Fate/kaleid night プリズマ☆イリヤ 3rei!!   作:388859

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今回でついに50話です。
そんなときにこんな話でええのか?と思わなくもないですが、どうぞ。



スプリンター~叶わぬ夢の果て~

 

 まるで、そこは深夜の海中のようだった。

 冷たい何かで満たされた空間。それは芯から体を包み込み、輪郭を溶かしていく。外の灼熱の地獄から一転、突き刺すような冷気によりここは極寒の地獄になっていた。

 凍死してしまいそうなほど寒いけれど、それはそれで悪くないな、と思っている自分が居る。

……生きている価値もないのに。

 ふと。

 右手が熱を帯びた。

 

「……リヤさん、イリヤさん!」

 

 パートナーのそんな呼び掛けで、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンは目を開ける。

 

「ル、ビー……?」

 

 しがわれた声は、自分のモノとは到底思えなかったが、気にせず耳を傾ける。

 

「はい、あなたの生命線ことルビーちゃんですよ! しっかり意識を保ってくださいね、マジでやべー状況なんで!」

 

 右手に収まったルビーに、イリヤは首肯した。

……イリヤは世界の真実を知った。

 美遊による世界の改変。それにより作られた、死んだ自分を元に作られた今の自分(わたし)と、家族。兄を殺してなり代わった、兄に似た誰か。

 そしてその人が最後に見せた、辛そうな顔。

 例え一度意識を失っても、忘れるわけがない。

 忘れられない。

 それは心臓を失って死ぬことと同じくらい、イリヤにとって衝撃的な事柄だった。

 けれど、

 

「……」

 

 手持ち無沙汰のまま、視線を周囲へ向ける。

 そこは、不思議な空間だった。

 気絶していたときと同じ、一寸先すら見通せない、息が詰まる圧迫感。さながら冷水に浸かっているようで、手足はかじかんできている。ただルビーがこの空間から守ってくれているようで、体はそこまで動けないというわけでもなかった。

 

「……ここ、何処?」

 

「あの巨人の体内のようですねえ。冬木市を覆ったあの聖杯の泥で満たされてますから、何の準備もなくこの空間に立ち入れば溶かされる……いや、消化されると言った方が良いですかね?」

 

「……なんで死んでないの、わたし?」

 

「そりゃあこのルビーちゃんが、奉仕力全開でイリヤさんの肉体を保護してるからですよー。普通なら十秒で骨までしゃぶられてますからね、やっぱ私って健気ですよ本当に」

 

 ふりふりと左右に体を振るステッキ。

 ただ、イリヤとしては聞きたいことが一つだけあった。

 

「……なんで?」

 

「? はい?」

 

「なんで、助けたの?」

 

 口をついて出たのは、お礼の言葉ではなかった。

 ただ聞きたかった。ルビーなら、今の自分の価値だって分かっていただろうに、どうして?、と。

 

「私がイリヤさんを見捨てるわけないじゃないですか~。言ったでしょう、私とイリヤさんは一蓮托生だって」

 

「……そう」

 

 普通なら、イリヤの中で何らかの感情が起こるハズだった。嬉しかったり、嘆いたり、大なり小なり何かが。

 けれどもう、今のイリヤにはそんな感情すら出てこない。いつもなら、泣いて、喚いていたことだろう。ヒステリックになりながらも、迷っていたハズだ。

 しかし晒された真実は、イリヤの人間性をいとも容易く剥ぎ取った。

 残ったのは、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンという器を改造した人形だけ。

 どうして?、と思うことはあっても。

 どんな答えが返ってこようと、琴線に触れない。

 

「……ルビーはさ、知ってたの? わたしやこの世界が、偽物だって」

 

「まさか! ルビーちゃんにだって色々事情があるんですよ~。しかしなるほど、なーんか釈然としないとは思ってはいましたが……私の記憶をロックしやがったなあのクソマスターめ……」

 

 興味なさげに、イリヤは視線を外す。

 助けられたところで何かが変わるわけじゃない。ルビーが何か知っていようがいまいが、どうだっていい。

 イリヤスフィール・フォン・アインツベルンは死んでいる。

 その事実が変わらない以上、もう、どうにもならない。

 これからどうしようか、なんて他人事のように考え始めたときだった。

 

「……?」

 

 何処かで、小さな震動が。

 死後の世界に響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 一体、幾度剣が砕け散っただろうか。

 今も十本以上の剣が欠片となって、空気に溶け込んでいく様を見ながら、当然の結果を英雄王は見届ける。

 そう、当然の結果。

 英雄王ギルガメッシュ。

 かつて神話の時代の再現とも言われた、聖杯戦争においても、その圧倒的な力と彼の王の財はまさしく桁違いだった。大英雄が集い、恐らく聖杯戦争というくくりであれば過剰な武力が集まった第五次聖杯戦争であっても、その強さはまさに他を寄せ付けない。ギルガメッシュの武勇は、数多のサーヴァントを軽く凌駕していた。

 そんな英雄王に唾をつけたのが、贋作者ーーそう、衛宮士郎である。

 正義の味方を志し、誰もが幸せであってほしいと今も願う愚か者。

 大した力も無ければ、その志すらも借り物であった少年に、ギルガメッシュは敗れた。

 本来、人間がサーヴァントに敵うわけがない。

 しかし英雄王の眼前に広がるこのみすぼらしい固有結界の存在と、自身の王としての矜持という運が大なり小なり複雑に絡み、結果ギルガメッシュは敗北を喫した。

……英雄王ギルガメッシュにとって、それがどれだけ屈辱的なことだったか。

 故に少年期となり、精神性がやや英雄や王から遠ざかったギルガメッシュは、今度こそあの贋作者に完膚なきまでに勝つために戦略を練った。

 美遊の世界、そしてこの世界にあった大聖杯を確保。燃料として美遊とイリヤを装填、体格的にも魔力的にも青年時に迫る、まさに英雄王としてふさわしい力を手にした。霊基が少し歪んだが、これもそれも二度の敗北だけは阻止するため。

 自身が認めた英雄ならば、ギルガメッシュも大人しく負けを認められたかもしれない。

 たった一度ではあるものの、その武に見合う英雄、王、その役割を理解し、なお手を伸ばして届く。そんな一線を越えた相手なら、むしろギルガメッシュは褒め称えたところだ。

 だがあの男は違う。

 叶わぬと知って。それでも無駄な足掻きをし続けて、結局何も残せないまま死んでいく。英雄など烏滸がましい。子供のように詭弁を弄する弱者。それが衛宮士郎だ。

 しかも愚かさには拍車がかかっている。

 全てを救うため、全てが零れ落ちようと選ばない。他者を切り捨てられないから全て巻き添えを食らわせる。そんなことを平気で宣う狂人を、英雄王が認められるハズもない。

 それはただ選べない自身の甘さを正当化しているだけ。

 意志も弱く、迷いだってある。

 それが今の衛宮士郎だ。

 その、ハズだった。

 

「くっ、!?」

 

 苦悶の声をあげる。それもそうか、今顔面に実に百本の剣が殺到した。剣山の一部となった巨人は左手を振りかぶり。

 

「ーー調子に」

 

 それを破城槌のごとく振り抜き、更にその腕から機銃のように財宝を乱射する。

 

「乗るなというんだ、小僧ーー!!」

 

 スナップを効かせた左腕は、凍海をスクーパーみたいに抉り、逃げ道を王の財宝が塞いでいく。

 この二段構えに、豆粒のように矮小な贋作者が出来たことは一つだけ。

 

「お、おおおおおおお……!!」

 

