Fate/kaleid night プリズマ☆イリヤ 3rei!! 作:388859
交通事故に遭ったら、人はどうなるだろう。
イリヤはそんなことを、漠然と考えたことがある。交通指導員が人形を使って実演したりするのを見たことがあるが、イリヤにとってそれは単なる見せ物に近かった。リアリティがどうこうのの話ではなく、自分がそんな目に合うなど全く思えなかったのである。
人はあんな簡単に飛んだりしないし、逆もまた然り。
だからこそ。
体が宙を舞うほどの力で跳ね飛ばされるという感覚を、今になって味わうなど、イリヤは思いもしなかった。
「かっ、……!?」
喉の奥まで胃液が逆流する。衝撃を受けた胸がべこりと凹んでしまうんじゃないかと思うほど。
浮かんでいた時間は一秒もなかった。
それは別に手加減されていたからではなく、衝撃が強すぎて浮遊すらせず、本棚に叩きつけられたからだ。
床にゆっくりと落ちかけていた体を掴む、太い腕。それはイリヤの体よりもなお巨大で、けむくじゃらの手。
ベアトリス・フラワーチャイルドはその巨腕でイリヤの全身を絞め付けると、ギザギザの歯が見えるほど笑った。
「おーおー、耐えるねェ? でーもォ?」
「、っぁ、!?」
ベアトリスからすれば、軽く絞めたつもりだったのだろう。
しかし、その異形の腕から繰り出される膂力は、明らかに人の領域から外れている。
全身の骨から、嫌な音が響いた。
イリヤは息をすることすら億劫になりながらも、気丈に言葉を絞り出す。
「どう……して……」
「あァ?」
「どう、して、こんなこと、するの……? 捕まえる、だけなら、こんな……痛め、つけるような真似、しなく、ても……」
「わかってねェなァ、ガキンチョ」
ぐっと顔を近づけると、ベアトリスは満面の笑みで告げる。
「お前を、グッチャグチャにしたいからに決まってんだろうが」
「っ、……!」
ベアトリスの顔に、複雑な事情とか、理性が無いまま暴走していたりとか、そんな見慣れた表情はなかった。
読み取れたのは、悦楽。人をいたぶり、そこに快楽を得るためだけに暴力を振るう、紛れもない悪。
これまで遭遇したことのない敵に、思わずイリヤは悲鳴を上げそうになった。
「……それ、だけ?」
たったそれだけで、こんなことが本当に出来てしまうのか。
イリヤもよく分かっている。世の中には悪い人間がいて、イリヤ自身過去にカレイドステッキの力で人を殺そうとしたこともあった。
しかし目の前のベアトリスは、違う。
「ん、それだけだよん? 大体さ、ムカつくんだよオマエ。ネチネチクッセエ言葉をジュリアン様に吐きやがってさァ。テメェは何様だってんだ、あァ? プリンセスかってーの」
今こうして、イリヤを絞め殺そうとしているにも関わらず、その頬は何処か熱を帯びていた。苦悶の声をあげる度、ベアトリスの吐く息は熱く、顔は悦びに震えていく。
「全てを救う? また誰かと笑っていたい? くだらねェくだらねェ妄想だよねェ!? それでアンタの兄貴はああなっちまったんじゃん? なァ?」
「お、兄、ちゃんは……関係、ないでしょ……!」
「いいやあるね。アンタ達は守れても、それ以外の人間を愛しのお兄ちゃんは守れたのーん?」
イリヤが言葉に詰まる。
……そうだ。
ギルガメッシュとの戦いで、結局衛宮士郎が守れたのは、イリヤ、美遊、クロの三人だけだ。それ以外の三人がどうなったのか、安否の確認は最早叶わない。
「例えばほら……一緒にいた、あの魔術師の女」
「、ルヴィアさん……?」
「どうして、あの女だけ美遊様の改変が剥がれちゃったのかねェ? 美遊様の力が弱ってるから? それともあの世界から離れたから? いいや、もっと簡単な理由があるっしょ」
「なに、を……!!」
「
「っ……!!」
イリヤが目を見張る。
本当に。
どうしてその可能性に、思い当たらなかったのか。
「キャハハハ!! なんだ、気づいてなかったカンジ!? こいつは傑作だ、ホントに何のために来たんだオマエ!?」
ベアトリスが膝を叩いて笑う。
そう、あの時。ギルガメッシュの宝具は、冬木市を端から端まで横断した。大地は削れ、川を割った。その中にルヴィアがいたとしたら……果たして、生き残れただろうか?
