「──目立った怪我はなさそうですね」
あの後、ハルを動けないように縛った男性は、私に外傷がないかことを確認し安心したように微笑んだ。
正直、体を見せるということにかなり抵抗感があったが、そんなことを言っていられる状況でも立場でもないので、黙って触診を受けていた。
「ありがとう、ございます……。え、と」
「ああ、私の名前はユーリ。何があったかは彼女からあらかた聞きました。……災難でしたね」
「……あの、こういうことって、よくあることなんですか……?」
男性──ユーリさんは、声音に怒気を含ませながら、私に大きいバスタオルのような物を掛けてくれた。
それに礼を言い、私は気になった事を率直に聞くことにする。
もしもこんなことが日常的に起きているのならば……私はもう開拓者を続けることはできない。
「いえ、そんなことはありません。こういったことは勿論、殺人は国でも組合でもとくに禁止されている条項ですので。……ですが、今回のように誰にもバレないようにこういったことを繰り返す輩は、少なくありません」
「……っ。そう、ですか」
それを聞いて、安堵すれば良いのか落胆すれば良いのか、わからなくなった。
彼の反応を見るに、決して多い事ではなさそうだが、少なくない頻度で行われているのも確からしい。
「被害に遭った女性は、大抵の場合口封じのために殺されるか、奴隷商に売り払われます。この国は奴隷制はないのですが、この森は我が国の所轄領という訳では無いので……」
もし彼が助けてくれなかったら、私は殺されるか、良くて奴隷にされるところだったのだと思うと、改めて心臓を掴まれたような心地に襲われる。
でも、私が引き返したからラティさんが助かったのも事実で、結果的に私も助かった。
きっと、私は正しい選択をした。今はそう思いたい。
私の表情から何を考えているのか察したのか、ラティさんが涙を流しながら私に抱きついてきた。
「ごめんなさいっ……。わたしのせいで、こんな目に……」
「……ううん。ラティさんが無事で、良かった」
「は、ぃっ。うっあぁあ。ひッ、ああぁあああああああ――!」
それからラティさんは、何度も謝り続けた。
私に、カイさんに、レクスさんに。
それから、何度もありがとうと言ってくれた。
助けてくれてありがとう、と。
「──」
それを聞いて、私も嗚咽を堪えきれず、泣いた。
その一言で、私はどうしようもなく救われた感覚になったのだ。
きっと私は、その言葉が欲しかった。謝られるより、ありがとうと言われるのが、助けてくれてありがとうと言われるのを待っていたのだろう。
そうすることで、私はこの世界でも生きていていいのだと。
存在していいのだと言われてるみたいで。
止めどなく溢れる涙は、いつまでも止まらなかった。
○
その後、ユーリさんの指示に従い私たちは早々にカンテラへと戻ることとなった。
カイさんとレクスさんの遺体をどうにかしようと二人で洞窟に行こうとしたところをユーリさんに止められたのだ。
遺体は自分がご家族の下に運ぶから、二人は街へ戻って休んでほしいと。
ラティさんはしばらくの間引き下がらなかったが、最終的に彼女が折れる形で事態は呆気なく終焉を告げることとなった。
事後処理のほとんどをユーリさんが受け持つことになり、拘束されたハルの身柄は憲兵に引き渡され。
日が暮れ始めた頃、私とラティさんはカンテラへと帰還していた。
依頼については契約不履行につき、受注した際に支払った契約金は没収となった。
お金についてはこの際どうでもいい。今は一刻も早く、気が休まる場所に行きたかった。
「じゃあ、わたしはここで」
「はい。……あのラティさん」
「──じゃあね、ノアさん」
帰り道に、二人の間に会話はほとんどなかった。
別れる時、ラティさんの表情は思ったよりも元気そうに見えて。
それが、ただ張り付けただけの薄っぺらい笑顔であることは、私が一番理解していた。
振り返ることなく去っていくラティさんの背中を見送る。
きっと彼女はもう開拓者を続けることはないだろう。これからの人生を、いったいどうやって過ごしていくのか。
もう他人となってしまった私では、わかるはずもない。
重い足取りで、私は独り、当所もなく止まり木を探し求める。
○
夜も更けてきた頃、ふらふらと歩いていた私は目に留まった宿屋の看板に惹かれ誘い込まれるようにして戸を叩いた。
土に汚れ恰好もボロボロ。体から血や尿の臭いを漂わせる私に店主は苦い顔をしていたが、ミッシェルさんからもらった硬貨を数枚渡すと喜んで部屋へと案内してくれた。
どうやら、たまたま入った宿屋はかなり高級なところだったらしい。
部屋は広く綺麗で、洗面所にはトイレだけでなくシャワーまで付いていた。
一刻も早く体の汚れを落としたかった私は乱雑に衣服──というには粗悪にすぎる──を脱ぎ捨て、冷たい水が流れるシャワーを頭から浴びた。
冷水が体に付着した汚れを落としていく。
一日ぶりの洗体に、疲弊しきった心までも洗い流されているような気がした。
壁に掛けられた鏡に一人の少女の姿が映っている。
酷い顔だった。今朝に比べて頬は僅かに痩せこけており、目はまるで厭世を憂うような死んだ目をしている。
生者か死者かと問われれば、迷いなく死者と答えるだろう。涙で泣き腫らした赤い目元が予熱を放ち続けていた。
幸運なことに、体には目立った外傷はない。あれだけの事件の渦中にいたというのに、私が受けた傷は精神的なものだけ。
