絶望が、腕を拡げて再会を喜んでいた。
「ノア、あいつ知り合いなの? ……ノア⁉」
横目で私に確認を取ろうとしたメイリアさんはしかし、視界に映った外套の少女の姿に取り乱す。
その場に蹲り過呼吸で涙を流す私はどう見たって普通じゃない。
メイリアさんに背を擦られるも、私は割れるような頭痛と気が狂いそうになる恐怖に正気を失っていた。
「はぁっはぁっ! な、なんで! なんでなんでなんで‼ なんであなたがここにいるのおおお⁉」
「の、ノアさん……?」
「もう嫌ぁっ‼ 許してっもうやめてよお! わた、私はぁっ。うぁあああああああ‼」
頭を掻きむしり、夢なら覚めてくれと懇願するように頭を何度も床に打ち付ける。
額が割れて血が溢れた。まだ夢は覚めない。
「やめて、ノア! 血が出てる!」
「離してっ! もう死ぬ! 死にたいの! お願いだからもう死なせてよお‼」
メイリアさんに抑えられ自傷を止められる。
必死に彼女が呼びかけてくれるも、その声が私に届くことはなかった。
死なせてくれと哀願する私に、メイリアさんもマーガレットさんも絶句していた。
当たり前だろう。先ほどまで正常に振舞っていた人間が、いきなり狂いだしたのだから。
ああ、毎晩見ている夢は悪夢などではなかった。
予知夢だったのだ。結局、私があの悪夢から逃げられないことを予見していたのだ。
そうだとわかっていたなら、もっと早く自殺していたのに。
狂乱して暴れる私を見るハルの視線は優しい。
あの時と、少しも変わっていない。
「ああ、怖がらせてしまったみたいだね、ごめんよ。でもボクは優しいからね。嫌がる妻を無下に扱うことはしないさ」
一人で何か喋っているハルは言動も相まってどう見ても本物だった。
何故ここにいるのか。ユーリさんが憲兵に突き出したところはこの目で確認したのに。
ハルの両手があった場所には、猛禽類の鉤爪を思わせる鋭利な刃が二本付いていた。義手などではない、殺傷を目的とした凶器。
すでにその爪で何人か殺してきたのか、鉄の爪は血と人の油で薄汚れていた。
どう見ても異常者だ。気のせいか以前に比べて目が血走っているように見える。
ハルは鉤爪を器用に操り、自身の足に着けていたホルダーからナイフを引き抜き私の足元へ向かって投げた。
「な、なにをっ」
「ノアくん。もしも君がボクを拒むというのなら、そのナイフを持ってボクに立ち向かってくるといい。ボクに一つでも傷をつけられたら、三人纏めて逃がしてあげるよ」
「そんなこと、させるわけないでしょ!」
メイリアさんが杖を構えて立ち上がる。
後ろで怯えていたマーガレットさんも、彼女と一緒に立ち向かおうと杖を構えた。
しかし。
「まったく……今ボクはノアくんと話しているんだ。『引っ込んでいてくれ』」
冷たい目で二人を一瞥し、下がっているように命令する。
当然そんな要求を聞くわけがないと、メイリアさんが口を開ける。
「「……はい」」
口を突いて出た言葉は、ハルに対する罵倒でも反論でもなかった。
従順な態度で答えたメイリアさんとマーガレットさんは杖を降ろし、私たちから距離を取った。
唐突にハルの言うことを聞き始めた二人の顔に生気はない。
その姿は、あの日のラティさんと酷似していた。
いつの間に追いついていたのか、周囲には二人を追っていた男たちが集まっており、後ろに下がった二人の腕を捕まえる。
ハルは男たちに見張っていろと指示し、ようやく私に視線を戻した。
笑っている。
それはもう、この世の誰よりも幸せだというように。
「待たせたねノアくん。さあ、いつでもかかってきてくれて構わないよ。自殺しようなんて思わないでくれよ。そうしたらもっとひどいお仕置きが待っているからね」
渡されたナイフで死のうと考えていたが、お仕置きという言葉に身が竦んだ。
このナイフで自分の首をついても意味がないと暗に言っているのだろう。早々に出鼻をくじかれた私は小さく悲鳴を漏らした。
