異獄   作:鉋六 掘鱗

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「──ぅ、ん……」

 

 頬に当たる水滴の冷たさと、風に揺られ額をくすぐる前髪の感触に、泥濘の中で沈んでいた意識がゆっくりと浮上する。

 閉じていた瞼を開けると、役目を放棄していた感覚たちが徐々に戻り始めた。

 視界に映るのは、生い茂る木の葉の屋根。

 地面の上に倒れていた私は緩慢な動きで上半身を起こす。そうすると雨に濡れた緑と土の香りが鼻腔を通り過ぎていった。

 二度、三度と頭を振る。どうにも記憶が曖昧で、未だに意識が十全と機能しない。

 

「ここは……どこ?」

 

 状況を理解しようと辺りを見渡すが、どこを向いても視線の先には木々が生え茂るのみ。

 現在地がどこなのかという疑問を解消することは叶わなかった。

 

「森……? 私、電車に乗ってたはずじゃ……」

 

 少しずつ自分の最後の記憶を思い出す。私は学校からの帰りに電車に乗って、それで……。

 しかし、私がそれ以降の出来事を思い出すことはなかった。該当する部分の記憶だけを奪われたような、拭いきれぬ違和感。

 何故自分が森の中にいるのか、一向に見当がつかない。

 

「まさか誘拐……? でも、持ち物は全部あるし……」

 

 学校で使う教科書や文房具が入ったリュック。制服のポケットにはスマートフォンと財布がしっかり入っていた。

 ますます訳が分からない。誘拐だとしても何も盗まないなんてありえないだろうし、体にも傷一つない。

 とりあえずスマホで最寄りの駅を確認しようと電源を点けるが、電波が通っていないのか圏外の表示のまま動くことはなかった。

 

「……とりあえず、動いてみよう」

 

 時間が経ち頭も冴えてきた。地面に手をついて立ち上がり、行動するのに支障がないことを確認した後に当所もなく茂みを掻きわけて進んだ。

 雨足はさして強くない。だが無視して進めば体が冷えてしまうため、リュックの中からパーカーと折り畳み傘を取り出しそれぞれ身に着けた。

 フードもしっかりと被れば、これで雨曝しになることはない。

 

「あれは、獣道?」

 

 雨雲で薄暗い森をしばらく彷徨っていると、不自然に下草が低い一本道を発見した。

 それもかなり大きい。よくよく注視してみれば、車が走ったような跡まである。

 道路にしては舗装が全くされていないが、少なくともここを人が通ったことは明らかだ。それだけでいくらか心が穏やかになるというもの。

 小枝の折れ方や踏みつぶされた落ち葉などをよく観察し、おそらく車が通って来たであろう方向に当たりをつけ進路を変えた。

 荒れていない道を歩くというだけで足取りがだいぶ楽になった気がする。先ほどまで歩いていた道も険しいというほどではなかったが、やはり慣れない林中を歩くというのはそれだけで疲労を覚えるものらしい。

 

 一時間ほど歩いた頃、少し開けた場所に出た。

 そこは地面が露出しており、中心には誰かキャンプでもしていたのか木箱や焚火痕が残されている。

 ちょうどよく雨も止んできたようで、差していた傘を降ろした。

 

「よかった……これでどうにか……え?」

 

 どうにか帰れそう。その言葉が最後まで続く前に、背後から聞こえた唸り声に搔き消された。

 

「……おお、かみ?」

 

 振り返った先には、灰褐色の体毛を携えた獣が三匹、低い姿勢で私に対して威嚇していた。

 雨の音や匂い、狭窄した視界で今の今まで気づけなかった。

 マズルの大きさや顔つきから見ても、犬とは思えない。日本に野生の狼が三匹も見つかること自体が驚きだが、それ以上に私の視線を釘付けるものがあった。

 

(なにあれ……額に、角が生えてる……?)

