Fate/kaleid night プリズマ☆イリヤ 3rei!! 作:388859
ーーRewind interlude3-2.5ーー
そして、その記憶が蘇る。
助けて、という声は聞き飽きた。
それを無視するのは、何ら難しいことではない。歩いて、耳を塞いで、前だけを見れば良い。前だけを見れば、突き出される手も、怨嗟の声も、立ち昇る火も、黒い太陽も、全部無視出来る。無視してしまえる。
けれど、それは歩みを止められないだけでしかない。
心まではこの地獄を無視出来ない。凄惨な景色は、歩みは止められなくても、心を折ろうとする。心が剣だとすると、地獄は炎であり、現実と言う金槌だ。剣は地獄で溶かされ、現実に打たれて欠けていく。そこで心が死んだから、倒れれば良いのに、歩みは止まってくれない。何がその足を突き動かすのか、傍観者である自分には皆目見当がつかない。
今だから分かる。
綻び、欠けた心は決して戻らない。
心とは複雑に絡まった、鎖のようなモノだ。他者へ、自身へ。感情は時を経るごとに、人と交わったとき、その数を増やしては、お互いを縛り付ける。理性の裏に隠された、第二の心臓とも言うべきか。人は人である限り、この鎖に縛られないと、生きていくことが出来ずに朽ちる。
少年が失ったのはそれだ。
人が人であるための、絶対条件。それを亡くせば、人としての真っ当な生き方はまず望めない。身体も徐々に衰弱するだろう。そうでなくとも、この大火災だ。小学生程度の子供が歩き回ったところで、そもそも生き残れるハズもない。
だが、少年は一向に歩みを止めようとはしなかった。
いやーー実際は、その逆だったのだ。
一刻も早くその場に止まりたくて、倒れて、全てを投げ捨てたかった。
それでも止まらないのは、きっとそんな弱音よりも、全てが許せなかったから。
焼けるような痛みも。
目を覆いたくなるような死も。
そして何より、自分にどうにも出来ないから。
せめて、自分だけでも負けちゃいけないと思った。
この心が負けたからこそ、身体が動く内は、生きなければと。
一歩でも良い。一秒でも良い。
ここから離れて、自分はここで死んでいった人のために、生きなくてはならない。
それが。
例え同じように身体だけ動く人達を、見殺しにしてでも。
それが。
例え同じように家族を失い、灼熱の地獄から這い出そうとする人達から、目を背けてでも。
それでも、と。
……こうやって俯瞰しているからこそ、少年のその意志が、痛いほど分かる。
けれどそれは本当に、彼の内から出たモノなのだろうか?
誰が悪かったわけではない。あの場に居た誰もが助けを求め、その行き場のない声を、少年が受け止めただけだ。実態は多数決に近いかもしれない。みんなが望んだ答えがたまたま生きたいということだっただけ。
だが何故、その受け皿が、あの少年でなくてはならなかったのだろう?
どうしてあのとき、心は死に、身体も死の一途を辿るハズだった、あの少年が。世界中の誰よりも、助けを求めるべきだった彼が、どうして。
言うまでもない。
心が死んだからこそ、行き場のない声が、空白だった心に刻み込まれた。それが自ら導き出した答えでなくとも、それが正しいと思い込んだ。
なんて、間抜け。そうでもしないと、生きていけないくらい弱かったなら、いっそのこと死んでいれば良かったのに。
そんな生き方じゃ早死にするだけ。
思っていた通り、少年は倒れた。周囲は火が消え、雨雲から雨がぽつぽつ降り出しているが、全身の怪我は酷い。致命傷を引き摺ってた代償だ。もう幾ばくの猶予も無い。
けれど。
ああーー来た。
くたびれた背広を、泥や灰でぐちゃぐちゃに汚した、あの男。
もう欠片の生気すら残っていない少年の手を、男は両手に取る。
そして何度も、何度も。目を泣き腫らして、こう言うのだ。
ありがとう、と。
そうやって少年に、心という種を埋め込むように。
パチパチ、と何かが弾ける音が木霊する。
それで、くそったれな夢から、ようやく目が覚めた。
「ぅ……」
見えた景色は、夜空だった。正確には、崩壊した天井から見える夜空の一部。内装を見る限り、どうやらここはアインツベルン城の大広間のようだ。視線を落とせば焚火があり、その向こうに誰かが居る。炎のせいで見えないが……心地よい微睡みを振り払おうと、目尻を擦ろうとする。しかし何かが遮り、それごと持ち上げる。
毛布だ。少し汚れた毛布。誰かが倒れた自分に被せたのか、と考えたとき、炎の向こうで誰かが立ち上がり、目の前で腰を下ろした。
「目、覚めたか?」
「……お兄ちゃん?」
「心配したぞ。お前を探してここに来たら、倒れてたんだからな」
と、兄ーー衛宮士郎は笑った。
誰かによく似たその笑顔が、癇に触る。心の中で大きく舌打ちする。彼がここに来たということは、間違いなく自分を連れ戻しに来たに違いない。不幸なことに暗示の魔術も切れてしまっている。士郎も分かったハズだ、自身の不可解な行動に。家族とはいえ、危険なことには変わりない英霊モドキの拘束を解いたのは可笑しいと。これはわたしのせいだと。
どうする。いやその前にどうしてここに、と尋ねようとして、
「……ああ、そういや熱があったけど、大丈夫か?」
ぴと、と。おでこに手の平を置いてきた。
たまらず目を見張る。がさがさとした力強い手に優しく撫でられ、恥ずかしさと少しの嬉しさが胸一杯に広がる。見る見るうちに顔が赤くなるのが分かって、余計むず痒い。
まるで蛇に睨まれた蛙か、飼い主に悪事を見つかった猫のように、身体を硬直させる。この兄が自分の好きな兄ではないとしても、いきなりこういうことをするのは、その……反則である。ひじょーに不本意だが。