 この世の全てで外敵を叩き落とす。

 王の財宝が機銃なら、無限の剣は猛禽類だ。

 王の財宝、巨人の左腕。それらを啄むようにルートを作る。逃げるためではない。構築した進軍ルートは本来必殺の左腕。翼を広げた鷲のイメージで、勢いよく蹴って巨人の左腕へ飛び乗った。

 さながら橋から遊覧船の上へ落ちたような無茶苦茶な回避。

 王の財宝はその体を貫通し、血肉を削り、衝撃は骨をも砕いた。

 骨身を削る、無限の()を踏み台にするような攻防。

 だが、それでもあの男は、生きている。

 

「づ、ァッ!!」

 

 獣の威嚇に近い唸り。

 衛宮士郎の外見はすでに、もう人のそれではない。

 全身が聖杯の泥に染まり、髪どころか眼球に至るまで赤錆のよう。

 衣服など下半身が少し残っているだけ。

 四肢がまだ付いていることに違和感すらギルガメッシュは覚える。

 それでも。

 ぎぎ、と動く。

 あらぬ方向に曲がった左手が地面を殴り、その反動で立ち上がる。

 走る。

 

「、しつこ、……!」

 

壊れた幻想(弾けろ)ッ!!」

 

 爆破。顔もろとも、体のあらゆる箇所が断続的に吹っ飛ぶ。

 その間にも王の財宝は飛び交うが、不届き者は頭部までの距離を縮めていく。

……どれだけの時間が過ぎただろうか。

 あと二分で固有結界が切れるだろうな、と見立ててから、少なくとも二十分以上は経過している。ギルガメッシュは体内時計でそれを確認する。

 衛宮士郎の魔力量は精々が普通の魔術師より多め程度だ。バックドアはあるかもしれないが、それにしたって二十分も固有結界が持続しているのは可笑しい。生命力を魔力に変えてるとしたら、それこそ死ななければ可笑しい。今の奴は既に脳までアンリマユの泥で侵され、とっくに反転していなければいけないのだから。そもそもあんな身体で生きていることがまずあり得ないのだが……。

 

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」

 

 雄叫びをあげ、泥の巨人を駆け上がる。

 ピラニアのように襲いかかる宝具の射出は、既に音速を超えていた。ギルガメッシュも本気、一切の手加減無し。少なくともこの霊基での全力を、英霊でも神代の人間でもないただの少年は掻い潜る。

 世界からの後押しか、それとも少年の命を魔力に変えているからか。

 何度も掠めておきながら、あんな小さな体では到底凌げない戦争の只中を、徒競走でもしているように衛宮士郎は走る。

 

「贋作者が……!!」

 

 認めない。

 ず、と。

 英雄王の足元が大きく、脈動した。

 

「来い、イガリマ!!」

 

 王の号令が響いた瞬間、目の前の景色が一変する。

 さながら引き出しを開けるみたいに、ドパァ!!、と途方もなく巨大な大剣が膿じみた泥を突き破り、人間目掛けて出現したのだ。

 前傾姿勢だったこともあり、回避行動など取れるハズもない。しかもこれはただの宝具ではない。これはアーサー王が所持していた聖剣と同じ、神造兵装。咄嗟に投影しかけた不届き者の眼球が破裂寸前まで膨張する。

 多量の剣で盾を作ったものの、山を削って作った斬山剣相手に、そんな即席が通ずるわけもない。

 

「ぐ、ぉ、ぅ、がっ、……!?」

 

 めきめきめきめき、と全身の骨と肉が粉々になる音がした。

……イガリマ。またの名を千山斬り拓く翠の地平。メソポタミア神話において戦いの神であるザババが持つ、翠の刃、それがこの宝具の正体だ。真名解放すれば、地平線の概念を引き出して文字通り千の峰を切り刻むことすら可能となる。

 ギルガメッシュは持ち主であるため、真の力を発揮していないが、それでもあの矮小で愚鈍な人間には効果覿面だった。 

 なす術なく打ち据えられたまま数百メートルほど吹き飛び、荒野を引き摺るように跳ねる人間。

 まさしく蟻のように、無力な結果だ。

 

「ば、ぐ、ごぉ……ッ!?」

 

 衛宮士郎が口から砕けた歯と血を涎のように垂れ流す。左手で口の中に溜まったそれらを掻き出して、気道を確保しようとする。

 ぜひゅ……と呼吸に違和感。どうやら呼吸すら満足に出来ない体になってきたようだ。胃液なのか血なのか最早分からない何かが逆流し、砕けた肋骨の破片と一緒に吐き出す。

 死に体だ。

 今度こそ終わった。

 終わらなければ、いけないのに。

 

「ぇ、ぜ……、ぐ……」

 

 なのに。

 まだ、この男は生きている。

 

「……しぶといなんて領域じゃないな。死霊魔術、宝具の域すら越えている。肉体も、魂も。当に死んでいなければ可笑しい。なのに君は何故、まだ生きている……?」

 

 肉体から溢れる血液など、人間の致死量どころか血液量そのものが枯渇していても何ら不思議ではない。

 骨など砂糖菓子のようにバラバラになり、身体のあらゆる器官に突き刺さっているだろう。

 魂は己の後悔そのものである呪いに塗り潰され、記憶は漂白されて自分の名前すら欠片も覚えていないからか、奴の目は何処も映していなかった。

 生きていられる要素が何一つない。

 そこまで捨ててなお、戦うという行動が理解出来ない。

 何もないのに。

 得られるのは破滅する未来だけなのに。

 それでも。

 もう幾度となく続けたそんな英雄王の疑問に、衛宮士郎がまた応える。

 

「……ぶ、」

 

 呼吸の真似事をして、生きていることを脳に叩き込んでいるのか。

 生きているなら何をするべきか?

 何のために立ち上がったのか?

……それを魂で判断しているのか。

 

「あ、あああああ、ああ」

 

 無限の剣製はノイズまみれ。

 うすら寒い氷の海も、赤銅の荒野も、まるで引き千切られて何もかも落ちてしまったよう。

 あるのはただ、白と黒の乱舞。

 そして、剣。

……彼にとって一番大事なモノは、まだ何も錆び落ちてはいない。

 

「……何故だ」

 

 ただ、理解出来ない。

 ギルガメッシュが問い質す。

 

「記憶だって曖昧だろうに、何が君をそこまで突き動かす……? 得るモノなどないだろう。君にとって、得られるのはただ結末を先延ばしにした過程だけだろう。たかが二か月の命だろう。下手に希望を持って、残念だったと絶望するだけの未来だろう!? 死なないのは何か他の要因だろうが……だとしても、何故まだ戦おうとする!? 何故まだ立ち上がる、何故剣を握れる!?」

 

「う、る、せ、え、ええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!」

 

 再びの疾走。

 答えなど期待していなかった。

……英雄王の中で、沸々と湧きあがる好奇心。

 以前の衛宮士郎であれば、英雄王はただ認められなかっただろう。

 偽者で良いと叫んでいた一年前の衛宮士郎なら。

 しかし、どういう巡り合わせか、そんな人間が変わった。

 妙なところで渇いていた人間がどうしようもない強欲をさらけ出し、全てを救いたいと宣った。

 よりにもよってこの英雄王の前で。

 目の前の誰かのために、夢のために、ここまで惨めに足掻いた人間をギルガメッシュは生前通して見たことが無かった。それがまさか平和などという幻想のためとなれば、英霊ですら数少ないだろう。

 認めざるを得ない。

 今目の前で、奈落の一歩手前で縛られたまま、死者を助けようとする人間を。

 衛宮士郎という正義の味方の存在を。

……偽者であっても、その意志の強さは本物だということを。

 

