神妙な面持ちで部屋のドアを引く
ねえ私、なんでそんなことをしてるの? ここ、ラブホテルだよ。ここがどんなことをするところなのか知ってるの? あなたは今、ほとんど見ず知らずの五十歳のおじさんとその部屋に入ろうとしてるんだよ。
もちろん、そんな邪な想像を実際にするためにここにいるんじゃないのはわかってる。くじらさんが私の身体を自由に使って今まで知らなかった経験を愉しもうなんて考えるひとじゃないことも、頭ではちゃんと理解してる。それでもこの逡巡、この嫌悪は、簡単には拭いきれない。
申し訳程度の廊下を経て先に部屋に入った
「広めなのは全部ふさがってて、こんな窮屈な部屋しか残ってなかったんだ」
録音を再生したみたいな私の声。思っているのより少し高め。ていうか、ここって他に比べて窮屈なの? くじらさんはもっと広い部屋に来たことがあるの?
「今日はとにかく疲れただろ。とりあえず荷物置いて、ひと休みするといい」
南国風の衣装掛けの足元にリュックを置いたくじらさんは、立ち尽くす私にベッドのへりを薦めてくれた。引き摺ってきたキャリーバッグをリュックの横に立てかけて、私はベッドの端に腰を下ろした。
どっと疲れが押し寄せてくる。ずっと気を張ってたから意識できてなかったけど、確かにくじらさんの言う通り、今日一日で本当に疲れてたみたい。歩き回った身体もだけど、なによりも心が。
どっかと座り込んでしまった私に、くじらさんはミネラルウォーターを差し出してくれた。自分も同じものを持っている。
「ありがとう……ございます」と応えて、キャップを回す。いつものように力を入れてと思ったら、あまりにもすんなり開いたので、少し水をこぼしてしまった。
「ごめんごめん」と言いながら床に散った水をティッシュで拭き取るくじらさん。なんであなたが謝るの?
「一ノ瀬さん、おなか減ってない? 串カツ、あんまり食べてなかったでしょ」
そう言われて気がついた。たしかに減ってる。それも、かなり。
「あれ、食べてみたら? いんかむさんから貰った熱田名物きよめ餅。彼、めちゃめちゃ薦めてたから」
そう言いながら、くじらさんは私のキャリーバッグを近づけてくれた。
私、きよめ餅の縦長の箱、くじらさんの並びでベッドに腰掛けて、小判の包みみたいな餅まんじゅうをいただく。美味しい。きめの細かいこしあんが喉を通って胃の中に落ちて、全身に行き渡るのが実感できる。甘いものは、やっぱり正義。
「なるほど。これはひとに薦めたくなるな」
最後の一個を私の横に置いたくじらさんは、そう言いながら空箱を片付けた。
くじらさんが私の姿をしてるせいもあるだろうけど、なんていうか、安心感が半端ない。男の、しかも父親ほどのおじさんと二人きりって感じがぜんぜんしない。私、この人のこと、悪の手先だと思ってたんだよな。
「少しは落ち着いた?」
食べ終えて水を飲む私に、私の顔をしたくじらさんが尋ねた。
うなずきつつも、実はさっきから気になっていることがあった。私、もしかして臭いんじゃない?
帰宅してすぐのお父さんの匂いが、私はどうにも嫌だった。俗にいう加齢臭。仕方ないって頭はわかっているんだけど、どうしても生理的に受け付けない。嫌な思いをさせてるのは重々承知なのだが、私はいつも、あからさまに遠ざけていた。あのときと同じ匂いを、いま私自身が発散してる。なのに私の嗅覚はそれをさほど気にしていない。そのことに私はショックを覚えていた。
これがギャップってものなの?
でも私は、自分の感覚がなんとも思ってないからといって悪臭を垂れ流しっぱなしにするような無神経には組したくない。
「あの、私、しゃ、シャワー……あ、浴びたい。……いい、ですか?」
光量を落としたオレンジ色の部屋で、私たちはお揃いの白いガウンを着て大きなベッドのヘッドボードにもたれている。奥にいるのは私の姿のくじらさんで、手前はくじらさんの姿の私。間には、大人一人分の空間が空いている。
「寝られそうですか?」
くじらさんの気遣いに、私は曖昧にうなずく。身体は疲れてるのに頭は冴えわたってる。ううん。冴えわたってるはちょっと違う。緊張で、寝られる気がしないよ。
視線を横に落とすと、枕元のデジタル時計は午前一時を回ったところ。その横には、電源の繋がったくじらさんのスマートフォンが置いてある。さっきの喫茶店で建てたディスコ―ドの部屋が、たぶん裏で走っているはず。
「今日は失礼なことばかり言ってすみませんでした。一ノ瀬さんがいままで送ってきた時間をまるっきり無視した、勝手な考えを押しつけたりして」
やっぱりくじらさんが謝ることじゃない。くじらさんが良かれと思った方向は、私にとっても望ましいもの。これまでずっと臆病を理由に越えることのできなかったコンプレックスを打ち破るブレイクスルー。
「こ、こちらこそ……ごめん、なさい。か、勝手に怒って……と、飛び出しちゃったりして」
この会話、桃山さんたちは聞いているんだろうか。実況の提案なんて受けなけりゃよかった。
「昔、自分のバイクを知り合いに貸したことがあったんです」
くじらさんが唐突に語り始めた。
「買ってひと月もしない新車で、まだ百キロも走ってなかった。大学の寮の先輩だったんですが、免許取ったばかりの俺にあれこれ教えてくれる人でした。その彼が言ったんです。『おまえのバイク、フケがぜんぜんなってないよ。今日一日、俺のと交換しようぜ』って」
この人はなにを話そうとしてるんだろう。そう思ったけど口には出さず、とりあえず私は耳を傾ける。
「ひとのバイクでコケたりしたら嫌だから俺は乗らなかったんだけど、夜に帰ってきた彼はキーを返しながら俺に言ったんです。いい感じになったよ、って」
バイク。自転車じゃなくてオートバイのことなのかな。自転車は免許要らないし。
「翌週末、俺はひとりでツーリングに出かけました。そしたらエンジンの音がまるで違うんです。音だけじゃなくて、加速の伸びも。それまで不自由に感じてなかった走行感が、まるで子供だましだったみたいに。先輩が何をしたのかは知らないけど、あの一日で俺のバイクは本来の姿になった、そう実感したんです」
くじらさんの喋る話は、私の声には似合わない。でも、内容は伝わってきた。
「自分の手でそうしてやれなかったのは凄く悔しかったし恨みもしました。でも、おかげで俺のバイクライフは無駄な時間を少しだけパスすることができた」
くじらさんはそこでひと息ついた。私は、今の私が纏うくじらさんの若いころの日々を想像していた。
「今日一日一ノ瀬さんの身体を借りていて、俺はあの先輩みたいなことをしてたんだなって気づきました。悪意なんてこれっぽっちもない、でもあきらかに大きなお世話。かと言って、決してマイナスばかりでもない……」
話をフェードアウトさせたくじらさんは、身体をずらし、枕に頭を乗せた。
「一ノ瀬さん。寝る努力、しましょ」