ギルドの受付嬢ですが、残業が嫌なので定時に帰ろうと思います 作:can'tPayPay
ギルドに、甘く、そしてどこか殺伐とした空気が漂う日。年に一度の「感謝を伝える祭日」――バレンタインデーでした。
(――死ね。死ね死ね死ね。何よこの甘ったるい空気は。街中が媚薬でも撒かれたかのように浮かれて……)
アリナは苛立ちを隠せないまま、窓口の業務をこなしていました。しかし、彼女の神経を逆撫でする最大の原因は、そのすぐ隣にいる「有能すぎる事務員」ゼノスでした。
「ゼノスさん! いつも素敵な笑顔をありがとうございます! これ、ほんの気持ちです!」
「ゼノス様! 先日は帳簿のミスを助けてくださって! 手作りなんですけど……!」
「ゼノスさん、これ! 国外から取り寄せた最高級のチョコレートなんです!」
山のようなチョコレートの山。
ゼノスのデスクの上には、朝から途切れることなく届けられる「感謝のしるし」が、もはや事務作業の邪魔になるほどに積み上がっていました。冒険者、商人、他の職員、中には王都からの視察官までもが、媚びるような笑顔で彼にチョコレートを差し出していくのです。
「……ゼノス。あんた、いい加減にしろ」
アリナはデスクの仕切り板を叩き割りそうな勢いで、ゼノスを睨みつけました。彼女の腹の中には、二人にとってかけがえのない「小さな命」が宿っているというのに、彼を取り巻く女たちの視線は、まるで獲物を漁るハイエナのようでした。
「……。……これは『業務上の評価』だろう、アリナ。すべて事務的な感謝の意だ。……それに、これはすべて君と、君のお腹の子のための栄養補給になると考えている」
ゼノスはそう言って、チョコレートの山の中から一つを手に取り、無言でアリナの口元へと差し出しました。その顔は、いつも通りの「死んだ魚の目」の事務員スマイル。しかし、アリナの視界には、その背後でひそひそと笑い合う女たちの姿が映っています。
(――食べられるわけないでしょうが!! 他の女からの「穢れた愛」を、私の口に入れるわけないでしょ!!)
アリナはゼノスの差し出したチョコレートを、はたき落としました。ギルド中がシン、と静まり返ります。
「……結構よ。そんなもの。……あんた、調子に乗らないで。私が渡すまで、あんたは私以外のどんなチョコも受け取るんじゃないわよ!!」
そう吐き捨てて、アリナは苛立ち紛れに、窓口に置かれていた依頼書を数枚、指先だけで切り裂いてしまいました。その威圧感に、ようやく冒険者たちは我に返り、逃げるように去っていきます。
一日の終わり:渡せなかったチョコレート
業務が終わり、ゼノスのデスクの上には、相変わらずチョコレートの山が築かれていました。
アリナは帰り支度をしながら、チラリと横目でその山を見やります。
(……フン。これだけ貰っておいて、一体どこの誰から、本命のチョコレートをもらうのかしらね)
彼女のポシェットの奥には、秘かに用意していた「手作りチョコレート」が隠されていました。
それは、アリナがゼノスのために、生まれて初めて「誰かのため」に作った、不格好ながらも愛情が込められた一品でした。王都のパティシエからレシピを強奪し、魔力で温度を完璧に管理し、試作の末にできた、まさに「血と汗と砂糖の結晶」とも呼べる代物。
しかし、今日のこの状況で、それを渡すことなどできるはずがありませんでした。
他の女たちの「感謝のしるし」で溢れかえるゼノスのデスク。そんな場所で、彼女の、たった一つの「本命」を晒すことなど、アリナのプライドが許さなかったのです。
「……ゼノス。今日の業務、お疲れ様。……さっさと帰りましょう。私の家で、あんたの「事務的ミス」を徹底的に糾弾してやるから」
アリナはそう言って、ゼノスの返事も待たずにギルドの扉を開けました。
彼女の心の中には、渡せなかったチョコレートの甘さと、ゼノスに向けられた無数の視線への嫉妬が、ドロドロとした溶岩のように渦巻いていました。
夜の帳:拗ねる処刑人
自宅。
夕食を終えても、アリナの機嫌は直りませんでした。普段ならゼノスを煽ったり、彼からの甘い愛撫を受け入れたりする時間にも関わらず、彼女はソファーの隅で、ゼノスに背を向けて拗ねたままです。
「……アリナ。何か気に触ることでもあったかい?」
ゼノスが、優しく声をかけます。
彼は、アリナの機嫌の悪さの原因が、ギルドで大量に受け取ったチョコレートにあることを、もちろん理解していました。そして、彼女が自分に何かを渡したがっていることも。
「……別に。何も。……ただ、この部屋の空気が、やけに甘ったるく感じるだけよ。……吐き気がするわ」
アリナの口から出るのは、いつもの毒舌。しかしその声には、普段の「強がり」とは異なる、どこか寂しげな響きがありました。
「……そうか。……では、その『甘ったるい空気』を、僕が責任を持って『処理』しよう」
ゼノスはそう言って立ち上がると、無言でリビングの明かりを消し、静かにクローゼットの奥から何かを取り出す気配がしました。アリナは訝しげに、背中越しに彼を見やります。
(……何よ。急に。……また訳の分からない魔導具でも出してくるつもり?)
やがて、ゼノスが再びアリナの傍らに戻ってきました。
彼の腕には、大きなガラス製のボウルが抱えられています。そして、その中には――昼間、ギルドで彼がもらいまくった、数え切れないほどのチョコレートが、湯気と共にドロドロに溶かされていました。
「……っ!? な、何よこれ! あんた、なんでそんなものを……」
アリナは驚いて、思わずゼノスの顔を見上げました。
彼の瞳は、暗闇の中で琥珀色に輝き、しかしその表情は、いつになく真剣で、そして優しいものでした。
「……アリナ。僕にとって必要なチョコレートは、君からのものだけだ。……だが、君は僕に、何も渡してはくれなかった。……だから、他の女たちの『感謝のしるし』など、僕には必要ない」
ゼノスはそう言うと、溶けたチョコレートのボウルをソファーの前のローテーブルに置きました。
そして、その熱気を帯びた液体の中に、ゆっくりと指を差し入れました。
「……。……。……今から、僕が君に、僕からの『愛』を贈ろう。……君の、その『甘ったるい空気』を、僕が僕の色で、徹底的に塗り潰してあげる」
ゼノスはそう言って、チョコレートまみれになった指を、アリナの頬にそっと押し当てたのでした。