「……良いよ」

 

 巨人の頂点。

 丸々と太った東洋に伝わる人形のような、その頂で。

 玉座に埋まった小さき英雄王は、本来の右手を宝物庫の池にとぷん、と入れ、目的のモノを取り出す。

 

「これを使う気は無かった。何故なら君の剣は未だ僕の玉座に傷を付けた程度だ。勝敗は見えている。だが君はここまで一切その意志を衰えさせることなく食らいつき、己が正義を(オレ)に見せつけた」

 

 手に握られたのは、この剣の世界にすらない、まさに贋作を許さぬ至高の宝物。

 それは儀礼の剣に近かった。刃はなく、棍棒のように丸い刀身はどんな黄昏よりも深く、どんな明星よりも明るい輝きを放っている。一目見れば誰もがそれに内包された魔力と神々しさに、膝を折って乞うだろう。

 どうか命だけは、と。

 故に英雄王はそんな誇りなき者にこの宝具を抜かない。

 彼がこの宝具を抜いた。それはつまり、英雄王が全力を向けるにたる相手として認めたということ。それだけで、英雄王から衛宮士郎への最大の賛辞となる。

 

「現実を知りながら、なおも闘志を燃やし。限界を知りながらも、なおその手を伸ばす。その愚かさこそ貴様が英雄として名を刻んだ由縁ならば」

 

 それに名はない。

 ギルガメッシュが名付けた名は、エア。

 かつて世界を天と地に分け、文字通り世界を切り裂いたとされる、乖離剣。

 

「褒美だ、正義の味方。最大の褒美として、最期にその命ごと消して、この世の天地も分けてやろうーーーー!!」

 

 瞬間。

 世界が、哭いた。

 エアの刀身が三つに分かれ、回転。紋様が熱を発するように輝きを放つ。

 すると剣から風が吹き出し、やがてそれは三つ合わさると英雄王、巨人の体そのものを巻き込み、乱気流と化す。

 終わりの嵐が、世界に吹き荒ぶ。

 さあ、ここまで粘った。

 僅かな可能性を、人の善性を見せた。

 故に。

 英雄王は最大の障害となって、正義の在処を裁定しよう。

 

 この世に正義はあるや、否や?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ず、……と連続で震動が伝わってくる。

 外から、なのだろうか?

 

「……なにこれ……地震?」

 

「ただの地震でここまで揺れませんよ。こりゃ多分、誰かがこの巨人と戦ってるとしか思えませんねハイ」

 

 イリヤは考える。

 今の状況で、こんなにも終わってしまっている状況でまだ、戦っている人が居るのなら。

 そんなの、一人しか思い浮かばない。

 

「士郎様、でしょうね」

 

「、サファイア?」

 

 少女の推測を口に出したのは、サファイアだった。彼女は海を泳ぐ魚のように泥を掻き分けてくる。

 

「士郎様はこの状況を危惧していました。英雄王ギルガメッシュ。我々が今囚われているこの肉体の英霊は類を見ない英傑であり、恐らく戦えば、自分が負けるだろうと」

 

「……あの人は、この英霊と戦ったことがあるの?」

 

「ええ、どうやらそのようです。しかしここまで強化された英霊が相手ではなかったハズです。なのにここに影響が出るほど、ただの人間が切迫している時点で、彼は何らかの一線を越えてしまっている」

 

「……まあどう考えても普通の人間が生き残れるわけありませんからね。真っ向からぶつかれば、クロさんが居ても五分でノックアウトが関の山。それでもこんな長い時間、英雄王に食らいついていられる理由は……恐らく」

 

「命を、捨ててるから?」

 

 ルビーとサファイアが口をつぐむ。

 そしてイリヤも、それ以上何も言わなかった。

 分かっていた。

 あの人がいつから入れ替わったかは、正確なところまでは知らない。けれど、彼は今まで自分をずっと守ってくれていた。

 どこの誰であろうと、イリヤが勘違いする程度には、彼もまた衛宮士郎だった。

 だからそんな行動も予想していて。

 それではもう、彼を信じることがイリヤには出来なかった。

 そうやって、勝手に守って、勝手に命を捨てるような真似をして。そんなの、自分の知る兄ではない。

 そんなことしなくたっていい。

 そんなこと、しなくても。

……イリヤにとって兄は、ただ側に居てくれる存在で。そんな行動を取らない人だったのに。

 

「……ミユは?」

 

 イリヤの問いにサファイアは、

 

「美遊様ならば、こちらに」

 

 と、白いフリルをばたつかせて返答した。

 サファイアがの頭上へルビーを動かすと、そこには目を開けたまま死んだように身を投げた美遊が居た。

 いや、死んだようにというのは間違いか。美遊の口は今も、慚愧の言葉をずっと連ねている。

 

「ミユ」

 

「……、イリ、ヤ? イリ、!?」

 

「あ、待って!」

 

 何処も見ていなかった瞳に、光が戻る。

 が、美遊はすぐに逃げようと踵を返した。当たり前だ。真実が明るみに出た今となっては、イリヤは美遊にとって、消そうとした罪そのものでしかない。

 だが、イリヤは美遊の手を掴んで、

 

「一つだけ。一つだけ、ミユに教えてほしいことがあるの」

 

「、……わたしに?」

 

 イリヤは頷く。

 美遊もまさかこんなことになって、まず質問されるとは思ってなかったのだろう。

 瞼を腫らしたまま、美遊は逆に問いを投げる。

 

「……わたしを、嫌いにならないの? わたしは、イリヤをそんな風にした張本人なのに。わたしが弱かったから、この世界を都合の良いように塗り替えて……自分の罪を忘れようとしてただけなのに。お兄ちゃんの願いを利用して、わたしには不相応な幸せにしがみつこうとしてたのに、それでもイリヤは、何も、言わないの……?」

 

 それは返答など微塵も求めていない、感情の爆発だった。

 美遊のその感情は、美遊自身が忘れていたモノ。それを誰かに吐き出すこともなく、沈殿していた、美遊の本音だ。

……そして少なくとも。イリヤにとって、それはそんなに悪いことじゃない。

 こんな、小さな体で。世界の運命なんてモノを作ってしまい、その重みに耐えかねているのだ。イリヤからすれば、それはむしろ求めていた謝罪だった。

 だから。

 

「そうだよ」

 

 イリヤは否定しなかった。

 否定したところで、美遊の気持ちが晴れるわけじゃない。美遊はイリヤよりずっと、頭が良い。慰めなんて言ったところで美遊を傷つけるだけだ。何よりイリヤ自身、美遊への感情はとても複雑になってきているのも確かだ。

 それは否定しない。

 けど、

 

「だけど……この三ヶ月、ミユと一緒にいた時のことは、今でも思い出せる。それだって、全部ごっこ遊びだったって言われればそうなんだけど……わたしにとって、それは楽しかった」

 

「……イリヤ……」

 

「死んだ人間が何言ってるんだって話かも。でも楽しかったよ、本当に。もう前みたいに話せることは、無いんだろうけど」

 

 人形と創造主。

 指一つ、願い一つで壊れる関係。

 それが今のイリヤと美遊の関係だ。

 それは友達と呼べるだろうか?

 前みたいに屈託のない笑顔で、自分達はこれからを続けられるだろうか?