ハルが反応するより早く死ねば……だがもし失敗したら、傷を治されて、それから──
自刃を封じられ、また絶望が心を覆った。
人が悪魔に勝てる訳がない。私がハルに傷をつけるなど、どんな奇跡が起こってもありえない。
ナイフを持って恐る恐る立ち上がる。
恐怖で震える私の姿は、まるで生まれたての小鹿のようだった。
「ほら、来なさい。どんな攻撃でも受け止めてあげるよ」
「……っ。ふぅ、ふぅっ。ッアァ!」
ハルに優しく諭され、私は咄嗟にナイフを振るった。
下手くそなナイフ捌きだった。そんなものではハルに届くはずもなく、軽々と弾かれる。
簡単に手からすっぽ抜けたナイフを慌てて拾い上げ、再度ハルに向かってナイフを振り上げた。
今度は突進するようにナイフを腰に構え刃を突き立てるも、やはりそれも失敗に終わってしまう。
ハルは楽しそうに笑っている。
まるで恋人とダンスでも興じているかのような顔で、彼の人間像が全く理解できない私の心は芯から冷えていった。
「そうだ、君にいくつか教えてあげようと思ってたことがあるんだ」
繰り出したナイフの一撃を鉤爪で軽くいなされる。
「君は天賦について何も知らなかったようだからね。教えてあげようと思って。天賦は読んで字の通り、神から授けられた特別な力のことを言うのさ。その力は人によって様々で、一概にこれとは言えないんだけど、実はボクにも天賦があるのさ」
足を引っかけられて膝をすりむいた。
歯を食いしばって立ち上がろうとすると、ハルの顔が目と鼻の先にあって悲鳴を上げて後ずさった。
「ボクの天賦の名前は『誘惑』。目が合った異性を軽い洗脳状態にかけるという能力なんだけどね、これが便利なのさ。これのおかげでラティくんはボクの飛び入り参加を許してくれたしあそこの二人もボクの指示に従ってくれた。それと、ボクを捕まえていた憲兵が女性だったのも運がよかったよ。彼女に手伝ってもらってボクは牢屋から脱獄したのさ。その後の始末も彼女がやってくれて、非常に助かったんだよ」
足に上手く力が入らない。
近づいてくるハルから逃げようと手で地面を押して距離を取ろうとするも、あっという間に壁際まで追い詰められてしまった。
頬を掴まれ、ハルと目が合ってしまう。
「……だけど、どうしてか君にはボクの『誘惑』が効かないのさ。こんなことは初めてだから戸惑ったんだけど、途中から合点がいった。おそらく、君も天賦を授かっている。それも強力なものを」
頬を掴まれたまま地面に放り投げられた。咄嗟に受け身を取ることができず、頭から固い石畳の上に叩きつけられる。
しかし、不思議と痛みは感じなかった。恐怖でおかしくなってしまったのか、アドレナリンが出ているせいなのか。
どちらにせよ痛みに悶えることはないことを幸運だと思い、何度もナイフを突き出した。
「ボクの『誘惑』を跳ね除けてみせ、身体強化をしていないにも関わらずそれと比肩するほどの高い身体能力。まるで『加護』のようだ。君が自覚していないだけで、他にも恩恵があるかもね」
頭の中で、点と点が線で繋がった。
今まで不思議に思っていたのだ。地球とは異なる言語を理解でき、話せることに。
身体強化をしたユーリさんとハルの動きを追える動体視力と、全体的に向上した身体能力。
ハルがパーティーに加わりたいと言ってきた時に急に生じた激しい頭痛。あれはハルの『誘惑』に抵抗した結果なのだろう。
ようやく、長い間答えを出せていなかった疑問が氷解した。
つまり私には、本当に力があったのだ。
それにいつまでも気付かず、こうしてハルに指摘されるまで自分に起きている異変を知りもしなかった。いや、知っていて、深く考えればその力が無くなってしまいそうで気付かないふりをしていた。
もっと早く、異世界に来た時にこの力に気付いていれば。
カイさんやレクスさんを、助けられたかもしれないのに──!
