ギルドの受付嬢ですが、残業が嫌なので定時に帰ろうと思います 作:can'tPayPay
ゼノスと「共犯契約」を交わした翌日から、アリナのギルド生活は劇的に変化した。
表面上は、これまで通りの「完璧な受付嬢」と「地味な事務員」。だが、アリナの視界に映るゼノスの存在は、背景の一部から、自分を支える「脊椎」のような不可欠なものへと変わっていた。
(――今日もまた、あいつ……ゼノスが完璧にパスを回してきた。私が一番嫌いな、計算が合わない経理報告書。それをゼノスが『誤字のチェック』という名目で預かり、私に回ってくる時には、すべての数字が整列して、私が判を押すだけの状態になっている……!)
アリナは窓口で微笑みながら、隣のデスクで淡々と羽ペンを動かすゼノスを、盗み見る回数が増えていた。
(死ね。……あ、違う。これはいつもの癖。……凄い。凄いわよ、ゼノス。あんなに死んだ魚のような目をして、あんなに地味な服を着て、どうして私の欲しいタイミングで、欲しい書類を差し出せるの? まるで私の思考を盗聴しているみたい……!)
そんなある日の昼下がり、ギルドに一人の素行の悪い冒険者が現れた。彼は報酬の額に腹を立て、アリナのカウンターを乱暴に叩いた。
「おい、この俺を誰だと思ってる! 査定し直せよ、この女!」
アリナの笑顔が、一瞬だけピキリと凍る。彼女の右手が、カウンターの下で「神器」を顕現させようと動いた瞬間。
「失礼します」
ゼノスが、音もなく冒険者の背後に立っていた。
「お客様。……あなたが今回持ち帰った素材、一部が『不正な魔力付与』によって劣化していますね。……これをギルド長に報告すれば、あなたは即座にライセンス剥奪ですが……どうされますか?」
ゼノスの声は低く、そして逃げ場のない冷たさを孕んでいた。冒険者は顔を真っ青にして、逃げるようにギルドを去っていった。
(……助けられた。また、ゼノスに。……しかも、私が暴発する直前に)
アリナは、自分を「ただの女」としても「最強の戦士」としてもではなく、一人の「事務員」として完璧に守り抜くゼノスの手腕に、言いようのない昂揚感を覚えていた。この男は、私の毒も、力も、すべてを把握した上で、そのすべてを肯定し、裏から支えてくれている。
数日後:変化する帰り道
契約から一週間。二人は、定時後の「反省会」と称して、人目を忍んで夕食を共にするようになっていた。
アリナは、ゼノスと二人きりになった瞬間に、文字通り「崩れる」のが日課となった。
「……ねえ、ゼノス。もう無理。今日、あの冒険者に手を出しそうになった時、あなたが来てくれなかったら、今頃私は王都を追放されてたわ。……責任取ってよ。私の精神衛生を守るって契約したでしょ?」
アリナは、ゼノスのシャツの袖をぎゅっと掴み、潤んだ瞳で彼を見上げた。
「……わかってるよ。僕もヒヤヒヤした。……でも、アリナ。君のその『毒』がなければ、窓口の効率は上がらない。君の怒りは、仕事への熱意の裏返しだからね」
「……何それ、口説いてるの?」
「まさか。事務的な分析だよ」
ゼノスはそう言って笑うが、その横顔はいつもより少しだけ柔らかかった。
アリナは、ゼノスの淡々とした、それでいて深い慈愛を感じさせる言葉のひとつひとつに、自分の心が浸食されていくのを感じていた。
「ねえ、ゼノス。……あなた、いつも何を食べてるの? 寮の食事? 栄養が偏るわよ。事務職は体が資本なんだから。……明日から、私が何か作ってきてあげてもいいわよ」
「……え? 君、料理もできるのか?」
「馬鹿にしないで。私の家事能力は、事務能力と同等よ。つまり、完璧ってこと。……文句ある?」