「ん、熱はもう無いみたいだな……クロ? どうした、何むくれてるんだ?」
「……うるさい、トーヘンボク」
「はぁ?」
これである。鈍感なのも考え物だが、こういうことを邪心無しで出来る辺り、何処の世界の兄も根っこは変わらないのだろう。きっとこの兄も。
けれど、それを振り払わないと。振り払って、逃げて、少しでも。
そう思い、毛布に手をかけて気付いた。
小麦色の右手が、うっすらと輪郭を崩していた。
「……」
魔力切れ……ではない。昨夜に魔力補給は既に行っている。これは身体を構成する魔力そのものが、霧散しかかっているのだ。
原因など幾らでも心当たりはある。カードを使用した規格外の現界、独立したとはいえ不完全な聖杯としての器。それこそ消滅する理由は沢山あるだろうが、一つだけ決定的なことがある。
自分自身が、この世界で、生きる価値を見出せていない。
この身体には聖杯としての力がほぼ備わっている。だからこそ複雑なアーチャーの力を十全ではなくとも使える。しかし今、それが仇となっているのかもしれない。
何せわたしは生きたいとは願っても、心の底では諦めているのだ。自身に未来などなく、刹那的に生きるしかないと。だからその願いに基づき、身体が解れかかっているのだ。
(……当たり前、かな……)
もとより日陰者。闇に沈み、そして贄になるのが役割だ。
ならばこれも、当然の結果に過ぎない。
イリヤが生きるための供物。今自分の存在価値はそれぐらいしかない。いっそ消えれば、楽なのだが。どうにもこべりついた世界が眩しすぎる。イリヤが花畑を舞う蝶なら、自分はそれに群がる蛾か。
いずれにせよ、悪くない幕切れかもしれない。
ここで死ねるのなら、兄の腕で死ねるのならーーそれはそれで、悪くない最期かも。
「クロ? ホントに大丈夫か、何か顔色悪いぞ?」
「え? あぁ、うん。大丈夫大丈夫、心配しないでよお兄ちゃん」
起き上がり、毛布にくるまる。恐らく身体はあちこち透き通っているだろう。それを隠すため、あとちょっと屋外の寒さを紛らわすために、毛布に身を預ける。
ところで。
「お兄ちゃんさっきから何してるの? わたしを連れ戻しに来たんじゃないの?」
そう。何か焚火とかしているが、どうしてこんなところに居るのか。連れ戻すのが目的なら、意識を失っている間にルヴィアの屋敷まで連れていけば済む話である。そうでなくとも凛達に連絡し、魔術的な拘束はあってしかるべきだ。なのに拘束どころか、毛布までかけている始末。一体何をしたいのか。
「ん、まぁクロも大変そうだからな。そこら辺の話をするだけさ。まぁただ喋るだけじゃ味気ないし、ここは一つお泊り会かなって」
「……はい?」
今、なんて?
「だから、今日はここに泊まるって言っただけだけど。何か可笑しいこと言ったか?」
何食わぬ顔でそう言ってのけ、何やら焚火の前で準備をし始める兄(高校男子兼主夫)。
……昔からよく分からないことで張り切る人だが、本当によく分からない。とりあえず、身体が崩れるまでまだ時間はある。それまでは、兄のこの無駄な行動に付き合うことにしよう。
ーーRewind out.
日は傾き、夜も更け、既に日を跨いだ深夜。
エーデルフェルト邸の、とある一室。天蓋付きのベッドに寝ているのは、最早和解の糸口すら見えなくなったクロだ。しかし数時間前の元気な様子と比べると、その姿は余りに違い過ぎる。チョコレート色の肌は青ざめ、時々身体が霊体化したサーヴァントのように、不規則に揺らいでいる。自信に満ち溢れていた顔は、玉のような汗が流れ、苦しげな呻き声が耳に入ってくる。
「魔力を使い過ぎた……だけじゃないようね」
そう言うのは、イリヤに似た女性。赤い目に、ふんわりとした銀色の髪は、恐らく彼女から受け継がれただろう。
アイリスフィール・フォン・アインツベルン。
イリヤと、そしてこの世界の衛宮士郎の母親にして、第四次聖杯戦争の小聖杯。
彼女と会ったのは、数時間前。カレンの話を聞き、呆然としながらも遠坂達と合流しようとしてとしていた俺の前に、彼女は現れた。切嗣や気を失ったクロとイリヤと共に。
アイリさんはともかく、クロやイリヤまで一緒に居たのは驚いたものだ。何事かと聞きたかったが、ひとまずエーデルフェルトの屋敷に向かいながら、掻い摘んで教えてもらった。
八枚目のクラスカード、クロとイリヤの衝突。どうやら俺がうじうじしている間に、様々な事件が起きたらしく、どうしてその場に向かわなかったのか、と暗に言われたのも仕方ないだろう。
切嗣は別室で、遠坂達に状況を説明している。イリヤは先に目を覚ましていたようだが、いつの間にか消えていた。美遊が付いているだろうから、また居なくなるなんてことにはならない、ハズだ。
アイリさんはクロの手を握りながら、
「魔力は十二分にあるわ。崩壊しかけた身体でここまで持ちこたえているのは、ひとえに魔力があるからだもの。まぁそのせいで、魔力を余分に放出してしまっているわけだけど……それにしたって、身体がこうも瓦解しかけているのは、多分他の理由なんだろうけど……」
ねぇ、とこちらに呼びかけてくる。
「士郎はどう? 確かあなた、聖杯戦争の勝者なんでしょう? クロちゃんの身体は、サーヴァントに似ていると思うんだけど。わたしは実物を見たことがないから、あなたなら分かるでしょう?」
「……」
……ああ、やっぱり知っているのか。
「……知っているんですね、俺のこと」
