。逃げる間など――与えない。
これは戦闘ではない。処刑だ。
「立てよ、ゲマ。お前のシナリオはこんなもんか?」
俺は倒れたゲマの顔面を、ブーツの底で踏みつけた。
グリグリと力を込める。
「パパスを殺す? 俺たちを奴隷にする? ……笑わせるな」
俺は『きせきのつるぎ』を振り上げた。
神秘的な輝きを放つ刀身に、メラの炎を宿らせる。
かつてビアンカに見せた、小さな手品の炎ではない。
今の俺の魔力が込められたそれは、太陽の表面温度にも匹敵する白熱の刃だ。
「お前が殺すはずだった男の
ゲマが恐怖に目を見開き、何かを叫ぼうとした。
「ま、待て! 私はミルドラース様の……!」
「知るか」
――ザンッ!!
一閃。
白熱の刃が、ゲマの身体を袈裟懸けに両断した。
断末魔すら上げる間もなく、その身体が灰となって崩れ落ちていく。
後に残ったのは、ただの黒い煤だけ。経験値が入ったファンファーレすら鳴らない、あっけない幕切れだった。
俺は剣を振り払い、ふぅ、と息を吐いて「ファイトいっぱつ」の副作用で震える腕を抑えた。
終わった。
圧倒的な暴力によって、運命は書き換えられた。
振り返ると、パパスは畏怖と驚愕がないまぜになった顔で、リュカは涙を溜めた瞳で救世主を崇めるように、俺を見つめていた。
煤となって消えたゲマの残滓を見届けた瞬間、俺を支えていた「力」が、砂の城が崩れるように抜け落ちていった。
「……あ」
急激な脱力感。視界がグラリと揺れる。
ドーピングアイテム『ファイトいっぱつ』と『すばやさのたね(濃縮液)』の強烈な反動だ。無理やり引き出された筋肉と魔力が、悲鳴を上げながら急速に冷却されていく。
俺は膝から崩れ落ち、冷たい石床に手をついた。
「ヘンリー王子!!」
パパスが弾かれたように駆け寄り、大きな手で俺の身体を支える。
その目は、まだ信じられないものを見ているようだった。
「大丈夫ですか!? 今のは……一体、何だったのですか。あの身のこなし、あの魔法……。貴方は、本当に8歳の子供なのですか?」
震える声。伝説の戦士が、俺という存在に怯え、同時に心からの敬意を払っている。
俺は荒い息をつきながら、無理やり口角を上げた。
「……言っただろ。俺は、ただの……我儘王子だ。……少し、無理をしただけさ」
その時。
「王子さまぁぁぁっ!!」
小さな、しかし必死な叫び声と共に、紫のターバンが俺の胸元に飛び込んできた。
リュカだ。
彼は俺の首に腕を回し、顔を胸に埋めて泣きじゃくった。
「死んじゃうかと思った……! あの怖い魔法に打たれて、もう会えないかと思ったんだよぉ!」
「……お、おい。苦しいって、リュカ」
縋り付いてくる身体の、驚くほどの柔らかさと温かさ。
鼻をくすぐる、石鹸と涙が混じったようなリュカ特有の香り。
俺は内心で(……お、落ち着け俺。こいつは男だ、原作主人公だ!)と必死に理性を保ちつつ、震える背中を優しく撫でた。
「泣くな。……言っただろ、俺はお前を離さないって。約束は守る主義なんだ」
「……うん、ううっ……王子さまぁ……」
パパスが、その光景を静かに見守っていた。
彼の目には、もはや疑念はない。ただ、自らの子にこれほどの安らぎと勇気を与える「少年」への、深い確信があった。
(……ヘンリー王子。貴方こそが、我が子を託し、共に対等に歩むべき御方……)
パパスの胸中で、ある二文字が、あるべき運命として強固に結びついた瞬間だった。
少し落ち着きを取り戻した後、俺はゲマの消滅跡を調べた。
真っ黒な煤の中に、焼け残ったいくつかの物品がある。
「これは……?」
一つは、羊皮紙で作られた計画書。そこには、ラインハットを足がかりに中原を支配する『光の教団』の拠点図が克明に記されていた。
そしてもう一つ。不気味な光を放つ紫色の水晶玉――通信機だ。
水晶に触れると、微かにノイズが混じった低い声が響いてきた。
『……ゲマよ、どうした。パパスの処理は済んだか……』
イブール。あるいは、さらにその上の。
俺は無言で、その水晶玉を床に叩きつけて粉砕した。
「……パパス殿。敵はゲマだけじゃない。この世界には、もっと根の深い闇が広がっているようだ」
「ええ。光の教団……そして、その背後にいる者たち。……ヘンリー王子、我々の戦いは、まだ始まったばかりのようですね」
俺たちは顔を見合わせた。
原作では知る由もなかった、敵の全貌。
だが今の俺たちには、それを迎え撃つ力と、事前の知識がある。
♢
「……さて。長居は無用だ。とっととここを出ようぜ。この空気、肌に悪そうだ」
俺が立ち上がると、リュカが慌てて俺の服の裾を掴んだ。
まだ離れるのが怖いらしい。俺は苦笑して、そのままリュカを連れて階段を登った。
遺跡の外へ出ると、眩しいほどの朝日が差し込んできた。
