窓の外を覗けばうんざりするくらいの晴天が広がっていて、太陽の眩しさに目を細めた私は開けたばかりのカーテンを静かに閉めた。
工業区カンテラの少しばかり値が張る宿屋に、もう一か月弱も宿泊している客がいるのだという。
夜更けに汚らしい恰好で訪問してきたかと思えば、金はしっかりと持っていて。宿泊した期間、それが宿泊料を支払い忘れることはなかった。
ここを拠点にしたのか。しかし、それが外出することは滅多にない。店主でさえその客の顔を見たことがなかった。
当然だろう。もう一か月近くもの間、外界との繋がりを極端に断っていたのだ。それも顔を見られることを恐れひた隠しにしているため、あれ以降素顔を晒したことはない。
今日もまた、死んだように生きるのだろう。
少しの水と食料だけを取って、後は眠りにつくだけの生活。
いや、眠りにつこうと藻掻いているのが正しいかもしれない。
あの悪夢を見た日から、私は碌に眠れなくなってしまったのだ。
瞼を閉じれば悪魔が嗤っている姿を幻視して、耳を塞げば脳内で悪魔の笑い声が響く。
眠りにつくことができたとしても、また夢の中で悪魔に襲われるのではと恐怖に怯える心が私に長時間の睡眠を許さない。
そうなるともうどうしようもない。頭からシーツを被り、ここにはいない悪魔に命乞いをして打ち震えるしかなかった。
そんな廃人のような生活をもう一か月弱も続けて。
未だに、心は治らない。
「……もう、お金がない」
ある日の朝、財布の中を確認した私は使いきれないほどあったはずの硬貨が底を尽きかけていたことに気が付き、唸るようにぼやいた。
衣食住のうち衣食の部分にはほとんどお金を割いていない。居心地がいいからとこの宿屋に長居してしまったが、その利便性が裏目に出てしまった。
まだ金銭に余裕はあるが、このまま何もしなければ一週間と経たずに所持金はゼロになってしまうだろう。
そうなれば今度こそおしまいだ。ただでさえ質のいいベッドでも眠ることができていないのだから、野宿でもしてみようものなら不安感に押しつぶされ狂乱してしまうかもしれない。
働いて、金を稼がなければならない。でも、どうやって。
真っ先に思い浮かんだのは開拓者の仕事。しかし、頭に開拓者の三文字を浮かべるだけで言い知れない恐怖を感じ、すぐさま頭を振った。
無理だ。あんな経験をして、どうしてまだ開拓者を続けようという気になれる?
もっと他にあるはずだ。例えば、ミッシェルさんの店で働かせてもらうとか、探そうと思えばいくらでも……。
「……」
途中で思考することをやめた私は、すっかり私の匂いが染み付いてしまったベッドに向かった。
しかし、いつものように体を投げ出すことはせず、乱れたシーツを整え綺麗な状態に整える。それから他に汚れているところがないかを確認し、最初にこの部屋を訪れた時と同じ見た目になったのを眺めて、私は部屋を後にした。
日中で客が来ないため暇そうに本を読んでいた店主に、迷惑をかけた謝礼金として多めに硬貨を払う。
まさか私が出てくるとは思っていなかったらしい店主は目を丸くして、静かに去っていく私を呆然と見送った。
外に出た私を迎えたのは活気的な街の喧騒と、頭上で燦々と照りつける太陽。
私がいなくても回り続ける世界に、理不尽な嫉妬を覚えて。
どこへ行こうというでもなく、そっと陰に紛れるように光から逃げた。
○
街を歩く。
工業区という名の通り、生産が盛んらしい。観察しているとわかるが、少し歩けば鍛冶屋などが数多く開いていた。店によって置いているものの特色が違っていて、遠目から眺めているだけでも案外飽きが来ない。
鍛冶屋には開拓者が多く集まっており、新しい相棒を見つけようと目が輝いている。
そんな彼らを見て、少しだけいいなと思ってしまう。
何かが違えば、今もああやって仲間と一緒に笑い合っていたんだろうか。
楽しそうに笑う人たちの笑顔。あまりにも眩しすぎる光景に目を焼かれた私は、足早にその場を去った。
あの場から少しでも離れようと夢中で足を運び、我に返って顔を上げると、私はいつの間にか路地裏へと入っていたと気が付く。
空の明るい色は見えるが、直接日は当たっていないため薄暗い。
足元をネズミが走っていき、大袈裟に肩を揺らして驚いた。
どうしてこんなところに来てしまったのだろうか。
街の活気とは似ても似つかない静かな空間。雰囲気は嫌いではないが、何が起こるかわからないためさっさと出てしまおうと元来た道へと振り返る。
すると、路地裏の奥から女性の声が響いた。それも、助けを求めるような悲鳴。
戻ろうとしていたが悲鳴を聞いてしまっては居ても立っても居られず、声のした方向へ足を速めた。
