──間に合った!
目の前で行われようとしていた行為を目にし、私は心の底から安堵した。
ラティさんの服はほとんど剥ぎ取られており、本当に手遅れになる一歩前だったようだ。
坂を駆け上ったせいで荒くなった息を必死で整える。
……今から私は、馬鹿なことをする。
最善の選択だなんて口が裂けても言えない。それどころか計画として破綻しているような内容だった。
それでも、実行しなければならない。
非力な私に出来る、少なくとも一人以上は助かる方法を。
「……こいつは意外だったな。もうとっくのとうに逃げたものだと思ってたんだけれど」
一番速く状況を把握できたのは、やはりハルだった。
外に捨てようとしていたのか、肩にレクスの死体を担いでいる。
首のなくなったレクスさんの死体は、傷の断面図から未だ夥しい程の血を流していた。
キュウ、と喉が締まる。
怖い、怖い、怖い。
でも、立ち向かわなきゃ。
もうこれ以上、奪わせないために。
「はっ、わざわざ自分から戻ってくるなんて、馬鹿な奴だな! おいハル、そいつも捕まえろ」
「ああ、言われなくても――」
「じょ、条件が、あります!」
ラティさんに跨がったままの男は、嘲笑しながらハルに命じた。
ハルがそれに応じ、一歩踏み出そうとする前に、私は必死に声を張り上げる。
「わ、私がラティさんの代わりになるから……ラティさんは見逃してください!」
「……」
「はぁ? マジで馬鹿なのかてめえ。おい、ハル。とっとと捕まえろ」
ハルは何の反応も見せず、男は呆れを通り越していらついているようだ。
だが、男の命令にもハルは動かず。私の言葉を待っているようだ。
おそらく興味があるのだろう。私がいったいどのような提案をするのか。そしてその判断に、私は救われた。
にべもなく襲われでもしたら、この計画は瞬時に破綻してしまうから。
「もし、もしラティさんを逃がしてくれるなら──」
フードに手をかける。
そう、今からやろうとすることは、本当に馬鹿みたいな事だ。
正気の沙汰じゃない。そもそも、素面なら羞恥でそこら中に転げ回りたくなるような考えだ。
この世界に来たときから、ずっと抱えていた違和感。
気づいてないわけではなかった。ただ、確認するのが恥ずかしかっただけで。
もし、これが私の勘違いなら、全てが終わる。
でも、もし勘違いじゃないのなら。この世界にとって私の顔は──
「──代わりに、私がここに残る!」
──美しいはずだ。
「なっ⁉」
「……美しい」
今の今まで深くかぶっていたフードを勢いよく外すと、首謀者共はわかりやすく私に見惚れてくれた。
ラティさんでさえも、私の美醜に呆然としているようだ。
そう。ミッシェルさんに言われてからずっと抱いてきた違和感。
それは、過剰なまでに顔を褒められること。
日本にいたときにも、可愛いだの綺麗だのと褒めそやされてきたが、ミッシェルさんの感想は異常だった。
私はそれをただのお世辞だと思っていたが、違う。
どういうわけか、この世界の美的感覚では私の顔はとても美しく見えるらしい。
「お、おいハル! 何が不細工だよ、あんな美人見たこともねえぞ!」
「悪かったよ。ボクだって驚いているんだ。でも、戻ってきてくれたからいいだろ? ……でも、君も馬鹿だな、ノアくん。ボクがラティくんを渡す前に、君を捕まえるとかは考えなかったのかい?」
「と、当然考えました。だから、先にラティさんをこっちに渡してください」
「差しだした瞬間に、君を捕まえるかもよ?」
「そ、その時は……」
ハルは、心底面白そうな顔をしながら問い詰めてくる。
そう、この取引は、私がハル達に捕まるより速くラティさんを遠くに逃がさなければ成立しない。
ハルの実力なら少し離れた程度ではすぐ追いつかれてしまうだろう。
そんなこと、許すわけにはいかない。
腰に提げていたナイフの柄を握りしめ、鞘から引き抜く。
そのまま逆刃の方に片手を添え、自身の首に刃を向けた。
「の、ノアさんっ何を……⁉」
ここで、初めてラティさんが悲痛一歩後ずさった
他二人も、声は出さずとも緊張に顔を歪めている。
「……その時は、首を切って自殺する……!」
冷たい刃が首筋を伝う。
相手が死体趣味でもなければ、遺体を抱くなんて事はしないはず。
そんな淡い希望だけで絞り出した、策とも言えない幼稚な考え。
これで、死んでても構わないと言われたら、本当に終わりだ。
最悪、私一人で逃げなければならない。
そんなのはダメだ。二人で一緒に生きて帰る。これ以外の道なんてない。
お願い──……!