翌日から、アリナの「完璧な手作り弁当」がゼノスのデスクに届けられるようになった。それはギルド内では「事務員同士の親睦」として処理されたが、その中身は愛と毒が凝縮された、アリナにしか作れない極上の献立だった。
数週間後:運命の夜、そして「同棲」へ
二人の距離が決定的に縮まったのは、出会いから三週間が過ぎた頃。
アリナが住んでいたアパートが、不運な魔物被害(あるいはアリナの処刑活動の余波)で、一部損壊するという事件が起きた。
「……ありえない。最悪。死ね。今すぐこの瓦礫ごと、世界を平らにしてやりたいわ!!」
避難勧告が出されたアパートの前で、アリナは神器を握りしめて震えていた。住む場所を失えば、明日からの完璧な出勤も、ゼノスとの密会も、すべてが崩れる。
「……アリナ」
背後から、ゼノスの声がした。彼は職場の緊急連絡を受け、真っ先に駆けつけていた。
「ゼノス……。……私、もう終わりよ。定時も、隠居計画も、全部この瓦礫の中に埋まったわ……」
絶望するアリナを、ゼノスは迷うことなく抱き寄せた。周囲にはまだ野次馬もいたが、彼は気にしなかった。
「……僕の家に来いよ、アリナ」
「……え?」
「僕の家は、この近くに借りている一軒家だ。部屋も余っている。……何より、君の正体を隠し通すには、別々に住むより一緒にいる方が効率がいい。……僕が君を、24時間体制で隠蔽(ガード)してあげる」
ゼノスの琥珀色の瞳は、かつてないほど真剣だった。
「……効率。……そうね。……確かに、それが一番合理的だわ」
アリナは、顔を真っ赤にしながらも、その提案に飛びついた。
(違う。効率なんて、本当はどうでもいい。……私はただ、この男の隣にいたいだけ。私の毒を笑って受け流し、私の力を恐れず、私のすべてを肯定してくれるこの男の……ゼノスの腕の中にいたいだけなのよ!)
「……いいわよ。住んであげる。……でも、言っておくけど、私は家事全般、一切手を抜かないわよ。あなたが逃げ出したくなるくらい、完璧にあなたの生活を支配してあげるんだから!」
「……。……それは楽しみだね」
その夜、アリナは必要最低限の荷物を持って、ゼノスの家へと移り住んだ。
初めて入ったゼノスの家は、彼らしく整然としていたが、どこか少し寂しい場所だった。
「……よし。まずはここを、私の理想の拠点にするわよ。……ゼノス、手伝いなさい。まずは、その汚いカーテンを全部買い換えるところからスタートよ!」
「……えー。……定時後は休みたいんだけど……」
「ダメに決まってるでしょ! ほら、動いて!!」
口では毒を吐きながらも、アリナの心は、かつてないほどの幸福感に満たされていた。
窓口では見せない、本当の笑顔。
ゼノスという「盾」を得て、処刑人アリナは、自分だけの安息の地を手に入れたのだ。
翌朝、二人は同じ家から、数分の時間差をつけてギルドへと出勤した。
窓口で顔を合わせた瞬間。
「おはようございます、ゼノスさん。備品の補充、ありがとうございます(微笑)」
「おはよう、アリナさん。……今日も、よろしくお願いします」
交わされる視線の中には、誰にも知られてはならない「共犯者の熱」が宿っていた。
これが、現在へと続く二人の、甘くて毒々しい「定時退勤生活」の真の始まりだったのである。
【次のステップ】
「一緒に住むことになった経緯」を長編でお届けしました。
「同棲初日の夜、どちらが先に折れるか(甘えるか)」
アリナが気合を入れて作った「初日の晩餐」と、その後の甘い時間。
「一緒に住んでいることがバレそうになる、ギルド内でのハプニング回」
などを妄想中