……消えるかもしれない恐怖に、自分は耐えられるか。

 

「だからね。これが、最後のお話」

 

 聞きたいことは山程あって。

 でも時間もないから、これだけを、とイリヤは話し出した。

 

「聞いたよ、この世界はお兄ちゃん(あの人)の記憶から作ったって。ミユが、ミユのお兄さんが生きている世界を作ろうとしたって」

 

「……うん」

 

 美遊の兄は聖杯戦争の末、死んだ。

 それを自身の罪だと思い込んだ美遊が、衛宮士郎の世界を上書きし、今までその記憶を消して生きてきた。

 

「でもね、不思議だなって思って。ならどうして、ミユはわたしを作ったんだろうって、そう思ったの」

 

「……え?」

 

 美遊が目を瞬かせる。

 意味が分からないのだろう。

 ここが美遊・エーデルフェルトの幸せな世界なら、決定的に可笑しいのに。

 

「ここはミユが幸せな世界なんだよね? 例えお兄ちゃんが、あの人が幸せになってほしいと願っても、前提はそう。なのに、ミユはお兄ちゃんまで作っておきながら……妹の席に自分じゃなく、わたしを入れた」

 

 簡単な話だ。

 いくら方向性を変えても、最初に入力された設定を守らなければ願いは叶えられない。とすれば、美遊も幸せにならなければ可笑しい。

 だが美遊は妹としてではなく、あくまでただの外野でしかなかった。

 

「美遊は家族なのに、そこから外れてた。それじゃあお兄さんの願いが叶わないのに」

 

「……」

 

 ああ。

 こんなことも、美遊は忘れてしまったのか。

 イリヤはそれが少し、寂しい。

 だってきっと、ここにあったのは。

 

「ミユはさ、ルヴィアさんに言ったんだよね。居場所がほしいって。それがこの世界なんだとしたら、それはさ」

 

 誰よりも愛した家族との、忘れられない思い出だっただろうから。

 

 

「自分が幸せになるんじゃなくてーーお兄さんが幸せになる世界を、居場所を、ミユは作ったんだね」

 

「ーーーー、ぁ」

 

 

 イリヤの声が、美遊に届いた瞬間。

 蒼い少女の瞳から、ほろり、と涙が伝った。

 それは受け止めきれない罪の重さからではない。そんな、冷たくて、どうしようもないほど胸に突き刺さる現実なんかじゃない。

 夢でも、ただの逃げであっても。

 そうあってほしかったという、幼い少女の理想。 

 

ーーあたたかでささやかな、幸せをつかめますようにーー。

 

 かつて一人、愛しい人の骸の前で。

 ただ幸せになれという願いを叶えるために、その死を悼むことすら許されなかった少女の、慟哭。

 誰かに伝えられることもなく、忘れて世界にしまい込んだ、都合のいいお話。

 ただそれだけを叶えた、願いの残骸が、この世界だった。 

 

「ーーーーミユは。ただ、お兄さんに幸せになってほしかったんだよね」

 

 それが真実だった。

 美遊がただの外野で、イリヤをわざわざ作ったのは、衛宮士郎のために作ったこの世界を、自分の存在で壊したくなかったから。

 衛宮士郎の幸せ。それを作ろうとした結果、美遊がその隣から外れただけのこと。

……その結論に至ったときの美遊は、どれだけの葛藤があっただろう。

 それとも迷いなく、自分の存在を消したのだろうか。

 どちらにせよ。

 これ以上なく優しく、そしてこれ以上ないくらい救いがない。そんな、夢の話だった。

 

「そのために、お兄さんの願いを、自分が幸せになる世界を、ミユは否定した。そうでしょ?」

 

 美遊は頷くことすら出来なかった。

 それを認めるしまうことが、怖かった。

 もしも認めてしまったら。

 きっとイリヤは、

 

「……うん。それならね。わたし、いいかなって」

 

 こうやって、納得してしまうだろうから。

 

「わたしが生まれた意味がもしもそれならね。なんだか、もういいやって。当て馬みたいな役だけど、予定調和みたいに消えるんだろうけど……でも、このままだったら、ミユが一番辛いよ」

 

「……違う、違うよ……それは、違う……!!」

 

 確かに辛かったと美遊は思う。

 でもそれは、生きていたから感じられたことで。生きていれば、その辛さがいつか幸せに変わっていくことだってあるかもしれない。

 いや事実変わった。

 違う人だけど、別人だけど、家族を見つけられた。友達だって出来た。

 でもイリヤは違う。

 何故なら、

 

「イリヤには先がない……わたしみたいに、今は辛くても、いつか報われることなんてあり得ない……だって、だって死んでるんだよ? 幸せだった今までを壊されて、思い出まで嘘になって。そのままなんだよ? ずっと、あなた達は騙されてたことしか残されなくて、もう消えるしかない!! それで終わりなんだよ!? そんなの、そんなのイリヤ達の方がずっと、ずっと救われないじゃない……!!」

 

 最早言葉にすることすら難しくなった美遊は、顔をぐちゃぐちゃにして。

 

「わた、わたしはっ……あなた、に、酷い夢を、押し付けた、のに……なんで……っ……?」

 

「だよね」

 

 なんでかなあ。

 イリヤは考えてみる。目の前で泣きじゃくる女の子の姿を見てみて、それで出した答えは、いたってシンプルだった。

 

「だってわたしは、美遊の親友でしょ」

 

「……ぇ?」

 

 美遊が目を見開いたときには、イリヤは美遊を抱き締めていた。

 微笑みすら浮かべ、人形として生まれた少女は安らかに告げる。

 

「ミユのご機嫌一つで、消えてしまう命だとしても。わたしね、ミユのことが大事なんだ。それがあなたから与えられた役割だったとしても、それだけは、本当なんだよ」

 

「……ぁ、ああ、あああ……っ!!」

 

「だからありがとう、ミユ。この世界を作ってくれて。みんなが幸せな世界を、作ってくれて」

 

 ありがとう。

……その言葉を聞いて、背中に手を回されて。

 美遊は、放心していた。憎まれはすれ、まさか感謝されるだなんて思いもしなかった。

 そんな資格はないのに。

 だから零れたのは、単なる言い訳だった。

 

「……一度も笑った顔を見たことがなかった」

 

 美遊はイリヤの温もりを感じながら、

 

「わたしとどんな話をしても、どんなことがあっても、あの人が笑うことはなかった……ううん。笑ってはいたけど、それは見せかけだけだった。わたしと居ることが辛かったわけじゃないと思う。むしろ楽しかったハズで、ただ、感情を表現する機能が欠落してた」

 

 イリヤには美遊がどんな顔をしているか、物理的に見えないから分からない。

 でも何となく、その顔はずっと、泣いているのだと分かっていた。

 

「……今でも思い出せる。酷い結末だった。悲しいお話だった。わたし達みんな、歯車が壊れてた」

 

 この世界と同じ。

 何か、ネジが外れて。回っていた歯車が転がり落ちていった。それだけで、ささやかな幸せも、大きな世界というシステムそのものも、壊れていった。

 まるでゼンマイで動くオモチャみたいに、直ることもなく。

 

「みんな一人で、みんな死なないでほしかった。単純な善悪なんかじゃ推し量れなくて、だから止められるハズもなくて。わたしにそれを全て解決する力があっても、それが本当に正しいことか分からなくて……そうやって、迷っている内にみんな死んでいって」

 

 そうして、ここが出来た。

 墓場を埋め立てた、人形の楽園。

 それがこの世界の名前。

 

「……ただ、生きていてほしかった。笑って、側にいてほしかっただけなのに……なんで……なんで、こうなっちゃったの……?」

 

「……なんで、だろうね……」

 

 叶わない夢を現実にしたかったのか。

 忘れたい現実を夢にしたかったのか。

 その問いに答えはない。

 

「だから、だからね。ミユだけでも、生きててほしい(・・・・・・)の」

 

