櫛田桔梗は水筒を外したい〜笑い事じゃないわよ、こっちは真剣なんだから〜 作:すとらく
無機質なLED照明が照らす女子寮の一室。
私の右手には、水筒がハマっていた。
(は? なんなのこれ。意味が分からないんだけど)
断水のせいで無理に洗おうとして、私は自分で自分を詰ませてしまった。
(なんで私がこんなのに手を焼かなきゃいけないわけ? これじゃ何もできないじゃない!)
もし、この姿を誰かに見られたら?
(完璧に取り繕ってきた私が、水筒一つで詰むとか冗談でしょ)
そのとき――。 廊下の方から、微かに声が漏れ聞こえてきた。
「……だから、それは違うだろ」
「あなたはいつもそう!」
その声に、私の眉がピクリと跳ねる。 小声だが、耳障りなほど聞き覚えのある声。
私は水筒のついた右手を庇いながら、音を殺してドアに近づき、数ミリだけ隙間を開けて廊下を覗き見た。
視線の先、堀北鈴音の部屋の前。
綾小路清隆と堀北鈴音が、何やら深刻そうな顔で言い争っている。
(チッ、またあの二人か。相変わらずコソコソと……)
(って、それどころじゃないわよ私!)
思考を中断し、さらに視線をずらした瞬間、私の心臓が大きく跳ねた。
廊下の曲がり角、自販機の影。
そこに、Cクラスの伊吹澪が潜んでいた。
彼女は獲物を見つけた野良猫のような、獰猛で意地の悪いニヤけ面で二人を観察している。
だが、私の目が釘付けになったのは、彼女の表情ではない。
(……は?)
伊吹の片手に、銀色の円筒が嵌まっていた。
完全に。私と全く同じ状態で。
(嘘でしょ? なにあれ。流行ってんの?)
思わず左手で口元を押さえる。
笑ってはいけない。
いや、笑える状況ではないのだが、あまりの馬鹿馬鹿しさに頬が引きつる。
あの好戦的な伊吹が、水筒を腕に装備してスパイごっこをしているなんて。
伊吹は自分の手枷を一瞬だけ忌々しげに睨んだあと、すぐにまた堀北たちの方へ視線を戻し、愉悦に歪んだ笑みを浮かべた。
(あの女……人のこと見てる場合じゃないでしょ。バカなの?)
だが同時に、私の胸中に奇妙な予感が走る。
私だけじゃない。この寮で、水筒に捕食された被害者が、少なくとももう一人いる。
(これ、墓場まで持っていく案件だと思ってたけど。……伊吹がああなら、もしかして?)
私はそっとドアを閉め、冷たいドアに背中を預けた。
……いいわ。この際、徹底的に『観察』させてもらうわよ
作り笑顔を浮かべる余裕はまだない。 けれど、私の脳内では既に、冷徹な計算が始まっている。
(この状況、ただの恥で終わらせるつもりなんてないんだから!)
* * *
……駄目だ。 何をしても抜けず、音を立てれば人生が終わると分かっていた。
私は一度深く息を吸い込み、腹の底に渦巻く罵倒を飲み込んだ。
意を決して、そっとドアを開ける。
足音を殺し、廊下の物陰に潜む伊吹の背後へ、音もなく忍び寄る。
「……伊吹さん」
限界まで声量を落とし、怯えた小動物のような声を演出する。
伊吹さんは一瞬だけビクリと肩を震わせ、振り返ると同時に面倒くさそうに眉をひそめた。
「あ? 今いいとこなんだけど」
(いいとこって……その手でよく言えるわね、この単細胞)
私は内心で毒づきながら、身振りで“静かに”と合図を送り、堀北たちの死角になる位置へと彼女を誘導した。
「ちょっと……その……見つからないように話したくて」
おどおどとした態度を見せると、伊吹さんは急にニヤリと口角を吊り上げた。
「なに? あんたも見物しに来たわけ?」
そう言って、彼女はくいっと自分の右手を持ち上げて見せた。
――当然、そこには銀色の水筒。
「ぷっ……あはは。ねえ知ってる?」
伊吹さんはまるで共犯者に秘密を打ち明けるように、声を潜めて囁いた。
「堀北のやつ、水筒に手がハマって抜けないんだって」
(……はい?)
