「やっと前向きになってくれたよお」
壁に掛かった風景写真のフレームに腰掛けて六人掛けのテーブルを見下ろすあたしは、今限定のマスターが
あたしたちが、ううん、あたしが始めてしまったこの混乱が、これでようやく終止符を打てそうな雰囲気になってきたよ。
ことのはじまりとなった『こだま』でのあの場面を、あたしはあらためて反芻する。
*
「耳の後ろにあるへこんだところに手を当てて光を吸い取るイメージで念じると、すぐ寝るよ」
ロンに教わった技を試してみたら、ホント、嘘みたいにするっと一ノ瀬みうは眠りに落ちた。壁をそっと二回叩く。返事が一回返ってきた。
「ネルのご主人、情けない恰好で寝ちゃってる」
向こうの台詞を壁に押し当てた耳で聴く。あたしは声を殺して笑った。
「こっちだっておんなじだよ。じゃ、いよいよペアリングの付け替えだから、時間合わせするよ」
今度はあたしが、壁に口を寄せて告げた。向こうからはコンコンって二回。
繋がりが切れたときにマスターたちがどうなるかは、実はあたしは知らない。さすがに死んじゃうことはないだろうけど、あたしたちとのペアリングが彼らのどの領域まで及んでるのかは教わってないのだ。とは言え、繋がってる日常でもこっちの知らぬ間にいろんな勝手なことやれてたりするからさほど心配することはない、って勝手に決めつけてみる。
いずれにしろ、空白時間は短いに越したことはない。
「壁を一回叩くから、そこから三つ数えたら付け替えるよ」
コンコン。
あたしは息を大きく吸った。念願の推し変ごっこがようやく実現できる。この可愛い子は、今日一日であたしにどんな景色を見せてくれるのかな。
コン、と一回。
口の中で一、二、三。
イメージの中でくじらとの留め金を外した綱を、即座に一ノ瀬みうのフックに持っていく。一ノ瀬みうのフックはちゃんと空席になってる。
ロンも上手くやってくれてるんだな。
そう思いながら、あたしは空になってるフックにあたしの綱を引っかけた。
ダムが決壊したかのように記憶が流れ込んできた。
味、音、手触り、匂い。そして怒涛の映像。
走馬燈なんて生易しいものじゃない。たった一本のはずだった繋がりがトンネルのように広がってあたしを包み、順番など関係なしに切り刻まれシャッフルされた彼女の二十年分の経験があたしの中の一点に向かって押し寄せてくる。まるでブラックホールに吸い込まれるように次々と圧縮され層を成していった。
ああ、そうか。「最初のとき」があんなに穏やかだったのは、マスターが羊水の中でたゆたう経験しか記憶してなかったからか。
気が遠くなりそうな暴風に晒されながら、あたしはそんなことを考えた。
だが、それだけでは終わらなかった。あたしの内側からも風が起こったのだ。
入ってくる奔流と同じくらい、いや、もしかしたらそれ以上の勢いで、濁流があたしの中の一点から逃げていく。入ってくるのがブラックホールなら、こっちはさながらホワイトホール。まるで宇宙の原初を体感してるよう。
あたしは神か? 創造主なのか?!
あまりの量の情報の交錯に、あたしの意識は完全に飛んだ。たぶん、ほんの一瞬。だけどその一瞬に、変身は起こった。
「嘘!」
あたしは宙に浮いたままパニックに陥った。
ほんの今まで眼下に座っていた一ノ瀬みうが、瞬きもしない一瞬で、ピントの狂った画像のようにボケている。身に着けているものは変わらない。ただ、見えている部分だけが曖昧になっているのだ。
え。え? どういうこと?!
微動、やがて輪郭が定まらないほどの激しい痙攣が、目の前の一ノ瀬みうの身体に生じた。短い振幅が高速で。目を閉じたままの顔は苦悶で歪み、額に次々と玉の汗がにじむ。肉体を構成するすべての部位の形と色が混じり合い、内側から白く光り出した。
あたしは恐怖した。
が、ほどなく痙攣は収まった。
残ったのは、サルエルパンツと下着を下ろしたままの姿で便座に腰掛けて眠っている
壁がどんどんと叩かれた。押し当てる耳に、ロンの怒鳴り声が飛び込んでくる。
「くじらさんがみうに変わっちゃった!」
*
「会場でネルを見つけたときは、本当に心の底から安堵したんだよ」
ようやく落ち着いたかのように見える二人を含む集団を眼下に、こちらも落ち着きを取り戻したロンが静かに話し始めた。
「うちの子の姿になったくじらさんはどうにかこうにかでもうまくやってたからあまり不安はなかったけど、とにかく私、元のうちの子がどうなっちゃったのか心配で心配で。ほら、あの子、突発の出来事がものすごく苦手だから」
さっきの逃亡劇のことだろう。
串カツのお店での再会後、お互いのなりゆきを説明し合ってた最中に、くじらの皮かぶったみうがいきなり怒り出して店飛び出してっちゃった。当然のことながら、ペアリングしてるあたしもそっちに引っ張られる。おかげでロンとはまたもや離れ離れだ。
怪しげな夜の町でキャッチのあんちゃんたちに声掛けられまくった
「会場でもあの子、なんか変な動きしてたし」
「あれは疑心暗鬼になってたの。くじらたちを敵扱いしてたから」
いまでこそ笑って話せるが、あのときのみうの心の動きは繋がってるあたしにも流れ込んできてたから、彼女の焦りや絶望感はよくわかっている。ただ、どうしたら落ち着かせることができるのかが、あのときはまったく思いつかなかった。
「私、考えてみたの。私たち守護妖精とご主人さまとの繋がりって心だけだと思ってたけど、そうじゃなかったんじゃないかなって。繋がりのフックは心以外にも身体の方に別の繋ぎ目があったのに、私たちきっと、そっちは切らずに心のフックだけを繋ぎ直しちゃったのよ。だからくじらさんがみうの身体になったのは、くじらさんの心と繋がった私が、まだ繋がったままのみうの身体を引っ張ってきちゃった所為。そんなふうにね」
くじらとの精神の接続は手放したけど、身体とのペアリングは繋いだまま。その結果が今のかたち、みうの精神とはペアリングできてるけど、身体の情報はあたしとともにくじらのそれが繋がってしまったってことか。
「それならたしかに辻褄が合う……」
「あのときの痙攣、くじらさんの記憶には残ってなかったんだけど、あれは身体を新しく作り直すためだけのものだったんじゃないかな」
「それ、みうにも残ってなかった。そっか。そうだよね。分子レベルで置き換わったんだもんね。輪郭もブレるわ」
話しながらあたしは考える。ロンが立てたこの仮説が正しいとして、いったいどうすれば元に戻せるんだろう?
「ひとつだけ言えるのは、『こだま』のトイレで推し変をやったときに私たちは急ぎ過ぎたってこと。もっと時間に余裕を持って慎重にやらないと駄目なんじゃないか。そう思うのよ」