Fate/kaleid night プリズマ☆イリヤ 3rei!!   作:388859

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傷つくのが運命だとしても、未だ願いは途絶えず

 あれはいつのことだっただろう?

 いつも言ってくれていたことだったから、いつからだったかなんて、今では意識して思い出すこともなかった気がする。

 それでも、はっきりと思い出せるのは、それだけその言葉が嬉しかったから。

 そう、確かあれは冬の日。

 まだわたし達が、ずっとずっと子供の頃。

 夢はいつか叶うと信じ、絵本のように世界は回っていると思っていた、そんな寒空の下の思い出。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うわあああああああああああああああああああああああああああああ!!??」

 

 落ちていく。

 自分なんかのために、全てを失って、廃墟となった町へあの人が落ちていく。

 方向性を失った思考が、内側からイリヤの頭蓋骨を打ち据える。まるで巨大な竜巻に襲われたような新都とか、その真っ只中に居た父や凛達は大丈夫なんだろうかとか、あの巨人に今も取り込まれたままである美遊やクロは無事なのかとか、直前まで考えていた。

 だけどもう、何も見えない。

 視野が狭窄する。

 あの人が落ちていく姿を見るだけで、胸が張り裂けそうになる。あの人の肩から絵の具のように噴き出す血を目の当たりにして、頭が割れそうになる。

 耐えられない。

 受け止めきれない。

 あの人を失う。たったそれだけで、イリヤは全てのことを忘れて狂いそうになる。

 

「ルビー……!!」

 

「はい!!」

 

 ルビーのアシストにより、一気にトップギアまで速度を上げる。自由落下しているあの人の体へ追い付くのはそう難しいことではない。追い付いて、何処を触れば良いか分からなくなったけれど、その骨が飛び出した腹を基点に持ち上げると、速度を低下させる。

 だがそれはつまり、彼の血を浴びるということ。

 

「……ぅ、ぶ、」

 

 慌てていたが、血が口や鼻に入った瞬間、異常なまでの吐き気が少女の喉まで湧き上がってきた。目蓋を閉じても一度入ってしまった血液は目を痺れさせるかのように染み渡り、涙と一緒に排出される。

 と、

 

「イリヤ様!」

 

「、サファイア!?」

 

 美遊を転身させていたハズのサファイアか、何故か真上から追い付いてきた。

 

「なんで!? ミユと一緒にあの中に居たんじゃ……!」

 

「ええ。ですが直前になって、美遊様がクロ様の転移を模倣して私を外へ跳ばしたのです。詳しいことは後程、今は士郎様を!」

 

 そうだ。

 一刻も早く手当てしないと。

 だがイリヤの目から見ても士郎の傷はどうにもならないとしか思えなかった。しかしサファイアはそのボディを青く光らせ、士郎の無くした片目へと吸い込まれていく。転身の要領で無くした器官を肩代わりしようというのか。

 

「応急処置をしますので、この体をどうかお願いします! イリヤ様!」

 

「う、うん!」

 

 一瞬で地面まで降りて、最後にふわっとクッションの上に着地したかのように魔力を操作する。

 イリヤ達が降りたのは巨人から少し離れた、瓦礫の上。薙ぎ払われた新都より少し離れたそこで、コンクリートの山に彼を横たわらせる。

 

「……酷いですね、これは」

 

 流石に口が軽いルビーも、その容態を直視して絶句した。

 五臓六腑など体をなしていない。

 体が妙に軽かったのは両腕を切り落とされたこともそうだが、そもそも今の士郎の体に肉が少ないからだろう。横たわらせた際、ぞっとするほど重さを感じなかった。

 サファイアによって徐々に治療されているが、これほどの重症を治せるほどカレイドステッキも万能ではない。

 

「心臓はまだ動いてますか……血管なんて機能していないでしょうに、どんな理屈で生き長らえているのやら……」

 

 ルビーの声が遠くに聞こえる。

 イリヤは動けなかった。

 ただ、目の前の現実から逃げようとしていた。

 目の前の誰かがずっと自分を騙し続けてきたとしても、そんなこともう関係ない。

 衛宮士郎はイリヤスフィールを守ろうとして、これだけの傷を負った。

 死ぬことすら許されず、生きるための体すら奪われ、戦うための剣すら握れない。

 不安なときにいつも抱き締めようとしてくれたことも、今ではもう不可能なことだ。

 誰のせいで、こうなった?

 誰が存在したせいで、こうなった?

 誰が我儘なせいで、衛宮士郎は人としての尊厳を汚された?

 

「……わたしの、せいだ……」

 

 顔を手で覆って、目蓋を閉じる。

 嫌に滑らかな前髪が苛立たしくなって、八つ当たりに千切る。

 

「わたしが、ここに居るから……幸せなんて押しつけちゃったから、まだこの人は諦められないんだ……!!」

 

 あの時。

 エーデルフェルト邸でイリヤは士郎にこう言った。

 人を助けたいのに、死んでいく人ばかり見て、あなたは辛くないの?、と。

……辛くないわけがない。どれだけ失っても、痛みなんてずっと消えない。それが心の傷なら尚更。

 だから彼はこう思ったのだ。

 最小限の犠牲で、最大限の救いを、と。

 痛みに耐えて、それでも人を救いたくて。

 だけど、やっぱり我慢出来なかったのだろう。

 この世界は彼にとって、理想の世界だ。

 だとすれば、その真逆が衛宮士郎の世界ということになる。

……こんな、普通の人間なら当たり前の世界を夢見るなんて、どれだけ過酷な世界に身を置いていたのか。イリヤでも想像は容易い。

 だから余計に、イリヤの言葉は響いたに違いない。

 幸せな世界からの言葉。

 それは彼にとって、どれだけ分かり切っていたことだったのか。

 それが通用しない世界の方が、ずっと多いのに。

 そしてどれだけ、この世界を愛していたか。

……ぼろ雑巾のようになってまで生きているのだから、答えは明白だった。

 

「……ごめん……ごめんな、さい……ごめんなさい、ごめんなさい、……!」

 

 何も知らなかったで許されない。

 彼に、みんなを救えと約束させたのは、イリヤだ。その約束を果たそうとして、こうなった。

 死んだ人間なんかのために。

 まだ生きているならやり直せる、大切な人が。

 これ以上に罪深いことが、果たしてあるのか?