涙が止まらない。
この涙はハルに対する恐怖から流れているものではない。悲しくて仕方がない、悔悟の感情から流れる涙だった。
「それから、どうしてボクが今こんな危険があることをしているかというとね。あの二人……正確に言えばあの金髪の子。あの子に用があるんだ。ほら、マーガレットくんをよく見てみるんだ。どこかで見たとは思わないかい?」
マーガレットさんとメイリアさんは、未だに人形のような無表情で男たちに捕まっている。
言われたとおりにマーガレットさんに視線を向ける。確かにどこか、既視感を感じるような気がした。
「あの金髪碧眼。ボクの手を切り飛ばした男とそっくりだろう? そう、マーガレットくんはあの男の妹なのさ。マーガレットくんを人質に取って、あの男をおびき出す。そして報いを受けさせてやるのさ。ボクの両手を奪った罰をね。その後は彼の前でマーガレットくんを殺してやってもいいし、逆にマーガレットくんに兄が無残に死んでいく様を見せつけるのもいい。ああ、悩むねえ」
「──」
名案だと言うように顎に手を当てて悩むハルを見て、私は確信した。
この男は、屑だ。
掛け値なしの悪人。悪魔などよりもよっぽど質が悪い、この世に生きていてはいけない罪人だ。
この時、私は自分の中に芽生えた新しい感情に戸惑った。
心が激しく燃えるような、腹の底から火山が噴火しそうな、どす黒い激情。
今までの人生で一度も感じたことのない怒りに、頭が追い付かない。
しかし、自分がやるべきことははっきりとわかる。
私は、私が、この男を止めなければならない。
もうこれ以上、この屑の被害者を増やさないために。
私は決して、諦めてはならないのだと、強く心に刻み込んだ。
ナイフを振るう。やはりこれも躱されてしまう。
それでもいい。当たらないなら何度も、何度でも繰り返せばいいのだ。
手に力が籠る。
だんだんと、意識がクリアになっていく。
「メイリアくんは、正直どうでもいいんだけどね。利用するだけ利用したら、あとは奴隷にして売ろうと思ってるんだ。貴重な法術師だしね、きっと高く売れる。そのお金で、君との家を王都に作るっていうのはどうだい。名案だろう?」
「──もう」
「ん?」
首を傾げて聞き返される。
自分の口から出たとは思えないほど低く、冷たい声が出た。
出鱈目なことを、戯言をほざき続ける目の前の悪意に、頭の中で何かが音を立てて弾けた。
そうして私は、この胸に抱く感情の名を、初めて知ることができたのだ。
この感情の名前は……殺意。
生まれてはじめて、私は他人に対し、本気で死んでほしいと願った。
もう、許すことはできない。もう、一秒でも長く生きていてはいけない。
例え、私が、
「──もう、喋らないで」
この手で、人を殺めたとしても。
きっと、後悔しない。
体中が熱い。血液が沸騰し、破裂してしまいそうなほどに煮えたぎっている。
この感覚を言い表すとするならば、とても陳腐な表現になってしまうけれど。
(全身から、力がみなぎる)
抑えきれない衝動のままに、私は全力でナイフを振り下ろした。
「うっ──⁉」
先ほどとは比べ物にならないほど速くなった攻撃に、ハルは咄嗟に鉤爪で自身に迫る鉄刃の一撃を受け止めた。
しかし、決死の覚悟で放たれた剣閃は止まらない。
切れ味を追求するために細く伸ばされた鉤爪は、まるで枝のように容易く折れてしまい、粉々になった破片が宙に舞った。
片方の鉤爪を破壊されたハルは狼狽し、初めて私から距離を取った。嘲りでも侮りでもない、身の危険を感じての後退。
強すぎる衝撃に体幹が崩れている。好機を逃さず、私は空いた間隙を産めるように地を滑った。
「くっ! この、調子に乗るなよ!」
ペースを乱されて余裕をなくしたハルが残った左手の鉤爪を振りかぶる。
ここに来てようやく私を敵と認識したようだ。ずっと浮かべていた気色の悪い笑みは引っ込んでおり、忌々しく整った顔には余裕がない。
命を刈る猛禽の爪が襲い来る。
振り下ろされた刃はまるで鎌鼬のようで、一秒にも満たない時間で私の身体を切り裂くだろう。
しかし、不思議と恐れはなかった。
殺意をもって打ち出された絶死の権化から目を逸らさず。
それ以上の殺意を込めて繰り出したナイフの一撃が、死神の鎌を食い止めた。
激しく火花が散り、暗い路地裏で何度も明滅する。
拮抗する刃と刃。力の差はなく同等の威力でぶつかりあった余波で辺りに一陣の風が吹き抜けた。
鍔迫り合いは一瞬。両者ともに力を弱めることはなく、先に限界が来たのは武器の方だった。
鉤爪とナイフが音を立てて砕ける。
行き場を失ったエネルギーが中心で渦を巻き、不可視の衝撃波として破裂した。
当然近くにいた私とハルは吹き飛ばされ、互いに壁へ叩きつけられた。
「ぐっ! く、くそ!」
