裂けて破れた布地を手慣れた仕草で修繕していく。
針を片手に手間取ることなく空いた穴を直していくと、やがて膝部分に空いたジャージの穴は綺麗になくなっていた。
「はい、終わったよ」
「うわーっ、ほんとにありがとう乃愛! これでお母さんに怒られずに済むよー」
私の手からズボンを受け取った友人は喜色満面の笑みで礼を告げた。
運動部である彼女は早朝の部活動で派手に躓いてしまったらしく、朝礼の時間ギリギリに涙目で教室に入ってきた友人の姿は記憶に新しい。
どうやらジャージに穴を空けたのは今回が初めてではなかったようで、以前にもこっぴどく母親に叱られたのだと昼食時に苦笑を交えて語ってくれた。
項垂れるさまがあまりにも不憫だったもので、放課後の部活に参加するのが少し遅れるのを了承してくれるなら自分が直してもいいと提案し、現在こうして家庭科室で友人の破損したジャージのズボンを直していたのだ。
「ほんとにありがとね。乃愛は帰宅部なのに放課後まで付き合わせちゃったし……」
「気にしないでいいよ。私が好きでやってることだから。それより、早く行かなきゃ怒られるんじゃない?」
「はぁーいい子すぎんか? 乃愛ちマジラブ。ありがとー!」
去り際に強く私を抱きしめていった友人は、まるで突風のような速度で家庭科室を後にした。
スキンシップが激しい子だ。
何か反応を返す間もなく行ってしまった友人に苦笑し、机の上に置いてあったリュックを背負い自分も速やかに下校する。
簡単な作業だったため彼女が気にしていたほど拘束時間は長くなかった。しかし電車が駅に到着する時間を考慮して、足早に夕色に焼け始めた家路を辿る。
この時間帯になると私と同様に帰宅し始める学生や社会人も多い。だが、近くで何かイベントでもやっている最中なのか、普段よりも人通りが増えている気がした。
人混みを身を縮めて躱していき、改札口を通ったと同時に目当ての電車がホームに到着する。
思ったよりも余裕を持って乗車できたことに安堵して空いていた席に腰かけた。
今日はどうなることかと思っていたが、蓋を開けてみればいつもと変わらない調子で授業を受けられ、平穏に一日が終わった。
体調が悪かったのも貧血かなにかで一時的なものだったのだろう。どこかのタイミングで調子を崩すこともなかった。
しかし、あの時感じた眩暈は気のせいではない。
念のために、帰ったら風邪薬を飲もうと決め、授業中は電源を切っていたスマホを取り出し発車時間になるまで眺めて過ごす。
先ほどジャージを直した友人から再度感謝のメッセージが送られていたので、親指を立てたマスコットキャラクターのスタンプを送り返した。
ホームに並んでいた乗客が全員車両に乗り込んだ折り、発車のアナウンスが流れ始める。
閉扉の合図が鳴り、ドアは完全に閉められ──
世界から一切の音が消失した。
「…………え?」
それは、周りの音が徐々に静かになっていったものではない。
聴覚が無くなってしまったと錯覚するくらいの、唐突な喧騒の遮断。
思わず漏れた自分の声が不自然に大きく聞こえて、体の芯から底冷えする感覚に震える。
いったい何が起こったというのか。俯いていた顔を上げて状況確認に努めようとするも、視界に広がる光景に私は小さく悲鳴を上げた。
誰もいない。つい先ほどまで所狭しと溢れていた乗客たちが、まるで最初から誰もいなかったのだと突き付けてくるように一切の痕跡を消していた。
何度も瞬きをして目を擦っても、現状は変わらない。
人が失せたのはこの車両だけではない。ドアが閉まったというのに一向に発車する気配がない電車から、人の気配を感じることができなかった。
「なに、なんなの……⁉」
立ち上がり、何かから身を守るでもなく身構える。
明らかな異常事態に、心臓は激しく取り乱し、呼吸は我先にと走り始めた。
物音一つしない事実が、私の正気を音を立てて削っていく。
何より、自分の足音や声、呼吸の音は正常に聞こえることが、私の恐怖をことさらに掻き立てていた。
車両の先頭になら車掌がいるのではないかと淡い希望を抱き、ここから一番近い先頭車両の方へ振り向く。
すると、そこには身体全体を覆うほどの外套を纏った、少し背丈が低い誰かが立っていた。
フードを目深に被っており、年齢も性別も確かではない。しかし微かに見える目鼻立ちから日本人ではないように見えた。
──よく見れば、登校中にぶつかりかけた人に似ている。
背中に走る怖気を感じつつ、生唾を飲み込んで目の前の相手に向かい口を開いた。
「あ、あの……いったい、何が起こって……」
【──ごめんなさい】
相手が誰なのか、何者なのかもわからないのに、私は自分が安心したいがために助けを求めた。
返ってきた言葉は、謝罪。その声は高く、ずいぶんと若い女性のものであった。彼女の口が動いたことから発声したのだと思われるが、脳内で何度も反響する声はとても肉声だと信じることができない。
「な、なにを……」
【──ごめんなさい……】
まともじゃない。
彼女が纏う雰囲気も、言動も何もかも。否応無しに理解させられる、彼女が私をこの異変に巻き込んだ原因なのだと。
近づいてくる。幽鬼のようにノロノロとした歩調で、暗闇の中で光を探すように手を伸ばして。
それでもその足は、私の下へと向かっていた。
「ひっ……!」
逃げようと試みるも、体は私の言うことを聞かずその場に縫い付けにされていた。
少しも動けない。金縛りのように全身が硬直し、上手く呼吸もできず視線は少女に固定されていた。
外套の少女の手が、私の肩に触れる。触られている。それなのに布越しに感じるはずの体温を感じない。
恐怖で涙が滲むのに、私は逃げることも目を逸らすことも、悲鳴を上げることすらできなかった。
フードを深く被る少女。彼女の素顔も、何を考えているのかも知ることができない。
しかし、僅かに覗く少女の頬に、一筋の水滴が流れていることに気が付いた。
(泣いている……?)
自分が窮地に陥っていることすら忘れて、少女が泣いている姿を呆然と眺めていた。
【──今から貴女を地獄に堕とすワタシを、どうか赦さないで】
肩を押される。落ちていく。止まっていた時間が動くように、電車が走り出す。
電車の床に、地面の下に、真っ暗闇の中に落ちていくのは、私一人。
次回更新は翌日の19時です。