夢を見ている。
一寸先も見えない暗闇の中で、顔の崩れた男が少女に覆いかぶさり、お前も汚れろと言わんばかりにドロドロの体を押し付けていた。
『逃がさない。絶対に。君はボクのものだ。ボクだけのものだ。許さない。ボクを拒むな。ボクを。ボクを。ボクを』
男の身体は溶けたキャンディ飴のように崩壊しており、もはや人としての形を成していない。
目も溶け感覚も喪失した男は、自身の腕の中でしなだれているであろう少女をただ犯し続ける。
そこには、もう誰もいないのに。
醜く蠢動する人ならざるものを見下ろし、私は心の底に沈んでいた言葉を投げかけた。
「もう、私はあなたの夢を見ない。もう、あなたに穢されることはない。……もう、あなたに何も奪わせない」
この一ヵ月もの間、眠りにつけばこの男に犯される悪夢を見た。叫び声をあげながら飛び起き、自分の身体がまだ清いことに安堵し、夢の中で汚されることに死んでしまいたくなるほど絶望して。
だが、そんな毎日はもう終わりだ。
私は自分の手で、自分自身の力で悪夢に蹴りをつけた。
この悪魔のような男と、決別することができた。
「今後二度と、あなたのような人間がこの世に産まれてこないことを、願ってます」
別れの言葉というにはあまりに冷たい文句を吐き捨て、そうして男だったものは完全に溶けて消えた。
夢の中にはもう誰もいない。私一人……。
【──】
「……あなたも、いたんだ」
振り向くとあの外套の少女が立っていた。
俯いているため表情は計り知れない。けれどどこか、安心しているように見えた。
「あなたにこんなことを言うのは、変なんだけどね」
夢の中にだけ現れる少女。
これが本人なのか、そもそも本物なんていなくて、全部私が作り上げた幻覚なのかもしれないけど。
私は少女に向かい、少しだけ頭を下げた。
「……ありがとう。あなたのくれた力のおかげで、自分を、誰かを守れた。悪夢に、打ち勝てたよ」
私が苦しむことになった元凶と言えば、そうなのかもしれない。
だが、彼女が与えてくれた力が私を助けてくれたことも確かで。身近な人を、これから先同じような被害に遭ったかもしれない人たちを救えたのも事実だ。
だからそのことに対して、私は感謝を述べたのだ。
【──】
少女は何も言わない。時を同じくして、真っ暗だった夢が泡のように割れて消えていく。
意識が現実に覚める、その刹那。顔を上げた少女の泣き笑いのような笑顔が、私の瞳に焼き付いた。
○
あの後、建物の一部が倒壊した音を聞きつけた衛兵たちが駆けつけてきて私たちは保護された。
詳しく事情説明を聞かれ、一連の騒動の首謀者であるハルとその取り巻きたちは今度こそ牢屋へと連れていかれた。
その際にハルの天賦のことはしっかりと話してあるので、また同じような失敗は繰り返されないだろう。
……ハルは生きていた。
コンクリートの壁が粉々になるほどの威力を持った突進を喰らったというのに、何とか一命を取り留めていたのだ。
あの男の頑丈さに心底震えたが、殺してなくてよかったとも安堵する。
一時は殺してやりたいと思うほど憎んでいたが、いざ落ち着いてみるとそんな恐ろしい考えを一瞬でも抱いていた自分が怖くなった。
人殺しになりたくない、という思いも当然あるが、それと同じもしくはそれ以上に、あの男の命の責任なんて負いたくなかったのだ。
だから、これでよかったと思う。
それに、聞いた話によるとハルの死刑はほぼ確定なのだという。過去に犯してきた罪を自白剤で吐かされた彼の所業は、身の毛もよだつほどに悍ましいものであったらしい。
そして今回の一件。貴族の娘二人を誘拐しようとし、あまつさえその兄を殺害しようとしていたことが発覚したことで、ハルの処刑は決まったのだった。
死刑を言い渡されたハルはみっともなく暴れ回ったらしい。目の前にいる衛兵を貶し、ユーリさんに恨み言を吐き、そして衛兵に殴られて気を失うまで病的に私の名前を呼び続けた。被害者として衛兵にその顛末を聞かされた私は、どんな感情を抱けばいいのかわからず曖昧に頷くことしかできなかった。