何より、美遊にとってルヴィアは大事な存在だ。その彼女が姉としての記憶を失った時点で、考えるべきことだったのに。
「なァガキンチョ。アンタの兄貴は、何人守れた? あの英雄王から、何人守れたよ?」
「……っ」
「あーそっかァ。そうだよなァ……三人しか守れてねェよなァ? しかも、内二人は死人ときたもんだ。笑えるったらありゃしない」
何も言い返せない。
結局、兄が守れたと言い切れるのは、イリヤ達三人だけ。町も、その住人も、粉々に砕かれたままだ。
全てを守りたいという願いは、きっと間違いじゃない。
だけど、現実はこんなに悲惨だ。
どんなに守りたいと思っても、その手からはいとも簡単に溢れ落ちていく。まるで流れる砂を掴むように、余りにも多くの命が潰えていく。
「ジュリアン様はね、違うよ」
ベアトリスはうっとりした表情で、
「あれでも正義の味方だかんね。町の人も、アタシ達も守ろうとしてきた。どうにもならないこともあった。でも、まだ町として体裁を保てるくらいには守ってきた」
ストレートに、
「なァ。なんで死人なのに、今更生きたいとか思ったんだ?」
「……そ、れは……!」
「アー答えなくてもいいよ。どうせ受け答えなんて期待してないしィ」
ベアトリスはそう言うやいなや、イリヤを放り投げた。今度の浮遊は長い。自由落下した体はガラクタの山へと飛来する。
「く、ぅ、……!?」
まるで着衣水泳をしたときのようだった。痛みが肉体に吸い付いて、離れてくれない。たった一人、孤独と痛みを抱えることが苦しい。
だけど。
それは。
士郎と美遊が、いつも抱えていた、苦難だった。
「……ぐ、ぅうう……!」
「へえ? まだ立つんだ?」
瞳をベアトリスに向ける。意志だけは譲らないと。そう目で叫ぶ。
だがベアトリスはそれを嘲笑う。
「なんだ、それ? ガン飛ばしてる? だったらムカつくなオイ。ぶち殺して人形にしてやろうか?」
「あなたの、思い通りになんか、絶対ならない……!」
「言うねぇ……じゃあ、勝負しよっか」
勝負?、とイリヤが問う前に、ベアトリスが何かを投げた。
それは、エインズワースによって何処かへ置換された、ハデスの隠れ兜だった。そういえば、ジュリアンは宝物庫に置換したと言っていたが……まさかここがそうなのだろうか?
「これ使わせてあげっから、逃げなよ。ここから逃げ切ったらアンタの勝ち。どう?」
「……、でも、それでも、わたしはあなたからは逃げられない」
「あーん、腕のこと気にしてんの? そりゃそっかァ、限定展開してるしね。なら、ハイ」
パキン、と。あれだけ猛威を振るっていた熊のような右腕が、元の小柄な少女のそれへと戻っていた。
ベアトリスは何処からともなく日傘を取り出すと、室内にも関わらず差した。
くるりと回転しながら、
「ほれ、この通り。アタシは人間のまま。アンタと同じ、ネ。もっちろん、カードは使わないし」
「……、」
「カーーっ、ホント用心深いこと。じゃあほら、十秒数えてあげるから。その間に逃げればいいじゃん?」
ひらひらとベアトリスは手を振る。どうやら、本当に勝負をするつもりらしい。
イリヤとしては願ってもない。
「んじゃ。いーち、にぃー、さーん……」
カウントダウン開始と同時に、帽子に戻ったハデスの隠れ兜を被る。
目指すは五メートル上の出口……ではない。イリヤは手に持てる軽いガラクタをいくつか見繕うと、側面へと走りながらそれを逆へ投げる。
視覚が使い物にならないとき、頼りになるのはやはり音だ。投げたガラクタがあちこちに落ちて、散発的に音を出してくれる以上、一般的な五感ではまずイリヤの姿を捉えることは出来ないハズ。
「はちー、きゅー、じゅー……っと」
ベアトリスが数え終わる頃には、イリヤはよく分からない石柱に身を隠して様子を伺っていた。
彼女がどれだけ約束を守るかは分からない。むしろ、積極的に破りに来るだろう。だから、ひとまず居場所だけは悟られないようにする。
「うーん、どォこ行ったかにゃーん?」
ベアトリスが動く。彼女が出口から反対へと行くのなら……そのときが好機だ。慌てず、ガラクタを足場にここを抜け出す。
が、イリヤは忘れていた。
自分の戦っている相手はまさしく、
「よーいっしょ、っと」
閉じた日傘をベアトリスが両手で振るう。
それだけで。
ガラクタの一山が、まとめて巻き上がった。
「!?」
さながら、竜巻のようだった。
巻き上がったガラクタは雨のように、こちらへ次々と落ちていく。慌てて前へ飛んで回避したが、それでも風に簡単に吹き飛ばされた。