一瞬、脳の処理が追いつかなかった。
「笑えるわよね。あの優等生サマがさ。さっき偶然聞いちゃってさ~」
伊吹さんは肩を震わせ、必死に笑いを噛み殺している。
「必死で綾小路に相談してんの。“誰にも言わないで”とか、いつものすました真顔で」
(ちょ、待って……。堀北も!? え、じゃあこの階で、水筒被害者三人目!?)
頭の中で、パズルのピースがカチリと音を立てて嵌まった。
私。伊吹さん。そして――あのプライドの塊、堀北鈴音。
(なにこの呪い……。この寮、何かに祟られてるんじゃないの? いや、そんなことはどうでもいい)
私は思わず自分の右手を見てしまい、慌てて背中に隠した。
だが、鼻が利く単細胞が、そんな私の不自然な挙動を見逃すはずがなかった。
「……あんた、まさか」
じっと、私の背中に隠した手元を探る視線。
(マズい。鋭すぎる……! ここでバレたら、絶対面白がられる……! 一生のネタにされる!)
廊下の向こうでは、相変わらず小声で言い合う堀北と綾小路。
目の前には、笑いを堪える意地悪な伊吹さん。
(これ……最悪の状況ね。でも――)
私の脳内に、最悪で最高の妙案が浮かんだ。
(使い方次第で、最高のカードになるかもしれない……)
私は唇を強く結び、覚悟を決めた。
(……決めた。やるなら徹底的にやるわ)
私は伊吹さんに目配せをして、堀北たちの視界から完全に死角になる位置へと回り込んだ。
ポケットからスマホを取り出し、マナーモードを確認。カメラアプリを起動する。
――画面越しに映ったのは、傑作としか言いようがない光景だった。
何を考えているのか読めない無表情で、言い訳じみたことを並べる綾小路。
腕を組み、苛立ちを隠そうともせずに立つ堀北。
そして――机の上に鎮座した水筒に、がっちりと固定されている堀北の手。
(……うっわ。無様すぎて笑いも出ないわね)
カシャ。 一枚。
角度を変えて、堀北の焦燥が一番よく見えるアングルでもう一枚。
(証拠、確保。……ごめんね堀北さん。でもこれは貴女が隙を見せたのが悪いのよ。)
(非常時だもの、有効活用させてもらうわ)
私はすぐにスマホをしまい、演技がかった大きなため息をついて見せた。
それから、私たちは二人で並び、自分たちの手枷と向き合った。
思いつく限りの方法を試したが、全部無駄だった。
「……クソ、びくともしない」
伊吹さんが苛立たしげに舌打ちをする。
(分かるわよその気持ち。私もさっきから、この忌々しい鉄塊を窓から投げ捨てたくて仕方ないもの)
「石鹸とかあればいいんだけど……」
「寮の廊下でそんなもん使えないでしょ」
二人して黙り込む。右腕の水筒が、鉛のように重く感じる。
重苦しい沈黙を破ったのは、伊吹さんだった。
「他のやつに聞くしかないか」
(は?)
「例えば――龍園とか」
その名前を聞いた瞬間、私は反射的に首を横に振った。
「駄目!!」
声が裏返りそうになり、慌てて口を押さえる。
(……っ、龍園なんて、死んでも嫌よ!)
(危ない。本音が漏れるところだった)
「龍園くんは絶対ダメ。石崎くんも同じ。アルベルトくんとか、あの取り巻き連中は論外よ」
伊吹さんが不満げに眉をひそめる。
「なんでよ」
「その時点で、龍園くんに全部伝わるからよ」
(想像しただけで吐き気がする。あいつの玩具にされて、ネタとして消費されるとか!)