ナイフで刺された左肩も傷跡は残っていない。ハルが見せたあの奇妙な術のおかげで、唯一受けた暴力もまるでなかったようになっていた。
その暴力をした張本人がハルであるのだから笑えない。
流水の冷たさとは違う理由で体が震える。小刻みに揺れる自分の身体を抱きしめるようにして、私はその場にしゃがみこんだ。
膝の間に顔を埋めて瞼を閉じ、視覚情報を断つ。
シャワーノズルから水が流れる音だけが鮮明に聞こえた。
「なんで……生きてるの……」
自分自身に問う。
何故まだ生きているのか。
運がよかったのだろう。たまたま計画が上手くいって、たまたま助けが来てくれて、生き延びることができた。
そう、運が……。
「誰か……助けて……」
ここには私を脅かす存在はいない。
もう、辛い思いをすることはない。
だというのに、折れた心は一向に立ち直ってくれなくて。
滔々と流れるぬるい涙は、冷たい水にたちまち洗い流されていった。
○
『──』
どこかから私を呼ぶ声がする。
遠くてよく聞こえない。それなのにその声は私呼んでいるのだと、不確かなままで確信していた。
辺りは真っ暗で何も見えない。目の前に掲げた自分の手すら視界には映らなかった。
瞼を閉じているからか、あるいは一片も光を通さない暗闇だからなのか。
身動きが取れない私は、粛々と声が近づいてくるのを待った。
死刑が執行される罪人のような面持ちで待ち続ける。やがて、すぐそこまで迫った声が、私にしがみつく。
『助けてくれ、ノア』『死にたくない』『どうして逃げたんだ』『なんで助けてくれなかったんだ』『憎い』『憎い』『許さない』『痛い』『痛いよ』『助けて』『助けて』
『誰か助けて』
見えざる手が私の肌に爪を立てる。
血の涙を流す少年が、首のない青年が、死にたくないと私に追いすがる。
一様に、私のせいだと責め立てた。
その通りです。
私が悪い。
私が、もっと賢ければ。
私がもっと、もっと。
……いったい、どんな私だったら彼らを助けられたのだろう。
怨嗟を吐く怨霊は耳元で呪詛を唱え続け、気づかぬうちに増えていた亡霊が私に覆いかぶさっていた。
『お前は俺の奴隷だ』『この先一生、俺の玩具として可愛がってやる』『毎日毎日、泣い
て喜ぶまでいたぶってやるからな』
貫通した首から血を流し続ける男は欲情した顔で私の肌に執拗に噛みついた。
気持ち悪い。
腹の底がぐるぐると渦巻いて、体が強い拒否反応を示していた。
違う。私は奴隷なんかじゃない。
それにあなたはもう死んでいる。もう私に触れることすら叶わないはずだ。
それなのに、雑に体をまさぐる手の感触はまるで本物で、次第に反論の語気は弱まっていった。
死んだはずの彼らがここにいるということは、ここは死者の世界なのだろうか。
つまり、私はやはりあの時死んでいて、今まで助かったなどという都合のいい夢を見ていたわけだ。
いや、むしろ死は私にとって救いだ。
なにせここには、あの悪魔がいない。
およそ人とは思えない思想を持った、あの恐ろしい男は、どこにも……。
誰かの影が私を覆う。
少年も青年も、男もいない。
なら、この影はいったい誰なのだろう。
彼ら以外のいったい誰が、死人である私に触れるのか──
『遅くなってすまないね。ボクの花嫁よ』
総毛立った。
何故この男がここにいる。この男はまだ死んでいないはずだ。なのに何故、ここに。
新鮮な恐怖が蘇る。
いや、蘇ってなどいない。ずっと、頭にこびりついていたのだ。それを、認識しようとしなかっただけで。
絶望は常に、私を取り巻いていた。
恍惚と笑顔を浮かべる悪魔の身体が迫る。
声なき絶叫を嬌声と解釈したのか、歪に口元をひずませた悪魔は。
腐り落ちて黒ずんだ私の肉体に、何度も白色を塗りたくった。
○
「──ッ、はぁ! はっ、はっ、はっ!」
柔らかい寝台から跳ね起きた。
全身は汗で濡れて、荒げた息は無為に酸素を求めて暴れている。
握りしめたシーツの上に、顎を伝って落ちた汗が染みる。次いで、流れた汗以上に溢れる涙が止めどなく落ちていった。
周りを見渡して、ここが昨夜自分が泊まった宿屋だということに気づいた。
私に纏わりついていた亡霊はいない。幻聴も聴こえず、聴覚に引っかかったのは朝を告げる鳥のさえずり。
少しずつ落ち着きを取り戻していく息を整えて、うるさいくらいに脈打つ心臓を抑え息をつこうとし。
よせばいいのに、思い出してしまう。
今私が手を置いている場所は、私を襲った男が噛みついた場所で。
忘れていた夢の内容が、津波のように脳内に広がり平静を押し流していった。
胃液がせり上がる。我慢することもできそうになく、狭まっている視界のままトイレに駆け込んだ。
計り知れないストレスに苛め抜かれた身体は、時間にして一日も過ぎないうちにすっかり衰弱したらしい。
嘔吐や下痢を何度も繰り返し、重い気分とは裏腹に軽くなった気がする体を引きずり再びベッドへ飛び込んだ。
虚ろとした瞳で天井を眺める。
もはや心に抱く感情などない。何かを深く考えることもせず、ぼーっとして時間が過ぎるのをただ待った。
自問も自答もしない。自分を追い詰めることも奮起することも、何もできない。
死ぬのは怖い。でも、このまま消えてしまいたい。
揺れるランタンの灯火。
その奥に置いてきた友人や家族の顔が見えて、静かに涙が零れた。
異世界に降り立ち、三日が過ぎた。
私はもう、立ち上がれない。