背中から壁に叩きつけられて負傷したのか、ハルの顔が苦悶に歪む。
忌々し気に私を睨むハルは、折れて本来の長さの半ばほどとなった鉤爪をもう一度構えた。
武器を壊したと言っても、根元から断ち切ったわけではない。射程が短くなったが、残った刃の部分でも充分に凶器足りえるだろう。
相反する私は、武器など持っていない。弾け飛んだナイフの代わりになるようなものはなく、絶体絶命のピンチだった。
でも、諦めることだけは絶対にしない。
例え素手でも、最後まで抗ってみせる。
こんな理不尽な世界になんか負けない。負けてやらない。
何度心を折られても、何度打ちのめされようとも。
私はその度に、何回だって立ち上がってみせる。
「もう、負けない。負けないから──!」
お願い。
この力が、天からの授かりものだというのなら。
目の前の悪を打倒するための力を、もっと。
私に──
【もしも。貴女が不条理に嘆き、理不尽を赦せないと強く思った時には、この言葉を唱えてください】
いつか見た夢の話。
少しだって思い出すことができなかった夢の中の話が、何故か今になって蘇る。
外套を纏った少女が私に授けたもの。私に残した言葉。
そして、私に向けた泣き顔。
全てを思い出した。
不条理に抗って、理不尽なものに怒ってようやく、あの子の心がわかった気がした。
そうか、あなたは。
私に、生きていて欲しいんだね。
【『 』と──】
「『天使の翼』」
心に浮かんだ言葉を唱えた瞬間、体に変化が生じた。
全身から白い光が溢れ、一際強く輝く肩甲骨から何かが形を成していく。
光の束を編んで大きくなっていくそれは、まるで。
白鳥の翼のようだった。
「な……⁉ なんだそれは⁉」
背から翼を生やし全身からエネルギーを放出している私に、ハルは悲鳴まがいの絶叫を上げた。
「そんなもの、魔術にも祈祷にも存在しない……! まさか、天賦? あれも『加護』の力……? いや違う、そんな関連性のない力などありえない。まさか、天賦を二つ授かっているというのか⁉」
腰が抜けているのか、尻もちをついて私から目を離せないまま遠ざかっていく。
しかし、後ろは壁だ。いくら下がっても、ハルがそれ以上私から逃げることは叶わなかった。
自分の身に何が起きているのか、まだちゃんと把握できていない。
だが、立ち昇るように溢れる力が、私にやるべきことを教えてくれていた。
ふわりと、地面から足が浮く。
宙に浮いた私を化物か何かだと思っているのか、ハルは唾を吐いて喚き散らした。
「や、やめろっ、来るなぁ‼」
あまりにも身勝手な、その懇願に。
私は光の翼を羽ばたかせ、空気を強く蹴った。
「──地獄で反省してください」
光の羽が宙に取り残される。
音速に肉薄する速度で空を翔けた私は、その勢いのままハルに体当たりをした。
コンクリートでできた壁が音を立てて壊れる。
あまりの衝撃に耐えられなかった建物の壁一面が、私とハルを巻き込んで雪崩のように崩壊した。
「──んぇっ⁉ も、元に戻った!」
「の、ノアさん! 大丈夫ですか、ノアさん!」
ハルが意識を失ったため洗脳を解かれたメイリアとマーガレットが、崩落した瓦礫に向かって叫ぶ。
もうもうと砂埃を上げる中、何かが瓦礫を押し退けて出てきた。
「──二人とも、無事ですか?」
額から血を流し、右腕を抑えて出てきた少女は。
なおも他人の心配をしながら、砂埃の向こうから現れた。
「ノア! 無事だったんだね!」
「よかった……本当に、よかった……!」
自分たちを助けてくれた少女の無事に二人は涙を流して喜んだ。
しかし安心するのも束の間、メイリアたちを捕えていた男たちが叫ぶ。
「お、おいどうすんだよこれ! あいつやられちまったぞ!」
「逃げるしかねえだろ! あんな化物、敵いっこねえ!」
口々に乃愛への恐れを口にした後、男たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
背を向けて情けなく走り出す男たちに、メイリアは杖をかざした。
「こらー! 逃がさないよ! 『
「うおおおなんだこれ!」
「ちくしょう、離せ、離せえええええ!」
メイリアが唱えた祝詞に応え、杖の先から青白い光でできた鎖が放出された。
鎖に縛られた男たちは身動きを取ることができず、虚勢を張って声を荒げることしかできない。
ついでに気絶しているハルも縛ったメイリアは、ふんすと満足気に鼻を鳴らした。
「これにて一件落着、だね!」
自分たちを追っていた犯罪者たちを捕まえることができて嬉しそうにしてるメイリアに、マーガレットが慌てて何事かを口に出す。
それを瓦礫の上で見ていた乃愛は、怪我もなく笑い合う二人を見て、小さく笑った。
──やっと、助けることができた。