ふと、私はこんなに足が速かっただろうかと首を傾げる。
今は軽く走っているつもりなのに、それでも日本にいた頃の全力疾走とそう大差がない。
それにハルから逃げている最中も、それどころじゃなくて気づくことができなかったが尋常じゃないスピードが出ていた気がする。
やはり天賦とやらに関係しているのかと、走りながら思想に耽っていた。
角を曲がると少し開けた場所に出る。廃材や木箱がたくさん並べられており、身を隠すにはうってつけだった。
声がした場所はもっと奥かと止めていた足を動かそうとしたその時、曲がり角から出てきた人影と接触事故を起こしかけた。
「きゃっ」
「うわっと! えっと、あいつらの仲間、じゃない?」
「め、メイリア、大丈夫?」
直前で人影が止まってくれたおかげでなんとかぶつからずに済んだ。
曲がり角から出てきたのは少女二人で、どちらもローブのような変わった服を着ている。
赤い髪のメイリアと呼ばれた少女は神官風のファンタジーなローブを纏っており、手には錫杖に似た形の杖を握っていた。
もう一人の子は金髪碧眼の小柄な少女で、こちらは見るからに魔法使いだとわかる服装をしている。
「あの、私悲鳴が聞こえてここまで来たんですけど……」
「あ、ホントに? ごめん、それアタシたちだ! 今ちょっとヤバい奴らに追われててさー」
「め、メイリアっ。そんなことより早く逃げないと……!」
参った参ったと後頭部を掻いて朗らかに笑うメイリアさんとは対照的に、金髪の少女はおどおどしていてしきりに後ろを気にしていた。
追われていると、メイリアさんは言った。
いったいどういう背景があってそんなことになっているのかわからないが、彼女らは何者かからの魔の手から逃げているようだった。
トラウマがフラッシュバックする。
あの時の自分と二人を重ねてしまい、喉の奥がきゅうっと締まった。
「っ。こっちに!」
「わわわっ、なになに⁉」
「へ、ひゃぁ⁉」
二人の手を無理やり引いて壁際に座らせ、その上から大きな空の木箱を裏返しにして二人に被せた。
唐突に手を取られた二人は最初驚いて抵抗していたが、私の意図を組んでくれたのか今は静かに木箱の中に隠れてくれている。
私は雑に積まれた廃材の中に飛び込み、不自然にならないように外套を用いて身を隠した。たまたま廃材の上に外套と似た色の布が被さっていたおかげで上手くカモフラージュできている。
一瞬の静寂。それからすぐに、二人が出てきた道から何人もの足音が耳に届いた。
「くっそ、あいつらどこ行きやがった!」
「ガキ二人、それも術士だ。そう遠くには逃げられねえはずだ。急いで追うぞ!」
苛立ちを隠そうともしない怒声がいくつも過ぎ去っていき、やがて声と共に足音は遠ざかっていった。
そっと警戒しながら辺りを確認する。
周りには誰もいない。他に後続が続いているわけでもなさそうだった。
安全だと確信した私は廃材の山から降り、木箱をそっと持ち上げた。
「もう大丈夫ですよ。行ったみたいです」
「本当に……? 私たち、助かったんですか……?」
身を寄せ合って縮こまっていた二人に声をかける。
金髪の少女はよほど怖かったのか、涙目になって震えていた。
「いやー助かったよ、ありがとね! アタシの名前はメイリア! 法術師だよ!」
「あの……助けてくれて、ありがとうございます……。私はマーガレット、魔術師です……」
追われている身だというのに元気いっぱいに名乗るメイリアさんと、人見知りがちなのか語尾が小さくなりながらもしっかりと名前を教えてくれたマーガレットさん。
二人が名乗った法術師や魔術師には聞き覚えがなかったが、単語からどんなことができるのかの想像はついた。
「私は乃愛。えっと、一応開拓者、です。それで、お二人は何故追われていたのですか?」
自分の名前を教え、職業を言うかどうか逡巡した末に結局素直に答えた。
あまり立ち話をしていられる状況でもないだろうが、どうしても気になってしまう。
大柄な男性が何人も追ってくるだなんて異常事態だ。何か厄介なことが起こっているとしか思えない。
丁寧な口調で話しかける私に「敬語じゃなくていいよー」と笑うメイリアさんはムッと眉を八の字にして唸った。
「あー。実はアタシたち、ちょっと身分が特殊でさ。それを狙う輩に追われてるんだよね」
「身代金目的か、別の理由があるかはわかりませんが……ともかく、私たちを捕まえようとしているのは本当です……」
特殊な身分と答えた二人の外見を今一度観察する。
確かに服装はこの世界で見てきた人たちの中で一、二を争うくらいに清潔で綺麗だ。それに顔立ちもとても整っており、別世界の人間である私から見ても息を呑むほどに美しい容姿をしている。