伊吹さんは一瞬考え込み、やがて不快そうに舌打ちをした。
「……確かに。あいつら、口軽いしな」
「でしょ?」
廊下の向こうでは、まだ堀北たちが不毛な議論を続けている。
(時間が経つほど、状況は悪くなる。誰か、信頼できて、口が堅くて……しかも変に騒ぎ立てない、操りやすい人間……)
そのとき。 伊吹さんが、ぽつりとこぼした。
「……じゃあさ」
「椎名ひよりは?」
(……ひよりちゃん)
秘密を「噂」にせず、「情報」として処理してくれる数少ない人間。
(確かに。この泥沼の中で、唯一“安全”かつ“無害”な選択肢かもしれないわね)
私は少しだけ考えるふりをして、ゆっくりと頷いた。
「……ひよりちゃんなら、いいかも」
ただし――この馬鹿げた状況をどう説明するかは、最大の難関だけれど。
私は水筒が嵌まった右手を見つめ、覚悟を決めた。
(もう恥とか言ってられない。これ以上、事態が広がって私の評価が地に落ちる前に何とかしないと)
ふふ。利用できるものは、何だって使わせてもらうわよ。
* * *
廊下の向こうで動きがあった。
「……入るわよ」
堀北が低く告げ、綾小路を引き連れて自室へと入っていく。 ドアが閉まる音が、廊下に響いた。
(……よし。これで当面、あの二人は出てこない)
私はすぐにスマホを取り出し、メッセージアプリを起動した。
宛先は椎名ひより。ひよりを釣るための、とっておきの善人メールを送る。
『ひよりちゃん、今ちょっと相談したいことがあって。もしよかったら、今すぐ私の部屋に来てもらってもいいかな?』
送信。頼むから、面倒なこと言わずにすぐ来てちょうだい。
数秒後、既読がついた。
『はい、大丈夫ですよ。ちょうど読み終わった本を返しに行こうと思っていたところでした。すぐに向かいますね』
(……よし。チョロいわね)
ひよりちゃんなら大丈夫――そう信じるしかなかった。
「ひよりちゃん、今からこっちに来てくれるって」
伊吹さんに小声で伝える。
「へぇ、案外早いじゃん」
そのまま二人で、私の部屋へ戻る。
今は下手に廊下に立っている方が危険だ。
誰かに見られたら弁解のしようがない。
自室に入り、ドアを閉めた瞬間――。
「っはははははは!!」
爆発音が響いた。
伊吹さんだ。今まで我慢していた笑いが決壊したらしい。
彼女は私のベッドに遠慮なく腰を下ろし、私のスマホを勝手に奪い取って覗き込みながら、腹を抱えて笑い転げている。
「ちょ、ちょっと伊吹さん……!」
(やめろ!声がデカいってのよ、この迷惑女!)
「だってさぁ!! これ!! これ反則でしょ!!」
画面に映っているのは――水筒に手がハマったまま、真剣な顔で説教を垂れている堀北鈴音の姿。
「なにその顔!! "冷静沈着"が聞いて呆れるわ!! 自分が一番マヌケなこと自覚してんのかしら!?」
「もう……!」
私は顔が熱くなるのを感じながら、スマホを取り返そうとする。
(撮ったのは私だけど……改めて見ると、確かに破壊力が凄まじいわね。あの澄ました顔でこのザマ。傑作すぎる)
「いやー、最高。この写真だけでご飯三杯いけるわ」
「いかないで!」
伊吹さんは目尻に浮かんだ涙を拭いながら、私の手――水筒付き――をちらっと一瞥した。
「で?」
「……なに」
「あんたも、同類でしょ」
(うっ)
痛いところを突かれた。
「言わないで……」
「ははっ。あの堀北と、あんたと、私。三人揃って仲良く水筒仲間かよ」
(最悪の括り方しないでよ。あんたたちみたいな社会不適合者と一緒にしないで。)
一瞬、部屋に静けさが戻る。
私たちはそれぞれ、自分の腕に食いついた銀色の水筒を見つめる。
(笑ってる場合じゃない。こんなの、ただの悪夢よ。でも……)
「ひよりが来るまで、どうする?」
伊吹さんが退屈そうに言う。
「静かに待つしかないよ。絶対、誰にも見せないで……」
「分かってるって。まあ、堀北の写真は別だけどな」
(別にしないでよ! 私のスマホに入ってるんだから、流出したら私が疑われるでしょ!)