 

「安心しなよ、イリヤスフィール。君は何も悪くない。悪いとしたらほら、それは君と同じような立場の誰かさ」

 

 声に、はっとなるイリヤ。

 次の瞬間、背後から突き上げるような振動が一帯を襲った。

 巻き上がった土にイリヤは溺れかける。じゃりじゃりとした口から唾を吐きながら衛宮士郎の無事を確認する。

 だが、そこまで。

 イリヤの目の前には雲にも届く巨人が、ほぼ修復された状態で、冬木に鎮座していた。

 まだこちらを見つけていないようだが、それでもあれだけ消耗させたのに、こんな短時間で回復したのか。

 

「……そん、な……」

 

「まあ君が罪悪感を感じるのも分かる」

 

 何らかの宝具で少年は声を届かせる。

 

「だがそれは君よりも美遊が感じているハズだ。むしろ誇るといい。衛宮士郎は本物の正義の味方になったんだ。君のおかげでね」

 

「っ、何が本物よ!! こんな、こんなボロボロになって、死んだわたししか守れてない結末で良いわけないでしょ!?」

 

 少なくとも、これから衛宮士郎に明るい未来なんてやってこない。これだけの傷を抱えて生きていられるハズがない。

 そう思っていたが、

 

「いやいや。彼がまるで死ぬような言い方だけど、そんな安らぎが許される(・・・・・・・・)わけないだろう?」

 

「……え?」

 

 それは、どういう。

 イリヤの誤解を解いたのは、ルビーだった。

 

「……イリヤさん、覚えていますか? ここがどんな世界か」

 

「え、それは……」

 

 ギルガメッシュの言葉を忘れられるわけがない。

 ここは美遊が幸せになれる世界。

 そして美遊の幸せは、衛宮士郎が生きている(・・・・・)こと。

 

「この人が、生きてる、世界……?」

 

 復唱して気づいた。

 ぞく、と背に恐気が走る。

 もしも。

 それが比喩でもなんでもなく、文字通り生きている世界なら。

 それは、つまり。

 

「そう。彼は、死ねない(・・・・)のさ。美遊が願いを叶え続ける限り、衛宮士郎に生きていてほしいと願い続ける限り。神様にその命を握られているってわけだ」

 

……なんだ、それは。

 なんだそれは。

 美遊が願ったのは、衛宮士郎が幸せな世界なんじゃないのか。

 そんな、そんなの本当に美遊の人形ではないか。

 生きているのに。

 生きていたのに。

 そんな、誰も得しない願いなんてあるのか?

 

「君はそんなわけない、とは思うかもしれないけどね? だけど考えてもみなよ、たかが人間が魂を燃やしてもここまでしぶといわけがない。エアの一撃をまともに食らっといて、意志の力なんて都合のいい理由は通用しない。それこそ、エアの一撃を受け止められるのは神くらいのものさ」

 

「……この世界の神のような存在となれば、それは美遊さんただ一人。神稚児の力と大聖杯、それによる世界の改変がここまでとは……!」

 

「そこのステッキの言う通り、大聖杯はその気になれば命を作り出せる。やってやれないことはないさ。それに気づけなかったのは迂闊だったなあ、我ながら」

 

……なんで。

 なんでこの世界は、そうなってしまう。

 幸せになってほしいという願いが、どうして、こんな、悲しい世界を作り出してしまうのか。

 間違いなハズがないのに。

 幸せになりますようになんて、誰だって願うことが、なんでこんなにも報われない結末を生み出すのか?

 イリヤはただ、悲しくて、やりきれなかった。

 たった一度の願いが全てを狂わせた。

 でもそこに悪意はなく。

 後悔しかない。

 なのに、そんな事実を常識みたいに誰かが言ってくる。

 可笑しいのに。

 こんな悲劇、絶対に可笑しいのに。

 

「……なんで……?」

 

「ん?」

 

「なんで、あなたはそんな風に平然としていられるの……?」

 

 キッ、とイリヤは巨人に憎しみの込もった眼差しを向ける。

 

「あなた、分かってたんでしょう!? わたし達がヘラヘラしてたときも、あなたにはいずれこうなるって分かってた! 違う!?」

 

「僕は英霊だが、善人じゃない。死者の声を聞きはしても、その要求の全てを叶えようとは思わないよ。特にこんな行き止まりの世界、破壊するに限る」

 

「こ、の……!」

 

「安い激情に身を任せるのは勝手だけど、一つ教えてあげようか」

 

 怒りで自身の罪から逃げようとするイリヤに、英雄王は告げた。

 

「前の衛宮士郎なら、ここまで酷いことにはならなかった。死んで、終わり。夢に敗れる凡庸な人生を終えて、掃除屋にでもなっているところさ。だがそれを君は悪化させた」

 

「……そんなの、分かってる……!」

 

「いいや分かっていない。良いかい、イリヤスフィール。そこに居る男は誰もが幸福であってほしいと願いながら、犠牲を出すことも厭わず、むしろそれで良いと(・・・・・・)、永遠に世界の掃除をし続ける男だった」

 

 イリヤも、それは知っていた。

 恐らくまだ生きていたときのイリヤスフィールの知識だろうか。何となくだが、この衛宮士郎が破滅することを知っていた。

 

「それはこの世界と君によって阻止されたが、さて。しかしそれは衛宮士郎から、諦めるという選択肢を消した(・・・・・・・・・・・・・)わけだけど」

 

 イリヤにはギルガメッシュの話の意味が理解出来なかった。

 ただ、喉が張り付いた。

 急速に渇いて、舌で喘ぎそうになる。

 

「全てを救う。実に聞こえは良い。だがそれを、完璧な意味で実行出来た人間は余りに少ない。それが回数を重ねれば尚更ね。だが君は諦めるなと教えた。それが一番正しいことなんだから、とね」

 

「……それ、は」

 

「いや、なに。責めてはいない。確かに正しい。だが正しいからこそ、それは断崖絶壁から突き落とすことに変わりないと気づかなかったのかな?」

 

 悔しいが、声の主の言う通りだ、とイリヤは思った。

 もうイリヤには信じられない。

 目に見える人全てを救うにはもう、何もかも遅すぎる。どんなに考えても、昨日までのような満たされた時間はやって来ない。

 それでも彼は、諦めなかった。

 人としての形を失っても。

 理想のために。

……そうか。

 イリヤもようやく悟った。

 つまり、そういうことなのだ。

 

「衛宮士郎に全ての人間を救う力がない。だが彼は諦めるなことを許されない。もし諦めることが出来るとしたら、それは」

 

「……この人が、死ぬときだけ……でも……」

 

 衛宮士郎は死ねない。

 死ねないのであれば諦められない。

 今も後ろで、マリオネットのように生き長らえて、誰かを救おうとする。

 

「ぁ、あああ、ああああ……!!」

 

 わたしは、何をした?

 無責任に正論ばかり並べて、彼を何処に追い込んだ?