 

 三匹の狼の額には、まるで鬼の角を想起させる一本角が天を衝いていた。

 狼の知識に明るいわけではない。ないが、あれが異常なことであることは容易に想像がつく。

 狼は口から涎を垂らし、完全にこちらを獲物として捉えているようだった。

 獰猛な肉食獣の殺気に耐えられなかった私は、小さく悲鳴を上げ無意識に後ずさってしまう。

 瞬間、先頭に立っていた狼が私に目掛け飛び掛かった。

 

「きゃあっ!」

 

 あまりの速さに驚いた私は思わず手に持っていた傘を突き出した。

 広げられた傘に飛びつかれ、あまりの衝撃に傘を落としてしまう。

 辛くも襲撃を防ぐことができたが、件の狼は噛みついた傘を牙や爪で散り散りに引き裂いている。

 

「や、やだっ」

 

 経験したことのない恐怖が心を覆いつくす。鮮明に警報を鳴らす命の危険が、私の足を無理やり動かした。

 狼たちとは逆の方向に駆け出す。すると後方から獣が吠える声が聞こえ、次いで数匹分の足音が急速に近づいてきた。

 逃げれば当然追ってくる。だが、私は彼らから逃れる手段を何も持ち合わせていないのだ。恥も外聞もなく背を向けて走り出すことが、恐慌した思考でできる唯一の解決策だった。

 しかし、必死に逃げるも間もなくして狼の牙が私に届く。

 幸いにも背負っていたリュックと中の教科書のおかげで、私の肌に牙が突き刺さることはなかった。

 噛みつかれた衝撃で転倒する。咄嗟に受け身を取ることができず、体は乱暴に地面に叩きつけられた。

 

「うっ、つぅ……!」

 

 狼たちとの距離は、もうさほど離れていない。

 先ほど飛び掛かられた勢いで来られては、私は為す術もなく食われてしまうだろう。

 

「い、いやっ、来ないでっ!」

 

 弱弱しい懇願は、当然聴き入られることはない。

 どこか嗤っているように見える狼の凶刃が、私の首を引き裂く――

 

「──おらああああああ‼」

 

 寸前、私を喰らおうとしていた狼は、雄叫びと共に繰り出された鉄塊の一撃に吹き飛ばされた。

 

「え……?」

「こンのクソ狼ども! 失せやがれ!」

 

 視界の外から現れた少年は、裂帛の気合と共に何度も何度も手に持った武器を振るう。

 しかし、彼の攻撃が当たったのは最初の不意打ちのみ。後に放った攻撃は警戒して距離を取る狼たちに掠りもしていなかった。

 それでも少年は応戦の姿勢を解かない。なおも敵に突撃しようとする少年を、彼が来た方角からの声が引き留めた。

 

「カイ! 無茶に仕留めようとするな! 匂い玉を投げる、鼻を塞げ!」

 

 横から飛んできた指示と共に、こぶし大の球体が狼に向かい投擲された。

 カイと呼ばれた少年は言われたとおりに鼻を塞ぎ、急いでその場から離れた。投げられた球は地面にぶつかると同時に半分に割れ、中に詰まっていたであろう臭気が風に乗って周囲に立ち込めた。

 鼻の奥を突くような強烈な刺激臭に咄嗟に鼻をつまむ。至近距離でこの臭いを浴びた狼たちは苦しみ悶えた後、怯えるように森の奥へと逃げていった。

 

「た、助かった……?」

「おい、あんた大丈夫か⁉」

「怪我は、なさそうだな。立てるか? ほら、掴まれ」

 

 茫然と狼が走り去っていった方向を眺めていると、私を助けてくれた少年と狼を追い払った背の高い青年が駆け寄ってきた。

 青年が差し出してくれた手を半ば無意識で握り、彼の強い力で体は簡単に持ち上がった。だが、死への恐怖がまだ抜けきっていないのか、笑う膝に邪魔をされ立ち上がってすぐに尻もちをつく。

 

「あっ……」

「立てないか……。仕方ない、乗り心地は悪いかもしれないが、我慢してくれ」

「レクスの荷物はオレが持つよ、とりあえず街まで戻ろうぜ」

 

 背負っていた大きな麻袋を手渡した青年の背におぶられ、彼らが現れた方向へ運ばれていく。

 瞬く間に変わる状況にようやく理解が追い付いてきたのか、寒いわけでもないのにひとりでに顎が小刻みに揺れ始める。

 私が怯えているのを察してか、二人は私に話を振ることもなく他愛のない会話を交わしていた。

 ここでいつまでも黙っているわけにはいかないと、言うことを聞かない震える口を必死に開いた。

 

「あ、あの。助けてくれて、ありがとうございました」

「おう、気にすんな! 困ってる奴は見過ごせないからな!」

「俺はレクス。こいつはカイだ。こんな深度が浅いところで角狼に襲われるとは、不運だったな」

「えっと、木村乃愛です。あの、さっきの狼は……」

 