「ふんふふーん☆」
「うそ、でしょ……!」
止まらない。
ベアトリスはまるで箒でゴミを集めるかのように、日傘を振って、ガラクタを吹き飛ばす。冗談みたいなガラクタの洪水が、宝物庫を蹂躙する。
音なんて関係なかった。
炙り出しにしたって、ここまで行けば立派な攻撃だ。そしてそれをイリヤが避けられるわけがない。
分かっていなかった。
ベアトリス達もまた、世界を守るために戦ってきた、言わば正義の味方だ。そんな彼らが、クラスカードが無いから戦えないだなんて決めつけたのは、余りに愚かだった。
「ぐ、ぅ……く、……っ」
生きていたのは、本当に運が良かったのだろう。あちこち擦りむき、額からは血も出ていたものの、破片が刺さったりはしていない。
しかしイリヤは気づいていない。
ハデスの隠れ兜が頭から外れていることに。
「見ーっけ☆」
「しまっ……!?」
衝撃は背中に叩き込まれた。
石ころみたいに、イリヤは蹴り飛ばされる。尖った破片の上を何度も転がり、撹拌された意識が現実から逃げそうになっていた。
「あらら、もう終わり? ほんっと口だけだなァ、テメェ」
何度目かの鷲掴みは、素手だった。なのに、そこから生み出される力は限定展開状態を上回っている。
首を絞めながらベアトリスは、思い出したように、
「あァ、言い忘れてたけど。アタシ、カードの使い過ぎで体が英霊に変わってきててさァ……生身でも、車の一つや二つぶん投げられるんだよ」
「……あ、が……っ!?」
「良い顔で悶えるじゃん。そういう顔がお似合いだよ、なァ?」
ベアトリスの細腕をイリヤは叩くが、小学生が苦し紛れに出した拳なんかで剥がせるわけもない。
と、ベアトリスは意気消沈する。
「ホント……つまんねぇな、お前。隠れた力があるわけでもないし、結局あの可笑しなステッキ頼り。なのにステッキ無しに突っ込んでくるとかお前馬鹿ですかァ?」
「かん、けい……ない……!」
「あ?」
無駄だと分かっていても、イリヤはベアトリスの腕を殴り付ける。ぺちぺちと、弱々しくても、続ける。
「ミユも、お兄ちゃんも……! 助けたい、だけ……!」
「ふぅん。そんだけで首突っ込んできたってワケ? 筋金入りのお花畑か、ヘドが出る」
ベアトリスの言う通り。
イリヤは血迷っていたのだろう。
今まで誰かに守られていたから、ギルガメッシュがついてきてくれた時点で何とかなると思い込んでいたのかもしれない。
それでこの体たらく、度しがたいにもほどがある。
それでも引けない。
今ここで引いたって、美遊を誰かが助けてくれはしないから。
だから。
「ーー美遊様は、あと三か月の間に死ぬよ。それでも、アンタは助けんの?」
そんな、前提条件を聞かされたとき。
一瞬、イリヤの思考は空白へと墜ちた。
「……ぇ」
思わず、首を絞められている痛みすら、意識から抜けた。
「なんだ? それも知らなかったのかァ?……全く、マジの温室育ちのガキンチョじゃんか。萎えるわー」
「……ミユが、死ぬ……?」
「そうだよー?」
こともなげに、ベアトリスは口を動かす。
「理想の世界を作るだけでも、美遊様の体には相当の負担がかかってたろ。それを無視して、三ヶ月近く抑止力を止めてきた。普通なら死んでて当たり前。むしろ、三ヶ月も命が残ってることがアタシとしては驚きだね」
で、と。
改めて前提条件を確認した上で、ベアトリスは問う。
「残り三ヶ月でお前は、何もかも救えんのか、コラ?」
ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトは、戦いにおいて優れた魔術師である。
他の分野でも勿論ずば抜けてはいるが、やはりエーデルフェルトの一族であるルヴィアは、闘争してこそという人生を送ってきた。
だからこそ、目の前にいるそれの戦い方に、吐き気を覚えていた。
(なんですの、これは……)
ルヴィアは既に渡り廊下を駆け抜け、あの巨大な塔の内部に入り込んでいた。
ここだけは置換魔術もなかったらしく、普通に出入りが可能だったが……誘い込まれたのだろう、恐らく。
中は、上と下へ続く巨大な螺旋階段だけ。しかも吹き抜けになっており、真上はプラネタリウムのように擬似的な星空が浮かび上がり、真下は真っ暗で何があるのか暗くてよく見えない。
松明が壁にあるものの、広大な中でそれは余りに頼りない明かりだ。宝石の補充が出来ない以上、明かりにも限度がある。
その、暗闇で。