「え? あー……ま、そうね。切嗣から聞いた時は確かにショックだったけれど、まぁ並行世界の息子と会えるのも悪くないじゃない? 何か二人目の息子をもらったみたいで」
ふふ、と笑ってみせるアイリさん。それだけだった。失ったモノへの涙は、既にここに来る前に済ませているのだろう。それを掘って返すのは、謝り倒すのは、ただ自分の痛みを和らげようとする逃げだ。
だから。
「……すいません。謝罪は、後で何回でもします」
「良いのよ別に。まぁでも貰えるモノは貰っておくわ。それよりクロちゃんのこと、何か分からない?」
自分としては今すぐにでも謝りたい気持ちで一杯だったのだが、ここは拘泥している場合じゃない。
クロの身体を端から端まで見る。サーヴァントはこの目で何度も見てきた。その中で一番特筆すべき点は、彼らが使い魔としては最強とされるゴーストライナーであるということだ。遠坂曰く『幽霊なんかと一緒にしたら斬り殺される』らしいが、それはさておき。
サーヴァントは人に崇め、奉られて昇華した英霊を、霊体ごと聖杯の力で引っ張ってきて、受肉化させた存在だ。だから霊体と実体を自在に切り替えられるし、聖杯が破壊されればサーヴァントは楔を失って消える。
クロはどうだろう。彼女はイリヤの聖杯としての人格が、クラスカードを依代として現界した存在だ。サーヴァントに置き換えるならば、聖杯は彼女の機能、英霊はクラスカード、そしてマスターは彼女自身だ。
しかし、クロは完全なサーヴァントではない。霊体化は勿論、魔力供給もままならず、外部からパイプが無いと現界もおぼつかない。どっちつかずというよりは、何かがきちんと機能していないような気がする。曖昧な考えだが、そう伝えると、
「そう……やっぱり」
やっぱり? アイリさんは目を伏せ、
「……クロちゃんが、イリヤちゃんの聖杯の器として埋め込まれた人格だってことは、知ってると思うけど。もしその聖杯による力が、今のクロちゃんを支えているとしたら、結論は一つ。クロちゃんの身体が安定していないのは、今、生きたいとはっきり願っていないからよ」
「生きたいと……願っていない?」
それは、どういう意味なのだろう。生きたいと願っていようといなかろうと、人は生きるモノだ。事実クロだってそうに違いなーー?
「……まさか」
だが、ここで大前提が浮かび上がる。
そもそもクロは、どのようにして、この世界に現界しているのか。
「クロが現界しているのは、聖杯としての能力……聖杯としての能力は、願ったことを、理論を飛ばして結果だけを現実に引っ張ってくること……なら、現界するために必要な願いは……」
「生きたい、でしょうね。クロちゃんはそうして、クラスカード……だったかしら? それを依代にして、現界して。でももし、その願いが途中で変わってしまったら」
この世界で生きたいと、そう願えなくなったら。
「元々限界だったでしょうね、恐らく」
アイリさんはクロの前髪を撫で、
「いくら聖杯とはいえ、クロちゃんは小聖杯。サーヴァントの魂を集めるのが主な役目だもの。奇跡を起こす力があると言っても、英霊を現界させるのは大聖杯の役目。クロちゃんは様々な奇跡が重なって現界しているだけであって、そう長い時間は保てない」
クロの顔を見る。辛そうに、ただ生きることすら諦めかけている、少女の顔を。
原理的には、分かる。
聖杯としての能力で現界したならば、消えるときもまた彼女の願いだと。魔術と違い、命は永続ではない。魔力が尽きれば消え失せ、願いが変わればそれもしかり。元々そういうモノなのだ、理解はする。
でも、納得が出来るのか?
思い出す。クロと築いてきた、これまでを。楽しい思い出など、本当に少なかった。むしろ刃を交えたり、懐疑的になって身構えてばかりだった。
でも、それでも知っている。
いつも自分を大きく見せて、背伸びしていたことも。皮肉を言ったりしても、本当はすぐ謝れるくらい優しいことも。笑っている顔は本当に可愛くて、イリヤと何ら変わらない子供だってことを。
そして、何より。
数時間前、保健室で言われたこと。
ーーおとーさんなら、わたしとイリヤを助けてくれるのに。
そう言った彼女は冷たかった。そうでもしないと、自分を保てないほど怒っていたし、悲しかったのだ。
落ち着いた今なら、思い出せる。
クロと明かしたあの夜を。自分はそのとき、彼女に約束したのだ。その約束だけは何が何でも守ってと、そう言われた約束。自分はその約束を守れなかった。それどころか最悪な答えで破ってしまった。
一体、どんな気持ちだったのだろう。
この世界に産声をあげ、名前を付けられ、生贄となることを定められて。そして全て無かったことにされて。そうしてようやく生まれてきたのに、求めたモノは何もなくて、でも生きることは許されなくて。
これで絶望していない方が、不思議だった。それでも生きたいと、彼女をそう思わせたのは、きっと自分だ。だって初めからそうだったではないか。彼女は誰よりも、真っ先に自分へと会いに来た。それが答え。クロにとって自分が、衛宮士郎だけが心の拠り所だった。
そう長く続かない命でも。
希望を持てる何かが、俺の殺したエミヤシロウには、あったのだ。
前にクロは言っていた。
俺以外、何も要らないと。
それはきっと、エミヤシロウだけを求めたからではない。
彼女にはそれ以上求めたって、何も得られないから、妥協しただけなのだ。
だって、こうも言っていたじゃないか。
全てを奪われたと。
それはつまり、本当はもっと求めたいモノがあったに違いないのだ。母親も、父親も、友達も。けれどそれを得るには、どうしようもないくらい時間が無い。だから、一つだけを選んだ。それがエミヤシロウだ。