外は相変わらず静かだ。
だが、この部屋の中だけ、奇妙な連帯感と、今にも破裂しそうな爆弾級の秘密が詰まっていた。
私はドアの方を見つめる。
(ひよりちゃん。どうか、このふざけた状況を打破する救世主であってちょうだい。もし役に立たなかったら……その時は承知しないから)
――コン、コン。
控えめなノックの音が、密室となった私の部屋に響いた。
救世主か、あるいは破滅の使者か。 私は深呼吸をして、営業用の笑みを顔に張り付けた。
「……はい、どうぞ。開いてるよ」
運命のドアが、ゆっくりと開かれる。
(来た!タイミングだけは完璧ね、ひよりちゃん)
私は反射的に背筋を伸ばし、顔面の筋肉を総動員して「クラスのアイドル・櫛田桔梗」の仮面を焼き付ける。
右腕の水筒を、不自然に見えないよう必死に背中へ回し、左手だけでドアノブを握りしめた。
「ひ、ひよりちゃん。ありがとう、来てくれて」
声帯を調整し、精一杯の可憐さを演出してドアを開けた、その瞬間――。
ガチャ。
ほぼ同時に、向かいの部屋のドアが開く音がした。
(……あ?)
視界の端に映り込んだのは、世界の終わりみたいな深刻な顔をした堀北鈴音と、その飼い主である綾小路清隆。
廊下の空気が、一瞬にして凍りついた。
「……」 「……」
(死ね。今すぐ死ね。なんで今なのよ! 間の悪さで世界選手権でも狙ってんの!?)
内心で呪詛を吐き散らす私をよそに、目の前のひよりちゃんが、ぱっと花が咲いたような笑顔を見せた。
「あ……! 綾小路くん」
弾むような声。天使のような無垢な笑顔。
「こんにちは」
その一言で――。 綾小路と堀北が、同時にひよりちゃんの方を向いた。
そして。 その視線の延長線上に――私がいた。
背中に隠しきれなかった、銀色の円筒が嵌まったままの、私の右手。
(――――ッ)
思考が停止した。 見られた。完全に、見られた。
時間が、嫌なほどゆっくりと流れる。
綾小路の、死んだ魚のような目がわずかに瞬く。
堀北の、事態を理解しようとしてフリーズした一瞬の沈黙。
そして、二人の視線が、私の右手に吸い寄せられた。
正確に移動するのが、残酷なほどはっきりと分かった。
(……終わった。人生終了。誰か私をここから消し去って。今すぐ、この場にいる全員の記憶を物理的に削除したい。脳みそごと焼き払いたい)
頭の中が真っ白になる。
取り繕う言葉も、愛想笑いも、気の利いた言い訳も――、一切、浮かんでこない。
ただ、自分の愚かさと運の悪さを呪う言葉だけが、脳内で虚しく反響する。
そのとき。
「――ははははは!!」
私の背後、部屋の中から、腹の底からの爆笑が轟いた。
伊吹さんだ。あのデリカシーのない野良猫が、ついに耐えきれずに噴き出したのだ。
「やっば!! 何回見ても無理!! この顔ほんっと――傑作すぎるでしょ!!」
(黙れよ、このハイエナ女! テメェも道連れだって分かってんのか!? 後で絶対殺す。社会的に抹殺してやる!)