冷たい朝の空気が、火照った身体に心地よい。
「ぷはぁ! 生きてるって感じがするな!」
「あはは、王子さま、変な顔!」
リュカがようやく笑った。
パパスもまた、大きく伸びをして空を仰いだ。
「……ふむ。緊張が解けたら、急に腹が減ってきましたな」
「そうだな。昨日の晩飯、半分しか食ってないし」
「ヘンリー王子。城に戻ったら、是非私の手料理を振る舞いましょう。サンタローズ仕込みの戦士の肉料理、絶品ですよ」
パパスが自信満々に胸を叩く。
俺とリュカは一瞬、顔を見合わせた。
「……リュカ。親父さんの料理、美味いのか?」
「……えっと。お肉は、すごく……ワイルド。顎が、丈夫になるよ……あはは」
「……察した。俺、今日は城の厨房に注文しとくわ」
俺たちのやり取りに、パパスが「おや、失礼な!」と笑い声を上げる。
平和だ。
本来ならここで命を落とし、あるいは奴隷として絶望のどん底にいたはずの俺たちが、こうして笑っている。
運命は、確かに変わった。
だが。
(……待ってろよ、ミルドラース。俺が大人になる頃には、お前の居場所なんて無くなってるからな)
俺はリュカの手を繋いだまま、ラインハットへの凱旋の道を歩き出した。
王子の、そして俺の物語は、ここから加速していく。
ラインハット城の正門が見えてきた時、城門を守る兵士たちの顔には明らかな動揺が走っていた。
死地へと送り出したはずのパパス一行、そしてヘンリー王子が、傷一つないどころか、さらなる威圧感を纏って帰還したのだから。
俺たちは出迎えの言葉も待たず、真っ直ぐに玉座の間へと向かった。
廊下ですれ違う侍女や大臣たちが、俺の纏う「覇気」に当てられ、壁際にへたり込んでいく。
――バァァァンッ!!
俺は玉座の間の重厚な扉を、蹴り破る勢いで開け放った。
「ヘ、ヘンリー!? パパス殿も……無事だったのか!」
玉座に座る父王が、驚きと共に立ち上がる。その隣には、相変わらず扇で口元を隠し、忌々しそうに目を細める太后の姿があった。
「……随分と早いお帰りですこと。魔物討伐はどうなりましたの?」
太后の冷ややかな声。
俺は一言も発さず、懐からあの「計画書」と「粉砕した水晶玉の破片」を取り出し、玉座への階段にぶちまけた。
「……なんだ、これは?」
「太后の『お友達』からの手紙ですよ、親父」
俺は低く、よく通る声で告げた。
これまでの子供っぽい演技は一切含まない、一国の王子としての、そして「最強の戦士」としての宣告だ。
「遺跡にいたのは単なる魔物じゃない。光の教団……世界を裏から支配しようとするカルト集団だ。そしてそこのババア……太后は、その手先としてラインハットを乗っ取ろうとしていた」
「な、何を馬鹿なことを……! ヘンリー、狂ったのですか!?」
太后が激昂し、立ち上がる。
だが、俺の隣でパパスが一歩前に出た。その眼光は、魔物を射抜く鋭い矢のようだった。
「ヘンリー王子の仰る通りです、陛下。私はこの目で、遺跡に蠢く教団の幹部と、彼らが所持していたラインハット乗っ取りの書状を確認しました」
「パパス殿まで……。し、しかし、信じられん。太后がなぜ……」
「親父、まだ分からないのか?」
俺は一歩、また一歩と階段を登る。
太后の背後に控えていた護衛兵たちが、俺の殺気に耐えきれず、ガタガタと震えながら剣を落とした。
「本物の太后様は、城の地下に幽閉されている。……だろ、お前?」
俺は太后の目の前まで歩み寄り、その瞳を真っ直ぐに睨みつけた。
レベル38の『看破』。
もはや人間の仮面など、俺の前では紙切れ同然だ。
「……フフ。フフフ……。あーあ、バレちゃった。これだから勘のいいガキは嫌いなのよ」
太后の口が、ありえない角度まで裂けた。
上品だったドレスが内側から膨れ上がり、醜悪な筋肉と体毛が突き破っていく。
「ギャァァァッ!! 化け物だっ!!」
「陛下をお守りしろ!!」
玉座の間がパニックに陥る。
父王が腰を抜かし、デールが泣き叫ぶ。
現れたのは、巨大な爪と牙を持つ、高位の魔物。偽太后の正体だ。
「あはは! バレたならしょうがないわね! まずは王の首を喰らって、この国を血の海にして――」
「――遅い」
魔物が跳躍しようとした瞬間、俺の手がその首を掴んでいた。
レベル38の力。
数トンの岩石をも砕くその指先が、魔物の分厚い皮膚に食い込む。
「ギ、ガッ……!? な、なに、この、ちから……っ!」
「お前のシナリオはここで終わりだ。……リュカ、見るなよ」
俺は背後のリュカに一言かけ、反対の手で剣を抜いた。
剣が、魔力を帯びて白熱する。
「冥土の土産に教えてやるよ。……お前らが『奴隷』にするはずだったガキに殺される気分はどうだ?」
「ま、まて……たすけ……」
「死ね」
――ザンッ!!
