ギルドの受付嬢ですが、残業が嫌なので定時に帰ろうと思います 作:can'tPayPay
それは、平穏な朝を切り裂く一言だった。
「――ゼノス。隣町の支部で帳簿の不整合が起きた。お前の腕が必要だ。三日間、出張に行ってこい」
ギルド長の無慈悲な命令に、アリナは持っていた羽ペンを指の力だけで粉砕した。
(――死ね。今すぐ隣町の支部ごと地割れに飲み込まれて消えてしまえ。三日間? 私とゼノスの共有時間を、そんな低俗な計算ミスの修正のために奪うっていうの!? 私の酸素が、私の精神安定剤が、三日間も不在になるなんて、王都の治安が崩壊しても知らないわよ!!)
「……了解しました。アリナさん、そういうわけですので。……あとのことは、よろしくお願いします」
ゼノスはいつも通り淡々としていたが、立ち去り際、アリナだけに聞こえる声でそっと告げた。
「……冷蔵庫に、三日分の献立を仕込んでおいた。温めるだけでいいようにしてあるから。……いい子で、待っていて」
「……。……ええ。お気をつけて、ゼノスさん(微笑)」
(――無理。一秒で無理。今すぐあの支部を戦槌で更地にして、ゼノスを拉致して帰りたいわ!!)
【出張初日:崩壊する仮面】
ゼノスが不在の窓口。
それはアリナにとって、防波堤のない荒波の中に立たされるようなものだった。
「おい、この依頼の報酬だけど――」
「あ、すいません、書類の書き方教えてください!」
(――……死ね。死ね死ね死ね死ね!! なんでどいつもこいつも、私に直接聞きに来るのよ! ゼノスがいれば、あんたたちが口を開く前に『不備』として追い返してくれたのに!!)
アリナの笑顔は、もはや恐怖映画のそれのように引き攣っていた。
彼女を支えていたのは、ゼノスの有能さではない。ゼノスという「存在」が隣にいることで保たれていた、彼女自身の理性だった。
その夜。誰もいない冷たい家で、アリナはゼノスが残した「月曜日の夕食」をレンジで温めた。
一口食べると、ゼノスがいつも作ってくれる、少し控えめな塩加減と優しい出汁の味がした。
「……。……美味しくない。……一人で食べても、ちっとも美味しくないじゃない……」
アリナはテーブルに突っ伏し、ゼノスの部屋着を抱きしめながら、一晩中呪詛と寂しさを吐き出し続けた。
【出張二日目:静かな暴走】
二日目。アリナの殺気は、もはや隠しきれるレベルを超えていた。
ギルドのロビーには不自然な静寂が漂い、冒険者たちは「今日のアリナさんはヤバい」と察して、誰一人として彼女の窓口に近寄ろうとしない。
そこへ、隣町のゼノスから一通の魔導メールが届いた。
『――アリナ、調子はどうかな。こっちは順調だ。明日の昼には帰れると思う。……君のいない夜は、少し部屋が広すぎて落ち着かないよ』
(……。……バカ。……バカゼノス。そんなの、今すぐ帰りたくなるようなこと書くんじゃないわよ……!)
アリナは顔を真っ赤にしながら、猛烈な勢いで返信を叩き込んだ。
『一分一秒でも早く帰りなさい! さもないと、あなたのデスクを私の魔力で粉砕して、ギルドを強制閉鎖させてやるんだから!! 早く私を甘やかしなさい! 早く私の毒を全部受け止めなさいよ!!』
【出張三日目:帰還と、再会の抱擁】
三日目の昼。ギルドの自動ドアが開いた瞬間、アリナは窓口から飛び出しそうな勢いで腰を浮かせた。
現れたのは、少しだけ疲れた顔をしたゼノスだった。
彼はギルド長への報告を済ませると、まっすぐにアリナの元へ歩み寄った。
「……ただいま、アリナさん。……書類の整理、手伝いますよ」
「……。……おかえりなさいませ、ゼノスさん(微笑)」
(――……っ!! ゼノス! ゼノスゼノスゼノス!! 今すぐここで押し倒して、あなたの匂いを全部吸い尽くしてやりたいわ!! よくも私を三日も放置したわね! この有能すぎるバカ!!)
【夜:要塞の甘い制裁】
帰宅し、玄関の鍵が閉まったその瞬間。
アリナはゼノスを壁に押し当て、全力でその胸に飛び込んだ。
「二度と! 二度と出張なんて行かせないんだから!! 行くなら私を鞄に詰めて連れて行きなさいよ!!」
「……ごめん。僕も、君の毒を浴びないと、どうにも調子が狂ってしまってね」
ゼノスはアリナを抱き上げ、彼女の背中を愛おしそうになぞった。
「……三日間、よく頑張ったね。……今夜は、君が満足するまでずっと、隣にいるよ」
「当たり前よ! 明日の朝まで一歩も離さないから! 私が寝ぼけてあなたの腕を噛みちぎっても、絶対に逃げないでよね!!」
「……それは痛そうだけど、検討しておくよ」
二人は三日間の空白を埋めるように、深く、重く、混ざり合った。
隣にいるのが当たり前。毒を吐くのも、それを受け止めるのも、二人でなければ成立しない。
共犯者の夜は、月明かりよりも濃厚な甘さに包まれて更けていくのだった。