何が兄貴だ。
何が正義の味方だ。
……何も。自分は、何もあげられていないじゃないか。
「士郎」
と。黙り込んだ俺へ、アイリさんが語りかけてくる。
「あなたは、私の息子のことで自分を責めるかもしれないけれど。でも多分、そんなクロを助けられるのも、あなただけなんじゃないかしら」
「……どうして、そんなことが言えるんですか」
「ふふ。そういうモノよ、女の子って。ちょっとのことで立ち直ったりするもの」
手を後ろに組んで、朗らかに笑いながら、
「ほら、クロちゃんの側に居てあげて。今のあなたは、お兄ちゃんなんだから。本当にクロちゃんを助けたいなら、一緒にいてあげなきゃダメよ」
ね、と俺の手を握る。釣られて彼女の顔へと視線が吸い寄せられる。
瞳は水晶のようにきらめいていて、真っ直ぐとこの身を映していた。薄汚い自分を。
「……俺に」
我慢ならない。その手をゆっくりと離して、踵を返す。
「俺に……そんな資格ありません」
無意識に、拳が白くなるぐらい力が入っていた。自分の中で、何もかもが整理がついていない。初めてなのだ、こんな気持ちは。
正義の味方になる。
けれど、それはこの家族を守ることになるのかと。
俺の目指す場所には、きっとこの世界はない。だから絶対に間違えてはいけない。選択を。
だけど、でもだ。
これはあまりにも、堂々巡りだ。元の世界へ帰ることも、自分の命も。そしてイリヤ達のことも。自分にはどうすれば良いのか、もう何も分からない。
せめてイリヤ達だけでも。
そう思っていても、自分にはどうすることも出来ない。これ以上どうやっても、進んでも、退いても。傷つける。
分かっていた。
分かっていたから見ないようにしていた。
それこそが裏切りだと知っていても、何も出来ないから。
だから。
「俺は、この世界にふさわしくないんです」
振り返りはしなかった。足早に部屋から抜け出し、とにかく距離を取ろうとする。
けれど。
歩いても歩いても、自分が傷つけたモノがこべりついたまま、一向に剥がれる気配はなかった。
ーーinterlude6-1ーー
「……ホント。士郎もイリヤも、切嗣に似て、よく悩む子達ね」
小さく息を吐くと、アイリはところでと視線を壁の方へと向けた。
そこに居たのは、ずっと黙り込んで、その様子を観察していたカレンだ。以前見かけたときの修道女としての服装ではなく、何故か今回は白衣を着ている。
「今更聞くのも可笑しいんでしょうけど。あなたは一体何をしに来たの? 士郎を助けるわけでもなく、かと言って蔑みに来たわけでもないようだけど?」
カレンは聖女のような微笑で、
「これはこれは、随分な態度ですね、アイリスフィール。駄犬に……いえ、息子に嫌われたからといって、その怒りをわたしにぶつけられるのは些か不愉快です。第一、
カレンの言葉に、アイリは目を細める。半ば予測していたことだったが、まさか本当にそうだとは思わなかった。
教会の祭司代理であるカレンとは、数年前に一度、聖杯の件で切嗣と共に話をしている。だから初対面であるハズがない。
そして何より、カレンと士郎は面識がない。
だとすると、導かれる答えは一つ。彼女も士郎と同じ平行世界の住人なのだ。
「ならなおさら分からないわね。元の世界であなたと士郎がどんな関係かは知らないけれど、ここまで追ってきたということは、それなりの仲だったわけでしょう。追いかけなくて良いの?」
「それはそっくりそのままお返ししましょう。てっきり抱き締めてなだめるくらいはするかと思っていましたが?」
最もな返しに、アイリは目を伏せる。
「……そうね。そうしたいところではあるけど、わたしが行ったところでどうにもならないわ。問題が問題なだけに、家族であり、世界が違うわたしの言葉はきっと届かない。その証拠に、あの子はわたしへと進んで目を合わせようとはしなかったもの」
「呆れたものね。その程度で諦めていたら、こんな世界はあり得なかったでしょうに。やはり中身が違うと愛せるモノも愛せないと?」
「そんな簡単なことだとでも? 叩き出されたいのかしら?」
カレンをねめつけ、母は語る。あくまで魔術師ではなく、平穏な世界を望む母として。
「……あの子のことは、切嗣から聞いてるわ。その理想のことも。あの子は正義の味方を目指している途中でここに来た。聖杯戦争を勝ち残って。それはつまり、自身の理想の真実を知ったハズだわ。戦争を通してね。それでも正義の味方を目指すのは、並大抵の精神じゃない。人間の本質が最も浮き彫りになる闘争の中で、理想を掲げ続けることは」
いや、平気ではなかっただろう。
何故なら。
「……あの子の目ね。十年前の切嗣に似て、ただ景色を映してるだけだった。ううん、そもそも目が無いのかもしれない。そう思ってしまうくらい、空虚で、何もかも削げ落ちてしまった目をしてた。どんなことがあったかは知らないけど、あのままだとあの子、取り返しがつかないことになる」
「では止めるべきでは? 理想を捨てろと」
「それは……駄目よ」
眉をひそめるカレン。アイリの言っていることが滅茶苦茶過ぎるからだ。それを感じ取ったアイリは、薄く笑う。
「だって、わたしが行って説得したら、あの子理想を諦めちゃうじゃない。そんなの駄目よ、絶対に」
「……、」
あまりに堂々とした主張に、さしものカレンも鼻白んだ。まさかこんな自然な形で、息子が母に勝てるわけねぇと言われるとは思わなかったのだろう。
「……大した自信ですね。何を根拠に?」