「はっ、自殺だぁ? そんなことができるわけ――」
「わかった。ラティくんは返すよ」
「はぁ!?」
私の言葉を聞いて鼻で笑った男の声に被せ、ハルはあっさりと私の提案に頷いた。
顔を赤くしていきりたつ男がハルに詰め寄る。
「てめえ、何勝手なこと言ってやがる!」
「万が一にも、彼女が死んでしまうなんてことは避けたい。あれだけの美貌が消え失せてしまうなんてあってはならないからね。ていうか……」
温度のない瞳が男の心臓を撫でる。
あまりにも無機質で不気味な悪寒に襲われた男は、怖気づいたように一歩後ずさった。
「君はいつからボクにそんな口を聞けるようになったんだい?」
「わ、悪かった。オレが間違ってたよ」
男は冷や汗を浮かべ、ひきつった笑みを浮かべていた。
横たわっていたラティさんの腕を掴み、乱暴に彼女を前に押し出した。
「……っ」
「し、しょうがねえ。あんな女見ちまった後じゃ、どんな上物でも霞んで見える。あれを抱けないと考えたら、こうするしかねえよな」
「ああ、そうだね」
ラティさんは地を這うように男から必死に離れていった。男も、もはや止める気はないようだ。
よろよろと危なげに私の元まで駆け寄ってきたラティさんを、私は思わず両手を拡げて抱きしめた。
びりびりに引き裂かれた服を所々に引っかけただけの、ほぼ全裸に近い彼女の姿を見ると、ふつふつと怒りとも後悔とも着かない複雑な感情が頭をもたげる。
強く、けれど彼女が痛がらないように抱きしめると、抑えていた感情が決壊したのか彼女は声を上げて泣き始めた。
本当に、怖くて、苦しくて、やるせなかっただろう。
幼馴染を目の前で殺されて、こんな辱めを受けた。
私は、どうしようもなく出遅れた。もっと速く来ていれば、状況はもう少し改善していたかもしれない。
でも、遅れたけど、まだ最悪ではない。
現に、彼女の純潔は寸でのところで守られた。
最悪じゃない。それならばまだ、立て直せる。
「ごめんなさい。私だけ逃げて、ごめんなさい……」
「ちっ、ちが、うのぉっ……! わたしが、全部、全部悪くてっ……!」
「うん、うん。怖かったよね。もう大丈夫だよ」
今彼女に必要なのは、慰めなんかじゃない。
本当に傷付いた人に、あなたは悪くないなんて言葉はまったく響かない。
今、彼女に必要なのは、否定しないこと。
けれど、肯定もしない。一緒に悲しむ。
じっと、彼女の泣き言を聞き続けた。
落ち着いてきたのを見計らって、私はいったんラティさんから離れ、纏っていた外套を脱ぐ。
もうこの場では必要がなくなったし、それに、いつまでも裸はかわいそうだ。
外套を頭から被せてやれば、ラティさんの膝上くらいまで体を隠してくれた。
「の、ノアさんっ。今のうちに一緒に逃げようっ。今ならまだ──!」
「ううん。私の事は気にしないでください、こっちでなんとかしてみせますから、行って。早く」
「っ」
彼女の背中をぽんと押してやれば、彼女は悔しそうに唇を噛み、何度もこちらを振り返りながら走り去っていった。
本音を言えば、ラティさんの言った通り二人で逃げたかった。
でも無理だ。
ラティさんを抱きしめている間に、ハルも洞窟から抜け出していたのだ。
あの距離では、仮に意表を突いて駆け出したとしても、すぐに二人とも捕まっていただろう。
だからまず、確実に一人助ける。
そこから私が助かるかどうかは……賭けだ。
「お別れの挨拶はすんだかい?」
「……はい。また会おう、と」
そうかい、と。ハルは何の警戒心もなく、私がこれから何をしようとも問題ないと言うかのように、嗤った。
ハルは私の二の腕を優しく掴むと、丁寧に洞窟の中に引っ張っていった。
「しかし、君は本当に綺麗だ。どんなに腕の良い画家が描いた女神様の絵でも、君には及ばないだろう。その顔なら、常に顔を隠しておくのは賢い選択だったね」
「……」
まるで恋人と世間話をするかのような気楽さで、ハルは語りかけてくる。
この男は、何なのだろうか。
ずっとそうだ。