 チラ、とカイさんが手に提げている物に視線を投げる。

 鞘に納められているそれは、間違いなく剣だ。先ほど角狼と戦っていた時に見えた鈍色の刀身は決して見間違いではない。

 

「ああ、オレがカッコよく犬っころを仕留めたやつだな! カッコよかっただろーオレの剣!」

「いや、最初の一撃しか当たってなかったし、その不意打ちですら上手く刃が通ってなくて倒せてなかっただろ」

「う、うるせえな! これから磨いてくんだよ!」

「まあ、角狼はまだ俺たちの実力じゃ倒すのは難しいから、運がよかったな。……そういえば、キムラノアはなんであんなところにいたんだ? 恰好を見るに、あまり戦闘は得意じゃないんだろ?」

「……え。あの、それは……」

 

 この状況を一刻も早く理解しようと二人の会話に傾倒しすぎたため、レクスさんに話を振られた私は歯切れ悪く言葉に詰まってしまう。

 だが、例え頭が冷静で冴えていたとしても、私は自分の置かれた現状について彼らが納得する答えを出すことができなかっただろう。

 目を覚ましたら森の中にいて、角の生えた狼に襲われ、剣を持った少年に助けられたなどと、いったいどうしたら不信感を抱かれずに説明できようか。

 緊張で飲み込んだ生唾が喉を濡らす。

 レクスさんの問いを正確に答えることができない。彼の親切心を無下にしているようで、罪悪感と歯痒さを覚えた。

 沈黙が流れる。返事を待つ二人に対し、私は正直に、そして肝心な部分は避けて言葉を返した。

 

「……すいません、ここは日本ではないのですか? 目を覚ましたらここにいて、自分でも訳が分からなくて……」

「にっぽん? 知らねえ国だな。それとも村の名前か?」

「目を覚ましたらここにいたのか? 聞いたことがない現象だな……もしかしたら魔術か、それに準ずる呪いをかけられたのかもしれない。ということは、あんた開拓者じゃないんだな?」

「開拓者……はい、違います」

 

 グッと喉元まで湧き出てきたいくつもの疑問を一旦飲み込む。

 日本を知らないこと、魔術に開拓者と聞きなじみのない単語。

 聞きたいことはいくつもあるが、これ以上の不信感を抱かれないために一度彼の言葉に素直に頷いた。

 私が開拓者じゃないと聞いたレクスさんは眉を潜めて唸る。

 

「まずいな……。本当ならここは開拓者じゃないと入ってはいけない場所なんだ。君が開拓者ではないと知られたら罰則が……」

「まあ大丈夫だろ。入る時には確認されるけどよ、街に戻る時にはほとんど確認されたことねえし。関所通る時に寝たふりでもしてれば細かく検査されることもねえだろ」

「それもそうか……。ん、もうすぐ拠点に着く。キムラノア、なるべく顔を上げず、意識を失っている風を装ってくれ」

「わ、わかりました」

 

 言われた通り頭を覆っていたフードを深く被りなおし、なるべく顔を見られないように身を縮める。

 バレないように片目を開けて周りの様子を窺ってみると、先ほどまでの木々で満ちていた森の景色はなく、代わりにいくつもの木造建築とそれらを守るように囲う砦のような石壁。それから何人もの人の姿があった。

 視界に映る人々は鉄の鎧や長いローブを纏っており、それぞれ手や腰に自身の武器と思しきものを携帯している。

 コスプレではない。すれ違った際に香る鉄と僅かな血の匂いが、本物だと訴えかける。

 放心して間抜けに口を開けていると、路地の奥にいる誰かと目が合った気がした。

 恐ろしさに目を背け、そこからはレクスさんの言う通りに面を伏せたままに。

 人々の喧騒が少しずつ小さくなると、進んでいる先から誰かが二人に声をかけた。

 

「お疲れさん。今日は依頼か、鍛錬か?」

「鍛錬っす。やっぱ実際に狩場に来ると、気が引き締まるんすよ!」

「そうかそうか。……ん? お前が抱えてる奴はどうしたんだ?」

「鍛錬中にはぐれの角狼が出てきて、背後から襲われたんです。幸い怪我はなかったんですが、心労からか寝てしまって……。早めに切り上げることにしたんです」

「はぐれの角狼か……。災難だったな、早く帰って休ませてやれ」

 

 幾ばくかの会話を交わした後、二人はまた歩き始めた。

 カイさんの予想通り、私については何か検査されることもなく簡単に関所を通り抜けられたようだ。リュックサックについた鋭利な爪痕も証拠として充分な効力を発揮したらしい。