動く影が、一つ。
「……くっ!?」
襤褸きれに身をすっぽり包んだ、あの襲撃者。両肩から飛び出した剣はいかなる魔術かは知る由もないが、その切れ味は、周囲に点在する破壊痕が物語っている。斬るというよりは押し潰す使い方で、荒々しいが、人を殺すという一点では確かに有用だ。
まるで暗殺者のような影の紛れ方だが、逆だ。この襲撃者は、ずっと正面から襲いかかってくる。だがその挙動が、余りに理性ある獣からかけ離れていた。
カカンッ!、と火花。石床の階段を削ったのは、襲撃者の太股から伸びた、突起ーー否、剣。一般的なロングソードであるそれを足代わりにしているのだ。
剣脚、とも言うべきそれが動く度、肉の裂ける嫌な音がルヴィアの耳に届く。しかもそれだけではない。
「づ、あ……!!」
ルヴィアがこめかみを押さえる。
何か違うモノが、自分の中で蠢いている。それはまるで風へと消えた遺灰がひとりでに戻って、元の形に戻ろうとしているようにも思える。
この襲撃者と相対し戦い始めてから、ルヴィアはこの症状に襲われていた。何らかの呪いを疑ったが、そうではない。
そう、これは恐らく……共鳴だ。
ルヴィアの知らない自分が、イリヤの知る、美遊が作り出したルヴィアが、何かに呼応して呼び覚まそうとしている。
そしてその鍵を握るのは、目の前の襲撃者だろう。
「!」
ルヴィアは身を屈めて回避しながら、ガンドを乱射する。マシンガンのように放たれた黒色の弾は全て襲撃者の脇腹に刺さり、病魔を患わせる。
なのに、自身の攻撃が外れたと分かった途端、とんぼ返りに腕の剣を振り下ろしてくる。ただの剣に見えたそれは階段の一部を破壊し、ぽっきりと折れた。
しかし得物が折れても構わない。同じ剣がいつの間にか襲撃者の手に握られているから。
さっきからこうだ。
まるでルヴィアの魔術など、取るに足らないと言わんばかりに、反撃をしてくる。
(……いえ、呪いそのものを
ダメージはある。
けれど、それを感じるほどの理性がないのか。それとも、
(単にもっと大きな病、傷を負っているのか……どちらにせよ、手持ちの宝石が十分でない今、さっさと捕まえたいところですが)
あれだけカッコよく言ってはみたが、この襲撃者は一度捕らえる必要がある。もしも美遊の姉である自分を、思い出せたのなら、それは美遊の幸福にも繋がる。
……知らない相手の幸福を祈るというのも魔術師的には可笑しいハズだが、ルヴィアには関係なかった。
(美遊という少女が求めているのは、私ではない)
なら、その足掛かりが得られるのなら、やはりこの襲撃者は放っておけない。
……全くもって自分でも理解不能な方針だが、それだけ輝いていた日々だったのだ。
例えその記憶を亡くしても。
心の何処かで、それを求めてしまうくらいには。
ルヴィアはそう決めると、行動に移す。
「……そこ!!」
剣を足にすれば、立つことすら非常に危ういバランスを保たなければならない。今のように、狂獣の動きとなればその繊細な作業は想像に難くない。
そこをルヴィアは突く。
一直線に向かってきた襲撃者の足へ、人差し指を向け、ガンドを叩きつける。
ダメージを知覚出来なくても、衝撃が通るのなら、足のバランスは崩せる。
目論み通り、襲撃者はスリップした。あとは階段から落ちるか、踏み留まるために剣脚を止めるか。
無防備になったところを宝石魔術で捕まえる。術式を起動した今、あとはそれを投げるだけ。
だが、それが魔術師として甘かった。
襲撃者がスリップした瞬間、その襲撃者の
「嘘……!?」
呆気にとられる。一見第三者にでも刺されたのかと、そう勘違いしかけるところだった。
そう、あれは単なるスパイクだ。転ばないための使い捨てのスパイク。傷に対して落ちた血の量がまるで比例していないが、そんなことはどうでもいい。
襲撃者はジャキン!、と蜘蛛のように剣の四肢を伸ばすやいなや、至近距離からの突撃を敢行。そのままルヴィアの肩に剣を貫通させ、壁まで押し出した。
「ぁ、ぅ……っ!?」
息が上手く出来ない。
まさに一瞬のことだった。ルヴィアでは反応すら出来ず、精々歯を食い縛ることだけが許された。
蒼いドレスが血で黒く染まっていく。襲撃者は舌なめずりも、慢心も一切何もない。ただ淡々と、ルヴィアのもう片方の腕の付け根に剣を突き刺した。
「はり、つけ……とは……悪趣味にも、ほどがなくて……!?」
ルヴィアのそんな皮肉にすら答えない。襲撃者は黙りこくったまま、剣を携える。
