何か、左肩に当たった気がする。
軽い衝撃は次いで痒みに、そして痛みへと容貌を変容していく。
それに、何かが当たった時、音がした。
今日一日で何度も聞いたそれは、そう。
刃物が、肉を抉る音。
「ぁ」
左肩に目をやる。
解体用ナイフが、私の左肩に深々と突き刺さっていた。
(なに、なんでこんなものが痛いいつどうやって刺し痛いたのわから痛いない痛い痛い痛い痛い痛い)
認識した途端、強烈な激痛が私を襲った。
あまりの痛みに悶絶し、恐怖と痛痒を感じたまま私は走る勢いに任せて何度も傾斜を転げ落ちた。
膝をすりむくも、もはやそんなもの気づきもしない。私の頭の中は今、ナイフが突き刺さった肩の痛みに支配されているのだから。
「──っはぁっ! ヒッ、痛いイダイいだイぃいいいいいぃいいいぃ! や、やだっ、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい‼」
止まない激痛と、痛む箇所を抑えても溢れ続ける血に、私は完全に恐慌状態になってしまった。
思えば、私が今まで強気でいられたのも、折れた心が立ち直ったのも、全ては暴力を振るわれていなかったからだ。
ここに来て、痛みという名の明確な悪意を見せつけられ、私は今度こそダメになった。
あまりの激痛で考える力もなくなり、不必要に酸素を求めて呼吸が乱れる。
殺されないように必死に命乞いをして、体が汚れるのも気にせず地面の上を転げ回った。
「いっ嫌っ! 死にたくな、ごめんなさい殺さないでくださいっ。いやっ、いやあああああああああ‼」
言葉にして、気づいた。このままだと死ぬ。
もう全てどうでもいい。言い換えるなら、全てを投げ出してもいいから、この痛みをどうにかして欲しかった。
死なないようにしてくれるなら、この痛みを消してくれるなら、私は喜んでこの体を差し出すだろう。
私をこんなにした張本人であろうと、頭をついて感謝し、感涙に咽び泣く自信がある。
当たり前だ。抱かれるのと死ぬの、どちらか選べと問われたら、誰だって迷うことなく抱かれることを選ぶはずだ。
私だってそうだ。先程まで、あんなに忌避していたというのに、いざ死を突き付けられれば簡単に折れたのだから。
死なないようにしてくれるなら、いくらだって抱いていい。どんな屈辱だって受け入れる。
顔面を涙や鼻水でぐしょぐしょに濡らした私は、呆れるほど惨めだった。
少ししてハルが私に追いつく。
肩で息をしており、彼の腰に提がっていたナイフはなくなっていた。
当然だ、私の肩に刺さっているのだから。
「はあ、はあ。……君が悪いんだよ。ボクから逃げようとするから、手荒なまねをしてしまったじゃないか」
「ヒッ! はぁっはっ、ごめんなさいもう逃げませんだからころ、殺さないでくださいお願いします!」
蹲って痛みに悶えている私に、ハルは咎めるような声音で私を責めた。
その声はまるで死神の一声のように深く心の奥底に沈みこみ、死の恐怖に怯える私は必死に殺さないでと懇願する。
なりふり構わずに命乞いをする私に気分を良くしたのか、ハルは微笑を浮かべ私の頭を撫でた。
「ふふ、わかったなら良いのさ。聞き分けの良い子は大好きだよ」
「ぁ、ありがとう、ございます……!」
割れ物を触るようなハルの手つきに、全身から針が飛び出るような感覚に襲われる。
それをおくびにも出さず、気に障らないように引きつる口角を必死につり上げた。
涙を流しながら嬉しそうに笑えば、悪魔は満足そうに嗤った。
「うんうん、素直な良い子だね。まずはその肩を治してあげるね」
嗤いながら、悪魔は私の肩に刺さったままのナイフを一息に引き抜いた。
「ッッッ──‼」
ナイフが引き抜かれると同時に、中の肉が引っ張られる感覚に発狂しそうになる。
皮肉にもそれ自体が栓になっていたナイフがなくなったことで、間欠泉のように血が溢れだした
「ヒッ──! 血、血がっ、私の血っ……!」
「怖がらなくても大丈夫だよ。ほら、『
傷口に手を翳した男が何事かを呟けば、手のひらが仄かに光り出した。
薄黄緑色に発光した光に照らされた箇所からは、暖かな心地よさを感じられる。
悪魔から発現したとは思えない優しい熱に、心がほぐれていく。
(あたた、かい……)
まるで魔法のような現象を目の当たりにして、こんな状況だというのに私は感動すらしていた。
それが諦めの境地にいる故の感動だと言うことに気付かない。
ぱっくりと開いた傷から溢れ出ていた血はやがて止まり、続いて穴が空いた服を糸で縫うように、裂けた肉は塞がり、なくなった皮が伸びて徐々に傷が塞がっていった。
時間にすれば一分にも満たない出来事であっただろうが、私にとっては永遠に等しいほどの時間が流れたような気さえしてした。
あれだけ痛みを訴えていた肩からは、もう何の痛痒も感じられない。
なのに私は、それを素直に喜ぶことが出来なかった。