自らの手でレクスさんを殺した時も、自分の仲間を殺された時も、この殺人鬼は常に余裕の態度を崩さなかった。
だから、いつまでも不安が拭えない。
自分に残された最後の策は、この男に本当に通用するのだろうか。
「それと、そのナイフは預かっておくよ。変なことをされてはたまらないからね……」
「へへっ。おい、さっさとそいつよこせよハル。こちとら一回お預けされてんだ」
「……ああ。もちろん」
気づけば、下半身を露出したままの男が、下卑た笑みを浮かべ私に手を伸ばしていた。
暗い場所にいるおかげで、ソレは形だけでしか見ることができなかったが、限界まで膨張しているということは、何となくわかった。
おもりが腹に沈み込むような吐き気に襲われ、心の中が嫌悪感で満たされる。
「優しくしてくれる、なんて思うんじゃねえ、ぞ!」
「……っ!」
乱暴に地面に押し倒され、麻で作られた肌着は無惨にも引き裂かれた。
その中の下着も纏めて破壊され、あっという間に両胸が外気に晒される。
「──うっ」
覚悟していたとは言え、流石に何も感じないなんて事は無くて。
恥ずかしさやら悲しみやらが、徒党を組んで私に襲いかかってきた。
暴れ出したい衝動を抑え込むため、下唇を噛んで堪える。
ツゥッと血が垂れる。そのくらい強く噛まなければ、耐えられそうにない。
「おおぉ……」
暗い洞窟内だというのに、男には私の裸身がはっきりと見えたようで、感嘆したような声を漏らし。
そのすぐ後に、太股に感じる固い感触が、更に膨張したような気がした。
気持ち悪い、心底そう思う。
「ヒ、ヒヒヒ。もう我慢できねえ!」
「──ッ! い、痛いっ痛い!」
男は目を血走らせ、勢いよく私の肌に噛みついた。
歯を立てて乱暴に性を求めるその姿は、もはや人とは思えなかった。
当然、痛い。このまま噛み千切られるのではないかと思ってしまうほどだ。
痛みと恐怖が頭の中で渦を巻き、自然と悲鳴が上がる。
「良い声だなぁお前。決めた。今日からお前はオレ専用の奴隷だ」
得意の絶頂といった雰囲気の男は、とうとう私のズボンの奥に手をかけた。
──ここだっ!
満を持して、私は最後の抵抗を──
「いや、その子はボクのだ」
「あ……? がぴゅっ」
──その瞬間、いつの間にか男の背後まで近づいていたハルの剣が、男の首を貫いた。
男に押し倒されていたため、びちゃびちゃと降りかかってくる液体を避ける術を持たない私は、真上からそれを浴びた。
いくらか口に入り、条件反射で飲み込んでしまう。
鉄の味がした。
「が、ごペっ……! ぁ、ァル、でえぇ……⁉」
「すまないね。ボクは約束は守る男なんだけど、流石にこの子は無視出来なくてね」
何かを言おうと藻掻く男に、ハルは申し訳なさそうな声音と表情で詫び、何の躊躇いもなく剣を男の心臓に突き刺した。
ビシャッと、顔の半分くらいに血がかかった。
右目の中に血が入り、視界が赤く染まっていく。
また、死んだ。
また、私の目の前で。
人が。
「ひっ……。い、イヤァ……!」
この瞬間、計画だとか抵抗だとか、そんな思考は頭から綺麗に抜け落ちていた。
今日だけで嫌と言うほど見た。日本では一度も見ることはないであろう人の死に様を、今日だけで四度見た。
だから、口から漏れる悲鳴を抑えることなど、できるはずもなくて。
心を抉るような恐怖に屈して、足元に水たまりが溜まっていく。
「い、いやっ。来ないで……!」
一心不乱に壁際まで後退し、必死に命乞いをする。
いくら威勢良く啖呵を切っても、平和な場所でぬくぬくと育ってきた自分の本質は何も変わっていないのだ。
物語の主人公みたいに強い力を持っているわけではないし、死ぬのが怖くないわけじゃない。
だからこうやって、怯えて命乞いをするしかない。
間接的に見たら助けてくれた、と見えるかもしれないが、実際そうだったとしても、私は目の前の男が恐ろしくて仕方なかった。
どうしてそんな簡単に人を殺せるのか。この男の思想が、行動が、何一つとして理解できない。同じ人間とすら思えない。