「母は強しって言葉知らないの? ま、冗談はさておいて、簡単よ。だって切嗣と似てるものあの子。ならわたしが説得したら、同じ選択をするわ、きっと」
「……わたしの知る衛宮士郎は、自身の未来を見せられても、答えを変えないくらいの馬鹿頑固でしたが」
「人は変わるものよ、修道女さん。あなたの知る士郎と、今の士郎は違う。家族を知ったあの子は、以前よりきっと視野は広くなっても、脆くなってるわ。切嗣と同じように」
家族を知る。カレンには未知の領域だが、よくよく考えれば当たり前だ。魔術師殺し衛宮切嗣がアイリスフィールを、イリヤスフィールを愛したことで、理想を諦めたとするならば、確かに状況はこの世界の過去と似ている。
しかし、
「なら尚更止めるべきでは? せっかくここまで追いかけてきたわたしとしては困りますが、彼個人の幸福を考えると、理想を捨てた方が遥かに円満な未来が望めると思いますが……」
「……そうね」
アイリは否定しない。彼女も思うのだろう。
誰もが幸せでありますように。そんな叶わない理想を追いかけたところで、みんなを助けようとして家族を捨て去るような真似だけはさせられない。
だけど。
アイリスフィールは知っている。
「時々思うの。あの選択が、家族を選んだことが……本当に切嗣がやりたかったことなのかって」
せりあがった血を吐き出すように、憂いを乗せて。
「ずっと切嗣の側に居た。ずっと一緒に生活してきた。だから、分かるの。あの人の中で、きっとその夢は終わっていないって。だってそれまで捨ててきたモノが、多すぎたから。捨てようとしても、それだけは捨てられなくて、がんじがらめになってるあの人を、何度も何度も見てきた」
「……、」
「不思議そうな顔をするわね。まぁ普通なら、そう。でもあの人は悩んだ。人類の救済のために血を流し、時には家族すら葬ることすら厭わなかった。家族を選ぶということは、そうしたかつての自身の在り方を否定し続けるということ。家族を守る代わりに、それ以外の全ての人々を犠牲にすること。あの人にとって、それは耐えられないことだった」
「……家族を選んだのに?」
カレンの問いに、首を振る。
「選んだからこそよ。選んだからこそ、その結果に耐え切れなかった。それだけあの人にとって、死というモノは忌むべきモノで、何より否定しなければならない結果だもの。それを見続けなければ、家族を守れないというのに」
だから。
「……本当に家族を選んだことが、切嗣のためになったのか。わたしにはわからない。だって、切嗣はみんなを救いたかった。だから犠牲を許容出来ずに、苦しんで苦しんだ。家族を守りたい気持ちよりも、誰かを犠牲にすることの方が、あの人の中では大きかったから」
ーーだから。
「わたしでは衛宮士郎は救えない。そんな無責任なことは出来ない。わたしは母親として、あの子をこれ以上苦しめることだけは、決して」
「……そうですか」
カレンが壁から離れ、ドアノブに手をかける。
「それなら、一任します。あなたのことですから、何か考えがあるのでしょう?」
「……もしかして、あなたが慰めたいの?」
「神に仕える者として、迷える者を放置するのは教えに背きます。それに、わたしは彼をそれなりに買っています。彼が居てもらわなければ、この身が危ないので」
「ふーん……」
「……なんです、その意味ありげな視線は?」
それまでとは打って変わって、年相応な流し目で睨むカレン。するとアイリは、
「ううん。士郎の話をするときは、随分と真面目なんだなーって。好きなの?」
たまらず、カレンはパチクリと目を瞬かせる。心なしか少し顔が赤くなったのは……気のせいと思いたいアイリ。
「……それは、答えかねます。わたしが彼を買っているのは彼自身もですが、最も買っているのは」
「はいはい早口になって捲し立てても、説得力なんてないない。まぁ士郎のこと、よろしくね。無茶させ過ぎないように」
「、……アイリスフィール。それは悪魔憑きに宿主から出ていけと言うのと同じくらい、無駄な行為だと思いますが」
何かを言いかけたが、諦めてそそくさと去っていくカレン。その後ろ姿を見ながら、アイリは改めて思った。
自分の息子と、衛宮士郎は違う。
花と星で例えよう。
花が大切なモノ。星が理想だとして。
息子は星を綺麗だとは思うが、周囲の花だけは掴んでいた。だからこそ人としての全てをずっと取り溢すことは一度も無かった。
でも衛宮士郎は、星を掴もうとして、足元に花があっても踏みつけて、手を伸ばしている。踏んだことに後から気づいたとしても、その花も大事だから、無駄にならないようにと、手が千切れても必死に伸ばし続けていた。
それはきっと人として、どうしようもなく間違っている。
何故なら彼は星だけでなく、出来るなら全てを掴みたいのだ。なのに星のために花を踏みつけるのだから、星の輝きに彼自ら傷つく。そんなことでは周囲も疑問に思ってしまうに違いない。
けれど。
きっとその根底にあったのは願いで、それはまだ芽を出していない種なのだ。
その証拠に彼は、今迷っている。人として壊れているハズの彼が、今ここで。
そも、彼の心の欠落を埋めたのは、衛宮切嗣と、イリヤスフィールだ。その二人の存在が種として心に埋められーー涙が水となって、彼の中で何かが萌芽したとするならば、それこそが過去、衛宮士郎が失ったモノに違いない。
その芽は育てば、きっと大きな花になる。そしてそれは、彼を正しい道へと導いてくれるハズだ。
……ならば彼を導くのは、種を埋められなかった自分ではない。
もっと、ふさわしい家族が居るのだから。
ーーinterlude end.