 イリヤはそんなことを提案した。

 美遊から目から涙が途切れる。

 脳が、理解を拒む。

 

「え……?」

 

「美遊はまだ生きてる。お兄ちゃん(あの人)が居る。だったらまだ終わってない。ミユのお兄さんのためにも、わたし達のためにも、ミユには絶対に生きててほしいの」

 

「ま、待ってよ……」

 

 美遊がイリヤの顔が見えるまで距離を取る。

 目と鼻の先にある少女の表情は、決意に満ちていた。ただそれは希望へ続いてはいない。それはまるで美遊とイリヤの周囲を取り囲む、この泥のような煉獄へ続く、終わりだった。

 

「そんな……やだ、やだよ、イリヤ。わたし、まだイリヤと離れたくない。だってイリヤ達がくれたもの、イリヤ達に教えてもらったこと、わたしはまだ何も返せてない……!」

 

「いいよ、そんなの。もう十分、十分だから」

 

「十分なんかじゃないよ!!」

 

 美遊が手首にはめたブレスレットを見せる。共に思い出すのは昨日の前祝い。最後に約束したこと。

 

「ずっと一緒にいようって、そう約束したでしょ?……ううん、ずっとじゃなくてもいい。来年、いや今年の夏が終わるまでで構わない。それまでで良い、それまでは、みんな一緒に……!!」

 

「じゃあ」

 

 けれど。

 イリヤは自分のブレスレットに触れてから、苦笑した。

 

 

「ミユは、わたし達みんなを助けてくれる(・・・・・・・・・・)?」

 

 

……決定的な一言だった。

 それは、甘い幻想に幕を下ろす、被害者(キャスト)の懇願だった。

 

「お父さんも、ママも。セラも、リズも。みんな、助けられる? わたし達が生まれた世界を、衛宮士郎(あの人)の世界を残したまま。あなたも死なずに、みんなを助けられる? 昨日まで一緒だった人達が、誰一人欠けない結末を、ミユは作れる?」

 

 そうであってほしかった。と呟いたのは、果たしてどちらだったか。少なくとも、今このときすらイリヤから目を背けている美遊には、それを叶える術は持っていない。

 

「……っ、……でも!!」

 

「でもじゃない!!!」

 

 イリヤの怒号に、びく、と美遊は飛び上がりそうになる。

 けれど、そんなことよりも、美遊はイリヤの沈痛な面持ちに、後悔した。

 今誰が一番辛いのか。分かっていたハズなのに。

 

「でもじゃ、ない……っ」

 

 恨み言を言わないよう必死に唇を噛み、細い指が赤くなるほど握り締め、それでも出てしまった涙。それはただ、こうやって生きてることそのものが辛すぎたから。

 

「……わたしね、思い出したんだ。生きてたときのこと」

 

「……!」

 

「わたしじゃないわたしのこと。思い出したんだ。だから分かる。ミユにはこの世界を続けることが、精一杯なんだってことも」

 

 そして、

 

「お兄ちゃんが……シロウ(・・・)が、わたしにとってどんな存在だったのか。キリツグや、お母様、セラ、リズ。本当はどんな関係だったのか。今でも少しだけだけど、思い出せる。思い出せるから、もういい」

 

 冬の少女は血を吐くように言った。

 

「変に希望なんか持たせないでよ……もう死んでるんだから。もう二度と会えないハズだったんだから。もうただの思い出なんだから。だから……」

 

 

 

 

「もう、わたし達のことは、ほっといてよ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それが剣であることと、この世界そのものを消し去れる代物だと一瞬で分かった。

 だから、足は独りでに動いた。

 一歩。

 爪先が地面を捉え、目の前に刺さった剣を引き抜き、そして。

 袈裟斬り。

 

「!」

 

 一呼吸で二十の財宝を叩き落とす。

 走る速度は衰えないまま、トップスピードで肉薄する。

 眼前の巨人は、あの剣が巻き起こす極死の嵐で自身をも削られているようだった。それは一見自殺覚悟の捨て身に見えるが、大聖杯二つによって生み出される泥の量は消費より生産が勝っているようで、その体長に変化はない。

 吹き荒れる赫の風は、世界そのものに偏在するかのように勢いを増していく。数百メートル離れてこれだ。最早この世を横断する台風とも言えよう。乱気流は物理的な限界を超えて空の一面を真っ赤に染め上げ、周囲に小型の竜巻が発生して大地を抉り取る。

 天と地が、裂ける。

 この世の終わり。一つの世界の終焉。

 新たな時代の到来。

 それを予感させるのがあの男が持つ最強最大の宝具。

 天地乖離す開闢の星(エヌマ・エリシュ)

 恐らく■■■■の聖剣であっても、真正面からぶつかればまず勝てない。

 滅びは必至。

 だが、

 

「望むところだ」

 

 こちとらとっくに、生きてることが不思議なくらいだ。

 覚えてることは、精々しないといけないことだけ。

 思い出せたとしても、それはまるで蝋燭みたいに朧げな光みたいな、炎のような、眩しい映像。

 そう、それだけ。

 自分の名前だって忘れた。

 一秒前の記憶が昨日の事のようで、忘れながら生きる。

 息なんてしていない。

 何もかもいっぱいいっぱいで、死なないことに絶望するし、虫に死体を貪られるかのような責め苦が永遠に続いている感覚。

 けど、身体は動いた。

 心は燃えていた。

 なら、まだ走れる。

 目の前の結末に立ち向かえる。

 

「!」

 

 奴の腕を伝って回り道したのでは恐らくアレを放たれてしまう。それはダメだ。でも最短で行こうとすれば、即座に奴はあの腕で迎撃してくる。

 なら、話は簡単だ。

 

「……なに?」

 

 奴が目尻を吊り上げる。

 何故なら、地平線の向こうから。

 あるいは裂けた空から、あるいは割れた大地から。

 世界そのもの(・・・・・・)が無限の剣へと変換されていき、蟻のように押し寄せてきたからだ。

 世界が暗闇に墜ちる。

 だがそれは終わりではない。

 最期まで戦うという意志表示。

……巨人の身体は大きい。普通ならまず、ウェイトに差がありすぎて勝負にならない。王の財宝だけでも厄介なのに、そこにサーヴァントすら死に至らしめる呪いと願いが叶う大聖杯が二つも内蔵されているとなれば、勝ち筋なんて一ミリも見えてこない。

 だが。

 もしも。

 一瞬でいい。

 一瞬だけでもその巨体を無いことに出来るなら、話は違う。

 

「世界そのものを剣に変えた……!? ここまでの量を操作すれば、普通なら負荷で脳に致命的な傷を負うけど……!」

 

 今更脳の一つや二つ、弾けようが潰れようが構わない。

 理由は分からないものの、どうやら今の俺は死ねない呪いにでもかかってしまったらしい。

 なら血の一滴に至るまで使い潰し、目の前の結末を打倒する。

 開闢の風に対して、剣の蟻地獄。

 それが用意できるのは捨て身の今だけ。

 

「行けえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!」

 

 右手を振り下ろす。

 連動して、世界そのものとも言うべき量の剣が巨人に殺到した。

 音の連続性など掻き消えた。

 余りに多くの激突音が重なったせいか、一つの金属音だけに聞こえるほどの音圧が世界に木霊する。

 陸海空。まさに掛け値なしの、世界全て。

 巨人は身動きが取れない。当たり前だ。逃げようもなく、最早巨体など意味がない。奴は今初めて、自分より大きな捕食者に食われているようなモノだ。破滅の嵐も流石に勢いを削がれ、光も弱まっていく。

 しかし、やはりそれだけじゃどうしても足りない。

 