……いや、もしかしたら、おかしいのは自分だけなのかもしれない。
レクスさんだって簡単に人を殺した。
私を助けるため、というのはわかるし、非常事態だったのも理解している。
それでも、人の顔半分を斬って殺すなんて、考えられない。
多分この世界の人たちは、私が元いた世界より人を殺すことに躊躇しないのだろう。
そう思うと、なんだか途端にひとりぼっちになった気がして……。
(……最初から、一人だったくせに)
思い上がっていた自分に、笑いがこみ上げてくる気分だった。
「ああ、怖がらせてしまってすまないね。こうでもしないと、君は危うくこの男に犯されるところだったからさ、手荒なまねをしてしまった」
剣を左右に振り、こびりついた血を飛ばすハル。
やはり、その顔に殺人への嫌悪感や罪悪感などは無く、かといって優越感があるようにも見えなかった。
ここまできて紳士的に振る舞っている目の前の男の醜悪さにめまいがする。
「君だって、あんな薄汚い男に好き放題されるより、ボクに触られる方がずっとマシだろう?」
「……っく、ヒッ──」
何かを言おうと喉を震わせるも、あまりの恐怖で声が出ない。
そんな私を見て、ハルは心底心配そうに見える表情で私に歩み寄ってきた。
「ごめんね、何度も人が死ぬところを見て怖くなったんだろう? でももう大丈夫さ。なんたって、これからはボクが君を守るんだからね」
「──な、なに、を」
「……今だから言うけどね、ボクがこういうことをするのは初めてじゃないんだ。もう何回もやっている。なんでこんなことをするのかって? いやあ、面と向かって言うのは恥ずかしいんだけどね、お嫁さん探しってやつさ。ボクの運命の人をこうやってずっと探してきたんだよ。僕は面食いだからね、ちょっと顔が整っている程度じゃ満足出来なかったんだが、君は別格だ。君はこの世で一番の美姫だ。一目見ただけで確信した、この子がボクの運命の人なんだってね……。それから──」
未だ何か言葉を続けているらしい男の声は、もはや私の耳には入らなかった。
数十分前まで、私は自分のいる場所が地獄だと、何度も思った。
予想外のことが起こる度、非道なことが行われる度、何度も地獄の底が深くなっていった。
でも、今気がついた。
地獄に、底なんて無い。私はずっと堕ち続けている。
そんな、絶望を具現化したような男を前に、私はただ打ち震えることしか出来ず、生暖かくてぐしょぐしょになった下着を更に濡らしてしまった。
「ああ、怖がらせてすまない。……おかしいな、ボクにはそんな趣味はないはずなんだが、今の君を見ていると……もっと、壊してあげたくなる」
耳元で囁かれ、押し倒される。
私程度の力じゃ、碌な抵抗も出来ないことを察しているのか、手首を握って拘束したりは
しておらず、私はいくらでも手を動かせた。
それなのに、私は抵抗らしい抵抗はせずに、未だにぶるぶると震えていた。
「じゃあ、最初は──」
ハルが私の下腹部に手を伸ばし――服の中に隠していたもう一本のナイフを取り上げた。
「……ッ」
「カイくんが持っていたナイフだね。これは預かっておくよ。刺されでもしたら危ないからね」
これ見よがしにナイフを振るい、遠くに放り投げられる。
それを見て、私は正気に戻った。
ハルはもう私に手はないと思って油断している。
そう油断するように、仕向けたのだ。
「やめ、て、くださぃ……」
「ふふ、安心してくれ。なるべく痛くならないように──」
私の懇願に気分を良くしたハルは体に触れようと手を伸ばしてくる。
顔がどんどん近づいてきていて、もはや視界には私の胸部しか映っていないだろう。
私はそれを見て、袖の中に隠していたあるものを取り出した。
手のひらサイズの薄い長方形の板──スマートフォンである。
ハルが気づかないうちに私は開いていた画面のボタンをタップし、それをハルの眼前に突き付けた。
眩い光が、洞窟を照らす。
「ぐ……っ、がっ……⁉」
私がしたことはシンプルで、ただ単にスマホのライトを点けただけだ。