ーーinterlude6-2ーー
そのとき、ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトは、珍しくどかどかと音を立てそうな勢いで、屋敷を歩き回っていた。普段からドレスで魔術戦を嗜むルヴィアなのだが、それでもエーデルフェルトという歴史ある自身の立場を重んじ、そのスタンスだけは崩してこなかった。
そんな彼女が、外でならともかく、身内の模範になるべき屋敷内で、こうも駆け回るのには、ある理由がある。
衛宮士郎。
彼女にとって、恐らく初めて立場を気にせず、一人の少女として向き合えた友人。
そんな彼の秘密を、ルヴィアは知ってしまった。
並行世界。無限に連なる魔法の領域の彼方、彼はそこからここへ迷い込んだのだと。
ーー君達には言ってもいいと、士郎から許可はもらってる。まぁ本当は、自分の口で言うべきなんだろうけど、ね。
そんな場合じゃない、と彼の父である衛宮切嗣と、母であるアイリスフィールは、柔和な笑みでそう言って、全てを話してくれた。
士郎がどんな人生を送ったのか。その中で何を失ったのか。二人は隅々まで話してくれた。
正直に言って。
魔道に身を置く以上、吐き気がするような事例はいくらでも聞いたし、この目で見てきた。だから世界はそんなモノに溢れていることは、ルヴィアも分かっていた。
それでもなお、身構えていたのに痛いほど胸が締め付けられた。
確かに魔術師となった以上、常に自身の命を天秤にかける。だがこれは、天秤そのものを叩き壊して、その欠片を全てを押し付けられるようなモノだ。こんなのは、魔術師でもまともじゃない。何か人為的なモノすら感じられる。
だが何より、こんな世界であんな風に悟られないよう過ごしていた衛宮士郎こそが、一番の異常だが。
ーー……ハッキリ言おう。彼は、衛宮士郎は、人どころか一つの命として決定的に壊れている。気付きにくいかもしれないけど、断言しよう。
そう、俯いていた切嗣は、後悔しているような口振りだった。
当然かもしれない。
聞くところによれば、士郎が家族を失った原因は、第四次聖杯戦争の最終局面で起きた大火災が原因らしい。そしてその第四次聖杯戦争は、今から十年前。この世界では衛宮切嗣、アイリスフィールの二人が未然に止めたハズの出来事だ。
しかし世界が違えば、選択も変わる。
その世界では聖杯戦争も行われ、そうして全てが崩れ去った。アイリスフィールは死に、衛宮切嗣は求めたハズの聖杯を破壊し……そして大火災を引き起こした。
そんなときだったらしい、衛宮士郎が救われたのは。
一人でもと、自らが起こした惨劇に飛び込み、誰かの遺体しか掴めなかった衛宮切嗣が、たった一人だけ助けられた被害者。それが、衛宮士郎だった。
しかし本人から言わせると、半分は手遅れだったらしい。大火災を目の当たりにし、全てを失った少年の心は、既に粉々に壊れていたのだ。奇跡的に救われるために、身体ではなく心が死んだのだ。
何をもって生きるとするかは個人で違うが、それでも自身の意思があるのは前提条件だろう。それが無いのは人形でしかない。彼の場合、感情もあるし、意思もある。だがその一部が、その大火災とやらで燃え落ちてしまったのだ。
そこまでのことがあった。
そして今ここに、世界は違えど、そうなった元凶が居る。
殺し合いが起きても、可笑しくないハズだった。それだけのことを、衛宮切嗣はした。
だが、衛宮士郎はとある夜、こう言ったという。
ーー多分、俺は人として壊れてるから、こんな世界でも家族を騙してでも生きられるし。
ーー今もまだ、大切な人を傷つけてでも、正義の味方を目指せるんだと思う。
「っ」
ダン、と床を踏みつける。もしここが自室ならば、ハンカチでも口に突っ込んで、噛み千切りたい気分だった。そのぐらい今、ルヴィアはどうにかなるくらい頭に来ていた。
なんだそれは。
なんで。なんで、一度だって他人を責めようとしないのだ。
だって可笑しいだろう。彼が壊れたのは、聖杯戦争のせいだ。それを起こしたマスター、衛宮切嗣のせいだ。それだけではない、この世界への転移だってそうだ。偶発的なモノだったとはいえ、遠因は遠坂凜のせいである。それなら文句の一つでも言ったって、罰はくだらない。むしろ当然の権利である。
なのに、彼はあくまで自身しか責めない。他人への罪の所在など、どうでもいいと言い張る。ぎこちない苦笑いで、自分が悪いのだから仕方ないと。
きっと彼の中では、自身の命などさして意味を持たないのだろう。自分に意味がないから別に怒りは湧かないし、優先順位も他人が上になる。それでいいと納得できる。
だがこちらは、到底納得できない。
言いたいことがいっぱいあり過ぎるが、その中でも強く琴線に触れたのはこれだ。
今もまだ、大切な人を傷つけてでも、正義の味方を目指せるんだと思う。
なんだそれは。
そんな、誰も傷つけたくないから助けてくれなんて言葉、お前のような
「……」
そして、見つけた。
その姿が見えたのは、丁度ルヴィアの自室に程近い廊下だった。肩を下ろし、見るからに消沈している彼の背中へ、言葉を投げた。
「……シェロ!」
大きな声を出したのは、緊張と不安を吹き飛ばすためだ。しかし彼ーー衛宮士郎の顔を見た途端、それらが一気に膨れ上がる。
酷い顔だった。普段は温厚な印象の顔からは、あらゆる感情が抜け落ち、目は空洞が出来たように色を失っている。死人と何ら変わらない、人の感情が一切ない表情。
だが怯まない。
進む。
「……少し、お話しません? お茶でも飲みながら」
士郎は答えなかった。それをイエスと取ったルヴィアは彼の手を引っ張り、自室に招き入れる。
部屋は従者達の手で清掃された直後のようで、埃一つ見当たらなかった。ルヴィアは士郎を椅子に座らせ、自身は紅茶の準備をする。オーギュストには劣るものの、ルヴィアも貴族。茶ぐらいは自分で淹れられる。