「ーー舐めるなよ、正義の味方」

 

 奴の胸部。本体があるそこには、まだ爛々とエアの風が渦巻き、世界に牙を剥いている。むしろあの円筒が激しく回り始めたことで、再びあの嵐が世界を席巻する。

 特異点(ブラックホール)にも匹敵する渦は、無限の剣を逆に食らおうと飲み込んでいく。

 

(オレ)を数で押し通せると思うなよ……! 星を眺めるだけの貴様と、星をも手にする(オレ)とでは、格が違って当然よ!!」

 

 無限の剣で足りぬのは先刻承知。

 ブラックホールの中心。無限の剣を押し返す魔の空間。

 そこへ。

 最後の一振りとして。

 上下すらない、絶対零度の死の世界へ俺は飛び込む。

 

投影(トレース)開始(オン)!」

 

 何もかも忘れても染みついた自己暗示。

 耳鳴りと、光の乱舞で視界がチカチカする。それはもう忘れてしまった記憶。欠けた月のように、大事な記憶は全て谷底へ落ちていった。

 打倒するは一秒前の誰か。

 忘れた誰かのために、戦い続けるオレ(誰か)は死の次元へと踏み入る。

 走るというより、落下に近い。逆さになって中心に近づけば、待っているのは世界を裂く嵐。

 故に。

 この身を守るは我が最大の信頼を寄せる盾。

 

熾天(ロー)覆う七つの円環(アイアス)ッ!!」

 

 咲き誇る花の城塞。

 しかし、嵐の前ではいかに丈夫な花も散る運命にある。

 アイアスも例に違わず、一瞬で五枚の花弁が砕け散った。

 そして一拍置いて盾そのものが砕け、身体が半回転し。

 あらかじめもう片方の手に投影していたアイアスが極死の風を阻む。

 胸部まであと百メートル弱。

 しかし一拍置けばまたアイアスは砕け、俺は風に揉まれて距離を離される。そうなれば勝機を逃す。

 ならばこそ、空いた片手で逆転の一手を生み出す。

 この百メートルを埋める、最後の一手。

 それは、まさに神頼み。

 

投影(トリガー)装填(オフ)

 

 投影するのはこれまでで最大の重量と体躯を誇る大剣。

 扱うには筋力も、生物としての器も、勇猛なる魂も何もかも足りていない。それはまさに、星に鍛えられた聖剣を投影することと同等の無謀。

 無論、代償は速やかに襲いかかる。

 

「ぎ、      !?」

 

 ばつん、と。

 五十四の魔術回路が一瞬で焦げ落ち、断線する。痙攣し、泡を噴いて無様に失神した。

 再び光の点滅が残り火のように視界を占領する。

 忘れないで、という声がした。

 忘れてしまった、と自分に絶望した。

 こんなことになってまで止まらないのだから、それはよっぽど大事なことなのだろう。

 けれど。

 もう何もかも、真っ白に上書きされてしまった。

 

「        ぁ」

 

 膨張していた右目が、ぱしゃ、と湿った音を立てて今度こそ弾けた。落ちていくゼリー状の丸い骨は、頬を撫でるかのよう。

 保てない。

 自分を保てない。

 眩しすぎる光に目を焼かれ、鋼じみた風に意識は砕かれる。

 小さくなる意識と、削がれる体。

 俺がこんなモノに耐えられるわけがない。

 何の標もなく、何の結末も見えず、ただ突き動かされる衝動のままに、戦い続ける俺にどうしてこんな地獄を生きられよう。

 退けば奈落へ、進めば死へ。停滞すればその両方。

 でも。

 そんな分からないモノしかなくても。

 その真っ白な光を思うと、涙が出た。

 

「、」

 

 ああ、本当に。

 何も分からないのに。

 あるのは、漂白された真っ白な更地だけなのに。

 俺はこんなモノ、知らなかったのに。

 今の俺でも、それを覚えている。

 絶望の風の中で。

 希望の光は閉ざされようと。

 それは、俺にとって大事なことだったんだと。

 心が知っている。

 魂が覚えている。

 どれだけ汚されても、どれだけ奪われても、幸せだったという感情は未だ覚えている。

 だから。

 その地獄を越える。

 

「!!」

 

 神よ、この武器の担い手よ。

 俺はここに問い質したい。

 お前がまた英雄であるのなら。

 こんなときくらい、馬鹿みたいな夢物語の立役者になりやがれーーーー!!!!

 

「なんだと……!?」

 

 奴が瞠目する。

 俺の片手に握られた、というより、触れていたのは、水晶じみた柄と、伸びた剣の先端が大きく開いた大質量の巨剣。

 その名はイガリマ。

 戦の神ザババが持つ、斬山剣。

 地平線の概念を持つその大剣にて放つは、無論神話の一幕。 

 

「、……!」

 

 呼吸を整える。

 アイアスが壊れるコンマ一秒前。

 その空白に、我が魂の全てを込める。

 どうして死なないのかは分からない。

 けれど。

 振るうことは出来ずとも。この巨剣を持ち、吼えれば、それで攻撃は完了する。

 

投影(トレース)……!」

 

 五十四の魔術回路を分解。

 千に分けて再配置。薄い針のように伸ばされた一閃一閃を束ね、重ね、線とする。

 折り重なった一閃にて構築されるは地平線。

 なれば、それを今こそ我が振るおう。

 地平線の向こう、目に見える外敵を伐り伏せんと、

 

 

全工程投影完了(セット)ーーーー。

 

 

 是、千山斬り拓く翠の地平(イガリマブレイドワークス)

 

 

 血の洪水を、千の絶刀が斬り拓くーーーー!

 

 

「ぐ、うおおおぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお…………ッ!?!?!?」

 

 

 悶絶の声。エアの風ごと、巨人の体をイガリマは文字通り千切りにした。

 奴の本体も、流石にその連撃には堪えた。エアを持つ手ごと切り裂かれ、大きく後方へ退いていく。手足を無くし胴体だけとなったそれは巨人とは呼べない。肉達磨だ。

 そして、それを見逃さない。

 巨人の肩に食い込んだ斬山剣を惜しげもなく、

 

壊れた幻想(ブロークンファンタズム)ッ!!」

 

 爆破。

 核爆発に匹敵する破壊の瀑布は、巨人から世界へ瞬く間に埋め尽くす。

 爆風だけであらゆる英霊を座へ還すほどの威力。無限の剣製が一時的に剥げ、現実の冬木が垣間見えた。伝播した衝撃が体を肉叩きのように滅多打ちにする。

 今しかない。

 漆黒の世界の中。恐らく最後となる投影を始めた。

 

投、影(ト、レース)開、始(オ、ン)……!」

 

 喉が焼け爛れたからか。それとも舌が中ほどから千切れたからか、上手く言葉を紡げない。

 投影したのは、今の俺が出せる最大火力。

 勝利すべき黄金の剣(カリバ―ン)

 これで奴の胸部を吹き飛ばし、助ける。

 ……誰を、なんて考えるな。

 音速で落ちていけば、奴の身体はもう目の前だ。

 華美な装飾の入った聖剣を掲げ、そして。

 

 

 

 

「ーーーーーー原初を語る」

 

 

 

 いとも簡単に、巻き起こった斬撃によって全てが崩壊した。

 

「な、んだ……!?」

 

 それは今までのどんな財宝、どんな宝具の一撃をも凌駕していた。

 風に煽られてようやくその惨状を目撃した。

 それはまさに、天変地異に匹敵する圧倒的な破壊。

 そして創造されるのは、一つの銀河。

 空なんてモノが無くなった世界であっても、それを仰がされる。

 凡庸な人間だと思い知らされる。

 細胞の一つ一つが、その星の渦に恐怖した。

 流転する運命のようなそれは、まさにこの世にあり得る最上級の地獄に他ならないーー!