見る者が見ればすぐに身分が高い者だとわかるだろう。二人の立ち振る舞いからもそのことがよくわかった。
「ところで、どうしてノアはアタシたちを助けてくれたの?」
「め、メイリア、助けてくれたのにそんな言い方……!」
「あ、あはは。なんというか、悲鳴を聞いたらいてもたってもいられなくなって、気づいたら走ってて……」
あれだけ苦しい目に遭ったというのに、誰かが困っているところを見るとどうしても放っておけない。
そんな難儀な性格に我ながら苦笑する。
本当に、助けに走った時はトラウマのことなど綺麗さっぱり忘れていたのだ。
このお人好しな癖は、もう治らないのだろうなとなんとなく悟った。
「そっかぁ。助けてくれて本当にありがとね。でも、ノアを巻き込むことはできないから、ノアは今のうちに離れて……」
「見つけたぞ!」
遠くから静寂を裂く怒声が響いた。
慌てて視線を向けると、数人の男たちがこちらを指差して迫ってきていた。
走ってくる男たちの顔は必死で、むしろ彼らの方が何かに追われているのではないかと疑いたくなってしまう。
あまりの気迫に怯むメイリアさんとマーガレットさんは出遅れてまだ行動できていない。
悪意を向けられたわけではない私はいち早く復帰し、二人の手を掴んで路地裏の道へと駆け込んだ。
「の、ノアっ。アタシたちのことはいい……いやなんか、めっちゃ足速くない⁉」
「はぁ、はぁっ。は、速いぃ」
私に引っ張られる形で走る二人の声が後ろから聞こえるが、あいにくこちらにも余裕がない。
一刻も早くこの場から逃げなければならないし、メイリアさんの見捨てるなんて選択肢はもってのほかだった。
曲がり角を見つける度に突入し、どんどん追手から逃れる。
やがて先ほどとは違う開けた場所に出て、一旦そこで二人の手を離した。
肩で息をする二人に、無理をさせてしまったと申し訳なさが募る。
「だ、大丈夫、ですか?」
「ぜえっぜえっ。だ、だいじょぶっ」
「はぁはぁ。な、なんとか」
息も絶え絶えといった様子だが、まだ動くことができると教えてくれた。
ホッと息をつき、次に逃げるべき道を探す。
路地裏は思っていたよりも複雑な作りをしていた。正直、あれだけ走っても通りに出ないとは思わなかった。
だが、次こそ通りに出られる。先ほどの逃走劇で通った道は覚えた。あとは何とか追手を振り切って逃げきらなければ。
「ノアさんは、どうしてここまで優しくしてくれるんですか……?」
これからの行動を考えていると、先に息を整えたマーガレットさんが地べたに座ったまま私に問いかけた。
目を合わせる。表情を窺わなくとも、彼女の瞳は私に「何故?」と聞いているのがわかった。
膝を曲げてマーガレットさんと同じ視線の高さにしゃがむ。
大層な理由なんてない。こんなことを言っても、彼女を困らせてしまうだけかもしれない。
それでも、私が人を助ける理由は、ずっと一つだけだった。
「……私が、助けたいと思ったから。ただの、エゴです」
私の理由にならない答えを聞いて、マーガレットさんの目が僅かに見開かれる。
性分なのだ。誰かを助けたい、という思いはずっと子供の頃からあって。
それが、例えさっき知り合ったばかりの仲でも、関係なかった。
後ろで話を聞いていたメイリアさんは嬉しそうに微笑んでいる。
もう、目の前で困っている人を救えないなんて経験はしたくない。
私はこの二人を、なんとしても助けようと自分自身に誓ったのだ。
「早く行こう? もうすぐ大通りに出るから、後は――」
「ダメじゃないか、人質が逃げたら。君たちの居場所はここではないよ、可愛い少女たち」
声が、響いた。
また見つかってしまったと各々が持っている杖を構えるメイリアさんとマーガレットさん。
私はそんな二人に反して、視線を向けることすらしなかった。
この人当たりがよさそうな声、聞いたことがある。
もう一か月も前の事なのに、私はその声を少しも忘れていなかった。
いや、それは誤りだ。一か月も前なんて嘘だ、私はあの声を毎晩聞いている。
心臓が悪魔に怯え、窮屈な体から逃げ出そうと暴れている。
発汗が止まない。呼吸が浅く速くなり、視界がグラグラと揺れ始めた。
(嘘だ、嘘だ、嘘だ……!)
神に願う。
どうか、私の思い違いであってほしい。他人の空似であってほしいと。
固まっていた顔を上げる。
男が、私に気が付いた。
張り付けた笑顔。若苗色の瞳。
忘れるはずもない。
「ハ、ル……」
「──ノアくんじゃないか! まさかこんなところで再会できるなんて……! やはり、ボクたちの出会いは神に定められた運命なんだね!」