そう、慢心していたと言うのなら、それはルヴィアの方だった。何処かでまだ、今回の事件は人間の領域だと勘違いしていた。
でも違う。こんな、自分の体を何とも思わない頭の可笑しい魔術師がうろついているような、そんな場所で。ルヴィアはただ子供の駄々に付き合ってしまった。
敵がどのような存在かもいまいち分かってない今、敵陣に突っ込むなんてどれだけ危険な行為か理解していたのに。
それでも情に流された。それは魔術師の行動ではない、ただの愚者だ。思考を放棄した豚だ。
らしくないと言われるだろう。流されるとしても、ルヴィアゼリッタはそもそも魔術師である。他の魔術師よりは確かに、義理人情を重んじるところがあるだろうが……でもそれは、ここまで無軌道で、責任も捨て去るようなやり方じゃない。
ならばどうして、こんなことになったのか。
(……ああ……こんな簡単に……)
命が終わるときは、本当に一瞬だ。
そして当たり前のように、襲撃者は刀を振りかぶる。
「勝負あったな」
そう吐き捨てたのは、アンジェリカだった。主たるジュリアンと同じく、底冷えするような視線の先、ギルガメッシュが全身から血を流して倒れ込んでいた。
そうなるのも当然か。
アンジェリカが夢幻召喚したのは、ランサー、エルキドゥ。英雄王ギルガメッシュが唯一友として認めた、神々の人形。その力はまさしく生前のギルガメッシュにすら引き分けに持ち込んだほどの神造兵器。
「宝物庫の所有権は私の方が上である以上、貴様にはどうしたって手数が足りん。頼みの天の鎖も、このカードを夢幻召喚してる今、たかが頑丈な鎖に成り下がった。貴様ほどの英霊なら、まず逃げの一手を打つと思っていたが」
「まさ、か」
ギルガメッシュが笑う。
「僕は、これでも義理堅い人間でね。せめてイリヤさん達が頑張ってる間は、手伝うつもりだよ」
「それだ。貴様、何故そんな無意味な真似をする?」
「無意味? どうして無意味だと?」
しれたこと、とアンジェリカは答える。
「貴様は力を失ったイリヤスフィールを伴い、ここへ来た。何故だ? 貴様とて分かっていただろう? こうなることは目に見えていた。にも関わらずここまで来たのは、愚鈍という他ない」
「言ってくれるねえ……」
「だが、貴様自身はそこまで愚鈍ではない。なら何か他の目的があった、違うか」
「……半分は当たり、かなあ」
切り裂かれてバラバラになったコートの破片を払い除け、ギルガメッシュは半笑いで続ける。
「ま、イリヤさんにはちょっと現実を見てほしくてね。その課外学習には、丁度良い相手がここくらいしか居なかったのさ」
「……丁度良い、だと?」
「ほら、君らって容赦ないだろ? だから適任じゃないか、色々と……まあ、ちょっと力の差が笑ってられないほどあるけど」
事実、ギルガメッシュが白旗を上げたくなるくらいには、最悪の一途を辿っているのが現状だ。
「多分、イリヤさん辺りはもう捕まって、そろそろ美遊のことで悩む頃かなあ。あの子は知らないからね、美遊の命が尽きかけてること」
「……随分と楽しそうだな。イリヤスフィールも、我々の神話に必要な
「笑うさ。ああ、笑うとも」
自棄になったわけではない。
本当に、ギルガメッシュは楽しそうに、笑っていたのだ。
「いや、あの衛宮士郎という男も、こんな逆境に立たされていたなと思ってね。助けはなく、頼れるのは己の体だけ。僕が大嫌いな奴と同じ立場になるだなんて、人生分からないモノだなって思っただけさ」
「……気でも狂ったか。この期に及んで、そんな慢心が通用すると?」
「慢心じゃないさ。だって、
そのとき。
確かに悪辣で、非道をも時には厭わない暴君は、こう言ったのだ。
「あの二人は、こんなことで折れたりしないよ」
そのとき。
ルヴィアは振り下ろされる刃を仰ぎながら、とある過去を思い出していた。
(ああ……もう……なんで、こんなときに……)
それは、一年前のことだったか。
ルヴィアが、生前のイリヤと関わりを持ったときのことだ。
たまたま挨拶する機会があったからと、ルヴィアはアインツベルンの城を訪ねた。元々、ルヴィア本人としてはいかにこの挨拶を騒動なく切り抜けられるか、それだけを考えていたことを覚えている。
だから、あのアインツベルンの当主があんなに小さな女の子だと分かったとき、ルヴィアは酷く驚いた。同時に、毒舌もかまされてちょっぴり傷ついたが。
ーーあら、エーデルフェルトってあの追い剥ぎの? 前から思ってたけど、あれ貴族的にどうなの? 卑しいとか思ったりしないの?
