岩山の陰、朝日が昇る直前の群青色の静寂。
野営地の焚き火はとうに消え、冷たい風が砂埃を運んでいる。連は、隣で丸くなって寝息を立てる躯(ムクロ)を横目で一瞥した。
昨夜、あれほど狂気に満ちた執着を見せ、連の身体を弄り回そうとした少女は、今はただの年相応な子供のように無防備な顔で眠っている。彼女の剥き出しの肌に刻まれた口寄せの術式が、朝露に濡れて鈍く光っていた。
連は音もなく立ち上がり、彼女から距離を置いた。
「暁」の外套を翻し、さらに岩を数隔てた、人目のつかない窪地へと向かう。
一年前、里を捨てて以来、彼は一度も「彼女ら」を呼んでいなかった。
自分のような血塗れの汚れた手が、あの清浄な毛並みに触れる資格などないと思っていたからだ。だが、今朝はなぜか、胸の奥に眠る「連」という名の残滓が、どうしようもなく彼女らを求めていた。
連は震える指先で噛み切り、血の滲む親指を地面へ叩きつけた。
連「……口寄せの術」
ドォン、という重厚な煙とともに、三つの巨大な気配が窪地を満たした。
煙が晴れる。
そこには、連の記憶と少しも変わらない、誇り高き彼女らがいた。
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連「……っ!」
まず動いたのは、白銀の毛並みを持つ巨虎、**ティアラ**だった。
彼女は姿を現した瞬間、連の放つ異臭と、漆黒のチャクラ、そして血に染まった「暁」の姿に一瞬だけ鼻を鳴らした。だが、驚きや拒絶はなかった。彼女は巨大な頭を低く下げると、連の細い腰に強引に頭を擦りつけ、彼を押し倒さんばかりの勢いで甘え始めた。
「グルルゥ……ゥ、ウゥン……」
連「……よせ、ティアラ。服が汚れる……」
連の声は、自分でも驚くほど低く、震えていた。
だが、ティアラは止まらない。ザラついた巨大な舌で、連の頬の汚れを、血の跡を、丁寧に、そして力強く舐めとっていく。彼女にとって、主人がどれほど闇に落ちようと、どれほど不衛生な姿になろうと、彼は世界に一人だけの愛すべき主人(パパ)なのだ。
上空からは、金色の瞳を持つ大鷲、**アロー**が旋回しながら降りてきた。
彼女は鋭い爪を地面に立てると、連の肩にそっとその大きな嘴を寄せ、髪の毛を梳くように優しく羽繕いを始めた。
連「……アロー、お前まで」
そして、連が最も驚いたのは、三体目の気配だった。
ティアラの背後から、三つの尾を揺らめかせ、優雅に歩み寄ってきたのは、死んだはずのモモカの相棒――妖狐、**九重(ここのえ)**だった。
連「九重……? なぜ、お前が……」
本来、契約者であるモモカが亡くなれば、その契約は一度白紙に戻るはずだ。だが九重は、吸い込まれるような碧い瞳で連を見つめた。
彼女は静かに連の膝元に座ると、その前足で連の「永遠の万華鏡写輪眼」の付近を優しく叩いた。
九重「(『……主よ。モモカは……主の中にいる。ならば、妾の居場所も、ここ以外にはあるまい』)」
言葉にはならないが、九重の意志が連の脳内に直接流れ込んできた。
九重は知っているのだ。連の眼の中に宿るモモカのチャクラを。彼女は、親友であったモモカの一部を守るために、自ら連との再契約を望んだのだ。
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連は、膝を折って地面に座り込んだ。
巨虎のティアラは連の腹を枕にするように寝そべり、大鷲のアローは大きな翼を広げて、冷たい朝の風から連を隠すように覆った。そして九重は、連の膝の上に飛び乗り、丸くなって彼の手に鼻先を埋めた。
連「…………」
連は、一年間一度も洗っていなかった、フケと泥で束になった自分の髪に触れた。
ナルトはそれを「化け物」と呼び、出雲は「絶望」した。
だが、彼女たちは違う。
連は、震える手でティアラの耳の付け根を、アローの首筋を、そして九重の柔らかい腹を、交互に撫でた。
指先に伝わる、力強い鼓動。生きているものの、熱い体温。
それは「暁」という闇の世界にも、復讐という冷たい戦場にも存在しない、唯一の「生」の証だった。
連「……すまない。……こんな姿になって」
連の言葉に、ティアラが大きな前足で彼の腕を「ギュッ」と掴んだ。行かないでくれ、と懇願するような、無垢な愛の形。
九重は連の汚れた服を気にする様子もなく、その長い尾で連の首元を温めた。
九重「(『主よ……。妾たちは、主の眼を視てはおらぬ。主の魂の、その底に淀む悲しみだけを視ておるのだ』)」
九重の思念が、連の張り詰めていた神経を、解きほぐしていく。
連は彼女たちの温もりに顔を埋めた。
万華鏡の眼は、どんな遠くの敵も、どんな微細なチャクラも捉えることができる。だが、この「すぐ側にある温もり」だけは、その眼では捉えられないものだった。
連「……まだ、暖かいんだな」
連の独り言に、アローが小さく鳴き、同意するように翼をはためかせた。
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一時間ほど経っただろうか。
地平線から太陽が顔を出し、周囲がオレンジ色に染まり始めた。
連の表情からは、先ほどまでの穏やかさが消え、再び冷徹な「暁」の忍の顔が戻っていた。
連「……時間だ。戻れ」
連が静かに告げると、彼女たちは名残惜しそうに鼻を鳴らし、連の身体を最後にもう一度強く擦りつけた。
ティアラは「いつでも呼べ」と言うように連の手を甘噛みし、アローは空高く舞い上がってから霧散した。
最後に残った九重は、連の目をじっと見つめ、一鳴きしてから姿を消した。
窪地には、再び連一人が残された。
だが、その心には、先ほどまで彼女たちがいた場所の「熱」が、確かに残っていた。
連「……ふぅ」
連は立ち上がり、外套の襟を立てた。
汚れきった身体、血に染まった手。それは変わらない。
だが、彼女たちの愛に触れたことで、連は「自分がまだ人間であること」を思い出した。それが救いなのか、それとも復讐を鈍らせる毒なのかは分からない。
躯「おはよ、連。……朝からどこ行ってたの?」
岩の影から、目をこすりながら躯が顔を出した。
彼女は鼻をヒクつかせると、不思議そうに首を傾げた。
躯「……あれ? あなた、さっきより『いい匂い』がする。血の臭いじゃない、なんだか……懐かしい、お日様みたいな匂い」
連「……気のせいだ。行くぞ、次の標的は北の街だ」
連は冷たく言い放ち、躯の横を通り過ぎた。
躯は「えー、教えてよー!」と不満そうに追いかけてくるが、連は二度と振り返らなかった。
その瞳の奥――万華鏡の深淵で、モモカの魂が微かに笑ったような気がした。
連は漆黒の雷を指先に宿し、再び闇の荒野へと歩みを進める。
彼女たちから貰ったわずかな温もりを、氷のように冷たい復讐の炎で覆い隠しながら。
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