店舗兼住宅であった店の空き室を与えられた私は、部屋の三分の一を占拠しているベッドに浅く腰を下ろした。
窓の外はいつの間にそんなに時間が過ぎたのか、夜の帳が辺り一帯を覆いつくしている。
背筋が凍ってしまいそうになるほど月が大きく見える。青白い月光を遮る雲やカーテンはない。浮かぶ隻眼が、私を見ていた。
ミッシェルさんに夕飯を勧められたが、不思議とお腹は空いていなかった。もう何時間も口にしていないのに。
虫と鳥の声が聞こえる。
日本じゃなくても、夜になれば奏でられる自然の音はどこも一緒なのだなと不思議に思った。
「……日本じゃ、ない」
まして、ここは地球でもないのだろう。
今の今まで、頭のどこかで理解はしていても納得はしていなかった。納得するのが、怖かった。
目を覚ましたら、見知らぬ土地にいて。
角が生えた狼に襲われ。剣を持った少年たちに助けられ。わかるはずもない言語を聴いて喋れて。瞬間移動なんてものを身を持って体験して。
ここまでくれば、どんなに能天気な性格をしていてもわかる。
私は今、地球にいない。
きっと、まったく違う別の世界にいるのだ。
認めた。認めてしまった。
知らなければ、私は明日もここが日本だと信じて帰る方法を探したのだろう。
だが、ここが異世界で、自分はここでは天涯孤独なのだと理解してしまえば。
「……っ。…………嫌」
いったい自分はどうすればいい。これからどうやって生きていけばいい。
地球に帰還する道を探す? そんなの本当にあるのだろうか。もしもこの異世界旅行が、不可逆的なものだったのなら?
この世界で生きていく? 身寄りも身分を証明できるものもない、文化も常識も異なるであろうこの地で?
怖い。怖い。怖い。怖い。
静寂が、音のない不可視の刃が私をつんざく。
寒くもないのに体は震え、カチカチと奥歯が音を鳴らす。
「こんなの、やだっ……」
堪えていた涙が堰を切るように溢れ、我慢できず嗚咽が漏れた。
家主にバレないよう、必死に声は抑えて。
「わたっ、私っ、一生このまま? 死ぬまで、ここにいるのっ?」
わからない。わからないのだ、何も。
何故と、疑問符が頭を飛び交う。
知らない、わからないと、理性がアンサーを出す。
いっそこれが、何か質の悪い悪夢であったのなら。
だとするなら、私は今すぐこの首を掻っ捌いて夢から覚めるのに。
机の上の引き裂かれたリュック。
紙屑となったボロボロの教科書。
子供のように泣きじゃくる私を、冷たい月が見ていた。
○
【────】
目が覚める。
いや、この表現は適切ではない。現実の私は泣き疲れて泥のように眠っているのだ。
夢を見ているのだと、何故か気づいた。
真っ暗な何もない空間に、産まれたままの姿の私が立っている。
肌の色も髪の色も真っ白で、黒一色の空間において私の存在はノイズ以上の存在にたりえない。
不思議な夢だ。
何もない、果てすらない場所だというのに、何故か恐怖心などはなかった。
心身ともに疲弊した故に見る夢なのだろうか。
そう思えば、この空間はまるで私の絶望を表しているようで、自分の深層心理を覗いている気分になった。
【──】
声が聞こえた、気がした。
誰もいなかった場所で、知らない人の声がする。
知らない。本当に?