言葉自体は言われ慣れていたが、イリヤのような少女に言われるのは流石にちょっとアレだった。
その後、せっかくだからと晩餐に同伴して、なんやかんやでワインをそれなりに飲んでたまに舌戦を交わし、少し打ち解けたかな、というときだった。
ーーわたしね、明日から日本に行くの。
なんでも日本の冬木市で、第五次聖杯戦争が行われるのだという。アインツベルンのマスターとして、イリヤはその戦争に参加するのだとか。
ルヴィアも聖杯戦争は知っていたし、そろそろだとは噂も耳にしていたし、そんな時に訪問したのは悪いことをしたなと思ったが、イリヤとしてはそれよりも大事なことがあったらしかった。
ーーね、エーデルフェルト。もし、もしね。わたしがこの戦争を生き残って、またあなたと会うことになったら……その時は、わたしを殺してくださる?
何を突拍子もない。
などと、ルヴィアは言えなかった。
何故ならイリヤから、その時だけは取り繕った幼さなど消え失せて……ありのままを、さらけ出していたから。
ーー殺したい相手がいるの。アインツベルンの悲願と同じくらい、優先すべき相手が。わたしはね、それを成し遂げたらきっと、空っぽになっちゃうから。きっと、心は死んじゃうわ。そして、悲願を叶えれば体もね。
だから、殺せと?
ーーうん。まあ、どちらにせよわたしはこの聖杯戦争で死ぬんだけど……もし生き延びたなら、あなたに殺されるのも悪くないなって、そう思った。それだけよ。
正直な話。
身の上話をするほど仲を深めたわけでもないため、ルヴィアとしては首を傾げていた。そんな義理を果たす理由もルヴィアには見つけられない。
だけど。
ふと、気付いたのだ。
きっと、ルヴィアだから話したのではなく。
赤の他人であるルヴィアだから、話したのではないか、と。
ーーま、冗談よ。わたしのバーサーカーが負けることなんて、万一にもないしね。
魔術師だから、きっとこの幼い見た目にも意味があると思っていた。実際あるのだろうし、ルヴィアが思うような機能など付随していないのかもしれない。
けれど。
それならどうして、殺してくれなどと、そう言ったのだろう?
自分の末路を笑って語り、それでも自身の殺害を赤の他人に頼んだのは、イリヤなりの抵抗だったのでは、なんて考えてしまうのは。
だから、ぽろっと言ってしまった。
いいでしょう、と。
そのときはアインツベルンが誇るホムンクルスの技術、存分に堪能させてもらいますわ、と。
ーー……あらあら。冗談だって言ったのに。早とちりが過ぎるわ、エーデルフェルト。
くすくす、と微笑みを浮かべていたものの、ルヴィアは忘れていない。
微笑みの前の、僅かな間。その短い間に、イリヤが哀しそうに頷いたことを。
そんなことを、ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトは思い出した。
「……ああ、そういうことでしたの」
ぐっ、とルヴィアは右手で左肩に刺さった剣の刀身を握る。そのまま勢いよく引き抜き、振り下ろされる刃に柄の部分をぶち当てる。
甲高い金属音と共に、剣は弾かれ、ルヴィアはお返しにと開放された左腕で襲撃者の腹を殴打した。
憎き遠坂凛の技。
ルヴィアは更にもう片方の肩に刺さった剣も抜くと、襲撃者を見据える。
「……そうでした。私は、あのとき。約束した。必ずあなたを殺すと」
最初に訃報を聞いたとき、ルヴィアの心にはそこまで感情が湧き上がったりはしなかった。結局は一夜、食事を共にしただけの相手だ。記憶には残っても、感情は揺さぶれはしない。
だが……死後のイリヤに会ったとき。
ルヴィアの中で、一つの感情が湧き上がった。
それは、後悔だった。
「本当はきっと。あなたも、ああだったのですね。醜いことも、美しいことも、何もかも知っていたのに……それでも、あなたは美しいことを信じられた。なのに何かの歯車が食い違って、あなたはあんな風に歪んでしまった」
妖精のような出で立ちと、残虐な精神。それを作り上げたのは、アインツベルンであり、そして魔術というひとでなしの奇跡だ。
それを否定する気も、どうにかすることが出来たかは、魔術師であるルヴィアには何も言えない。
でも。
だけど。