 滅茶苦茶に壊れるまで、この人が諦めないようにと仕立てあげたのは一体誰だ?

 自分だ。

 かつて衛宮士郎が助けられなかった。

 イリヤスフィール・フォン・アインツベルンが、その道に誘ったーー!

 

「いやぁ、確かにここは衛宮士郎にとって理想の世界だ。

 なにせずっと、誰かが死のうと彼が生きているならーー他人のために都合のいい味方でいられるんだからね」

 

 それを聞いた瞬間。

 イリヤは、声にならない声で絶叫した。

 筆舌しがたいほどの金切り声は、まるで首を絞められているかのようだった。

 叫び過ぎて、喉が流血する。そうでもしないと、自分の侵した罪に押し潰されてしまいそうになりそうだった。

 涙が止まらない。

 なんて、皮肉。

 理想の世界とは彼が幸せになるという意味だけではない。

 衛宮士郎が、永遠に正義の味方でいられる世界でもあったのだ。

 死ねないなら関係ない。

 彼はどんな結果をも越えられる世界で、永遠に正義の味方を張り続けられる。

 届かなくてもいい。

 走り続けられるならそれでいいと願った彼の、要望通り。

 イリヤを失い、そのイリヤの言葉によって空虚な理想を見出した。

 そして、命令を受諾した機械のように、衛宮士郎は遂行し続ける。

……こんな、綺麗な地獄を守るためだけに。

 

「……なんで……わたし、そんな、そんなつもりじゃ……!!」

 

「かもしれない。だけどそこの彼だって、止まろうと思えば止まれたハズさ。それでも止まらなかったのは、君と約束したから。全く、これじゃあ約束が呪いになった(・・・・・・・・・)みたいじゃないか?」

 

「……、……ッ!!」

 

 衛宮士郎がずっと笑えるようにと願った約束だった。でもギルガメッシュの言うように、それは彼を最も傷つける呪いになっていた。

……いや、初めからそうだった。

 衛宮士郎にとって、イリヤスフィールの存在は自身の後悔そのものだ。

 だからこそここまで変わってしまった。

 約束を果たそうとした。

 

ーーお兄ちゃんが一番最初に、正義の味方になりたいと思う前。一体誰を助けたかったの?

 

 そんなことを前に、言ったことがある。

 なんて愚かで、身勝手で、白々しい問いなのだろう。

 こんなに誰かのために一生懸命になれる人を、変えてしまったのは……他ならぬ自分だったのだから。

 

「ぁ……ぁ、…………」

 

 だから。

 膝を折って、イリヤは頭を垂れた。

 

「……なるほど。確かに、今の衛宮士郎にとって君が死ぬことは相当なショックだ。それこそ、二度と正義の味方には戻れなくなるほどに」

 

「っ、イリヤさん、いけません! あなたの首を差し出したところで、状況は何も変わらないんですよ!? お兄さんがこれほど命を懸けたのに、それでは……!」

 

「……わかってるよ……」

 

 でも。 

 だけど、

 

 

「もう、どうしたらいいか……わたし、わかんないよ……」

 

 

……もしも。

 もしもこの世界に、衛宮士郎という異分子が居なかったならば。

 きっとイリヤスフィールは精神的に成長を遂げ、兄に寄り添うという答えを出せたのかもしれない。

 だが、それも全てあり得ない話。

 

「わたしが居るせいで、約束のせいで、あの人が救われないなら」

 

 イリヤにはこれしか思い付かなかった。

 例え誰かを不幸にしても。

 望まれなくても。

 それで安らぎを与えられるなら、それが死と引き換えなら。

 喜んで、イリヤスフィールは首を差し出せる。

 

「お願い……もう、終わりにしてください……」

 

 誰もこの世界で、幸せになんてなれないから。

 まず自分から終わろう。

 それで衛宮士郎(この人)が、何かに縛られることなく眠れるなら。

 もう、そのくらいの道しか残されてないんだから。

……お願いだから。

 

「いいよ、終わろう」

 

 巨人がイリヤ達を捕捉する。

 あの大質量の巨拳が、ボウガンのように引き絞られ、天空高くで町一つ分を破壊し得る爆撃兵器へと変わる。

 

「残念だ。久々に心が踊ったのに、これで幕引きなんて。決して諦めないという精神こそ嫌いではないけど、やはり力が足りないのが欠点、かな?」

 

 どうでもいいか、と英雄王は吐き捨て、拳が超電磁砲のように加速し、そしてーー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 遠くで声が聞こえる。

 これは……誰かが泣いている、のだろうか?

 

「………………ぁ、」

 

 頭が霞がかっていて、ぼうっと空を見つめることで精一杯だった。腕や足に全く力が入らず、微動だにしないまま時間だけが過ぎていく。

 ここは……公園だ。深山町の商店街近くにある、何の変哲もない公園。時間帯は夕方か。稜線が遠くで夜の帳を下ろそうとしているのが見えた。

……なんでこんなところで、大の字になって俺は横たわっているんだろう。

 疑問は尽きない。

 でも、それ以上の答えを探そうとはしない。出来ない。

 そこから先に思考が進まない。

 微睡んでいるのとも少し違う気がする。ただ、生きるための機能が幾つも不足していた。

……今まで何をしていたのか、よく、思い出せない。

 記憶がない。

 責務もない。

 何かをしてからここに来たことは、分かる。でも何をして、何を失って、何を得たのか、それが欠如している。

 欠片すら残らない。

 拾い集めようとしても、石灰のように塗り潰された何かしか集まらない。

 何を。

 俺は何をしたかったのだろう。

 ただ認められなかったから、戦っただけなのか。

 守れなかったとしても、頑張ったという記憶だけでも欲しかったのか。

 後悔したくないから、守った気でいたかったのか。

 シャボン玉のように問いが浮かんでは、消える。

 自分がどんな形をしていたのかすらも忘れて。

 分からないまま、何かをしようとした結果がこれだ。

 だからもう、いい。

 このまま眠れるなら、それで。

 そう思ったときだった。

 近くで、ギィ、と軋む音が耳に入ってきた。

 

「……?」

 

 今のはブランコの音、か?