 

「世界を裂くは、我が乖離剣ーーーー」

 

 銀河の中心にて、あの英霊は地獄を生み出していた。

 無傷ではない。その体の実に七割ほどを失いながら、以前奴の闘気は些かも衰えない。むしろ真名解放により、その気勢は既に少年のそれではなくなっていた。

 調和と混沌入り乱れた、銀河の星々。

 最早物理法則どころか魔術の域すら超え、世界の理すら一変させかねない。

 創製の光。

 そして英雄王は渾身の号令をもって、

 

 

「さあ、夢から疾く醒めよ。天地乖離す(エヌマ)ーーーー」

 

 

 その星を、世界へ振り下ろす。

 

 

「ーーーー開闢の星(エリシュ)!!!!」

 

 

 なす術はなかった。

 抵抗する気力すら与えられなかった。

 ただ、圧倒され。

 世界は原初の地獄に戻された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、その影響は現実世界にまで届いた。

 

「……待ってください」

 

 冬木市の郊外で、顔を付き合わせて作戦会議をしていたクロ達だったが、そこでバゼットが町の異変に気付いた。

 都心の空間が、歪む。雷雲が立ち込め、燃え広がる炎が恐怖を覚えたかのように震える。

 

「……風?」

 

 何処からか吹いた風が、肌を撫でた。

 夏場と言えど、風なんていくらでも吹く。だが、これは不自然だ。一秒経るごとに風速が加速度的に上がっていくなんて、普通ならあり得ない。

 

「……やば」

 

 ごくん、とクロが喉を鳴らした。

 新都の歪んだ空間。

 そこから破滅の嵐が、この冬木へ流れ込んでくるーー!!

 

「皆さん、早く車へ!!」

 

 ルヴィアがリムジンのドアを開け放った。返事すらも時間の無駄だと、全員で車へ乗り込む。

 背後は紅蓮に染まり、都市が滅びの波に飲み込まれる。

 しかしクロは、目を魔術で強化していた。

 だから見えた。

 破滅の嵐に揉みくちゃにされて、紙屑のように吹き飛ぶ人影を。

 

「クロっ!?」

 

 父の声を振り切り、クロは新都へ跳んだ。

 空間移動。クロだけが持つ魔法のような魔術。次元と次元を跳躍し、距離を0にする規格外の秘蹟。

 跳んだ先は嵐の直上。眼下を突き抜ける破壊の嵐に背中をじりじりと焼かれながら、クロはその人影を目視した。

 

「……うそ」

 

 最早標本に近いほど肉を失っていたが、確かに人だった。それだけの傷を負っておきながら四肢が存在することも、血がまだ入っていることも、信じられない。

 何より、それの正体にはクロも見覚えがあった。

 顔立ちや背丈からして恐らく……。

 

「お兄ちゃん……?」

 

 考えている暇はなかった。

 クロはその手を掴むと、まだ比較的被害が少ない新都の端に移動する。

 僅かな浮遊感の後、地面に降りてその誰かを投影したシーツの上に横たわらせる。純白のシーツは一瞬で血で真っ赤になったが、それはいい。

 

「お兄ちゃん……? 本当に、お兄ちゃんなの? なんで、なんでこんな……!!」

 

 改めて容体を見ても、酷いモノだった。

 片目はくり貫かれたように空洞になっていて、口の隙間から見える舌はほぼ全て切られていた。全身の血管や骨が直に見えるほど肉が削がれており、その血管や骨、臓器でさえもぐちゃぐちゃだ。更にそんな欠陥を埋めるかのように呪詛が内側から蠢いていた。

 生きているなんて到底言えない。

 猟奇殺人の被害者どころの騒ぎではない、これでもまだ、肺と心臓は動いているのだから。

 分かっていた。

 只では済まないことくらい。

 だが、ここまで傷ついてなお、彼は死んでいないのだ。恐らく人間ならとっくに事切れている状態でもなお、三途の川を渡らずにこの世界にしがみついている。

 一重に、みんなを救うために。

 

「……酷い……こんなの、酷すぎる……!!」

 

 衛宮士郎は確かに罪を犯した。

 それは人間として、許されることではないのかもしれない。

 断罪されるべきなのかもしれない。

 だけど、ここまでか?

 クロは士郎と痛覚共有をしている。

 本来ならクロだって同じ痛みをシンクロして、発狂していなければ可笑しい。だがそれがない。痛みはない。

……つまり衛宮士郎の痛みはそれほどだったのだ。

 痛覚共有の呪いが解けるほどの疼痛。それが衛宮士郎に与えられた罰だった。

 

「……、……」

 

 吐き気を必死に抑え込む。

 何も出来ない。

 何もしてやれない。

 外側だけでこれなのだ。

 内側は、彼の精神が壊れていない保証なんて何処にもない。

……このまま眠らせてあげるのが、一番の治療法だと、クロはそう思っていたが、

 

「と、べ」

 

 彼の口が。

 動いた。

 

「……え?」

 

「あ、い、ず、す、る」

 

 合図する……?

 クロは意図を図りかねた。こんな状況で、こんな状態で一体何をするというのか。

 

「本当だよ。悪足掻きはよくない」

 

「!」

 

 この声は……!

 クロが振り返るよりも前に、背後で地響きがした。あの巨人だ。しかし大分手傷を負わされたのか、二十分前と比べてその体長は三分の一にまで減っていた。

 たった一人で、この怪物をここまで。

 クロの想像を絶する戦いがそこで行われていたのだと、再確認する。

 

「うん、手強かったよ。流石にここまで粘られるとは思わなかった。しかもエアの一撃を食らってまだ生きているなんて、また厄介な呪いを受けてるもんだ。正直同情する。神ってのは往々にして運命の悪戯を仕掛けるが、これは飛びっきりだ」

 

「いけしゃあしゃあと……!! アンタがやったことでしょ!? こんな、拷問まがいのことしといて、それでも英霊なの!?」

 

「心外だなあ。こっちだってそれなりに手痛い傷を負ったんだけど? まあ、やっぱり人間かな。こっちのスペックを把握していない」

 

 話していく毎に、ギルガメッシュの胸部から泥が溢れて体が修繕されていく。このままでは、彼がここまで傷ついた意味が全て無くなってしまう。

 悔しいが、クロにそれを止める術はない。

 だが。

 衛宮士郎は緩慢な動きで、右腕を巨人へ向けて。

 

 

 

「こ、わ、れ、た、げん、そう」

 

 

 

 ギルガメッシュの胸部が、派手な爆炎と共に、中から吹き飛んだ。

 

「が、ぐっ、……!?!?」

 

 さしものギルガメッシュも、まさか攻撃されるなんて思いもしなかったのだろう。クロに至ってはどうやって攻撃に転じたのか理解出来ていなかった。

 クロは知らない。

 無限の剣製によって、巨人の体には腐るほど爆薬となる剣が埋まっていたことを。

 ギルガメッシュは知らない。

 イガリマによる一撃と同時に、数多の剣がその胸部を通じて体内に入り込んでいたことを。

 故に衛宮士郎は言ったのだ。

 合図するから、飛べ、と。

 今ぽっかりと胸部に空いている、あの穴へ。

 

「と、べ」

 

「……お兄ちゃん」

 

 元々勝つつもりなんて微塵もなかったのか。

 最初から、目標は助けることだった。

 こんなにボロボロになって。

 最後の最後まで、彼は間違えなかった。

 ただ誰かを助けるために、犠牲になった。

 