傷を治されている間、私はずっと絞首台に上がる罪人のような気分だった。
治療の終わりが近づけば近づくほど、この身に降りかかるであろう結末を否が応でも想像してしまう。心地良い気分とは裏腹に、今すぐこの胸を掻きむしりたくなる衝動に襲われていたのだ。
何故私がこんな目にと、もう数え切れないくらい心中で叫んだ。
叫んで、叫んで、こんな、どうしようもなくなってから、初めて気がついた。
私は、ラティさんを助けたかった。それ自体は嘘偽り無い本心だった。
けど、それと同じくらい、もしくはそれ以上に。
(たすけて、ほしかったんだ)
ああ、私はなんて歪んでいるのだろう。
自分が一番助けを請うていたくせに、そんな自身の本心すら気付かないふりをして、今日会ったばかりの他人を助けるなんて。
違うのだ、こんな世界に来る前は、もっとちゃんとしていた。
誰も損をしないような立ち回りを、ずっとしてきたじゃないか。
だから、誰も不幸にならないように頑張って。
行きついた果てが、こんな誰も知らないところで無残に犯されることだというのか。
(そんなのって、ないよ)
やり直したい。こんなことになるとわかっていたなら、もっと、もっと……。
いったい、何が変えられたというのだ。
「ふふ。じゃあ、今度こそボクの好きなようにさせて貰うよ。ボクの花嫁、ボクだけの運命の人……」
傷を治した報酬とでも言うのか、何の遠慮もなく裸身となった私の体に手を伸ばしてくる。
今度こそ、抵抗する気力も、意志もない。
自分の境遇を強く憎んで、私は来たる絶望から瞼を閉じて逃避した。
……。
しかし、いつまで経っても私の身体に男が触れてくることはなかった。
閉じていた瞼をそっと開けると、そこには変わらず鎧姿のままのハルがいた。
だが、その視線は麓の方へ伸びており、まるで敵を警戒する獣のように思えた。
「──また邪魔が入りそうだね」
すくっと立ち上がったハルは、腰に提げていた剣を慣れた手つきで鞘から抜いた。
この時私は、ハルが何を警戒しているのかまったくわからず、ただ呆然と事の成り行きを見ている事しかできなかった。
漠然と、手を怪我していたというのも嘘だったんだなと、そんなどうでもいいことしか頭に思い浮かばなかった。
「……来たね」
剣を抜いただけで何の構えも取らないハルの声に導かれ、私もようやくハルの視線の先を追い、愕然と目を見開いた。
そこには、麓から駆け足で登ってくる一人の男性が近づいてきていた。
青を基調とした鎧を身に纏い、兜はしておらずその顔つきがはっきりと確認できる。
目も覚めるような美青年であった。金髪に碧眼という、群衆の中に紛れていてもその存在感を消すことは出来ないであろう美貌。長く伸びた髪に不潔感はなく、肩から垂れるように一つ結びにしておりその端正な顔つきも相まって一瞬女性かと勘違いしそうになった。
突如として現れた男性はその顔に怒りの色を滲ませており、その目はハルを捕らえている。
私はその瞬間、助かったと思うと同時に、心の中で激しく警鐘を鳴らしていた。
この男の人は本当に私を助けに来たのか? 本当はハルの仲間なのでは?
状況的に有り得ないことだとすぐわかるはずなのに、私は本気でそんな心配をしていた。
それくらい、私は今日一日で男性という存在に猜疑的になったのだろう。
今はもう、男性というだけで身が竦む。
だが、私の体は無意識に動いていた。
これが正真正銘、最後のチャンスだと心のどこかで察したのだろう。ズキズキと痛む喉を、もう何度目かも知れない大声で酷使する。
「助けてっ……助けてください‼」
泣き叫んだせいで声は枯れて、裏返り、言い終えてすぐに咳き込んでしまった。
それでも、それで、充分すぎたのだろう。駆けてくる男は一層表情を険しくし、抜剣。
「ふっ……!」
「ちぃっ──!」
男が繰り出した剣戟を、ハルは持っていた剣で受け止めた。
その一撃がどれだけの威力を誇っていたのか。鉄同士が激突する金属音と、一瞬舞い散った火花が如実に物語っていた。
恐らく、まともに入っていたら今頃ハルの体は両断されていただろう。
殺し合いが始まったことを悟って、巻き込まれないようにその場から離れようとするも、体がまったく動かないことに気づく。
とっくに限界だったのだろう。安心した瞬間、恐怖と痛みと悲しみが一斉に襲いかかってきた。
ガクガクと震える体を引きずって、どうにかして遠ざけるようと藻掻く。
すると、唐突に後ろから両脇に手を差し込まれ、ズルズルと引きずられ始めた。
「きゃあああ⁉」
「の、ノアさんっ。わたし、ラティです!」
「へ……? あ、ら、ラティ、さん……?」
思わず取り乱してしまった私を、ラティさんが安心させるように視界に入ってきて宥めてくれた。
大きく肩で息をしているが、その外見には先程別れたときと変化がなく、無事だったことにひとまず安堵する。