完全に、トドメを刺された。
私が必死に維持してきた「完璧な櫛田桔梗」のメッキが、音を立てて剥がれ落ちていく。
廊下に響き渡る、伊吹さんの品のない哄笑。
事態を飲み込めず沈黙する堀北さん。
わずかに眉をひそめて「関わりたくない」と顔に書いている綾小路くん。
そして、状況を全く理解していない純真なひよりちゃん。
「……?」
ひよりちゃんが、きょとんとした顔で私を見る。
「く、櫛田さん? その手……?」
(言葉にするな。その純粋な質問が、今は一番反吐が出るのよ)
私は、力なく笑おうとして――失敗した。顔の筋肉が引きつり、奇妙に歪んだだけだった。
「あはは……」
不意に、堀北さんと視線が合った。一瞬。ほんの一瞬だけ。
(……あ)
そこにあったのは、いつもの私を見るような軽蔑や敵意ではなかった。
同情と、理解と、そして――“同じ穴の狢”を見る目。
あのプライドの塊みたいな堀北鈴音が、私と同じようにマヌケな失敗をして、右手に鉄クズをぶら下げて、顔面蒼白になっている。
その事実に気づいた瞬間、私の脳内を、恥辱とは別の感情が駆け抜けた。
(あは。なにその顔。傑作じゃない。あんたもなのね、堀北)
あんなに偉そうにしていた女が、私と同じレベルまで堕ちている。
その無様な姿への優越感が、絶望の中でどす黒い愉悦となって弾けた。
伊吹さんの笑い声は、まだ止まらない。
(……もういいわ。櫛田桔梗、完全に詰んだ。ゲームオーバー)
水筒は、外れない。 秘密は、最悪の形で露見した。
私は、ただ「終わった」という事実だけを、深く、深く噛みしめていた。
* * *
「……とりあえず、入って」
もう逃げ場はない。
私は魂が抜けたような声でそう言って、部屋の中へ三人を招き入れた。
ひよりちゃん、綾小路くん、堀北さん。
部屋に入ってきた三人の視線が、伊吹さんの腕に集中した。
水筒。完全装着。
「…………」
「………………」
「…………………………」
空気が、物理的に凍りついた。
堀北さんの眉が、信じられない汚物を見るようにピクリと動く。
綾小路くんは、無言で一歩距離を取った。ゴミを見る目ではないが、未知の生命体を見るような無機質な視線。
ひよりちゃんは、目を丸くしたまま石像のように固まっている。
(“何をしているんだこいつは”。って顔ね。分かるわよ、私も同じ気持ちだもの。全員まとめて消えてくれないかしら)
「……」
耐え難い沈黙に、伊吹さんが痺れを切らして口を開く。
「なによ。その目」
「伊吹さん」
堀北さんの声が、やけに冷静だった。怒りを超えて、呆れ果てているのだろう。
「あなた、なぜ水筒に手を突っ込んだの」
「洗おうとしただけだけど?」
即答。悪びれる様子は微塵もない。
さらに、その隣で、私は生きた心地がしないまま立ち尽くしていた。
(こっち見ないで。私まで同類として見ないで。認めたくない……この底辺たちと一緒だなんて)
ひよりちゃんが、恐る恐る口を開いた。
「あの、櫛田さんも……だったのですね」
私は、静かに頷くしかなかった。
「……うん」
(あ、今。“明るくてしっかり者の櫛田さん”のイメージが、音を立てて崩れ去った。さようなら、私の完璧な虚像。全部このクソ水筒のせいだわ)
「……なるほど」
空気を変えたのは、綾小路くんだった。
彼は感情の読めない目で状況を一通り眺め、水筒の形状、腕の角度、私と伊吹さんの距離感まで観察している。
(なにその冷静さ。完全に“事件現場”を見る目じゃない。あんた、ここが女子の部屋だってこと忘れてない?)
「つまり被害者は三人。堀北、伊吹、櫛田」
「被害者扱いしないで」
堀北さんが即座に噛み付く。
その横で、ひよりちゃんが小さく頷いた。
「原因は、たぶん中に手を入れたあと、空気が抜けなくなったこと、だな」
「はい。陰圧が生じて、簡単には抜けなくなってますね」
(ひよりちゃん、急に理系っぽい……。今、分析官ごっこはいらないのよ)
二人は、完全に名探偵と助手の構図だった。
ベッドの前で立ち、水筒を回し、角度を変え、仮説を立てては否定する。
「潤滑があれば……」
「でも今は断水中ですし、寮内だと限られますね」
「ああ。水も石鹸も満足に使えない状況じゃ、滑らせて抜くという選択肢は絶望的だ」
(この二人、他人事だと思って楽しんでない? こっちは人生かかってんのよ!)