私はこの声を、どこかで聞いたことがある。
いつだったか、それは、そう……。
「……あなたは」
【──】
いつ、現れたのか。
それとも最初からここにいたのか、わからないけど。
ボロボロの外套を纏った少女が、目の前に立っていた。
姿を認めて、忘れていた記憶が掘り起こされる。
この人は確か、私が電車に乗った時に出会った人で。
周囲にいた人間がいなくなり、世界の時間が止まったような時の中で、彼女だけが自由に動いていて。
そして、私を──
「──っ」
眩暈がするほどの怒恨が一瞬で腹の底から沸き上がる。
思い出した、全て。
彼女が私をこの世界に堕とした張本人。訳も説明せずただ謝るだけで、無常に私を異世界に放り込んだ……。
怒りのあまり頬が痙攣する。
感情の赴くまま、眉間を怒一色にして咆えるように叫んだ。
「……どうしてっ⁉ なんで私をこんなところに放り込んだの⁉ なんで私なのっ、なんで、なんでですか⁉」
体中の酸素や力を吐き出すごとくに怒鳴る。
ここが夢の中からなのか、息切れはしなかった。
一方的な激憤を向けられた少女は身じろぎ一つしない。相変わらず深く被ったフードの奥にある表情は見抜けない。
この期に及んで無視を決め込む少女にさらに怒りが募る。誰かにここまでの怒りを覚えるのは初めてのことで、だんだん思考が鈍る。
さらに捲し立てようと口を開けかけたその時、黙り込んでいた少女の声が脳に響いた。
【──ごめんなさい】
「~~ッ。だから、謝ってるだけじゃ──」
【貴女を帰すことは、できません】
告げられた一言は、劇毒のように私の心を侵した。
「な、にを……。え、帰れない? 家に、帰れ……」
【……】
「──ぇ」
全身から力が抜け、膝から頽れる。
あれほどの剣幕で息巻いていたのに、感じていた怒りは全て気のせいだったのではと思ってしまうほど、心がまっさらに漂白された。
もう、家に帰ることはできない。
できないんだ。
激しい眩暈に襲われ、両手を地面に着く。
真っ黒な床が散々に揺れている。嘔吐することができない吐き気が、心臓を乱暴に揺さぶった。
残酷な真実に返す言葉はない。
あまりの絶望に脳が思考することを拒否している。体だけでなく、脳みそまで白濁に塗れたらしい。
いや、違う。
彼女はきっと嘘をついている。
だって、そうだろう。異世界に連れていくことができるのなら、地球に戻す力だって持っているに決まってるじゃないか。
ましてやこれは夢で、彼女があの時見た本人な訳がない。
これは悪夢だ。悪夢に、決まっている。
……なのに、なんで私は、彼女の言葉を否定できないのだろう。
なんで、こんなに自分の境遇を嘆いているのだろう。
「なんで……」
失意に苛まれる私を、少女はただ見ていた。
慰めるでも激励するでもなく、静かに。
そのことに対し、苛立ちを感じることはもうなかった。
おそらく、自分でも察してしまったためであろう。
少女にはもうどうすることもできない段階まで来ていて、そして彼女は私を連れてきたことに罪悪感を覚えているのだと。
ならばもう、彼女に怒りを向けても意味がない。
これ以上は互いに虚しいだけ。そう思ってしまうと、怒りを思い出すことさえできない。
今はただただ、悲しかった。
【──ごめんなさい】
項垂れる私を見下ろしていた少女がまた謝罪する。
この人は何故、謝っているのだろうか。
いっそのこと、悪意を持ってやったのだと言ってほしかった。根っからの悪人であってほしかった。
だが少女は違う。彼女の言葉の節々から深い懺悔の念を感じるのだ。
沈黙を守っていた少女が近づく。
すぐ目の前に立った少女は、屈んで私の両肩に手を置いた。
【ワタシが貴女にしてあげられることは少ない。与えた加護も、貴女を守り切れるとは限りません】
「加護……?」
気になる言葉に惹かれ顔を上げると、悲し気な表情を作る少女が目に映る。
金色の瞳が、私を見据えていた。
【でも、もしも。貴女が不条理に嘆き、理不尽を赦せないと強く思った時には、この言葉を唱えてください】
真っ暗な闇が、少しずつ照らされていく。
光に目を細めると、鮮明だった意識が次第に曖昧になっていった。
夢から覚めてしまう。
意識が完全に途絶える寸前、泣き出しそうな少女の声が私の耳朶に響いた。
【『 』と──】
次回更新は翌日の19時です。