しかしライトを至近距離で受けたハルは目を押さえて大きくのけぞった。瞳孔が開いた状態でこの光量を受ければ、その分衝撃も大きいはずだ。
ハルの拘束から素早く抜け出し、私はライトを向けたまま口を開く。
「こ、これであなたは終わりです!」
「ぐ、な、なにを……」
「これは私が作った道具で、この光を直視した人は、水で眼球を洗わなければ五分後に失明します!」
「な──⁉」
私の言葉を聞いたハルは、わかりやすく狼狽した。
今まで飄々としていたハルをこうも手に取るように動揺させていることに、作戦の成功を悟り内心で歓喜の声を上げた。
「そ、そんなはったり、信じるわけが……!」
「信じないならそれでいいです。私を抱きたければ、ど、どうぞ。その代わり、あなたはもう一生愛しの運命の人とやらの顔を見ることはできません」
「ぅ、……くそっ!」
強くはっきりとした口調で詰めれば、ハルは数瞬迷ったような素振りを見せた後、慌てて持参していた水筒を手に取った。
見たこともない未知の物体から光が放たれるのは、彼の警戒心を揺さぶるには充分だったようだ。
そして私は、ハルが迷っている頃には既に行動に移っていた。
ハルから背を向け、必死に洞窟の外を目指したのである。
そう、最後は結局追いかけっこ。
ここまできたら逃げ切ることしか頭にない。
自分の恰好なんて気にしている場合ではない。とにかく早く、一歩でもあの男から遠くへ。
「待て!」
全力で逃げている最中、後ろから大きな怒鳴り声が森中に響いた。
視線だけを向けると、鬼の形相をしたハルが凄まじい速度でこちらに向かってきているのが目に映る。
目を見開く。まさか逃がしてくれるだろうなどと甘い考えは抱いていなかったが、予想していたよりもずっとハルの足が速い。
曲がりなりにもハルは全身に金属製の鎧を纏っているのだ。それに見合う重量も当然あるだろうし、そもそも速く走れないだろうと踏んでいたのだ。
だがしかし、私の予想に反してハルは信じられないような速度で私に追随してくる。人間ではありえない身体能力だった。
距離が少しずつ縮まる。
息苦しさとはまた別の理由で、目尻から涙が零れた。
悔しい。ここまで来て、結局掴まってしまうのか。
私が振り絞った勇気は、何の意味もなかったというのか。
「……そんなの、嫌だ」
歯を食いしばる。
もう弱音は充分吐いた。余計なことは考えなくていい。
今ただ、前へ。
生きるために、ここから逃げ出すのだ──!
地を踏む足が、僅かに軽くなる。
蹴り出す力が増して、滑るように下り坂を駆けていった。
「っ⁉ 速度が増した……魔力による身体強化、じゃない。やはり『天賦』なのか? ……ははっ、君も酷い女だね! その力があるのなら、最初からこんなことにはならなかったんじゃないか⁉」
少し小さくなったハルの声が背中に刺さる。
彼は何を言っているんだろう。天賦も魔力も、私は知らない。そんな力、自分にあるかなんてわからない。
でも、例えあったのなら、確かにこの惨劇を未然に防げたかもしれなくて……。
「違う……!」
もしも、私に戦う力があったのだとして。
それでも、やっぱり、そんなの私のせいじゃない。
「悪いのはあなたたちでしょう⁉ もうこれ以上、私たちに関わらないで──‼」
さらに強い力で大地を蹴る。
風と一体化したような感覚に身を任せ、遮二無二走った。
私の背後、遠くの方で叫び声が聞こえる。しかしそれはただ聞こえるだけで、言葉の内容までは届かなかった。
逃げれる。逃げ切れる。
この調子で、拠点まで逃げ切れば。
おぼろげだったゴールが形を成し始める。
疲れも痛みも忘れ、ひたすらに光が差す方角へと──
「──ぃ」
何か、左肩に当たった気がする。
軽い衝撃は次いで痒みに、そして痛みへと容貌を変容していく。
それに、何かが当たった時、音がした。
今日一日で何度も聞いたそれは、そう。
刃物が、肉を抉る音。
「ぁ」
左肩に目をやる。
解体用ナイフが、私の左肩に深々と突き刺さっていた。