ハルの死刑に立ち会うこともできるそうだが、とてもそんな気にはなれない。
あんな人は誰も預かり知らぬところでひっそりと死んでいるのがお似合いだと、心からそう思う。
こうして、ハルという悪魔のような男にまつわる事件は、斬首刑によって幕を閉じた。
○
「……そうなんだ。あいつは、死んだんだね」
「はい。もう、あの男はこの世にいません。……私が、殺したも同然です」
ハルが処刑された翌日、少しだけ軽くなった足取りで私はラティさんの実家へと向かった。
最初に出迎えてくれたのは彼女の母親で、事情を説明すると朗らかに案内してくれた。
娘の幼馴染が二人も殺され、そしてその娘自身も失う所だったのだ。彼女も憔悴しているように見えたが、私のことは話に聞いていたのだろう。目尻に涙を浮かべながらもラティさんがいる部屋に連れていってくれたのだ。
一か月ぶりに再開したラティさんの容貌は、酷いものだった。
髪はぼさぼさで頬は痩せこけており、眠れていないのか隈が酷く焦点が合っていない。事象を繰り返しているのだろう、手首や胸には以前までなかった包帯や生傷が痛ましくできていた。
以前とは別人までに変わったラティさんを見て、そして久しぶりに再会した私を見て、互いに涙を流してしばし抱き合った。
落ち着いた後、彼女が理解できるようにゆっくりと事の顛末を話し、そしてラティさんはまた静かに涙を流した。
「ごめんね、ノアさん……。ノアさんも辛かったのに、わたし、なにもできなくて……」
「そんな、そんなことっ」
「……わたし、開拓者やめる。お父さんの職業を継いで、カイとレクスと、二人のご両親に一生謝り続ける。わたしが、全部悪いんだから」
いくらあなたは悪くないと説得しようとも、ラティさんの意見は変わらなかった。
ラティさんは何も悪くない。しかし、彼女の心は痛いほどわかる。
これはもはや当人の問題であり、第三者がいくら正論を言おうとも変わることはない。
私は乗り越えられた。だが、彼女は乗り越えられなかった。
言葉にすればたったそれだけ。しかしその内情は、簡単には言い表せないほどの悔恨に塗れている。
「でも、安心して。もう、死ぬつもりはないから。これから少しずつ頑張って、また前みたいに戻るから。……その時はまた、会いに来てほしいな」
「……はい、絶対に」
最後にもう一度抱きしめて、その日はラティさんと別れた。
細く頼りなくなった体は裏腹に、生きるという意志に満ちていたように思う。
一生謝り続ける。
まるで罪人のような決意。しかしそれは自ら命を絶つ気はないとも取れて。
それだけでも、私はなんだか嬉しかった。
○
衛兵に教えてもらった、貴族の娘二人について。
それはいったい誰なのか、なんて。
もうわかりきっているだろう。
「おっはよーノア! 奇遇だねえ」
「おはようございます、ノアさん」
「……おはよう、ございます。お二人とも」
組合所で偶然二人と出くわし、気軽い調子でメイリアさんに腕を組まれる。
マーガレットさんも控えめではあるが、肩と肩が触れ合いそうな距離だった。
何故貴族である二人がこんなところを歩いているのか。
そもそもなんで開拓者になんてなっているのか。
ツッコミどころが多すぎて眩暈がしてきた。
「ちょっとー、敬語じゃなくていいって言ったじゃん。アタシらの仲なんだし、遠慮は無用でしょ!」
「はい。そうでなくてもノアさんは恩人ですし、気軽に接していただきたいです」
「そ、そう言われても……」
貴族相手に呼び捨てでタメ口とか命がいくらあっても足りないのでは。
ヘタレて踏ん切りがつかない私の頬を、メイリアさんは両手でむぎゅっと挟んだ。
「ほらー早く言いなさーい。この可愛いお口から名前を呼んでほしいんだけどなー」
「お願いします、ノアさん」
「わ、わはっは! わはっははら! ほっへひいらはいで!」
三人の少女の笑い声が響く。
異世界からの来訪者である乃愛の姿は、自然と街に溶け込んでいて。
ようやく、屈託のない年相応の笑顔を浮かべることができた。
これで一章は終了です。
ストックが切れたので、次回更新は先になります。