「とべ……、……、……」

 

 力なく手が地に落ちた。

 確かに聞いた。

 最後に、唇だけで音は発さなかったが。

 クロ、と名前を呼んだ。

 だったらもう、泣いてる場合なんかじゃない。

 

「ーーええ、こっから先は任せて」

 

 目標はあの大穴。

 囚われのお姫様達を、今こそ助けにいく!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして。

 イリヤと美遊も、その異変に気付いた。

 

「な、なに!?」

 

 あちこちから巻き起こる爆音。ここ数分で何度も耳にしたそれは、ここに来て佳境に入ったらしい。粘着質だった空間は水槽がひび割れたように渇いていき、爆発は真上まできていた。

 さっきまであんなに生への執着が無かったのに、身近に起こるとやはり咄嗟に身を庇う。イリヤはそんな自分に心底嫌になったものの、美遊の手を握って。

 

「ミユ、転身して! 早く!」

 

「う、うん!」

 

 直後に、頭上で特大の爆発。

 連鎖した衝撃は凄まじく、上から下へ、ダイレクトに二人へとなだれ込んだ。

 イリヤ一人では恐らく防ぎ切れなかっただろう。

 だが美遊が加わったことで、何とか事なきを得た。暗闇にずっと閉じ込められていたからか爆発の光で目が慣れない。

 が。

 そこで二人は、唖然となった。

 

「……外まで、穴が、空いてる?」

 

 二人の頭上。

 五十メートルほどの空洞の後、即席の出口が出来上がっていたからだ。

 

「イリヤ、ミユ!!」

 

「クロ!?」

 

 更に驚くべきことに、その穴を通ってか、クロが二人の背後に跳んできた。

 余程無茶な跳び方をしたのだろうか。クロは息を切らして、

 

「良かった、二人とも無事で……じゃあここを出るわよ!」

 

「く、クロ、どうやってこの巨人に穴を……?」

 

「そんなのいいから、ほら急ぐ! さっさと出ないとまたこんなところに缶詰めなんて嫌でしょ!?」

 

 クロの剣幕に、美遊はすごすごと頷いた。どっちにしろここを出ないと話すどころではないのは確かだ。

 イリヤも賛同しようとして。

 

「、イリヤ、後ろ!!」

 

「え?」

 

 背後から伸びた泥の触手を、美遊が庇った。

 恐らく魔力砲を放つ暇すらなかったのだろう。美遊はイリヤを押して、触手に捕まった。

 触手は一本ではない。それはまるで電子ケーブルのように幾本も束ねたモノで、気づけば一瞬で三人は包囲されていた。

 

「ミユ!!」

 

 それでも。

 助けないと。美遊はまだ生きている、自分なら煮ても焼いても構わない。だけど美遊は、美遊だけには生きていてもらわないと、自分が存在している意味がない。

 その一心でイリヤはステッキを振るおうとするが。

 その前にクロに蹴り飛ばされた。

 

「が、っ、……!?」

 

 何が?と考えるより前に、奇妙な感覚がイリヤを襲った。例えるなら密室からいきなり外へ放り出されたような、そんな解放感。

……外?

 

「まさ、か、」

 

 イリヤが目を開ける。

 そこには。

 変わり果てた冬木市の姿が、真下にあった。

 

「……、ぁ」

 

 建物など一つもない。

 あるのは瓦礫の山と炎。そして泥。

 それすら、大部分は消しゴムで消したように、圧倒的な何かで押し潰されていた。

 問題はそんなことじゃない。

 ここは、外だ。

 蹴り飛ばされた際に、クロがそこを接点にして転移の術式を発動させたのだろう。だからあの巨人の外に居る。

 だけど、側にはイリヤ一人だけ。

……振り向くという動作が、遅く感じた。だが時間にして、それは一秒もなかっただろう。

 振り向いた先には。

 あんなに開いていたのに、もう閉じようとしていた穴と。

 その奈落の底で、泥の触手に捕らえられた美遊、クロの二人だった。

 

「ぁ、」

 

 本能が、理性を突き破る。

 願望が、死への恐怖すら爆散させる。

 

 

「わあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」

 

 

 助ける(届かない)

 助けたい(それしか価値がない)

 助けられた(生きてすらいないのに)

 

「イリヤさん、ダメです!! イリヤさん!!!!」

 

 ルビーの制止など聞けるわけがなかった。

 ここで助けられたって、何の意味もない。自分だけ助かったところで、何の、何の意味もない。

 だから。

 だから。

 だから……!!

 

 

「こんなところに、わたしをひとりにしないで……!!」

 

 

 涙が出た。

 それは、どうしようもなく愚かな行為だった。

 いくら記憶を持とうと、基本のフォーマットは小学生のイリヤスフィール・フォン・アインツベルンだ。魔術の魔も知らず、命のやり取りなど知らない女の子。

 だから、一人にしないでほしかったのだろう。一人で放り出されるより、イリヤは三人で奈落に落ちることを本能で選んだ。

 だがそれは、命を捨てる行動でしかない。

 それでもイリヤは、もう、限界だったのだ。全てを、押し付けられたような気がしたのだ。

 

「生き長らえる道を捨てる、か。ま、それも一つの選択さ。否定はしないが」

 

 うるさい。

 お前に何が分かる。

 そう叫びたい気持ちを堪える。

 絶望的なまでに開いた距離を駆けながら、イリヤは気付いた。

 二本の、処刑鎌のごとく飛来する、宝剣を。

 

 

「君を助けようとした努力、全部無駄になるなんて、本当に憐れだよ」

 

 

 回避は不可。

 恐らく頭蓋を貫くため、ぴったりと軌道はイリヤの頭部で交差していた。

 死ぬ。

 一人で。

 何の意味もなく。

 助けられた事実も無に還る。

 死んだっていい。

 だから、我慢ならないのはたった一つだけ。

 あんなに泣いていた少女の、夢を壊してしまうことだった。

 そして。

 当たり前のように。

 血飛沫が、空に真紅を描いた。

 

 

「……ぇ、?」

 

 

 まず感じたのは、違和感だった。

 血が噴水のように飛んだ。

 ここまではいい。

 だがイリヤスフィール・フォン・アインツベルンの頭蓋は砕かれていない。

 それどころか、イリヤは傷一つ付いていない。

 じゃあなんで血を浴びているのだろう?

 

 これは、誰の、血なんだろう?

 

 

「ーーーーぁ、」

 

 

 鮮血が飛び交う冬木の空。

 血のシャワーは、イリヤの目の前で為されていた。

 衛宮士郎。

 彼の両肩から(・・・・・・)、夥しいほどの血が尾を引いていた。

 

 

「ああ、ぁっ、あああああ、」

 

 

 庇ったのだ。

 あの人が。

 死に向かっていたイリヤの目の前に駆けつけて、そして。

 自分のために両腕を失った(・・・・・・)

 

 

「ぁ、あああああああ、ああああああああああああああ、」

 

 

 落ちていく。

 翼を失った鳥のように。

 羽を千切られて、丸裸になるように。

 肉の切り身となった兄は、最後に一瞥した。

 片目のない、青白い顔で。

 

 

「ああああああああああああああ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ、ああああああああああああああ!!!! 

 うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!!!!!」

 

 

 少女の絶叫が、理想の世界に響き渡る。

 長い、長い長い号哭は、少女の喉が裂けるまで続くかのよう。

 流れ落ちる涙と血は、理想の代償。

 この世に正義などなく。

 都合のいい理想はない。

 

 

 それが、現実の果てだった。

 

 

 

 

 

 

 


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