「ねえ、ロン。お試しになんだけど、今日一日推し変してみない?」
「さっきも言ってたけど、そのオシヘンってなに?」
ロン、きょとんって顔してる。さてはロンのご主人、あんまり推し活してないのかな?
「ご主人さまを交換してみない? ってこと。だってこんなチャンス無いよ。守護仲間に会ったのなんて五十年で初めてだし、ロンだってこれを逃したら、この先もう機会は無いかもしれない。別の人の面倒をみてみたら、自分のご主人がどんな人なのか再確認できると思うんだ」
「そんなことできるの?」
大きな目を見開いてロンはあたしを見つめてる。
そんなのあたしだってやったことない。でもなんとなくはわかる、気がする。今の繋がりを留めている
「最初の日にやった手順を覚えてる? あれの逆を辿れば大丈夫、のはず」
「できるのかな」
「あのときだって別に道具とかは使わなかったし、長老さまだって見てただけじゃん。実際にやったのは全部あたしたちだけ。練習通りであっけなかった、でしょ?」
「そう言われてみれば、たしかにそうだったけど……」
ロンがもじもじしてる。ここは先輩らしくもうひと押し、かな。
「ロンはさあ、今のご主人さまに不満は無いの?」
「え? そりゃまあ、あるよ。いろいろと。起きるのが苦手だから朝はめちゃくちゃ苦労するし、あがり症でいとも簡単にパニック起こす。とくに男の人相手だと、どもっちゃってうまく話せなくなるの。そのくせ内弁慶ですぐ怒ったり。他にも、ひとと会いたがらないとか出かけるのが嫌いとか。ねえ、聞いてネル。うちの子ったら、せっかくの修学旅行を仮病でサボっちゃったのよ。私、沖縄ってとこに行ってみたかったのに」
スイッチが入ったみたいにロンが喋りはじめた。そうだよね。若くて可愛くって作家になれたって言ったって、いろいろはあるよね。
ロンの口から流れ出す細々とした日常の愚痴を聞きながら、あたしは最近のマスターのことを考えていた。昼近くまでベッドでぐだぐだして、動き出すのはたいがい午後。ベーコンを入れたペペロンチーノを飽きもせず毎日つくって、あとはTVでアニメや映画を観たり本を読んだりしながら部屋でごろごろ。夕方になると大量のコーヒーを淹れて、お菓子をつまみに小説を書き始める。外に出掛けるのは深夜の散歩だけ。ひとのいない夜の歩道を
思いだしてるうちに腹が立ってきた。あたしはもっといろいろ見てみたいしやってもみたい。あたしの寝室に成り下がってるヘルメットをかぶって、昔みたいにあちこち連れ回してよ! ネットだけじゃなくて、もっとたくさんリアルな景色を見せてよ。
「うん。ネル、私もなんか息抜きしたくなってきたかも。おじさんの日常も見てみたい」
ぱあっと顔を明るくしてそう言い放つロンだったが、急に顔を歪め眉を曇らせた。
「でもね、ずっと交換してたいってわけじゃないのよ。私、やっぱりうちの子に愛着があるし。だから、交換は面白そうだしすごく興味もあるんだけど、戻れなくなっちゃうくらいならやらない」
あたしだってマスターと
そうだ。ただの悪戯なんかじゃない。あたしが、
あたしはそう言い訳をして、あたしの企てを正当化した。
きっぱりと告げたロンの貌に、あたしは自信満々の顔で返す。
「心配しなくても大丈夫だよ。このあと別々になっても、どうせ午後には同じとこに行くんだから間違いなくまた会える。交換するのはたったの一日だけ」
ロンの瞳が揺れるのがわかった。うん。これならいける。あとはどうやって場面をつくるかだけ。
「わかった。一日限定ってことなら。でも、どうやってやるの?
ロンも同じことを考えてる。
あたしは思いだす。最初の日のことを。あのとき生まれたばかりの赤ん坊とあたしとの距離は、たぶん1メートルも無かった。
「あたしのマスターとロンのご主人さまが並んで寝てくれれば、たぶんできるはず」
「そんなの無理よ。だって私たちがこうして一緒に居られるのは、この電車に乗ってる間だけじゃない。終点に着いたら、うちのご主人さまとネルのマスターは別々に行動するんだから」
ロンの抗議はあたしの耳を素通りする。だってあたし、思いついちゃったから。いま目の前にあるふたつの扉を見て。
*
「来たよ」
ロンが短く合図を出した。
「10」と描かれた扉が開き、初めて見る女の子が現れた。ショートカットの可愛らしい子。ロンのご主人さま、一ノ瀬みう。
「あたしのマスターも席を立つみたい。ロンも構えてて」
トイレの扉の前で逡巡してる女の子の背中を見上げながら、洗面所の足元に隠れたあたしは腰を落とした。隣に立つロンの緊張が伝わってくる。
「9」の扉の磨りガラスに人影が映った。
「行くね」のひと言を残し、あたしは女の子について中に入った。