俺と私の文フリTS顛末記   作:深海くじら

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第8話 受難~なんで私がこんな目に

 乗客の降車が収まったのを見計ってトイレから出た一ノ瀬みうは、席の荷物を回収して新大阪のホームに降り立った。が、待合所のガラスに映る人影を見て絶句した。そこにいたのは想像すらしたことのない、今朝までの自分とは似ても似つかぬ姿。

 ひと言でいえば、おじさん。身体はひと回り以上大きくなって、上下とも服はパンパン。サルエルパンツだからなんとか穿けてはいるが足首が覗く寸足らず。スキニーだったら裂けていたかも。

 上はもっと悲惨だった。M寸のブラウスは二か所ほどボタンが飛び、中のブラジャーも背中が外れている。おそらくホックが弾けたのだろう。靴もきつ過ぎてずっと足が痛い。纏足(てんそく)を履かされてる気分、と一ノ瀬は呻いた。

 助かったのは網棚から荷物を下ろすときだけ。

 客足まばらなエスカレーターを下りながら、一ノ瀬は涙ぐんでいた。

 あんまりだよ、これは。私がいったい何をしたっていうのよ。

 その場で座り込みそうになったが、降り立つフロアは旅行客であふれているからそうも言ってはいられない。右手でキャスターを引き、左手でブラウスを掻き抱く中年男子の一ノ瀬は、背中を丸めて改札を抜けた。

 こういうとき、大きな駅は助かる。

 一ノ瀬は意外なところで都会のありがたみを感じていた。

 今の私、地元だったら目立ち過ぎてすぐにでも係員や警察が飛んできそうなものだけど、山ほどのいろんな人たちがひっきりなしに行き交うここでなら、ちょっとぐらいおかしな格好でも見過ごしてもらえる。

 ほんの少しだけ冷静さを取り戻せた一ノ瀬。優先順位を考えることができる程度には復活を遂げていた。

 とにかくまずは靴。それと服をなんとかしないと。

 

 駅ビルに靴屋とユニクロがあったのは僥倖だった。

 細かいサイズを合わせるのが面倒だった一ノ瀬は、一番安いフリーサイズのビーチサンダルを真っ先に買った。

 これなら裸足で履けるから、きつきつの靴下を脱ぐことができる。必要なら、落ち着いたあとにスニーカーでも買えばいい。

 次にユニクロ。男性用の服なんて選んだこともない一ノ瀬だったが、ジャージかスウェットならなんとかなると見当をつけた。ついでに下着も購入する。いま履いているのはきつすぎておなかが痛くなるレベルだったのだ。

 

 購入した服を試着室で着替え終えた一ノ瀬は、あらためて今の自分の姿を鏡越しに検分した。見紛うことなきおじさんだった。

 見たことのない、まったく知らない顔。男性の歳はわからないけど、たぶん四十は越してると思う。これってやっぱりなにかの冗談で、マジックミラーの向こうにおじさんが立ってこっちを見てるんじゃないのかな。

 一縷の希望にすがって、一ノ瀬は自分の身体を動かしてみた。だが、口を開ければ鏡の中のおじさんもちゃんと開くし、右手を上げればその通り上げる。

 意思と連携してる。やっぱりこれは私の身体。きわめて遺憾ながら。

 一ノ瀬は再び、声を出さずに泣いた。鏡の中のおじさんの目尻から大粒の涙が零れ落ちて、かさついた頬を伝った。

 ひとしきり泣いたところで彼女は違和感に気づいた。おじさんの唇が、そこだけ艶やかに光っていることに。

 これ、今朝塗ったルージュの色だ。

 

 口紅をティッシュで拭っていたらスマートフォンが鳴り出した。

「もしもーし、みう先生ですか。桃山でっす。桃山夕顔(ももやまゆうがお)、現場に入りましたぁ。本はちゃんと届いてますよ、三百冊。先生は、今はどちらにいますかぁ」

 本日の売り子をお願いしているフォロワーの桃山夕顔からだった。普通に返事を告げようとして、一ノ瀬は思いとどまった。サンダルを買うときにわかったのだ。今の自分の声がおじさんのそれになっていることを。

「どぉしました、聞こえてますかぁ。もしもぉし」

 スペースで何度も会話してる桃山さんは、私の声を知っている。返事しないわけにはいかないけれど、いったいどうすればいい?

 一ノ瀬はもっとも安易な手を選んだ。

「どうも、桃山さん。はじめまして、一ノ瀬みうの父です。みうは今日、急な用事が入ってそちらに行かれなくなったので、急遽私が代役をすることになりました」

「え? あ、ああ。お父さまでいらっしゃいますですか。あ、ええっと、桃山夕顔と申します。先生とは……娘さまとはなかよく、あ、いや、懇意にさせてもらってまして……」

 想定外の状況でしどろもどろになる桃山に、父親を騙った一ノ瀬は指示だけを伝えた。

「そちらには少し遅れて着く予定ですので、ひとまずは開会と同時に販売を始めてください。その際、釣銭が無いと思いますので、私が到着するまでの間は定価千二百円のところを特別価格千円で頒布していてください。おつりが無いので千円札のみでの対応です。よろしいですね」

「え? あ、わかりました。で、先生は今回は参加されないってことなんですか」

「申し訳ありませんがそうなります。来訪のお客さまにもそうお伝えください」

 

 通話を閉じた一ノ瀬は、大きな溜息をひとつ吐いて試着室のカーテンを開いた。

 うん。ひとまず会場には行こう。私には待ってるお客さまがいる。

 でもその前に、と一ノ瀬は思う。

 先にどこかで食事を摂ろう。でないと乗り切れる気がしない。それとやっぱりスニーカーは買っとこう。

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