死が満ちている。
止めどなく堕ちていく血が、命が、屍が、かつて肥沃だった大地を峻酷に穢していく。
貫かれ、穿たれ、抉られ、裂かれ、潰され、焼かれ、蝕まれ。
ありとあらゆる方法で、彼我に集った兵どもは誉れ高き崇高な肉塊と化していった。
数瞬前まで隣を走っていた仲間が、相対していた敵が、分け隔てなく公平に終わりへと手引きされ。
もはや、今走っているこの身が生者なのか屍なのかも、判別がつかない。
振り下ろす刃が、肉を断つ感触が、耳朶を揺らす絶叫だけが。
ここが、疑いようもない現実だと、告げている。
「──陛下っ、騎士王陛下っ! これ以上はもう持ちません、我々の敗北です!」
剣を振るい心の闘争を素に敵を屠り続ける最中、雄叫びでも断末魔でもない悲痛な声が暴虐と化した体を引き留めた。
早馬に乗って戦況を報告しに来た兵士の言葉でいくらか正気に戻った視界で、よく見えるようになった戦場を呆然と俯瞰する。
鈍色の空の手元で、日の当たらぬ不毛の大地の上で、見果てぬ死者の群れが列をなしていた。
敵か味方かなど、もはや関係ない。自分と同じ命が、目の前で潰えていく。
ある者は、右腕を失って泣き叫んでいる。そうしてそのまま殺された。
ある者は、敵の首を切り落とし快哉を叫ぶ。そうして別の敵に討たれた。
ある者は、ある者は、ある者は……。
そうして、みな同じように死んでいく。
「ここは、どこだ……」
平凡ならぬ人生を歩み、数十年。
生きてきた日々に、無駄な時間はなかった。経験してきた物事すべてが、自分を構成する大切な要素だったと断言できる。
それは、ここに集った同志たちも同じこと。
歩んできた道は違えど、みな全身全霊で険しき旅路に挑んできたはずだ。
その結果が、ここで無価値に死んでいくことだったのだろうか。
出陣前、供に酒を酌み交わした兵の顔を覚えている。一人一人顔は違い、性格も暮らしも夢も異なっていた。
言葉を交わした仲間たちには、それぞれ役割が、意味があった。
きっと、彼らがいたから救われた人がいる。彼らがいたから、愛し愛された人がいる。
しかし、ひとたび鎧を身に纏い武器を取れば、集った者たちに戦力以外の意味は与えられなかった。
見知った顔が死んでいく。戦いに勝てば、栄誉の死者として称えられるのだろう。なら、負ければどうなるというのだ。彼らの死は、奮闘は、無価値で無意味だったというのか。
そして、こんなことを憂いている自分も、同じく無意味な存在なのだろう。
負ければ、積み上げてきたすべてが無駄になる。
自分を信じて命を捧げた仲間たちや、勝利を祈っている国の臣民たちを裏切って。
最期は、無様な晒し首となって終わるのだ。
眼下に映る光景に絶望し言葉を漏らす騎士に、内なる自分が厭わしく嘯く。
正しく、掛け値なしの地獄であろう、と。
「……違う、ここは私の国だ」
心が絶望を許容しかける。しかし、王としての矜持が、尊厳がここで蹲ることを許さない。
剣の柄を強く握れば、指圧に耐え切れなかった皮膚が破れ血が滴った。
まだ、自分にはこれだけ力が残っている。騎士王たる者が兵たちを鼓舞せずしてどうするというのだ。
愛馬を嘶かせ、腕よ千切れろとばかりに剣先を高く天へと掲げる。
怨嗟に塗れた凄惨たる戦場に、若く雄々しい騎士の声が響いた。
「我が勇士たる騎士たちよ! 俯くことは──」
激励も、鬨の声も、断末魔も。
その瞬間、一帯に溢れていた音の一切が重圧なナニカに圧し潰された。
人の声や血、戦いの動きで熱されていた空気は瞬く間に極寒の冷気と化し。
戦地にのさばっていた静寂を切り裂くように、増し続ける耳鳴りが脳天を貫いた。
何が起こったのかわからない。誰かに攻撃されたのか、自分の五体はまだ繋がっているのか、何一つとして確証が持てない。
敵も味方も関係なく、この現象に苦しんでいる。少なくとも、この戦争に関わっていない第三者からの介入があったのは確かなようだった。
しかし、だとしたらいったい誰が仕掛けた。この戦争は
意識が混濁し始めた折、かろうじて生きていた周囲の人間や軍馬が次々とくずおれるように倒れ始めた。
先ほど報告に来た兵士も他同様に地面に伏している。言うことを聞きもしない体になんとか鞭を打ち、件の兵士に無事かどうかを何度も呼び掛けた。