お互いの無事を喜び合いたがったが、何故戻ってきたのか不思議で仕方なかった。
「なんで、戻ってきたんですか……?」
「逃げてる最中に、あの人を見つけたの。それで、助けてくれないか尋ねたら、快く承諾してくれて……」
ラティさんに引きずられ、安全な場所まで下がった後未だ鍔迫り合いを繰り広げる二人に視線を戻す。
素人の私には、飛び交う剣尖の速さにまったくついて行けず……。
「あれ……?」
見える。二人の太刀筋が、動きが。
ラティさんは見えるのかと思って視線を向けるも、彼女は二人がどんな動きをしているのか見えていないのか、目を白黒させている。
恐らく二人は、常人ではまったく見ることが叶わない速さで戦闘をしているのだろう。
ジッと観察していると、やがて二人の体が淡く発光しているように見えた。
あの光が、先ほどハルが口にしていた魔力による身体強化なのではと悟る。
あれで超人的な動きを可能にしているのかと理解するも、何故私には彼らの動きが追えているのかはわからないまま。
「……あ、さっきの──」
しばらく二人の戦いを眺めているうちに、何故見えているのかわかった気がした。
逃げているときにハルが嘯いた天賦という単語。
もしかしたらそれが影響しているのかもしれないと証拠もないのに思いついた。
これが本当に天賦とやらの恩恵なのか。そもそも天賦とはなにか全く理解できていないが、それでも何もわからないよりはいいとありがたくその能力に頼る。
二人の戦い、というよりハルの攻撃は苛烈だった。
長剣から繰り出される斬撃は、的確に男の急所を狙っている。
男はそれをほとんど回避か、避けられない攻撃にだけ剣を使って流していた。
見た限りでは防戦一方。ハルも反撃してこない男を見て調子を良くしたのか、得意げな笑みを浮かべる。
「ははっ。かっこよく登場したわりには防戦一方じゃないか! そらそら、もっと強くいくよ!」
ハルの言葉通り、斬撃の威力は目に見えて増し、受け止めた剣の重さに男は若干眉根を寄せた。
打ち合いにより生じた風圧がこちらまで届き、身が震える。
今更だが、元の世界では到底考えられない光景だ。
こんなにも非現実的な事が起こっているのに、体の節々から訴えてくる痛みがこれは現実だと教えてくる。
ハルは嗤い続ける。
まさに得意の絶頂といった風で、攻撃の手を休めることはない。
このままでは、彼がやられてしまう。
「わ、私達も何か出来ることは……!」
いてもたってもいられず、何か手はないかと辺りを見回すと、私の肩を掴んだまま呆然としていたラティさんが「あ……」と声を漏らした。
何かと思い二人の戦いに視線を戻す。
そこには──
「──終わりだ」
「……………………は?」
──両手首から先を無くしたハルの姿があった。
「──あああああああああ⁉ なんっなんっだこれえええええぇええええ‼ お、おおおお前自分が何したかわかってんのかあああああ⁉」
「なんだ、自分は好き勝手やったくせに。殺されなかっただけありがたいと思え」
男はもうハルを脅威だと感じていないのか、剣に付着した血を落とし鞘に収めた。
顔面蒼白になり滝のような汗を流し続けるハルとは対照的に、男は涼しい顔をしてハルを見下している。
悪党とは言え、人の手を切り落とした所行をした後とは思えない立ち振る舞いに身震いを一つ。
無くなった手を抱えるようにして蹲るハルには目もくれず、男はこちらに駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか、お怪我は?」
「だ、大丈夫です。あの、助けてくれて、ありが……」
早口でこちらの安否を確認する男に感謝を述べようとすると、蹲っていたハルがヨロヨロと立ち上がるのが見えた。
「っ。あ、危な──」
「ぉおおおおおおおお‼」
慌てて脅威を口にしようとするも、ハルの絶叫によりかき消された。
ハルは先程と同じく、体中を淡い光に包んだまま、こちらに勢いよく突進してきた。
破れかぶれの行動だというのは一目見てわかったが、まともに喰らったらしばらく立ち上がれそうにない程の勢い。
私の次にそれに気づいたラティさんは悲鳴を上げながらも、動けない私を守るようにして抱きかかえる。
数瞬後に訪れるであろう衝撃に備え、身を固くし。
そして──
──ハルの体は宙を舞っていた。
「──」
頭から地面に落ちたハルは、それからピクリとも動かなくなった。
死んだわけではなさそうだが、両手の怪我も相まってしばらく動けないだろう。
「ふう……」
突進してきたハルの体を掌底だけで吹き飛ばした男は、脱力したように息を吐き、こちらに向き直った。
汗ひとつかかないその姿はまるで、物語の主人公のようで……。
「改めて。お怪我はありませんか?」
平然と調子を尋ねてくる命の恩人に、私はただ頷くことしかできなかった。