けたたましい鈴の音に、微睡みの底に沈んでいた意識を無理やり引きずり上げられる。
耳朶を打つ鳴りやまない騒音は、今どき珍しいアナログの目覚まし時計から響いていた。
寝起きで乾いた喉の奥からくぐもった呻き声が漏れる。起きようとする意識とまだ起きまいとする無意識が争った末にこぼした声は半ば悲鳴に近い。
シーツを頭からかぶったまま、手だけを外に出して目覚まし時計を探し求める。温かい布団の中とは非対称的に外界の空気は冷えていて、纏わりついてくるような冷気に鳥肌が立った。
肌寒さに怯えながら朝を告げてくる目覚まし時計を止めると、ようやく喧しかった部屋に静寂が訪れた。
再び静けさを取り戻した安住の地に満足し、出していた手を引っ込めもう一度惰眠を貪ろうと瞼を閉じる。
しかし、安心したのも束の間。
閉じ切った扉の奥から、何者かがわざとらしく足音を立てて階段を上ってくる音を勤勉者の聴覚が拾った。
いったい誰が、なんてわかりきっている。
どうにかして、安眠を妨げようとしている不埒者を撃退する方法を模索するが、抵抗虚しく牙城を守る扉はなんの躊躇もなく開け放たれた。
「乃愛ー起きなさーい。もう朝よー」
「……ぁぃ」
悲しきかな。仇敵である目覚ましを討ち取ったと思えば、奥からさらなる強敵である母が攻め入ってきていたのだ。
などとくだらないことを妄想しながら、リビングに向かう母の後ろ姿を追って階段を下りる。
一階へ下りると食卓にはすでに朝食が用意されており、まだ覚めない寝ぼけまなこのまま席につき両手を合わせた。
もそもそとトーストを齧っていると、対面の席でコーヒーを飲んでいた母が口を開いた。
「今日はやけに眠そうね。夜更かしでもしたの?」
「ううん。してない、けど……変な夢を見たような気がする」
首を振って母の言葉を否定する最中に、昨晩自分が夢を見ていたことを自覚する。
こうして昨夜のことを思い返さなければ気付きもしなかったが、私は確かに夢を見ていたのだ。
それがいったいどんな内容だったのかまでは覚えていない。記憶のフィルムにモヤがかかっており、どうにも思い出すことができない。
楽しい夢だったのか、悲しい夢だったのか。大まかな概要すら覚えていなかった。
その程度の関心ならば大した内容ではなかったのだろう。しかし、意識の明晰を妨げている正体不明の夢に後ろ髪を引かれている自分がいた。
諦め悪く記憶を掘り返そうと唸っていると、コーヒーを飲み終え食器を洗い始めた母が小さく呟いた。
「そんなことより、速く準備しないと遅刻しちゃうわよ~」
「え。あっ、もうこんな時間……!」
反射的に掛け時計を見やると時間は出発時刻に迫っており、普段電車で登校している私は身支度を整えに洗面所へ慌てて駆け込んだ。
目を覚ますために蛇口から流れる水を掬い何度も顔を洗う。肌の奥から引き締まるような冷たさに目頭がしわを作った。
顔を上げれば濡れた自分の顔が鏡に映る。寝覚めが悪かったからか、ただでさえ日焼けすることなく白い肌の血色は悪く、まるで病人のような様相と化していた。
顔面の調子が悪いことに嫌気が差していると、水に濡れないように掻き上げていた前髪が垂れ下がってきた。
墨を纏った白筆のように艶めく黒髪は肩甲骨の下辺りまで伸びており、翻すたびに窓から漏れる陽光を跳ね返し白く濁ることを嫌っている。
寝ぐせ一つないまっすぐに流れる髪を降ろしている鏡面の私と目が合う。
いつもと変わらない姿。それなのに私は、身動きすることも忘れ呆然と鏡の前に突っ立っていた。
頭の中で何かが騒ぐ。小さく空いた針の孔から、名前のない感情が波濤のごとく勢いで溢れだした。
『──!』
「──っ」
視界と脳内が真っ白に塗りつぶされる。
無意識から生じた白濁の津波によって、思考する力は根こそぎ奪い去られてしまった。
平衡感覚を失った体は呆気なく頽れてしまうも、咄嗟に突き出した腕が洗面台の縁を捉えたおかげで床に崩れ落ちることを防いだ。
冷や汗が体を伝い、耳鳴りに苛まれる。
あまりにも突然な体の不調に耐え切れず、結局膝をついてしまい必死になって酸素を求めた。
「はっ、はっ……! はぁっ……」
助けを呼ぶこともできないまま暴れる心臓を抑え続けていると、やがて視界が回復し始める。
戻り出した意識を頼りにゆっくりと体を起こせば、拍子抜けするほど簡単に立ち上がることができた。
息苦しさも眩暈ももう感じない。数秒前まであれだけ苦しんでいたのが嘘のようだ。
「一体なんだったの……」
痛まなくなった頭を振る。こめかみを抑えてみても、痛みが後を引くようなことはなかった。
残ったのは衣服に染みた冷や汗の気持ち悪さのみ。体調は完全に快復している。
少しでも気分が悪ければ学校を欠席する選択肢も取れたのだが、こうも万全になってしまっては休むに休みづらい。
どうしたものかと頭を悩ませ、しばらく何の生産性もない時間を過ごしているうちにキッチンの方から声がかかった。
「乃愛ー! もう家出る時間だけどなにしてんのー?」
「え。あ……!」
反射的に顔を上げると、時計の長針はすでに家を出ている時間帯の数字を指していることに気が付く。
もはや迷う暇もメイクを施す余裕もなく、私は慌ただしく自室へと駆け込みハンガーにきちんとかけられた制服を乱暴に着込んだ。
「行ってきます!」
母の見送りも待たず玄関扉を開け放ち、髪が乱れることも厭わず最寄り駅へ走った。
先ほどまで具合が悪かったというのに、自分でも意外なほどこの体は急な運動にも応えてくれていた。
道中で息を切らすということもなく、曲がり角を超えれば駅は目と鼻の先にあるという手前。
角の向こうから現れた人影に気付き、すんでのところでぶつかることを避けた。
「ご、ごめんなさい!」
激突することはなかったが危うかったことは事実。
フードを被った私よりも背丈が低い相手に咄嗟に頭を下げ、彼ないしは彼女からの反応が返ってくる前に再び駅へと駆け出した。
本当に申し訳ないが、あいにくなことにもう電車が出る一分前となってしまっている。
一秒たりとも無駄にはできないため、罪悪感を覚えながら心の中で何度も謝罪しながら走った。
逃げるように去っていく私の背に、件の相手は何か声をかけることもせずただ視線を投げかけるのみ。
扉が閉まる寸前のところで電車に乗り込んだ私は肩で大きく息をしながら、窓の外を見やった。
「おはよー木村さん。寝坊でもした?」
「あ、おはよう。うん、ちょっと走ってきて……」
「珍しい~。メイクもしてないし、マジでギリギリだったっぽいね。メイク道具あとで貸してあげようか?」
「ありがとう、借りようかな」
流れていく外の風景を眺めていると先に乗車していた友人に声をかけられ、そのまま普段のように談笑を交わす。
高校生になってまだ日は浅いが、気を許して話せる友達はそれなりにできた。
こんな失敗をしても一緒に笑ってくれる人がいることを幸運に思い、今朝の出来事を忘れるように口の端を上げて語らった。
ようやく通い慣れてきた通学路。
そこにいたフードを被った人影は、まるで最初から存在していなかったかのように姿を消していた。
次回更新は一時間後の21時です。