一方こちらは――
私:絶望の淵。
伊吹さん:半ギレ状態。
堀北さん:プライド崩壊寸前。
「……あなたたち」
堀北さんが、地を這うような低い声で言う。
「もう少し、真剣になりなさい」
「いや、真剣だ」
綾小路くんは淡々と返す。その顔には、微塵の焦りもない。
「ただこの状況、第三者視点だと少し……」
「少し?」
「……珍妙だ」
(言っちゃった。この男、空気読めないにも程があるでしょ! その無表情な顔面に、この水筒を叩きつけてやりたい)
ひよりちゃんは口元を押さえて、必死に笑いをこらえていた。肩が小刻みに震えている。
(ひよりちゃんまで。頼むから最後の良心でいてよ)
「……少しいいか」
綾小路くんが、顎に手を当てたまま言った。嫌な予感がする。
「堀北、櫛田、伊吹。ちょっと一列に並んでほしい」
「「「何でよ!」」」
三人同時にキレた。
(何その並ばせ方。まるで“見世物小屋”じゃない! 私たちをなんだと思ってるのよ!)
「比較するだけだ。水筒のサイズ、手の入り方、角度」
「比較って!」
渋々、三人で横一列に並ぶ。
右、堀北さん:質実剛健な1リットルステンレス。
真ん中、私:可愛らしいパステルカラーの水筒。
左、伊吹さん:ボコボコに凹んだ、戦士のような水筒。
三本の腕。三つの水筒。異様な光景だ。
「……」 「…………」 「……………………」
ひよりちゃんが、困ったように視線を泳がせている。
「なんだか……現代アートの展示会のようですね」
「「「言わないで!!」」」
三人同時に叫んだ。息ぴったりだ。嬉しくないけど。
その直後。
「……あ、そういえばさ」
突然、綾小路くんが顔を上げた。
「この前読んだ海外ミステリーで、犯人が錯覚を利用して腕が抜けないように見せかけるトリックがあったな。」
「発想は単純だが構成が巧妙で――」
「え、それって“あの作品”のことですか?」
ひよりちゃんの目が、ぱっと輝いた。
「はい、知ってます。初期作品ならではの、無駄にリアルな心理描写も相まって……」
(え? 今この状況で?)
「そうそう。特にあの密室のくだりが――」
二人は、完全にスイッチが入った。
被害者たちを放置して、ミステリー談義に花を咲かせ始めた。
(あんたたち、ここがどういう場所か分かってる?)
二人とも、誰にも見せたことがないような自然な笑顔を浮かべている。
楽しそう。本当に、心から楽しそう。
(何この空気。新婚夫婦の読書会でも見せられてるわけ? 殺すわよ?)
3人が一列に並んだまま、水筒の重さで少しずつ右肩が下がっていく
「……ちょっと」
堀北さんの声が、低く唸る。限界が近いようだ。
「あなたたち、何をのんきに雑談しているの」
「はぁ!? こっちは腕抜けなくて人生詰みかけてんだけど!?」
伊吹さんが完全にキレた。
「綾小路! とにかく集中しなさいよ!!」
「ひよりちゃんまで笑ってるし!!」
私も、思わず叫んでいた。
ひよりちゃんはハッとして、慌てて頭を下げた。
「ご、ごめんなさい! つい……」
綾小路くんも、バツが悪そうに軽く咳払いをした。
「……悪い。脱線したな」
(自覚あったんだ……。この男、やっぱりどこかネジが飛んでる)
空気が、少し引き締まる。
「改めて考える。重要なのは――空気をどう入れるか、もしくは圧をどう逃がすか」
名探偵、再起動。ようやく本題だ。
ふざけているようで、この男は必ず答えに辿り着く
「細い隙間からでも、空気が入れば状況は変わるはず」
三人の被害者は、再び期待と不安の入り混じった視線を二人に向けた。
水筒は、まだ外れない。でも、ようやく――希望の光だけは、少し見えてきた。
* * *
……忘れてた。
(そうだ……。ここ、私の部屋。“クラスの人気者・櫛田桔梗”の部屋だった)
コン、コン。
ノックの音。 一瞬で、室内の空気が凍りついた。
(やだやだやだやだ……。今は誰も来ちゃ駄目……! お願いだから、用事間違いであって!)