一閃。
玉座の間を、眩い光の線が横切った。
魔物の巨大な頭部が宙を舞い、残された胴体が噴水のように血を吹き出して崩れ落ちる。
静寂。
返り血を浴びた俺は、冷徹な目で、床に転がる魔物の首を見下ろした。
周囲には、あまりの光景に声を失った大臣たちと、ただ震える父王がいる。
俺は剣を払い、鞘に収めた。
「……終わったぞ。親父、あとの『掃除』は大臣たちにやらせろ。文句はないよな?」
俺の言葉に、父王はただ、縋るように何度も何度も頷くことしかできなかった。
ラインハットの闇は、今この瞬間、物理的な暴力によって完全に払拭された。
俺の、真の意味での「執政者」としての生活がここから始まる。
背後でリュカが、震える手で俺の服の裾をギュッと掴んだ。
俺は振り返り、その頭を優しく撫でる。
「……怖かったか?」
「……ううん。……王子さま、カッコよかった」
そう言ってはにかむリュカの笑顔だけが、血生臭い玉座の間で唯一の救いだった。
♢
魔物の死骸が放つ異臭が立ち込める玉座の間で、俺は立ち尽くす父王と大臣たちを冷ややかに一瞥した。
返り血を拭うことすらせず、俺は玉座の裏側、隠し扉のレバーを迷わず引く。
「ヘ、ヘンリー? どこへ行くのだ」
「決まっているだろ。……『掃除』の次は、『救出』だ。おい、親父も大臣たちも全員ついてこい。お前たちが何を見落とし、何を切り捨ててきたのか……その目でしっかり焼き付けてもらうぞ」
拒絶を許さない覇気に押され、父王や大臣たちは顔を青くしながら、俺とパパスの後に続いた。リュカの手を引き、俺たちは湿った地下階段を降りていく。
地下深く、鉄格子の嵌まった薄暗い一室。
そこには、ボロボロの衣服を纏いながらも、気品を失わずに祈りを捧げる一人の女性がいた。
「……そ、そんな。あそこにいるのは……」
「まさか、本物の太后様……!? では、今まで玉座にいたのは……」
後ろからついてきた大臣たちが、驚愕のあまり腰を抜かした。父王は「ああ……」と力なく声を漏らし、目の前の現実を信じられないといった様子で震えている。
「母上」
「……え?」
俺の声に、女性がゆっくりと顔を上げた。
本物のラインハット太后。俺の義母であり、デールの母だ。
彼女は幽霊でも見るかのような目で、俺、それからその背後にいる夫や臣下たちを見つめ、それから震える声で俺の名を呼んだ。
「ヘンリー……なの? 生きて……いてくれたのね……!」
「ああ。……今、出します」
俺は腰の剣を抜き、物理的に鉄格子を叩き切った。
レベル38の暴力は、錠前を探す手間すら省かせてくれる。
崩れ落ちるように俺に縋り付く太后。彼女は、かつて俺が「我儘」で困らせていたことなど忘れたかのように、ただひたすらに涙を流して俺の無事を喜んだ。
「太后……すまない、私は、私はなんて愚かなことを……!」
「お許しください、太后様! 我らが無能なばかりに……!」
父王が、そして大臣たちが次々とその場に膝をつき、震える声で言葉にならない謝罪を絞り出す。
背後でパパスが、その光景を深く頷きながら見守っていた。リュカもまた、もらい泣きをしながら太后の背中を優しくさすっている。
(よし。これでラインハットの内憂は完全に消えた)
俺は太后を支え、自責の念に駆られる父王たちを促して地上へと連れ戻した。
玉座の間で再会した太后とデールの抱擁、それから家族全員が手を取り合い、嗚咽する姿。
本来なら憎しみ合い、バラバラになっていたはずのこの家族を救ったのは、原作知識という名の、俺の「狂気」だった。
ラインハットの王子ヘンリー。
奴隷に堕ちる運命を捨て、彼はこの日、実質的な「覇王」としての産声を上げた。