 その音が脳にまで届いた瞬間、さっきまであんなに生きることを拒否していた体は、反射的に立ち上がっていた。

 脳は未だに覚醒しきっていない。

 けれど、目が原因を探す。

 

「……ひ、ひぐっ……う、うぇぇ……っ」

 

 見つけた。やはりブランコだ。

 誰も居ない公園のブランコ。そこにまだ、五歳にも満たない少女が、一人泣きじゃくって座っていた。

 日本人ではない。多分移住してきたのだろう。まるで兎のように白い髪、子供特有の玉のような肌は涙に濡れてしまっていて、充血した赤い瞳は泣き腫らしていた。

 なんで一人で、こんなところで。

 脳に、ずき、と閃光が弾ける。

 この少女を見ていると、頭の奥から何かが訴えてくる。

 

「……どうしたんだ?」

 

 気づけば。

 自分は、その少女に声をかけていた。

 女の子はいきなりの来訪者にびっくりしたが、それでもやはり寂しかったらしく、

 

「……おとうさんと……おかあさま……かえってこないの……かならず、かえってくるって、そう、いったのに……」

 

……それは、悲しいな。

 他に家族は、いないのか?

 

「……いないの……」

 

 そっか。

 じゃあ君は、今一人?

 

「うん……でもいいこにして、まってたら……そしたら、きっとはやくかえってくるって、そうおもったから……」

 

 だから帰りを、待っていた。

 また会えると信じて。

 それでも、やっぱりこの女の子は寂しかったのだろう。

 帰ってこない(帰るハズもない)両親を、一人で待ち続けるなんてこと、子供には中々出来ない。

 ましてやそれがこんなにも小さい子なら、当然だ。この子は、その両親のことが本当に好きだったのだから。

……ああ。

 ああ、ちくしょう、そうか。

 ずっとお前は、こんな風に泣いてたんだな。

 誰にも迎えに来てもらえないまま。

 一人で、孤独と向き合い続けてきたんだな。

 

「……ごめんな」

 

「え……?」

 

 ブランコの少女を、抱き締める。

 少女の体は冷えきっていた。

 今の季節は冬だ。きっと一人だったから、寒くて、吐く息も白くて、だから泣いていた。

 心が凍ってしまいそうだったのだ。

 いつの間にか。

 俺の体も、七歳くらいにまで縮んでいた。

 本来ならどう間違えても、あり得ない出会い。けれど、それでも、言わずにはいられなかった。

 

「大丈夫」

 

 かつて言った(言えなかった)、その言葉を。

 

「一人じゃない。イリヤは、一人なんかじゃないぞ」

 

「……え?」

 

「俺が居る。切嗣やアイリさんは居なくても、俺が居る。イリヤのことは、俺が絶対に守るから」

 

 だから、ほら。

 イリヤの手を握る。

 夜から逃げるように差した、茜色の陽光が、俺達を照らす。

 

「帰ろう、家に」

 

 イリヤは落ち着かない様子で、しかし目を輝かせた。

 

「……うん」

 

 と、安心したように、笑った。

 その笑顔を守らないと、と強く思ったのは、そのときからだった。

 そうして、十年間衛宮士郎は妹を守ってきた。

 特別な力なんてなくても。

 明確な目標なんてなくても。

 ただ守りたいと、共にありたいと、そう願った相手のために。

 少年は、誰かの味方になれたのだ。

 別に称賛されるほどのことではないのかもしれない。

 世界中の何処でもありふれていて、きっと特別なことでもなんでもなくて。

 だけど、そんな当たり前が、何より一番輝いているのだ。

 

「……」

 

 歩いていく。

 無人となった冬木を、二人で歩いていく。

 ひょんなことで永遠に離れてしまうだろう二人を繋ぐのは、小さな手のみ。

 会話もなく、その心中はお互い分からずじまい。

 だけど、固く繋がれた手だけあれば、全て分かり合える気がした。

 分かり合えたなら、顔を見合わせただけで笑い合える。

 きっと幸せなんてモノは、こんな簡単に感じられることだった。

 歩き続けて、ふと、握っていた手の感覚が無くなっていることに気づいた。

 目の前には、歩いていく二人の子供。

 

「どうして、いっしょにいてくれるの?」

 

「俺は正義の味方だからな」

 

「?……せいぎの、みかた?」

 

「あ、分かんないのか、正義の味方。正義の味方っていうのは、泣いてる子を見捨てたりなんかしない……つまりイリヤの側にずっといる奴のことだ」

 

「……それって、おにいちゃんのこと?」

 

「そういうこと。だから泣くな、みんなが待ってる」

 

「……うん!」

 

 和気藹々と、繋いだ手を振って帰る二人。

 兄と妹。人種が違っても、血は繋がらなくたって関係ない。ただ共に寄り添い、生きていく。それだけで家族になれる。

 俺の足は止まって、目線も元の高さまで戻っていた。遠くなっていく兄妹は、夕焼けを先導するように、家に帰っていく。

 どうして戦うのか。

 どうしてここまで失っても、諦めなかったのか。

 小さな奇跡は、理想のカタチ。

 あれは俺であり、俺じゃない。

 だから俺とあの子供は別れて当然だった。何せこれは、俺の記憶じゃないのだから。

……ああ、思い出した。

 全部、思い出した。

 俺が今まで出会ってきた人達のこと。

 俺が守ろうとしてきた全て。

 何より大切で、何より手離したくなかった、大切な誰か。

 だから。

 それに背を向ける。

 二人の子供とは、逆の方向に歩く。

 

「……戻るこたぁないだろ」

 

 そう釘を刺したのは、呪いの男。

 アンリマユ。

 奴は二人の子供が去っていった方角に立っている。

 

「ここから先、ずっとアンタはそのままだ。その人生はろくな結末を迎えない。今回のように追い剥ぎされて、捨てられんのがオチさ。誰もアンタに感謝なんかしない。アンタが満足することもない。それでも」

 

 それでも、守るのか。

……この男の正体については、何となく分かっている。

 見覚えのない氷の海の固有結界。毎回妹絡みのときでしか出てこない。

 更にこの世界が衛宮士郎ーー美遊の兄が生きている世界という仮定で成り立ったのであれば、きっと死の直前にその魂の欠片くらいは、俺と一緒に跳んできただろう。

 美遊の兄貴が反転した存在。

 それがアンリマユの正体だとしたら、この問いにも納得出来る。

 お前はそれでもなお戦うのか、と。

 全てを救えるほど、お前は強くもなければ。

 一人も救えない結末が、待っているかもしれないのに。

 ああ、それでも。

 

 

「それでも。きっと忘れられないんだ」

 

 

 胸に手を置く。心音が掌まで届く。

 

 

「覚えてるんだ、握った手の温もりも。覚えてるんだよ、眩しいくらいの笑顔も」

 

 全部、覚えていて。

 だから守りたかった。目に見える人だけで良いから、みんなにそうなってほしかった。

 

「分かってる。救えないモノは救えない。この世の全てなんて手が届かない」

 