沈黙が続く。
すると――遠慮がちに、ドアが少しだけ開いた。
「……櫛田さん?」
(あ。終わった)
覗き込んできたのは――クラスのカーストトップ、軽井沢恵。
「……いるよね?」
部屋の中を見渡し、綾小路くん、ひよりちゃん。
そして――晒し者として、一列に並ばされている私たち被害者三人を視認する。
「えっと……」
軽井沢さんは一瞬、状況を把握できていない様子だった。
「さっき櫛田さんにメールしたんだけど、全然返事来なくてさ。みーちゃんに聞いたら、“この時間なら部屋にいるはず”って言うから……」
そこで、軽井沢さんの視線が――私たちの“手”に落ちた。
一秒。 二秒。
「………………え?」
目を見開く。
「ちょ、ちょっと待って」
軽井沢さんは、私 → 堀北さん → 伊吹さんと順番に見て――
「……え、なにこれ」
完全に、固まった。
(やめて。その反応、やめて……。心が折れるから……)
「……水筒?」
静かな声。だが、その一言の破壊力は計り知れない。
「……しかも」
ゆっくり、自分の手を持ち上げる。
――そこには。 同じように、銀色の水筒ががっちりと嵌まっていた。
「……」
「……」
「……」
世界が、終わった。
(あはは。詰んだ。完全に詰んだ。これ、もう笑うしかないやつじゃん)
「は?」
軽井沢さんの口から、素の声が漏れる。
「え、待って待って待って。なに? なにこの部屋? 呪いの館?」
「え、これ、みんな、同じ? 流行ってんの?」
伊吹さんが、ぼそっと言った。
「また一人、増えた」
「増えたって何よ!?」
軽井沢さんは叫びそうになって、慌てて口を押さえた。
「ちょ、ちょっと……なにこれ、ドッキリ? カメラどこ?」
「……違うよ」
私は、かすれた声で答えた。
「事故……。ただの、不幸な事故……」
軽井沢さんは部屋を見回し、一列に並ぶ被害者たち、推理中断中の名探偵と助手。
そのすべてを見て――確信したように呟いた。
「……このクラス、水筒に呪われてない?」
誰も、否定できなかった。
(人気者の部屋に集まった結果が、“水筒被害者の会”の結成式って……。なんの冗談よ)
軽井沢さんは、まだ自分の水筒を見つめたまま、呆然としている。
「……ねえ」
彼女が震える声で尋ねた。
「これ……どうやって外すの? 私、このままじゃ……」
その一言で、全員の視線が、再び綾小路に集まった。
名探偵。 そして、この部屋で最も冷徹な「安全圏の観測者」。
生還者ゼロ。救出者ゼロ。 誰一人として、このマヌケな呪いから逃れられていない。
(神様、これ何の罰ゲームですか? 私が何をしたっていうのよ!)
水筒は外れない。被害者は増えた。
そして私の“完璧なイメージ”は、跡形もなく崩れ去っていった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。実はこの作品、AIと二人三脚でどこまで『よう実』のコメディが書けるか挑戦しています。
現在UAは伸びているのにあまりお気に入りが増えず、作者は水筒が抜けない櫛田さん並みに焦っています……(笑)
面白いと思った方はお気に入り、微妙だと思った方は「ここがAIっぽい」「もっとこうしてほしい」等の感想をいただけると、改善の励みになります!
第2話では解決に向かって本格的に動き出します!