「ここ、どこれすか?」
覚醒半ばの一ノ瀬がぼぅっとした顔で尋ねてくる。
ヤヴァイ。天使がここにいる。
生まれて初めて見るような光景を目の当たりにしたくじらは一瞬で固まった。とんでもない多幸感で胸が溢れそうになる。
これこそが、音に聞く『朝チュン』なのか?
確実に五秒は思考停止していたくじらだったが、自分にかけられた言葉があったことを思い出し、どうにかこうにか取り繕う。
「お、おはよう一ノ瀬さん。目覚めの気分はどう?」
一ノ瀬の瞳孔が徐々に開き、表情にみるみる知性が蘇ってきた。
「くじらさん! 私、元に戻ってる? 戻ってるよね!?」
布団を跳ね上げて狂喜する一ノ瀬は、二時間前にくじらがやっていたのと同じように粗い触感で全身をチェックし始めた。くじらは声を掛けずにはいられなかった。
「一ノ瀬さん、大丈夫、戻ってる。ちゃんと戻ってるから、まずはとにかく着替えてこようよ」
*
自前のスウェットの上下にガウンを羽織った一ノ瀬は、ヘッドボードに背中を当てて、くじらが淹れたインスタントのドリップコーヒーをふうふうしながら飲んでいる。
やっぱホンモノの女子の動きは、俺なんかとはぜんぜん違う。なにをするにしても、いちいちが女の子してて。
桃山が聞いたら怒り出しそうな感慨にふけっているくじらに向けて、不意に一ノ瀬が顔を上げた。
「元に戻れてよかったですね」
棒読み気味の言葉とともに、口の端を上げる一ノ瀬。
「それ、もしかして練習?」
くじらの返しに一ノ瀬がうなずく。
「どうですか?」
「うーん。洗練度はまだまだ伸びしろがある、かな。でも今の笑顔も、味があってよかったよ」
最後は笑いながらのくじら評に、一ノ瀬は膨れ顔で抗議する。
「なんですかそれ。どうせ笑うの下手くそですよ!」
じゃれ合うような平和なやりとりをしながら、くじらは蛹の羽化に立ち会う気分を味わっていた。
この子はきっと、これから世界に触れてどんどん大きくなっていくんだろうな。
黄昏の我が身を振り返って卑下したくなる気持ちを抑え、俺もまだまだ頑張んねぇと、と胸の中でつぶやいた。
「にしても、なんで俺たち入れ替わったりしたんだろ。今朝の復帰からして、新幹線って線は消えてるし」
背中に体重をかけてあごを上げるくじらは、そのままの姿勢で言葉を続けた。
「ひとかげさんが言ってた『俺と一ノ瀬さん』って組み合わせが鍵なのかな」
天井を仰ぐくじらとは対照的に、俯いて指をいじる一ノ瀬がつぶやくように口を開いた。
「そのことなんですが」
背筋を戻すくじら。目線を隣の一ノ瀬に移す。
「私ずっと気になってるんです、ゆうべ気を失う前に見た光の虹のこと。あのときくじらさん、見たことあるって言ってましたよね。私、もう長いこと見てなくてすっかり忘れてたんですけど、あの光、子どもの頃は何回か見た覚えがあるんです」
そう前置きする一ノ瀬は、昔語りを始めた。
「私が一番憶えてるのは小学校に入ったばかりの頃のこと」
顔を上げた一ノ瀬は、遠い目をして天井を見上げる。その語りを聞きながら、俺相手ならもう
「夕方の公園で、リードの外れた犬に襲われそうになったんです。真っ黒の大きな犬で、たぶんマスチーフ。すごく興奮してて、落っこちそうな頬の口元から涎の糸を垂らして低く吠えてるのがたまらなく怖かった。なぜか私は一人で、周りにも助けてくれそうな人は誰もいなかった。飛びつかれてのしかかられて、首筋を噛みちぎられる。当時お気に入りだったシートン動物記の中で狼王のロボはいつもそうやって獲物をしとめてたから、私もきっとそうなるって思ったの。そしたら、そのときに見たんです、虹の光跡」
ピンチに現れる虹の光跡……。
くじらは一ノ瀬の話を聞きつつ、同じキーワードで己の記憶をまさぐっていた。
「光跡はとても高い音を出していたんです。蚊の羽音みたいな、でももっと断続的で、なんとなく話しかけてるみたいな調子の。そしたら犬が唸るのをやめて、その場にゆっくりとうずくまったの」
子ども時代の一ノ瀬さんの危機を救った虹色の光跡……か。俺も似たようなことが昔あったな。俺のときは初めての運動会の日の朝、前日準備をし忘れた赤白帽子が見つからなくて半狂乱になってた俺の視界の端っこに、流れる光が見えた。そっちに目を向けたら、探してた帽子がまるで手品みたいに転がり落ちてきたのだ。
「駆けつけた飼い主さんがリードを留めてるのを見て、私泣き出しちゃって。そこから先は憶えてない……。因果関係を考えられるような歳でもなかったし」
「そのことを他の人には?」
首を振る一ノ瀬。
「家族には言ってません。お母さんが心配性だから。中学のとき、お友だちに一度だけ。なにそれ、って笑われちゃった。でもネットでは調べてみた……」
「結果は?」
「環天頂アークとか太陽ハローとか、そんな自然現象の話ばかり。私が何度か見た、視界に入る空間で不規則に流れる光の跡なんて、どこにもあがってなかった。ねえ、くじらさん、あれっていったいなんなの?」
身を乗り出してくる一ノ瀬に、くじらは考えていたことを告げた。
「似たようなことが、俺にもあった。俺を助けようって意思を感じるなにか。それこそが共通項かもしれない、俺と一ノ瀬さんの」