「今度は……まだ、間に合うのでしょう」
左腕を握る。血が滴り、手の甲がしきりに痛んだ。感情の高揚が魔術回路を回転させる。
「美遊もイリヤスフィールも。まだ、間に合うのなら……!! 私は、助けたい!! あの子達が守りたいモノを、守ってあげたい!! だから……!!」
そして。
そのとき。
イリヤはベアトリスに首を絞められながら、呟いた。
「どう、して……?」
「あ?」
か細く、命が途絶える前の断末魔。
だからこそベアトリスには、その言葉がよく聞こえた。
「どうして、死ぬと分かって。あなたは、ミユを助けようとしないの?」
「……は?」
それは。
それは余りに、当たり前の言葉だった。
「どうして、世界中の人を助けようとするのに。ミユのことは、あなた達の誰も助けようとしないの……?」
「決まってんだろ、アレは人間じゃ、」
「人間だよ、ミユだって」
少なくともイリヤは、それを知っている。
たった三ヶ月、されど三ヶ月。親友と思い合った日々は決して、誰かに蔑まされるようなモノじゃない。
「ミユは、泣くよ。痛いって、苦しいって、泣くんだよ? 町の人達と何も変わらない。変わったりなんてしない。そう決めつけたのは、あなた達でしょ?」
「けっ、神様と人間だぞ。そんなラブストーリーが好きなら、勝手にやってろよガキンチョが。それとも何か、テメェには美遊様も世界も救える方法があるってのか!?」
「……そんなの、ない、よ」
「だったら!!」
「だから」
きっ、とベアトリスをイリヤは真っ直ぐ見つめる。伝わってほしいと、そう訴える。
「だから、みんなでーーみんなを、守らなきゃ、いけないんでしょ」
「…………」
今度はベアトリスが、絶句する番だった。
その間にイリヤは告げる。
「一人じゃ、無理だから。二人なら、守れるかもしれないから。三人なら、届くかもしれないから。だから、みんなで頑張れば、世界だってきっと救えるかもしれないから」
だから、
「絶対にわたしは、諦めない……!」
「……ふざけてんのか……」
ぎり、とベアトリスが歯を軋ませる。イリヤの首を絞める力が更に強くなる。
ベアトリスは烈火のごとく赤毛を振り乱し、
「テメェは何か、仲良しこよしで世界が救えると思ってんのか!? 甘ちゃんだなんてレベルじゃねェ、現実逃避も大概にしろよガキが!! テメェの言ってることは、手を繋いでいけば地球を一周出来るって妄言と一緒だ!! そんな単純な作りだったらな、世界なんて簡単に滅びたりしねぇんだよ!!!」
「……だから」
「あァ!?」
「だから、
……別に、イリヤは見下したわけでも、罵ったわけでもない。しかし、それが彼女の心を逆撫でした。
ベアトリスの堪忍袋の緒が千切れ、ポップコーンのように四方八方に飛んでいく。
「、ォッらァ!!!」
まるでぬいぐるみをベッドに投げつけるかのように、ベアトリスはイリヤを宝物庫の壁へと激突させた。
そしてすぐさま懐からカードを引き抜くと、殺意を垂れ流して叫ぶ。
「クラスカードバーサーカー、
瞬間。
宝物庫内を、雷が迸った。
青白い閃光が少し暗い室内を明かし、天井近くから落雷が床を焦がし続ける。その中心から、山賊のように露出した衣装の少女が一人、悠々と歩いてくる。
ベアトリスだ。彼女は異形の右腕に石板のようなハンマーを持っており、歩くだけで雷が後を追うように落ちていく。
「決めた。テメェは、アタシが潰す。ジュリアン様がどうとか関係ねェ。お前は一度、脳味噌ぶちまけてかき混ぜねえとわかんねぇタイプの馬鹿だからな」
「げ、ほ、ぅ……!?」
イリヤはまださっきの激突のダメージが抜けていない。それどころか、赤黒い血を吐き出していた。
「折れた骨が肺にでも刺さったかァ? はん、いいね。テメェは苦しんで苦しんで、苦しみ抜いた後、蛙みてぇに潰れて死ぬのがお似合いだ」
「か、く……っ」
立ち上がろうとしても、立ち上がれない。足腰に力が全然入ってくれない。
終わりなのか。
こんなところで、早とちりしたばかりに、自分は。
「んじゃ、この世とバーイ☆」
ベアトリスがハンマーを振りかぶる。
身構えることすら出来ない。
イリヤスフィールはいとも簡単に、肉片へとーー。
光だ。
単なる光ではない。これは……真エーテルか?