 随分遠回りしてきた。

 切り捨てたモノは多すぎて、報われるにはきっと何百年以上もかかったとしても徒労に終わるだろう。

 だけど。

 それはいつかのーー。

 

「ーーお前が、そうあってほしいと願ったことなんだろう?」

 

 誰も助けられないから、助けたかった。

 一度だって助けてもらえなかったから、そんな人達こそ助けたかった。

 そしてそれは、この男も同じ。

 背後のアンリマユから、反応はない。

 ただ、聞き入っているのか。

 歩き始める。

 幸せから目を背けるためじゃない。

 守るための一歩を。

 

 

「ーーーーその先は地獄だぞ」

 

 

 声は一つではなかった。

 気付けば、周囲は夕焼けの冬木などではなく、あの大火災にすり変わっていた。

 浮かび上がった火影は、かつて泥に呑まれた誰か。複数の声はまるで、俺の行き先を案じるよう。

 それに、笑って答える。

 

「地獄でいい」

 

 足は止まらない。

 巻き上がる火によって、両腕は溶け落ち、片眼は蒸発する。現実世界の自分と同じ傷を負う。

 それでもなお、足は一定の速度を保ち続ける。

 そして、

 

 

「例えその人生が、永遠に閉ざされてもーー俺は、誰かを助けるために歩き続ける」

 

 

 それが答えだった。

 誰もそれに異を唱える者はおらず。

 正義の味方は、現実へと戻る。

 世界が光に包まれる。

 と、引き剥がされていく意識が見つけた。

 何処でもない場所で。

 顔も見えなくなった誰かが、手を振って、俺を見送るところを。

 

 

「がんばって! 『せいぎのみかた』さん!」

 

 

 ふっ、と。

 目頭が熱くなって、一筋の線が頬を伝う。

 それは誰でもなかった。

 きっと、俺には永遠に助けられない人で。

 どんなに謝りたくても、謝れない人なんだろう。

 同時に、思ってしまった。

 今更こんな誓いをしたところで、遅すぎたのではないかと。

 でも。

 

「任せろ」

 

 ここには、助けられなかった人達と。

 この先に生きていてほしい人達が残っている。

 だから忘れない。

 後悔も、感慨も、哀愁も、全て。

 さようなら、救われなかった過去(あなた)

 これから何度地獄を訪れても。

 その救いが、貴方に良き眠りを与えられることを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして。

 振り下ろされたハズのギルガメッシュの拳が、イリヤの眼前で止まった。

 

「……?」

 

……何故止める?

 戯れで他人の命を奪うような英霊だ、同じように戯れでそれを執り止めることもあるかもしれないが……。

 

「……驚いた。まだ、やるのかい?」

 

 ギルガメッシュの声は、歓喜に震えていた。それは新しい玩具を手に入れた子供のそれだった。

 まさか。

 ざっ、ざっ……と不規則なリズムで、何かがイリヤの横を通りすぎる。そしてそれは、イリヤの前に、立った。

 衛宮士郎。

 正義の味方が、意識を取り戻して、イリヤを守ろうとしていた。

 

「……なんで?」

 

 衛宮士郎の傷はいつの間にか、重症程度にまで戻っていた。一番変化していたのは、肉体の切り傷だろう。骨が肉で見えなくなるくらいには、回復しているようだった。

 しかしそれでも到底立ち上がれるハズがない。片目が青く光っているのはサファイアが眼球の代わりをしているからだが、それでも両腕の欠損は酷く、今も増水したときの排水溝のように血が流れ落ちている。

 イリヤには全く分からない。

 もう終わればいいのに。

 そうしないと、ずっと苦しむのに。

 なのに、なんで。

 

「なんで……諦めないの?」

 

 せっかく死ぬ覚悟が出来た。

 本当は怖い。怖くないわけがない。自分がとても臆病な人間なことは、イリヤが一番よく分かっている。

 希望なんて持たせないでほしかった。

 だから、

 

「もういい」

 

 彼の背中にしがみつく。

 血にまみれて、まだ約束なんかに囚われている人を、助ける。

 

「もういいの……もう、いいんだよ……」

 

 イリヤは士郎の顔を見れなかった。

 だって、怖かった。

 肌まで赤黒く染まったあの人の顔を見てしまったら、きっとこれ以上ないほどの罪悪感に苛まれる。そんなの、イリヤはもう背負いきれない。

 

「わたし達が死んでることくらい、一番よく知ってるでしょ? あなたがどれだけ助けたくても、わたし達のために元の世界の人達を犠牲になんか絶対させられない」

 

 でも、今は逆に顔を伏せていられて良かったとイリヤは思った。

 何故なら、

 

「だから、消えるしかないの。元々死んでたから、また消えることなんて、何も、何も怖くなんて、ない、んだから」

 

 こんな風に泣いてたら、きっと心配させてしまうから。

 

「だから、あなたはミユを助けることだけ、考えて。わたし達のことはいい、だけどミユだけは、助けてあげて。お願い、お兄ちゃん(・・・・・)

 

 真実を知ってから一度も言えなかった、お兄ちゃんという呼び名。それをこんなときに使った、汚い自分を許してくれとはイリヤは言わない。

 ただ、こうでもしないと、この人はイリヤ達を助けようとするだろう。

 だから、

 

「お願い……消えるわたし達のため(・・・・・・・・・・)に、ミユだけは、絶対助けてよ……お願いだから……!!」

 

 彼の良心に訴える。

 また、逃げ道を無くしていく。

 自分達を切り捨てる道以外を閉ざす。

……これでいい。

 助けてなんて誰が言えるだろう。

 こんなにも頑張った人に、更に苦行を課すわけにはいかない。

 元々道なんて一本しかない。

 理想を捨てて、向かい風の現実に相対する。

 それでよかった。

 最悪の結末になったけれど。

 そこから少しだけマシな世界を選べるなら。

 それだけで、イリヤはよかった。

 そう、思っていたのに。

 

「……イリヤ」

 

 今にも倒れそうな、弱々しい声。

 それだけでイリヤは涙が止まらない。

 どれだけ痛め付けられても、この人はそんな親愛の念を込めて、自分の名前を呼んでくれた、と。

 そして衛宮士郎は、言った。

 

 

「ーーごめんな、騙して(・・・・)

 

 

 一瞬。

 意味が、分からなかった。

 

「……ぇ?」

 

 士郎が崩れ落ちる。しかしそれは、別に足の力が抜けたわけではない。

 まるで、いつもみたいに、手で撫でるように。衛宮士郎は、その額をイリヤの額に突き合わせた。

 

「俺はお前の兄貴の命を奪った。そのことを黙って、お前達と笑ってた。ずっと、お前の兄貴に与えられるハズだった幸せを、俺が、奪ってたんだ」

 