 

「キムラノア、もう顔を上げていいぞ」

「は、はい。すいません、お手数おかけして……あの、ここは?」

「ここは遠出の間だ。この国の生まれではないのなら、転送陣を使ったことがないだろう。きっと驚くぞ」

 

 いつのまに建物内に入ったのか、視線を巡らしてみると煉瓦で固められた石造りの部屋だということがわかる。

 何か過度な装飾が施されているわけでもない簡素な部屋だが、一つだけ一際目を惹くものがあった。

 床の中央に、青白く発光する円形の文字列が書き連ねられている。レクスさんの言う転送陣とやらということは、なんとなく察せられた。

 二人が転送陣の上に立つと、発光していた転送陣は一層輝きを増していく。

 やがて直視できないほど強烈になると、一瞬宙を浮くような感覚に襲われた。

 閉じた瞼を刺す光が消えている。薄っすらと広げた視界に映った光景に、私は開いた口が塞がらなかった。

 石造の質素な部屋にいたはずなのに、今私たちがいる場所は先刻までとは違い木造の室内となっている。

 檜を思わせる美しい壁の模様を、ランタンの明かりが淡く照らす。

 さらに、ここには多くの人がいた。テーブルで仲間と食事をしている者、カウンターの奥で書類整理をしている職員たち。

 まったく状況が掴めず混乱する私を、カイさんは可笑しそうに笑っている。

 

「へへッ、何がなんやらって顔だな。初めてこれを体験した時はオレたちも驚いたぜ」

「見ての通り、さっきの転送陣を用いると遠く離れた場所まで一瞬で辿り着くことができるんだ。ここは俺たちの国エストリアの工業区、カンテラの同業組合だ。とりあえず空いてる席に行こう」

 

 エストリアやカンテラと初耳の単語に目を白黒させている間に、誰も座っていない椅子に優しく降ろされた。

 

「大丈夫か? もう充分に動けそうか?」

「は、はい。なんとか。カイさん、レクスさん、助けていただいて本当にありがとうございました。見ず知らずの人間にここまで親切にしていただけるなんて……」

「気にすんな。困った時はお互い様だからな」

 

 明るい顔でグッと親指を立てるカイさんを見ていると自然と笑みが浮かんだ。

 しかし、そんなカイとは対照的にレクスさんは暗い顔をしている。

 

「キムラノアの話が本当なら、行く当てもないんだろう。だけど、すまん。正直これ以上俺たちは力になれそうにない」

 

 申し訳なさそうに俯くレクスさんの目を覗く。

 そうすると彼の本当に言いたいことが理解できた。優しい言葉だが、言い換えれば彼らにはこれ以上私に優しくする義理はない。

 私が何か二人が満足するに足る対価を払えればよかったのだが、きっとそれは難しいだろう。

 それに、私自身一人で考えを整理する時間が欲しかった。たった数時間で、私の頭は色々なことでパンク寸前なのだ。

 あれだけ良くしてくれたのに、まだ何か力になれないかを考えてくれる二人には頭が上がらない。

 本当に助かったと私は何度も頭を下げた。

 

「私のことは気にしないでください。その、不安ですけど、何とかしますので」

「そっかぁ……。なんか困ったことがあればいつでも言ってくれよ! 力になるぜ!」

「それじゃあ、俺たちはまた森に戻る。またな」

 

 別れを済ませた後、カイさんとレクスさんは先ほどの転送陣を使って忽然と消えていった。円の外にいる者にはあの強い光は確認できないのか、私には二人が唐突に姿を消したようにしか見えなかった。

 本当のことを話せない息苦しさと頼りになる人たちと別れた不安が一挙に押し寄せてくる。

 心を落ち着かせるために深呼吸を繰り返すと、さっきまで気にならなかった喧騒が途端に大きくなったように思う。

 なんとか形を保っているリュックから水筒を取り出し、喉の渇きが収まるまでゆっくりと嚥下する。ようやく満足した時には、中身はすっかりなくなってしまった。

 足はもう動く。活動を継続するのに支障はない。

 だけど道がない。自分がどこへ行くべきなのか、何をすべきなのかが皆目見当もつかない。

 

「行かなきゃ……」

 

 自分に言い聞かせるように呟く。

 弱々しい声に、足音を消して歩く後ろ姿は。

 まるで、迷子の子供のようだった。




次回更新は翌日の19時です。
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