ルヴィアの目の前で突然光り出したそれは、魔法陣。しかもただの魔法陣ではない。恐らく召喚するため。
しかし……何を? その疑問は、すぐに答えが出た。
光から何かが、襲撃者へと飛び出していったからだ。
「オラッ!!」
床を盛り上げるほどの踏み込みに、ルヴィアのとは比べ物にならないほどの魔力放出。それらが加わったことで、召喚された誰かは襲撃者を蹴り飛ばしたのだ。
まるでスーパーボールのように跳ね飛んだ襲撃者は、そのまま壁にめり込んだ。
「チッ、防いだか。いや、鎧か何か着込んでやがんのか? 顔も見せねえ臆病者だと思ったが、存外頑丈だな」
それは一言で言えば……騎士らしくない、騎士だった。
業物であろう剣を肩に担ぎ、兜はねじれた角のようにいかつい。鎧も銀ではあるが赤い装飾が隅々にまで入っており、何だかルヴィアとしてはあかい女を思い出して複雑である。
「とりあえず、敵がいるが……挨拶だけでも済ませとくか」
と、騎士は振り返る。
そして、兜が変形した。
見事な細工だった。恐らく現代の技術でもここまで精巧に、速く変形する一品は無いだろう。
そしてルヴィアは、その晒された素顔に驚いた。
少女だったのだ。しかも恐らくルヴィアより年下だろう。勝ち気、というよりは食い破る気迫の少女は、
「サーヴァントセイバー、モードレッド。召喚に応じ参上した」
ルヴィアの左手に刻まれた令呪を確認して、
「問おうーーお前が、オレのマスターか?」
そして。
同じように、イリヤにも声が届く相手がいた。
「バーカ。おさらばなんてさせるわけないだろ、このパイナップル頭」
本当に、ベアトリスの槌が届く寸前のことだった。
それよりも早く、少年の言葉が宝物庫に届き、一陣の風がベアトリスを吹き飛ばした。
それは、ベアトリスが起こした暴風とは違う、清廉な風だった。それでいて劣っているわけではなく、むしろ雷すら刻む勢いで吹き荒れる。
と、不意に誰かに抱えられた。恐らくイリヤが吹き飛ぶといけないと、支えてくれているのだろう。
誰だ、とイリヤが首を動かし。
そして。
心臓が止まった。
「ああ、良かった。怪我をしていますが、治せる範囲です。あなたが無事で何よりだ、イリヤスフィール」
砂金のように細やかな金髪に、碧眼、動きを阻害せずかつ風格を表す青いドレス。そしてこちらを心配する表情など、何もかもが違う。
だが、イリヤの記憶が正しければ、その顔はセイバーのクラスカードーーかのアーサー王と瓜二つだった。
いや違う、知っている。
イリヤスフィール・フォン・アインツベルンならば、このサーヴァントを知っている。
第四次、第五次聖杯戦争と呼ばれ、最後まで残った最優のサーヴァント、セイバー。
アルトリア・ペンドラゴン。
「ったく、僕らにガキのお守りを任せるとか、どうかしてるよ、遠坂も」
そしてもう一人。サーヴァントであるなら、マスターがいなくては現界出来ない。
「……うそ」
だが。
宝物庫に入ってきたのは……本来ならあり得ない存在だった。
その少年は、イリヤを一瞥して、露骨に顔を歪ませた。まるで嫌悪しているかのように。
「嘘、ね。なーんだ、こっちの記憶もあるのか。なら自己紹介は軽くでいいな、そりゃ助かる。僕も、魔術師とは余り話したくはないし」
この少年は、イリヤも知っていた。
衛宮士郎の友人にして、第五次聖杯戦争のマスターで、そしてイリヤの命を奪ったも同然の男。
「じゃあ手早く済ませましょう、
「ああ、やれ
そして、マキリの後継者になれなかった男ーー間桐慎二は、あくまで苦々しい表情で呟いた。
「魔術なんて、僕は嫌いだからね」