そうして紅茶を伴ったルヴィアは、ティーカップを差し出した。
「どうぞ。部屋にあるモノでは少しグレードが落ちますが、口を濡らすには丁度良いでしょう。お互い長い話になるでしょうから」
「……」
返答はない。紅茶にも手をつけず、士郎はカップをじっと見つめている。話す気が無いのではなく、そんな余裕も無いのだ。
ならばこちらから行くしかない。
「シェロのお父様から聞きました。あなたのこと、これまでのこと」
「、……」
薄いものの、反応があった。ぴくりと、士郎の頬の筋肉が僅かに浮き出る。声は届いた、なら心にだって伝わる。
「にわかに信じがたいですが、これで色々と納得がいきました。あなたほど特異な存在が協会で確認されていないこと、英霊に対する戦闘技術や正体の看破、どうして会ってすぐのクロにあそこまで執着するのか、全てに」
「……責めないんだな、俺を。騙してたのに」
「責める理由がありませんもの。むしろこれほど対処しづらい状況でなお諦めなかった、あなたの姿勢を称賛したいくらいです。それにこんなこと、妹に言うのは酷でしょう」
クロはまだしも、イリヤスフィールは普通の子供だ。魔術回路の本数、聖杯の器。普通ではなかったとしても、偽りの環境だったとしても、それでもイリヤスフィールは普通の女の子でしかない。
「……何より、決して嘘が得意ではないあなたが、隠し通そうとしたのです。傷つけると分かっていても。それでも。彼女だけは守ろうとした、違いますか?」
「……守ろうとした、か」
どうだか、と士郎は自嘲した。
「なら捨てるべきだったんだ、正義の味方になる夢を。家族を守りたいのなら、捨てれば良かった。どっちつかずになるくらいなら、どっちかを捨てちまえば良かった。でも」
カップを持つ手が、ぷるぷると震え出す。
恐らく。彼はずっと我慢してきたのだ。妹達の前では兄らしく、エミヤシロウらしく振る舞ってきた。それを繰り返せば繰り返す内に、現実とのズレが大きくなり、泥沼にはまっていくのも知っていて。
なお、止められなかった。嘘をつき続けることを。
「でも捨てられなかった。ああそうさ、俺はイリヤを裏切って、夢を選んだ。そうしないともっと沢山の人を裏切るから、守ると決めた妹を裏切った……!」
だから、と繰り返す。自問を。
「言えないよ。言えるわけない。俺は、イリヤを守らなきゃいけないんだ。イリヤが悲しむのは、イリヤが苦しむのは絶対にダメなんだ。俺には、守れなかったから」
「……確か、あなたの世界のイリヤスフィールは」
「俺の目の前で死んだよ。そのときは姉だとも知らなかった。知らないままだった。分かったのは、つい最近のことでさ」
士郎はティーカップをテーブルに置くと、顔を両手で覆った。
「……だから、守らないといけないのに。俺には、アイツの兄貴にもなれなくて、アイツを安心させることも出来なくて。またこうして、奪い続けてる。これじゃあ元の世界と、何も変わらないのに……ちきしょう……っ!!」
がっ、と拳で太股を殴る。半分嗚咽染みたその言葉を吐き出す顔は、ルヴィアが初めて見る顔だった。
「……俺にはさ。妹を守る方法が、どうしても分からないんだ。ずっと誰かを助けたいって思ってたのに、いざ助けようとすると、自分が何にも分かってなかったんだなって、嫌でも分かる。魔術で助けようとしてる自分が居るんだ。笑えるよな、こんなの」
「……シェロ」
「……間違ってるんだろうな、きっと」
一つ一つ、戒めてきた鎖を、改めて絞めるように。士郎は言う。
「少し前に、言われたよ。誰もが救われるなんてお伽噺で、正義の味方なんてものはただの掃除屋なんだって……そのときは、誰かを助けたい想いは間違いなんかじゃないって、胸を張って言えたけど。今はもう、言える気がしない」
「……、」
「だって」
これ以上ないくらい、後悔した様子で。忸怩たる思いを滲ませながら、
「ーーーー俺が、この世界の全部をぶち壊したから。こんなことになってるんじゃないか」
ただただ、自身が全て悪かったと。そう言い聞かせていた。
そのとき。
ルヴィアはアイリの言葉を思い出していた。
ーー士郎はね。多分、自分がどう生きたいのか、忘れてしまったのよ。
アイリは言っていた。
ーー切嗣のため、イリヤのため。それは誰かのことを尊重しているだけで、士郎がしたいことじゃない。彼は自分というものがとても希薄で、その穴を何かで埋めないと生きていけないのね。まるで、剣の鞘のように。他人の剣を抱えて、心という鞘を満たさないと。
ルヴィアにも、その言葉が今ようやく分かった気がした。
欠落した心では生きられないから、誰かの願いで心を埋めている。それが衛宮士郎という人間だ。
でもそんな彼に、今変化が起き始めている。誰かの願いの下、彼自身の心から、本当の願いが顔を出そうとしている。
……その願いを引きずり出すのは自分では無理だ。所詮は他人。俗世に関わることもない魔術師だ。でもそんな魔術師の身でも、友であるのならーー足掛かりくらいならば作れるハズだ。
だから言う。
「……それでも」
言ってやる。
「それでも。あなたは今、この世界にたった一人しか居ない、イリヤの家族なのでしょう?」
「ーーーーぁ」
瞠目する。それは恐らく、心の何処にもなかった前提だったのだろう。
そう。
結局どのような事情があろうと、何も関係なかったのだ。
確かに衛宮士郎はこの世界の住人ではないし、魔術師である以上、イリヤスフィールが望む真っ当な答えは望めない。
「あなたはイリヤスフィールの世界を壊し、今も彼女から全てを奪い続けているのかもしれません。それを悔い、償うのも当然かもしれません。ですが」
だが、前提として。
揺るぎない事実がある。