……どうして。

 どうして今、そんな話になる。

 イリヤには分からない。

 確かに許されないことなのかもしれない。

 ともすれば、イリヤに怒る権利は十二分にあったハズだった。

 それでも怒りが湧かないのは、

 

「……ごめんな、イリヤ……ごめん、黙ってて……」

 

 きっとその人が、ずっと後悔していたことだと知ったからだ。

 唇と唇が触れ合いかねない距離。士郎はそのまま自分のこめかみでイリヤの涙を拭い取る。

 不器用なそれは、まるで親鳥が雛に世話を焼くような光景だった。

 

「……いいよ」

 

 情けなかった。謝るべきなのはイリヤの方だったのに、先に謝られては、そう言うしかなかった。

 

「もう、そんなの、どうだっていいんだよ……」

 

 この人が生きていてくれるなら、それでもうイリヤは構わない。それだけでもう、ここにイリヤが存在していたこと全てが報われる。

 そう思っていた。

 だから、

 

 

「ああーーだから俺は守るよ、イリヤを」

 

 

 そう言った衛宮士郎の言葉が、信じられなかった。

 

「まって……」

 

「? どうした?」

 

「守るって、誰を?」

 

 それこそ、鳩が豆鉄砲でも食らったかのように、士郎はきょとんとした。

 

「……イリヤのことに決まってるだろ?」

 

「嘘言わないでよ、お兄ちゃん」

 

 ああ。やめてほしい。

 そんな真っ直ぐに、そんな言葉を言わないでほしい。

 沸々と沸き上がる感情は二つ。怒りと、そして少しの期待。

 

「わたし達は死んでるの。この二ヶ月も保てない世界が、崩壊すれば。一緒に消えるだけの死んだ人の再現みたいなものなんだよ? そんなの、生きてるなんて言えないでしょ?」

 

「そんなわけないだろ」

 

「そんなわけあるの!!」

 

 怒鳴ることすら、億劫になる。怒りが何か違う感情になりかけている。

 このまま、兄の胸に飛び込んで、すべて任せることが出来たなら、どれだけ良かっただろう。

 だけどこれだけは任せられない。

 

「あなたに何が出来るの? そうやって、ボロボロになって、心配するこっちの身にもなってよ!? いつも、いつもいつもいつもいつもいつも、いっつもそう!! 本当のお兄ちゃんでもないのにそうやって命張って助けようとするなんて、ほんと、どうかしてるよ!! 可笑しいよ!!」

 

 どうやってもこの世界は、最終的に衛宮士郎に不幸な傷跡しか残さない。

 そんな悲しい痛みは、絶対に与えられない。

 

「正義の味方なんて、ほんとバッカみたい!! 高校生にもなって、現実も分かってるくせに、そんな夢だけ追いかけて、命落としそうになることばっかりして!!」

 

 何を言いたいのか、整理がつかない。

 ぐちゃぐちゃになった気持ちだけが胸から込み上げて、直接喉から吐き出される。 

 

「そのくせ痛い目見てるのに、何食わぬ顔してまた首突っ込んで!! 全員助けるなんて無理に決まってるじゃない!! 一人を助けるのだってこんな手間取ってるくせして、そんなの、出来っこないんだから……だから!!」

 

 イリヤが士郎の顔を見て、秘めた想いを口にする。

 

 

「だから……もう見捨ててよ、わたし達のこと……っ」

 

 

 しん、と。

 辺りが、静まり返る。痛いほどの静寂は、冬木という町そのものが死んでいることを教えていた。

 は、とイリヤは息を切らして、面を下げる。言いたいことだけは、言ったような気がした。

 これで分かっただろう。

 分かってほしかった。

 夢なんて見せないでほしかった。

 これ以上の悪夢はもう。

 なのに。

 だから。

 

「じゃあなんで、お前は泣いてるんだ?」

 

 それを指摘されたとき。

 イリヤは、自然と、体中の力が抜けてしまった。

 

「死んだ人間は涙なんて流さない。何も言わない。だけどイリヤ、お前は違うんだろ?」

 

 違う。

 そんなんじゃない。

 この涙はわたしの元となった人が流してるだけで、わたしが流してるわけじゃない。

 そんな詭弁を言えたら、それこそイリヤスフィールはただの死人だった。

 けれど違った。

 涙の意味を問われた。

 それだけで、言葉が詰まった。

……つまりその言葉は、何よりイリヤの心に突き刺さったのだ。 

 ずっと、理不尽な現実ばかり叩きつけられて。

 心を押し潰されて。

 だから心の底でずっと想っていたことを全て隠そうとした。それはきっと間違っていて、どうしようもない悪で、恐らく誰にとっても都合の悪いことだから。

 だけど、分かってもらえた。

 だから泣いたのだ。

 この涙は決して、仕方ないなんて言葉で、片付けてはいけないものなんだと。

 

「お前は泣いて、笑って、俺を思いやれる心があるんだろ? だったら、俺と何も変わらないじゃないか」

 

 わたしも、この世界も。

 ここに、生きているのだと。

 それが認められて、嬉しかったのだ。

 

「……でも」

 

「なあ知ってるか、イリヤ?」

 

 士郎は、それこそいつもと変わらない調子で、

 

 

「泣いてる子をーーーー正義の味方は、絶対見捨てたりしないんだよ」

 

 

 そう、年相応に笑いかけた。

 

 

「……う、ぅ、ぅうう、うううううううううううううう……ッ!!」

 

 

 堪えきれなかった。

 押し潰していたハズの本音が、無様に顔を出す。誰にも見せてはいけない本音が感情を侵食する。 

 歯を食い縛って。

 この世の絶望に何度も叩き伏せられながら。

 それでも衛宮士郎が語ったのは、極々普通に蔓延る当たり前のことだった。

 泣いている誰かを見捨てられない。

 誰かを救いたいという正しさからじゃない。

 みんなを救わなきゃいけないという呪いなんかじゃない。

 機械的な、ただ誰かを助けるだけの人形でもない。

 ただ泣いている誰かが居たら。

 たまたま通りすがった彼が、手を差し伸べただけのこと。

 それは血の通った人間の願いだった。

 だって今の言葉は。

 ずっと彼が、言ってきたことだったから。

 あれはまだ小学校にも入る前だったか。

 よく家を空けがちだった両親が帰ってきたと思ったら、すぐまた次の日には出ていってしまったのだ。

 

ーーなんで、すぐ行っちゃうの?