しかし返る言葉はなく、また脈打つ鼓動も感じられない。話しかける前から悪い予感はしていたが、死体と化した体はまるでとうの昔に死んだかのように冷え切っていた。
自分たちの身に何が起こったのか一つも理解することができない。戦場の真ん中で当惑していた騎士王だったが、この場所に生きる命はもはや自分一人だけだと気づくことはなかった。
集っていた命の大半が死滅した頃、戦場のそこここから黒い靄のような瘴気が立ち込め始める。
否。瘴気自体は異変が起きる前から発生していたのだが、それが可視できるほどまでに深刻化したのは戦場が静けさに支配されてからであった。
血赤の大地がひび割れ、赤黒く発光する地の底から悍ましき悪意がいくつも地上へと這い上がる。
実体を持たないそれは、本来現実世界に干渉することはできない。
しかし、消滅するまでの僅かな時間に、依り代となる器に憑依すればその限りではないのだ。
それらが標的としたのは当然、あちらこちらに掃いて捨てるほど重なった死骸。
かつて仲間だったものも、敵だったものも関係なく、人間の死体は奴らに活用されていく。
不可解なものに憑りつかれた身体はやがて、不自然な挙動でもって再起する。
起き上がた当初は人の形を保っていたが、時間が経つにつれ各々適した姿へと肉体を変貌させていった。
最終的に出来上がったのは、醜悪な見た目の化物。百万を超える死体はすべて、まったく別の軍隊へと成り果てた。
それらは、実際に地中に生息しているわけではない。
鮮血と死で染まった大地を媒介にし、別世界から現世へ繋がる扉を出現させ、本来地上に存在できない者どもはこうして生物として顕現し得たのだ。
紫紺の肌に卵の殻が割れたかのような歪な口。天理に背く鋭利な角に、醜悪を醸す蝙蝠の翼。
人間はかの化生どもを、悪魔と呼ぶ。
「悪、魔……」
唯一生き残った騎士王は、倒れ伏したまま空に浮遊する悪魔どもをねめつけた。
視界には全体を捉えることもできそうにないほどの悪魔の大軍勢。敵味方合わせて百万弱はいた兵士たちが丸ごと悪魔の依り代となってしまったのだと、薄れていく意識の中で悟り絶望する。
奴らは見ていたのだ。愚かにも人間同士で殺し合う自分たちの姿を。そしてこの場にいた人間全員を自らの肉体にしようと画策し……。
「くそ、くそっ、くそぉ……!」
つまるところ、全てが無駄となったのだ。
数多の死も、大義も、誇りも、誓いも。全て悪魔の贄となるに過ぎなかった。
悪魔が嗤う。けたたましく、大層愉快そうに。
あれらはこれから地上に生きる全ての生命を焼き尽くすだろう。
這いつくばり悔恨の涙を流す騎士王は、己の無力さを呪った。命辛々生き残ってしまったのは、皮肉にもここに集った戦士の誰よりも強かったためである。
だがそれまでだった。今彼に出来ることは地面に爪を突き立て悪魔を恨めし気に睨むことのみ。
このまま自分は瘴気に塗れて息絶えるのか、それとも悪魔どもの手で殺されるのか。数秒先の自らの生死すら定かではない状況に、絶望のあまり低くくぐもった嗚咽を漏らした。
「神よ……我が神よ。もしも、御身が本当に実在するものであるというのなら……教えてください。貴女様は何故、斯様な地獄を見ても、まだその玉体をお見せしてくれぬのですか?」
もはや一筋の希望すら見出すことができないこの瞬間、彼は自らが信仰する神へ滔々と疑問を投げかけた。
大陸に生きる者ならば、誰もが信奉し崇める唯一神。可笑しなことに、攻め入ってきた敵国が奉っている神も、騎士王たちが信仰しているものと同一の存在である。
同じ神を崇めているのに、彼らは殺し合った。そしてその殺し合いの末が、神と敵対している悪魔どもの都合のいい生贄となったのだ。
なんたる悲劇。なんたる茶番。なんたる、なんたる……。
悪魔の毒手が伸びる。
生きとし生けるもの全てを呪い犯す死神の鎌が、今騎士王の首を──
【────────────!】
戦場に響き渡った音は、例えるならば賛歌であった。
暗雲を切り裂き血赤の大地を照らす光明と共に、何者かが天より降り立ったのだ。
誰もが天を仰ぎ、神々しい輝きに目を細める。先ほどまで醜悪に蠢いていた悪魔どもは、蛇に睨まれた蛙のように硬直して動かない。
