ギルドの受付嬢ですが、残業が嫌なので定時に帰ろうと思います 作:can'tPayPay
引越し、という名の拠点確保。
ゼノスの家は、王都の静かな住宅街にある、派手さはないが堅牢な造りの一軒家だった。
アリナは荷解きを終えるなり、エプロンをきつく締め直し、戦場に向かうような形相でキッチンに立っていた。
(――……いい? これは、私の『支配』の始まりよ。ゼノスの胃袋を完璧に掌握し、この家を私の定時退勤後の聖域に作り変えるの。あの大盾騎士も、無能な冒険者も、誰も踏み込めない二人の要塞……! その第一歩が、この晩餐なのよ!!)
包丁がまな板を叩く音が、規則正しく、かつ恐ろしい速さで響く。
数十分後。テーブルに並べられたのは、ゼノスの好物を中心に、栄養バランスと彩りを極限まで突き詰めた「完璧な夕食」だった。
「……できたわ。ゼノス、座りなさい。私の実力を、その舌で思い知ればいいわ」
「……。……すごいな。ギルドの報告書より美しく盛り付けられてる……」
ゼノスは呆気にとられたように席に着いた。二人は向き合い、まだ少し「他人」の距離感を残したまま、静かに食事を始める。
「……美味しいな。アリナ、君は本当に、何をやらせても超一流だ」
「……当たり前じゃない。……ねえ、ゼノス。味付け、濃くない? 疲労回復にいいスパイスを調合したんだけど……」
アリナは平静を装いながらも、ゼノスの反応を一挙一動逃さず観察していた。
いつもなら、毒を吐いてゼノスの反応を楽しんでいるはずなのに。いざ、彼のプライベートな空間で、彼のためだけに料理を振る舞うという状況に、アリナの心臓は窓口でのクレーム対応よりも激しく鼓動していた。
【食後:崩壊する均衡】
食器の片付けを終え、ようやく一段落した時。リビングのソファに座るゼノスの隣に、アリナはおずおずと腰を下ろした。
静寂が流れる。
いつもなら路地裏で「抱っこ!」とせがむ時間だが、ここは「家」だ。逃げ場のない、本当の意味での二人きりの空間。
(――な、なによ……。なんでこんなに緊張してるのよ、私。処刑人として数々の魔物を粉砕してきた私が、ただの事務員の隣に座るだけで、指先が震えるなんて……! 死ね、私の心臓! 今すぐ静止して落ち着きなさい!!)
アリナが膝の上で拳を握りしめていると、不意にゼノスの手が、彼女の頭に置かれた。
「……アリナ。もう、外面はいいんだよ。ここは僕たちの家なんだから」
その一言が、アリナの張っていた「意地の糸」をぷつりと切った。
「……っ。……ゼノスのバカ!! 遅いわよ!!」
アリナは叫ぶように毒を吐くと、勢いよくゼノスの胸に飛び込んだ。
ゼノスの事務服ではない、柔らかな部屋着の感触と、彼自身の温もりが、アリナの強張った心を一瞬で融解させる。
「遅い! 遅すぎるわ! 私がどれだけ緊張してたと思ってるのよ! 完璧な料理作って、完璧な同居人になろうとして……! なんであなたから先に『お疲れ様』って言ってくれないのよ!! バカ! 節制バカ! 琥珀色の瞳をした、世界で一番憎たらしい私の調整役!!」
「はは、ごめん。……君が隙のない動きで家事をこなすから、僕も少し気後れしてたんだ」
ゼノスは苦笑しながらも、アリナの背中に腕を回し、彼女を包み込むように強く抱き寄せた。
「……。……ん。……ゼノス、いい匂い。……あーあ、もうダメ。私、明日から仕事に行きたくない。このまま、ここで、あなたに甘やかされて、一生タルトだけ食べて暮らしたい……」
アリナはゼノスの首筋に顔を埋め、子供のように擦り寄る。ゼノスは彼女の髪を指で梳きながら、耳元で優しく、それでいて逃がさないような声で囁いた。
「いいよ。仕事が嫌なら、僕が君の分まで書類を捌いてあげる。……でも、アリナ。君がいなくなると、僕の毎日が退屈になっちゃうんだ。……だから、明日も一緒にギルドに行こう。帰りは、今日よりもっと甘いお菓子を買ってあげるから」
「……。……卑怯よ。そうやって、事務的に私を納得させるんだから……」
アリナはゼノスの胸を小さく叩いたが、その顔は、窓口での「鉄の笑顔」でも、戦場での「処刑人の顔」でもない。
ただ一人、愛する男にすべてを委ねた、甘く蕩けた「恋する乙女」の顔だった。
「……ねえ、ゼノス。今夜は、私が寝るまで手を離さないで。……あと、さっきの料理の感想、もう一回、もっと詳しく言いなさいよ。私の努力を、言葉にして全部私に注ぎ込みなさい!」
「はいはい。……君のスープは、僕の人生で一番、毒(スパイス)が効いてて、最高に美味しかったよ。アリナ」
二人の影が月明かりの中で重なる。
共犯者としての契約を超え、二人が本当の意味で「運命共同体」となった、甘くて少しだけ騒がしい、同棲初夜の出来事だった。