 

 仕事だということは分かっている。

 別に幸せじゃなかったわけじゃない。

 でもセラやリズの愛情を受けていたものの、やはり肉親からの愛情だけはどうにもならなかった。

 だから不貞腐れて、家を飛び出したのだ。

 しかしイリヤにとって、外の世界は未知数だった。何よりイリヤは丁重に育てられた為、一人で外に出たことがなかったのだ。

 暗くなっていく空と、しがみつくように落ちていく太陽のコントラストも、イリヤにとっては恐怖でしかない。

 まるで一人、世界に取り残されたかのようだった。

 気づけば公園のブランコで、泣きじゃくっていた。誰も居ない。寒くて、孤独だけが積み重なっていく。

 そんなとき、衛宮士郎が駆けつけて言ったのだ。

 一人じゃない。

 泣いている子を見捨てたりなんかしない、と。

 同じだった。

 衛宮士郎は初めからずっと、泣いてる人間に手を差し伸べる、そんな人だったことを、今になって思い出した。

 

「だからな、イリヤ。本当のことを言えばいい」

 

 イリヤを抱き締めてくれていた手も、武器を握るための手もない。それでも、衛宮士郎は何処までも、正義のヒーローのようにイリヤの心を解きほぐす。

 

「お前は、どうしたい?」

 

……なんて意地悪なんだろう。

 ここまで言っておいて、ここまで人の心を引っ掻き回しておいて。

 そんなの、答えは一つしかないではないか。

 

「……て」

 

 言って良いのだろうか、本当に任せて良いのだろうか。そんな不安がないわけではない。

 でも。

 もう嘘なんてつけない。

 自分(わたし)を無視することなんて出来ない。

 

「……たすけて……」

 

 いつまでも一緒にいたい。

 これまでのような日々をずっと、ずっと続けていたい。

 これからもみんなと、この世界で生きていたい。

 だから。

 だから!

 

 

「ーー助けて、お兄ちゃん……!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 聞いた。

 確かにその声を、衛宮士郎は聞いた。

 助けて、と。

 ならやることはたった一つだけ。

 

「ああ、助けるよ」

 

 立ち上がって、向き直す。

 敵は最強の英雄王。

 人間であれば勝てるハズもない、一時代を築いた王。

 だが恐れることなかれ。

 

「そして帰ろう、俺達の家に」

 

 泣いている人を助ける。

 たったそれだけのことが、どうして間違っていよう。為すべきことを為せるのならば、衛宮士郎にとってそれは最大の追い風。

 今ここに、絶対遵守の誓いが立てられたなら。

 それを全力で実行するのが、衛宮士郎の生きる道に他ならないーー!

 

「く、くくく……!!」

 

 対して。

 そんな青臭さ溢れる宣言にギルガメッシュは、笑いを隠し切れない。だがそれは嘲りではない。ただ、余りに状況とは似つかわしくないほど真っ直ぐな言葉に、思わず笑ってしまったのか。

 

「この期に及んでまだ、正義の味方か。いやあ、君は筋金入りだね。それでこそ僕も悪役を全う出来るってものさ」

 

 けど、とギルガメッシュは声のトーンを低くする。

 

「その状態で僕に勝てると思っているなら、その認識を改めさせなきゃいけないね」

 

 確かにギルガメッシュの言う通りだ、と士郎は言わずとも思う。

 今の両腕を失った衛宮士郎では、普通の魔術師にすら勝てない。失った片目こそサファイアで補われているが、それもあくまで視覚の補助と治療で手一杯。

 なら、

 

「ルビー」

 

「ハイ?」

 

「お前、俺に魔力を貸してくれないか」

 

「……えぇと、つまり?」

 

「俺と契約してくれ、仮でいい」

 

「ハイ!?」

 

 すっとんきょうな声を挙げるルビー。だが士郎としては至って真面目だ。

 

「サファイアは俺の体の回復と右目のフォローで手一杯だ。手はまだしも、俺には魔力がどうしても足りない。それを頼む」

 

「いやいやいや!? ルビーちゃんは可愛いロリ少女としか契約しませんよ!? 嫌ですよ血みどろリョナ展開なんてぇ!?」

 

「ルビー、お願い。お兄ちゃんに力を貸してあげて。言うこと聞いたら、何でも一つお願い聞くから」

 

「マジすか!!?!?!?」

 

 どひゃあ!、とはね上がって士郎の横までスネークインしてくるマジカルなステッキ。こういうときだけは話が早い奴である。

 

「な、ななななっ、なんでも良いんすか!? あんなこともそんなこともうほほでもぬほほでもむほほでも構わないと!!?!?」

 

「姉さん、公序良俗を弁えてください。あとTPOも」

 

「いいから早く手伝ってあげて!!ほら!!」

 

 わっかりましたー!、と軽く主人から離れるステッキにやはり不安はあるが、ルビーはそのまま少年の肩に降りると。

 

「ではでは、ルビーちゃんチェンジ!」

 

 赤い光が明滅し、両肩を始め首元から背中まで赤い布に覆われる。

 それはアーチャー、エミヤがいつも羽織っていた、あの外套に酷似していた。

 

「今回は特別出血サービスなので、まずは服装からと!」

 

 イリヤのようにステッキを持ってないと、魔力供給を受けられないなら少し厳しかったが、これなら今の士郎でも魔力を受け取りつつ、戦いの邪魔にもならない。

 

「ルビーちゃんちょっとグロ耐性とかはないんで、ハイ。魔力は送るんで、あとはお兄さん死なない程度に頑張ってくださいな」

 

「ああ、わかった」

 

 外套をはためかせ、今度こそこれで準備は整った。

 ギルガメッシュは未だ動かない。奴も分かっている。衛宮士郎に出来ることなどアレしかない。それが出てくるまでは待つというところか。

 だったら見せてやろう。

 士郎は跪き、目を閉じる。

 ただし、それが同じモノ(・・・・)とは限らない。

 

I am the bone of my sword(体は剣で出来ている)

 

 予備動作は何もなかった。

 一節。 

 ただそれだけで。

 固有結界が発動する(・・・・・・・・)

 

「なに!?」

 

 世界は、数分前と同じノイズまみれで、複数の世界が折り重なったモノだ。

 だがそれは、正しい形ではない。

 複数の世界が折り重なったのはその詠唱が少年の本当の心象を表してはいないから。

 他人の心をさらけ出そうとしていたから、こんな中途半端な世界になった。 

 ならばこそ、今このときに本当の世界を見せる。

 

Steel is my body(血潮は鉄で),and fire is my blood(心は硝子)

 

 詠唱は続く。 

 あり得ざる続き。

 衛宮士郎には無限の剣製しかなく、それ以上のことは何も出来ない。

 だが、それがもう一つあるなら(・・・・・・・・)、話は別。

 