「あなたは兄です。イリヤスフィールの、たった一人の。偽物であっても、あなたは知っているハズでしょう。イリヤスフィールという少女を。そして間違えても、守ろうとしたのでしょう。なら今こそ、彼女と向き合うべきです。ちゃんと向き合って、伝えるべきです。あなたの想いを」
二ヶ月程度の付き合いだ。そんなルヴィアの言葉では、絶望し切った士郎の心には届かないのかもしれない。
だからぶつかっていく。繊細に、だが大胆に。
「人は間違いを犯します。例えそれが家族であっても。ですがそれで良いんです。大小の差はあっても、その間違いを許容出来ないほど、イリヤスフィールは弱くありません。あなたは本当に彼女を守ろうとしていた、それは側で見ていた私達が知っています」
士郎が唇を噛み締める。葛藤が目に取れて分かる。そうして彼が重たい口を開けた。
「……でも、俺は。俺はいつか帰らないといけない。それでも騙し続けるのは、守ることにならないだろ。騙せば騙すほど、イリヤも、みんなも、傷つける。なのに俺は……」
ぶつぶつと。暗い目で呟く士郎。よほど溜めていたのか、やはり一筋縄ではいかない。
……だからか。ルヴィアの中で、ついに切れた。
魔術刻印が光を帯びる。沸々とした怒りとやるせなさを人差し指に込めて、士郎の額に狙いを定めた。
「あーもう!! いつまでもグチグチと!! イライラさせないでくださいまし!!」
「がぅんっ!?」
ぱこぉんっ、とガンドで朴念仁の頭を揺らすルヴィア。流石の士郎もガンドを貰うと思っていなかったようで、涙目で額を押さえながら、ごほごほと咳き込む。
「紳士であることと、優柔不断なことは違いましてよ。良いですこと? 悩むのも、頭を抱えるのも、後で出来ます。ですがイリヤスフィールと和解したいのなら、今話すしかありません。今を逃したら、それこそあなたの妹は笑わなくなるでしょう。あなたはそれでも良いのですか?」
「だ、だけど……俺はイリヤを傷つけたくなくて、でも俺と一緒に居ることで傷付くし、どうすればいいか分からなくて……」
「シェロ!!」
「……!」
ルヴィアが士郎の手を取る。手を握り、目を見て、真っ直ぐな言葉を放った。
「たまには、自分の気持ちに素直になりなさい! イリヤスフィールでも、死んだエミヤシロウでもない!
しん、と時が止まったようだった。士郎も固まったまま。でも、その目には色んな感情が渦巻いていた。
「…………………………………………………そう、だな」
小さい声。しかしその言葉で、衛宮士郎は既に先程までとは違っていた。
「……そうだよな。イリヤの名前を出して、逃げ出すような真似は、結局イリヤを傷つけてるだけだよな。ありがとう、ルヴィア」
少年の顔には、まだ迷いがある。
それでも、衛宮士郎はもう逃げない。
自分の想いをーールヴィアが作った足掛かりを足場に、一歩踏み出していく。
「俺はイリヤと話したい。全部は話せないけど、出来るだけ話して、イリヤの気持ちが知りたい。だから」
「ええ」
同時に席を立ち、ドアの前で向き合う二人。ルヴィアはドアを開くと、外への道を指し示す。
「どうぞ。あなたの選んだ道を」
「……ありがとう。じゃあ、行ってくる」
それだけ言うと、士郎は走り出した。士郎を見つけようとしたルヴィアのように、彼はあっという間に屋敷の奥へ消えていった。
ルヴィアはドアも閉めず、部屋の中へと戻る。椅子にどかっと座ると、もう冷めてしまった紅茶を一飲みした。
と、
「ふーん。アンタも、案外あんな真っ直ぐなこと言うんだ」
皮肉めいた口調で部屋に足を踏み入れるのは、凛だ。彼女は士郎が座っていた椅子まで歩くと、同じように荒々しく座った。
「……なんです? 仮にも私の工房に入るなど、普段のあなたならばあり得ない行動ですが」
「そのアンタが衛宮くんを招いた時点で、そういう系のトラップはまるごと切ってあるでしょ。まあ敵意に反応する呪術とか張られたらどうしようもないけどね」
そう言って手を振ってみせる凛。ルヴィアは口を尖らせ、
「減らず口を……大体あなた、私にはこういった仕事をやらせておいて、自分の仕事は終わらせましたの?」
「まぁね。わたしはアンタと違ってガンドなんて撃ってないし、とてもスムーズだったわ」
「ぐぬぬ……」
ミスパーフェクトスマイルの凛に、ルヴィアは唸りながら睨む。
二人が言う仕事とは、士郎とイリヤの兄妹を話し合わせるために各々説得することだ。ルヴィアは士郎を、凛はイリヤを。どうやら凛は手早く終わったらしく、
「ま、一応前からフォローは入れておいたしね。ただ背中を押してあげただけよ。アンタに勝つ方が楽だから、ちょっと手こずったけど、何の問題はないわ」
「……さらっと手袋を投げたことに気づいていて?」
「あら、気づいてなかったの? ならお得ね、嫌味を一つ余分に入れられるわ」
青筋を笑顔に忍ばせ、静かに魔術戦の準備を始めようとする二人。しかし二秒もせずに、お互い大きく息を吐いた。
そもそもにおいて。この二人は大師父の弟子になるため(そして除籍を免れるため)、遠路はるばる日本まできた。それもこれも自身の家系が根源、それに繋がる第二魔法へと至るためだ。
そして今ここにーーその第二魔法の体験者が居る。
「あーあ……第二魔法の大きなヒントがあるっていうのに、何やってんだか……」
「全くですわ……私としたことが、魔術師にほだされるとは……」
だがまぁ仕方ない。
ルヴィアがそう思っているのだから、恐らく凛も思っているだろう。
ここで衛宮士郎を捕まえて持ち帰って、ホルマリン漬けにしても良いが。
多分それをした瞬間、自分達はもう自分で自分を許せなくだろうから。
「……紅茶、飲みます?」
「……いただくわ」
疲れきった二人は、静寂に身を預ける。
ここから先は、限られた人間だけの舞台。
もう、隠し事は無しにしよう。
ーーinterlude end.