雲間の奥から、白鳥のような白い一対の翼を持った騎士たちが現れる。姿形は全て統一されており、まるで造り物のような印象を覚えた。
続々と地上に参入する騎士たちの数は、人間兵を依り代にして現れた悪魔とそう大差ない。
天に住まう人間など存在しない。かの姿を直接認めるのは人生で初めての体験であったが、あの騎士たちが何者なのか騎士王は深く理解していた。
彼ら、彼女らは民草に天使と呼ばれ恐れられる。神に仕える高尚なる神使であった。
やがて最後の一人が天より降り立った時、一際強い光が戦場を……いや、世界を包み込んだ。
直視していられないほどの輝きに目を覆うも、騎士王はなんとか瞼をこじ開けこの不可解な現象を理解しようと懸命に抗った。
光と共に出現した二人の女性の影。片方は小柄で子供と見紛うほどに背丈が低いが、その背には身体よりも大きな翼が一対、そして巨大な翼を囲うように小さな羽が上下に二対生えている。
金糸を編んだような長髪の少女から放たれる威圧感は、他の天使と比べようがないほどに隔絶していた。
だが、もはやかの少女の姿は誰の目にも映っていない。超常の存在である少女すら霞むほどの神気が、もう一方の女性から放たれていたためである。
尊き存在たる証の濡羽色の髪は腰辺りまで美しく伸びており、静謐な黒瞳は怒りの眼差しで悪魔が蔓延る戦場を睥睨していた。
背にはこれまでの天使たちのような猛禽の翼ではなく、硬質をイメージさせる宝石が如き光の羽が三対浮かんでいた。
全身から溢れ出る魔力を隠すことなく現れたそれは、この地に……いや、世界全体を見渡しても決して彼女に並ぶ者はいないと断言できるほどの”力”に満ち満ちている。
故に騎士王は気付いた。いや、彼と同様に呆然と天を見上げる悪魔たちも、あの存在が何者なのか気が付いた。
あれこそがこの世界を創造した絶対主──すなわち神であると。
「あの方が……我らが、神……」
光の眩しさに目を細めながら呟く騎士王の心を知ってか知らずか、誰もが彼女の一挙手一投足を見定めている中で神はその手を動かした。
幾重もの光が束となり神の手元に集まる。やがてそれは厳めしい一本の槍と化した。
槍を頭上に掲げ何事かを叫ぶ。彼女の声に押されるように、天使たちは一斉に色めき立ち声なき喝采を上げる。
どうやらあれが開戦の合図だったらしい。ほぼ同時に悪魔と天使が弾かれるように互いの下へ突撃していく。
そこから始まったのは、人間である騎士王には到底理解することができない埒外の争いであった。
光と闇が混ざり合い、空中で爆炎が起こり、一度の激突で何千もの敵味方が消滅している。
混沌とした戦場の中で、何故騎士王はまだ体の原形を保っているのか。それは単に誰の目にも彼の姿が映っていないからだった。
天使は当然のこととして、先ほどまでこちらを狙っていた悪魔でさえ、彼の存在を忘れ闘争に没頭している。
誰にも見向きされない自分は、彼らにとってはまさしく路傍の石と変わらないのだろう、と騎士王は内心で自嘲した。
視線の先にいるのは、圧倒的な力で悪魔を滅していく女神。
腸が煮えくり返る心地だった。
「神よ……我が神、クロノスよ。何故だ、それほどの力がありながら、全能である貴女は何故、今になって現れた。何故、皆が醜悪な悪魔になるまで現れなかった。所詮人間は、どうでもいい存在だというのか。何年、何百年、何千年と貴女だけを信仰してきた彼らは、どうでもよかったのか」
知らず、口角が吊り上がる。
おかしい。自分の心は今、どうしようもないほどの怒りや恨みに浸水している。
だのに何故、この身は嗤っているのだ。
「赦さない。私は貴女を赦さない。例え我が身が千に切り刻まれようとも、この憎悪は消えやしない」
戦場の隅で、騎士王は静かに吠える。
血の涙を流し、手の中に捉えた女神を力のあらん限りで握りつぶした。
「呪われろ、呪われろ。神たる貴女よ、呪われたまへ──!」
こうして、人と人。そして悪魔と神の戦いで、地図から国が一つ消えた。
公的な文書に残された内容では、人間同士の愚かな戦いに付け込んだ悪魔を、神が全能の力で滅ぼしたと記されている。
この戦を民衆は聖戦と呼び、恐れ。
生き残った人間は、一人もいないとされている。
次回更新は一時間後の20時となります。