I have created over a thousand blade(幾度の戦場を越えて、不退)

 

 紡ぐ言葉は我が人生。

 これより迎えるであろう、永劫に続く戦いの生涯。

 

Nor aware of bury(今なお続く敗北にうちひしがれ)

 

 それは、敗北の歴史。

 

No one knows the gain(ただ一度の勝利は誰も知らない)

 

 それは、報われることのない勝利への旅。

 

I have regrets.(罪人は一人)

 

 後悔は数えきれず。

 

Withstand pain to wield weapons(連なる墓標に頭を垂れる)

 

 戦い続けるならば。

 剣の世界に、墓は増え続けるだろう。

 無限に広がる剣は、犠牲になった人々を埋葬する墓標そのものであり。

 その墓標は同時に、後悔という剣にもなって、衛宮士郎を刺し貫くのだから。

 

 

「ーーーーNever(それでも)

 

 

……それでも。

 

 

It will never ends as last stardust(未だ、願いは途絶えず)

 

 

 それでも、願い続ける。

 この世界に生きる人々全てが、笑って過ごせますように、と。

 誰もが、根底で願うそんな当たり前な願望を。

 正義の味方は、未来永劫それを為すために奮闘する。

 例え、傷つくのが運命だとしても。

 その願いが、人々から消えないのなら。

 

 

 

My flame life was(燃え上がる魂は)

 

 

 今こそ、その責務を俺は果たそう。

 

 

 

unlimited blade works(無限の剣で出来ていた)

 

 

 

 瞬間。

 雑音が消えた。

 ホワイトアウトした後、世界は一変する。

 暑苦しい煙も、凍えるような冷気も、突き刺すような斜陽も消えている。

 そこにあったのは、夜の草原だった。

 満月と、月と、そして墓標のように……あるいは木々のように佇む、無限の剣。

 穏やかな、ただ死者を悼むためだけに時を徘徊する世界。

 だがこれで終わりじゃない。

 

投影、同調(トレース、トレース)

 

 一瞬だけ、また世界にノイズが走る。

 異変を感じ取った世界が、風を吹かせる。

 そして。

 

 

同調完了(セット)創製/無還収斂(アンリミテッドオーバー)

 

 

 ごぅん……と。

 頭上から、重苦しい音が響き渡った。

 

「……これは……!?」

 

 ルビーが驚きを隠せず、狼狽える。

 だがそれも、無理もない。

 何故なら頭上。星や月よりももっと上、(ソラ)を越えた先に、あの海が凍った無限の剣製が、真っ逆さまの状態で展開されていたからだ。

……無限の剣製の二重展開(・・・・)

 それが、今の彼に、二人の衛宮士郎の協力によって出来た、最大の切り札だった。

 

「固有結界の同時発動、だと……!? たかが人間に、そんな芸当が出来るわけが……!?」

 

 さしものギルガメッシュも、ここまで大それたことが可能だと思わなかったか。

 それも当たり前か。

 固有結界とは本来心の有り様を現した、言わば魂の発露だ。一人に一つが限度であり、一人の人間に二つの固有結界などありえない。

 例え出来たとしても、それはつまり術者の心が二つあるということ。そんな状況になれば、さっきまでの衛宮士郎と同じように魂の所有権を取り合って自滅するのがオチだ。

 

ーーだが。

 

 ここにただ一つ、例外が存在する。

 

ーーあなたの固有結界はその起源に起因してるみたいだけど。あなたの起源ってなんかパッとしないのよね。成長期っていうか。

 

 あれはこの世界に来る前。

 凛が魔術の師匠を本格的に務めるに辺り、その起源を調べたときのこと。

 士郎は自分の起源が剣であることは最初から分かっていた。何せ無限の剣を内包する世界を作るのだから。しかしそれが、外的要因によって書き換えられたモノだと誰が分かろう。

 十一年前、セイバーの鞘を埋め込まれたことにより瀕死の衛宮士郎は助かった。

 だが、同時にその起源も侵食されたのだ。

 剣という、一つの属性に。

 ならば。

 一体最初はどんな起源だったのか?

 それがこの答えだ。

 唯一、起源を剣としなかった男。

 この世界のエミヤシロウの起源によって、固有結界の同時展開を可能とした。

 その起源は、鞘。

 誰かを切り結ぶための刃ではなく。

 誰かを守るために、その剣を受け入れ、守る、外壁。

 その起源によって固有結界という武器を、世界という鞘に内包させた。

 収斂は理想の証なれば。

 この世界こそ、衛宮士郎の目指した力だ。

 

「……綺麗」

 

 背後に座り込んでいたイリヤが、ほう、と息を吐く。

 確かにこの光景は、幻想的とも言えた。降り注ぐ寒波は小さな雪の欠片となり、月の光を反射させて草原に落ちていく。降り積もることもなく、かといって空中には確かにその雪は存在している。

 世界の広大さに、圧倒される。

 本来なら固有結界内に連れてくるべきではないのだろうが、それでも士郎はほっとけなかったし、何よりもう離れたくなんてなかった。

 なに、心配はない。

 例え誰が相手であっても、衛宮士郎は負ける気がしない。

 後ろには守るべき女の子がいて。

 前には倒すべき相手がいる。

 なんていう幸運。これ以上ないまでにはっきりと、誰かの味方になれるのだから。

 

「はっ……はははは!! いいぞ正義の味方! これほどか、君達(・・)の執念とやらは!!」

 

 そして英雄王も、自身の役割をきちんと把握しているようだった。

 

「いいよ? 裁定するさ。今一度ここに問おう、君の正義が正しいのか。この英雄王が!!」

 

「正しいかどうかは知ったことじゃない。ただ、アンタは倒させてもらう。この世界を守るために」

 

 片や、全てを手に入れたが故に正義などないと豪語する英雄王。

 片や、正義の味方を自称して、今際の際すら他人のためにあり続ける少年。

 

「この戦いを制した者が、この世界の在り方を決める、か。さあ、それじゃあ最後の審判をいざ始めようじゃないか!!」

 

 衛宮士郎の体が、舞い落ちた雪によって溶かされるように、その髪と肌が変わっていく。いや、戻ると言った方が正しいか。呪いに覆われた赤黒い体ではなく、いつもの赤銅色の少年だ。

 それも一つの幻想。

 現実ではない隔世だからこそ、心の世界であるここでは少年もあるべき姿へ戻っているのだ。

 

 

「ああ、始めよう。これが、最後だ」

 

 

 例えその先に何が待とうと。

 抱き締める手は既に切り落とされていようと。

 ここに、最後の戦いの火蓋が切って落とされた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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